17-1
クロヴィスと話した翌日、国境の国防体制を再確認するべく、アリシアはシェラフォード地区に赴いた。
本来ならばアリシア付き補佐官であるクロヴィスも同行すべきだが、今回は別行動である。これは、ローゼン侯爵との約束――隣国イスト商会との交渉材料となる磁器を確かめに行くという予定とぶつかってしまったためだ。
かわりにアリシアに同行するのは、王の筆頭補佐官ナイゼルと、近衛騎士団長を務める傍ら南方騎士団の特別顧問を引き受けるロバートだ。アリシアとナイゼルの組み合わせは珍しいが、そもそも軍備とは国にとって最も重要な領分のひとつであり、王の右腕である彼が足を運ぶのは少しもおかしなことではない。
加えてシェラフォード地区では、地方院長官ダン・ドレファスと支部長代理ダニエル・サザーランドとも合流した。急遽決定した視察にしては大仰な顔ぶれだが、それだけリディからの手紙を重く受け止めた結果である。
そのようにして始まった視察は、順調に進んだ。この六年で、リディ主導のもとに国境付近の武力はしっかりと整えられ、食料などの備蓄も十分すぎるほどに用意してある。また、有事の際の対応も整理されており、これなら万が一の時もすぐに動くことができるだろうと、アリシアたちは判断した。
一方、宰相ユグドラシルが黒幕であることを想定して、国防ラインの警戒を引き上げる必要もある。それについてロバートと南方騎士団長を中心に具体的に内容を詰めようとしたとき、隣国との関所を守る騎士が慌ただしく駆け込んできた。
彼らが伝えたのは、隣国の使いが国境に到着しており、『リディ・サザーランドを謀反人として投獄した』と話しているという内容だった。
時は、少しだけさかのぼる。
エグディエル城が来る星祭に向けて慌ただしく準備を整えていた頃、特務大使として隣国に派遣されたリディ・サザーランドは、クラウン外相邸を拠点に調査を始めていた。といっても、正面切って過去の事件について聞いて回るわけにもいかないので、少しずつ手がかりを追っていくしかない。
「いっそ、僕の来訪に怯えた黒幕が刺客でも送ってくれれば、話しも早いというものだがな」
「嫌ですよ、そんな物騒な話。若旦那様に何かあったら、屋敷に置いてきた者たちに申し訳がたちません」
身支度をしながらぼやいたリディに反論したのは、サザーランド家使用人のアルベルトである。
今回リディは、アルベルトだけは従者として一緒に連れてきていた。それは、彼がロイドの件で事件解決に一役買ったことを称えてのことであり、同時に、当時の状況を詳しく知る重要な証人なためだ。
うすうす勘づく者もいる可能性が高いとはいえ、リディが派遣された本来の目的を知るのがエリザベス帝しかいない現状、アルベルトはリディにとって唯一の相談できる相手だ。
そんなアルベルトも多少はリディの言うことに同調したくなる気持ちはあったらしく、声を潜めたまま溜息をついた。
「ただ、アリシア王女殿下がくださったチャンスとはいえ、かなり厳しい現状ですね。屋敷に泊めてくれているクラウン外相のことだって、信用しちゃならないなんて」
「ふん。仮に外相が黒幕だったとして、屋敷にある間に僕らが襲われることはないだろう。女帝とアリシア様が手を組んだことを、相手も警戒しているはずだ。わざわざ自分に疑いがかかるような悪手を、向こうも取れはしまい」
「……それで、〝左手に痣のある男〟。リディ様は、そっちの線から調べるんですよね」
「もちろんだ。だからこそ僕は、お前を連れてきたんだ」
頷いたリディは前当主が生前に使っていた飾りステッキを受け取ると、彼らしい堂々とした笑みを口元に浮かべて「行くぞ、アル!」と足を踏み出した。
左手に痣のある男――それはかつて、サザーランド家の屋敷に密かに出入りしていた隣国の間者を示す。その者はロイドが何者かに命を奪われるのと同時に身をくらませており、今となってはどこにいるのかもわからなくなっていた。
当主ロイドと男との会合を何度か見かけたことがある使用人たちによれば、男は室内であっても、左手に革の手袋をはめていたという。
その理由を、偶然にアルベルトは知ることとなった。あるとき、男が不注意で紅茶をこぼし、一度だけ手袋を外したのだ。革の手袋の下から現れた皮膚には、大きなやけどの痕がはっきりと残っていたという。
その痣だけが、男を追う手がかりだった。幸いといってはなんだが、ロイドを殺した暗殺者の左手に火傷痕はなく、男はどこかに逃げ延びた可能性が高い。仮に本人を捕えられずとも、何かしら消息がつかめれば、男の背後につながる情報を得られるかもしれない。
そのように考えたリディは、駐在中に希望する視察先として、いくつかの商会を上げておいた。
屋敷に仕えるものたちの証言によると、初めて男が姿を現したとき、彼は〝商人〟として屋敷に上がり込んだという。そのような関係が数回続き、気づいた頃にはいつの間にか〝密談者〟という何とも怪しげな雰囲気を漂わせるようになったという。
残念ながら、男がどこの商会の名を語って出入りしていたのか明確に覚えている者はいなかったが、少なくともエアルダールに拠点を置くものだったという。それが単なる隠れ蓑だったにせよ、敢えて名前を出している以上、男と商会がまったくの無関係とは考えづらい。
そこで、シェラフォード地区――ヴィオラという陸路の貿易拠点を預かる立場を活かし、ヴィオラとの交易が大きな商会を中心に、その本拠地をいくつか視察して回った。その中で、あらかじめローゼン侯爵に聞いておいた「信頼にたる商人」を捕まえ、それとなく左手に痣のある男について探りを入れてみた。
だが、やはりと言っては何だが、6年も前、それも身をくらませた男の手がかりなど、簡単には出てこない。現に、この日もリディはアルベルトを伴ってとある商会を訪れたのだが、男の消息に関してはさっぱりだった。
これといった収穫も得られないまま、リディはその足でキングスレー城へと向かった。ハイルランドとエアルダール、ないしはアリシアとエリザベス帝が緊密な協力関係であることを黒幕に匂わせるために足繁く城に出入りしていたのである。
(黒幕は元老院の一員。やはり、容易く尻尾を出してはくれないか……)
そのようなこと考えながら、しかめ面のリディが回廊を通り抜けたときだった。
ふと、赤い髪の少女の姿が目にはいり、彼は思わず足を止めた。あらためて見てみれば、やはり彼女は宰相ユグドラシルの娘、シャーロットだった。
普段はクラウン邸に行儀見習いに来ているというシャーロットとは、初日に顔を合わせていた。さすがにリディが滞在する間はユグドラシル邸に戻っているらしいが、その後も、何度かベアトリクスとサロンにいるところを見かけている。
さて、この時シャーロットはひとりではなかった。彼女と隣り合って座るのは、どう見ても貴族とは思えない風貌の男である。
小汚いという意味ではない。むしろ、身につけている一つひとつは質の良いものである。
ただ、男は城に出入りする者にしては、野性味が強すぎるのだ。捲り上げた袖や開いた胸元から覗く逞しく引き締まった体に、無造作に束ねられた髪。それらにはまったく嫌味がなく、男の自然体なのだろうと伺わせる。
と、なんとなしにリディが観察していると、シャーロットのほうもこちらに気づいてぱっと立ち上がった。
「リディ様! それにアルベルトさんも!」
「これはシャーロット殿。今日も麗しく……」
礼節にならって恭しく挨拶を返したリディに、シャーロットはたたっと駆け寄るとちょこんとドレスの裾を摘んだ。
「今日はどうされたのですか? リディ様は毎日あちこちを回られていると、父に聞いています。いそがしくて、お疲れではありませんか?」
「まさか。疲れるどころか、イキイキしておりますよ。なにせ、二度もこの国を見て回る幸運に恵まれたのだ。シャーロット殿こそ、元気そうで安心しましたよ。国を出る前、アリシア王女殿下があなたのことを案ずるようなことを仰っていたのでね」
お馴染みの気取った笑みを浮かべつつ、リディは注意深く返答を避けた。それは、彼女自身を警戒してというより、父である宰相ユグドラシルを用心してのことだ。彼もまた元老院の一員であることを考えれば、ユグドラシルの耳に入る情報は曖昧であればあるほど好ましい。
それに、このシャーロットという人物についても、気になる点がないわけではない。アリシアから聞いたところによると、彼女は王女が視察に来ている最中に、急に後ろめたげな態度をとるようになったという。今だって、試しにリディがアリシアの名を出してみれば、シャーロットはわかりやすく表情を曇らせた。
少し、彼女の近辺も探ってみるか。
そのように考えながら、リディは親しみを込めて彼女の肩越しに視線をやった。
「ところで、そちらの御仁はお知り合いで? この国に来て、初めて見た顔だ」
「すみません。私、すぐにご紹介しなければいけなかったのに。リディ様。こちら、イスト商会の副会長を務めるバーナバス・マクレガーさんです」
「ハイルランドのリディ・サザーランド様ですね。お会いできて光栄です」
「リディだ。こちらこそ会えて光栄だ、バーナバス殿」
差し出された手を握り返しながら、リディはちらりとアルベルトに視線をやった。アルベルトもその名前にすぐぴんと来たらしく、小さく頷き返した。
イスト商会のバーナバス・マクレガー。「信頼の置ける人物」のひとりとしてローゼン侯爵が挙げていたひとりだ。
しかしながら、リディはバーナバスに接触しようとは考えていなかった。なぜなら、女帝の後援を得た一大商会であるイストだが、サンプストンを拠点としているだけあって航路での交易がほとんどなのだ。そのため、陸路の交易都市であるヴィオラでの存在感はそれほどなく、ロイドとの交流があったとも思えなかったのである。
だが、手間を取らずに出会えたのは僥倖だ。
「バーナバス殿の名は、我が国のジュードに聞いたことがある。非常に勘が研ぎ澄まされた、優秀な商人だと感心していたな」
「それを言うなら、あの人こそ面白い人ですよ。まったくもって貴族らしくない」
くつくつと笑うバーナバスとシャーロットを促して、リディはごく自然に彼らと並んで腰かけた。そのすぐ近くに、アルベルトも当然のように控えた。
「しかし、シャーロット殿は宰相をお父上にもたれるだけあって顔が広いですね。まさか、名高いイスト商会のナンバーツーとも知り合いだとは」
「えっと、違うんです。バーナバスさんとは、なんというか縁があって」
「縁?」
リディは僅かに首を傾げる。見たところバーナバスの年齢はリディより上、30歳を少し超えた頃合いだ。早くに引き取られて宰相の娘として育て上げられたシャーロットと、商会の中心を担うバーナバスが顔見知りであるのは想像に難くないが、それ以上に縁があるというのは不思議な言い回しである。
すると、リディが訝しんでいるのに気づいたバーナバスが、すぐに笑顔を見せる。日に焼けた素肌に、口元からのぞいた白い歯がよく映えた。
「変な意味ではありませんよ。実は彼女と俺は、同じ孤児院出身なんです」
「バーナバスさんと私は、あそこにいた時期は被ってはいないんですけどね」
人懐っこく微笑んだシャーロットによると、ふたりの出身はイェーツにあるゴールトン孤児院――以前、視察団時代にリディも訪れたことがあった――だという。面倒見がよく、孤児院でもリーダー的存在だったバーナバスはそこでエリック・ユグドラシルの目に留まり、彼の紹介を経てイスト商会で働くようになった。
それから彼は、もともとのリーダー気質に加え、貪欲に学んだことにより商売人的勘を開花させ、商会の中でぐんぐん上へと昇っていた。だが、最初にきっかけをくれた宰相への恩義をバーナバスが忘れることはなく、その間もちょくちょくユグドラシル邸へ足を運んでいた。
そんな折に、やはりユグドラシルの目に留まって彼の家に引き取られたシャーロットのことを知り、同郷の出身である彼女を何かと気にかけてきたのだという。
「だからバーナバスさんは、私にとって兄たちと同じ存在なんです」
「嬉しいこと言ってくれるな。ま、俺にとってもお前さんは、いつまでも手のかかる妹みたいなもんだけどな」
「ほお」
にこやかに相槌を打ちながら、リディは冷静にふたりのやり取りを見極める。シャーロットの様子からは、バーナバスのことを深く信頼している様が見て取れる。それに応えるバーナバスも、兄というよりは父親のような温かな目を彼女に向けている。
もう少し深く切り込んでみよう。そう決意して、リディは唇を吊り上げた。
「僕の目からも、今のふたりの様子を見れば、ユグドラシル様が声を掛けたことが間違っていなかったとよくわかる。あの方は、人の本質を見抜くのに優れた方なのだろうな」
「本当にその通りだ。今の俺があるのは、あの方のおかげです。ユグドラシル様ほど公正で、慈悲深い方はいないと、俺は常々思っていますよ」
「なるほど。慈悲深い、ですか」
「素晴らしい方ですよ。シャーロットのような養子だけでなく、商会や騎士に引き立てた者のこともユグドラシル様は案じてくださる。あいつの行方がわからなくなったときも……」
はっとしたように口を閉ざして、バーナバスは言葉を飲み込む。そのことをリディは不思議に思ったが、それを問いただすより先にバーナバスが話題を変えた。
「立派な御仁といえば、お父上――ロイド様のことは残念なことでした」
「父を知っているのか?」
「ええ。その昔、ヴィオラを通じた貿易拡大を商会として検討したことがあり、その時にシェラフォード公爵にお会いしたんです」
「な!? つまり、イスト商会と父が面会していたと…?」
「ええ。といっても、正式な会談だったわけじゃない。公爵家と親しくしている他の商会の者に口をきいてもらって、一度昼食を共にさせてもらっただけです。もう10年ぐらい前の話ですよ」
厳しく甘えを許さない人だったが、より自分に対してそのように課している方だと思ったと。驚きに言葉をなくしたリディに、バーナバスは懐かしそうに目を細めた。
※一度きります。




