表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
119/155

16-8




 柔らかな風が、頬を優しく撫でる。


 促されるようにしてアリシアが瞼を開くと、深い藍色の空に無数の星が輝いていた。永遠のように続く星空の下、限りのない静寂に包まれた丘にひとりたたずむアリシアは、空を眺めたまま口を開いた。


「あなたはやっぱり不親切だわ。不親切で、意地悪で、ひどい人」


「ひどいなあ。僕だって傷つく心はあるんだよ」


 当然のように、返ってきた答え。いつの間にか目の前に立っていた星の使いは、遠い日に見た姿と寸分かわることはなく、相変わらずに浮世離れをした美少年のままだ。傷つくなどと言っておきながら、言葉とは裏腹にけろりとした顔で星の使いは小首を傾げた。


「アリシアが怒っているのはどうして? 革命が起きたのが、エアルダールの差し金だというのを黙っていたから? それとも革命軍たちが――クロヴィス・クロムウェルが、あの夜に死んだのを教えなかったから?」


「……両方よ。ううん。それだけじゃないわ。何もかも、あなたは」


「君に伝えることはなかった」


 星の使いがあとを継いだので、アリシアは言葉を飲み込んで少年をじっと見つめた。すると少年は、ほんの少し申し訳なさそうに眉を八の字にした。


「僕にも色々とあるんだよ。時間軸を弄るというのはデリケートな問題なんだ。なにせ、君のいう『前世』の出来事はすべてなかったことになって、可能性のピースだけを残して、ばらばらに砕け散ってしまったのだもの」


「けれども、エアルダールの宰相があぶないと最初からわかっていたら……!」


「どうなったと思う? エアルダールとハイルランドは、もっと仲良くなった? 今回よりもずっと早い段階で、エリザベスと手を組むことができた?」


 アリシアは答えようとして、発すべき言葉を見つけられずに口を閉ざした。そんな彼女の胸中を見透かしたように、星の使いはあっさりと否定した。


「ね? そうはならないでしょ? 君が抱く疑念はそのまま王国としての不安になり、エアルダールとの関係を悪化させただろう。その場合の敵は、エリックじゃない。エリザベスになったかもしれないよ」


 それもまた、可能性のひとつでしかないけどね、と。

 星の使いは軽く肩を竦めた。


「それと、クロヴィスのことだけど、君がこんなに胸を痛めることになるとは思わなかったんだ。冷たい言い草かもしれないけれど、前回に会ったときに、彼が命を落としていたことを知ったとして、君はここまで胸を痛めなかったでしょう?」


「それは……」


「恥じることはないよ。君は優しい子だけれど、彼とは出会ったばかりだったもの。それに、たまたま手元に置くことになっただけの『前世で君を殺した男』が、アリシアにとってかけがえのない大切な存在になるなんて、僕ですら予想できなかった」


 アリシアは黙り込んだまま、瞼を伏せた。星の使いの言うことは正しく、それほどに、アリシアとクロヴィスの関係は前世とは大きく異なるものであった。


 だからアリシアは、俯いたまま別の疑問を――もっとも恐れていることを口にした。


「もし、このやりなおしを失敗したら、彼も死んでしまう?」


 下を向いて固く手を握るアリシアを、少年はしばらく見つめていた。ややあって、星の使いは小さく嘆息すると、観念したように首を振った。


「わからない。さっきも言ったように、残ったのは可能性のピースだけで、君という歯車が組み合わさった先にどういう形が出来上がるのか、それを言い当てることは出来ないんだ」


 けれども、と言葉を繋いだ星の使いの視線が、アリシアをまっすぐに射抜いた。


「ハイルランドに危機が迫れば、君が大切に思う多くの者は傷つくだろう。クロヴィスだけじゃない。ジェームズ王や側近たち、街のみなや商人、君が守りたいと願うハイルランドの民たち、その多くが……ね」


 やるべきことは、変わらないよ。


 その言葉に引き寄せられるように顔をあげたアリシアは、自分と星の使いを結ぶ一本の線が、きらりと風の中で輝くのを見た。


「これは契約。ハイルランドを救って、アリシア。君が思う、大切な人々を守るためにも」


 握りしめる手に爪が食い込み、チリっとした痛みが走る。それには注意を払うことなく、細く長く息を吐きだしたアリシアは、祈るように瞼を閉じた。次にゆっくりと目を開いたとき、さきほどまで揺れていた空色の瞳はまっすぐに星の使いに向けられていた。


「わかったわ」と、彼女は答えた。「何もかわりはしない。私はやりなおしの生の中で、この国を滅亡から救ってみせる。たとえ、そのために何かを失うことになっても」


 風が丘を駆け抜け、明るい空の色を閉じ込めたアリシアの髪をふわりと広げる。凛と立つ少女の頭上には、胸が痛くなるほどに美しい星々が煌いていた。







 星祭が終了してから、数日が過ぎた。


 いつもと変わらずに自室で目覚めた王女付き補佐官クロヴィスは、軽く頭を振ってから、王城へと上がるために手早く身支度をした。城勤めの侍女が運んでくれた朝食も済ませ、さて部屋を出ようととしたとき、――彼の目は、卓上に飾られた百式眼鏡の上で止まった。


 それは、星祭の夜に城下へと出た時に、エドモンド少年から贈られたものだ。


 クロヴィスはやや迷ってから百式眼鏡に手を伸ばし、慎重な手つきで取り上げた。しばしの間、それを手の中で転がしていたクロヴィスは、目の前に木筒を掲げようとして――やめた。


 百式眼鏡を元の場所に戻したクロヴィスは、まるで己の気を引き締めようとするように、再度、首元に締めたタイを確認する。それから、上に羽織る長いローブを翻して補佐室へと急いだ。


 到着したクロヴィスが戸を開くと、補佐室にはすでに筆頭補佐官ナイゼル・オットーの姿があった。他の補佐官も含め、どことなく浮足立った雰囲気が満ちた補佐室に嫌な予感を覚えた直後、クロヴィスの姿をとらえたナイゼルが立ち上がった。


「クロヴィス。一体どういうことだ。私は、何も聞いていないぞ」


「どういうこととは……なんの話でしょうか」


「まさか、お前も聞いていないのか?」


 目を見開いたナイゼルは、こめかみを押さえて「あの方なら、あり得ない話でもない……」と呻く。胸騒ぎが募る中、次いでナイゼルが告げた言葉に、今度こそクロヴィスは時が止まった心地がした。


「今朝、アリシア様がジェームズ王に進言されたのだ。エアルダールとの友好の証として、隣国のフリッツ皇子を自身の夫として迎えたいと」







 薄暗い曇天の下、しとしとと降る雨がガラス窓を湿らせる。窓際に立ち、それを眺めるアリシアの耳に、微かに言い争う男女の声が響く。


やがて、扉が開く音で声が遮られ、慌ただしい足音へと変わる。そうして、アリシアの自室へ飛び込んできたのはクロヴィスだった。


「アリシア様。ご説明を願えますか」


「ちょっと、クロヴィス様!? いくら、あなただからって、こんな風に押入られたら困ります‼︎」


 後を追いかけてきたアニが抗議の声をあげるが、クロヴィスは何も聞こえていないようで、アリシアだけを見ている。張り詰めた様子を隠そうともしない補佐官に、睨みつける侍女の表情には戸惑いが混じる。


 小さく深呼吸をしてから、出来るかぎりの平静を装って、アリシアは振り返った。途端、己を射抜く紫の双眼に怯みそうになるが、浮かんだ動揺をすぐに飲み込んだ。


「大丈夫よ、アニ。彼が来るのは、わかっていたことだもの。悪いけれど、ふたりにしてもらえる?」


「けど、姫様……」


「お願い。ふたりにして」


 もう一度繰り返せば、アニは悩ましげに口をつぐみ、クロヴィスを見た。だが、最終的には、この忠実な補佐官がアリシアを傷つけるわけがないという信頼がまさったらしい。侍女として軽くお辞儀をすると、彼女は部屋を出ていった。


 雨が少し強まったらしい。吹き抜ける風のようなさあっという音を立てて、冷たい細雨が窓に吹き付ける。それを背後に聴きながら、向かい合うふたりの間にもまるで見えない雨の壁があるかのようであった。


「前世のことを、少しだけ思い出したの」


 思い切って口火を切ったのは、アリシアの方だった。クロヴィスはというと薄々と勘付いていたらしく、特に驚く様子もなく沈黙を貫いている。


「エドモンドの工房を訪ねた時よ。取り戻した記憶の中で、はっきりとわかったの。革命は、隣国が仕組んで起こしたものだった。手を引いていたのは、宰相ユグドラシル。わたしが倒れたあと、ユグドラシルの配下が革命軍を打ち、フリッツ殿下を連れて逃げ出していたの」


「……なるほど、それはわかりました」と、溢れ出す何かを堪えるように、補佐官は低い声で答える。


「そのことと、フリッツ皇子をあなたの夫に迎えるということは、どう繋がるのですか?」


「皇子を泳がせては危険だと。そう、判断したのよ」


 何度も頭の中で繰り返した言葉を、アリシアは淡々と紡ぐ。


「皇子と宰相が共謀して革命を誘導したのか、たまたま圧政をしいた皇子を宰相が利用したのかはわからない。けど、もしも前者なら、ユグドラシルを元老院から排除できたとしても、危険をすべて取り除けたとは言えないわ」


 リディが証拠をつかんでくれさえすれば、宰相を黒幕として告発し、政治の舞台から排除することは叶うだろう。しかし、いずれエアルダールを継ぐフリッツ皇子ではそうもいかないし、そもそも彼自身に野望がどこまであるか不明である。


 もしかしたら前世の彼は利用されていただけで、何も知らずに革命の夜を迎えたかもしれない。しかし、彼を全面的に信用することができない以上、出来るだけ手元に置き、今度の出方を見張っておきたいとアリシアは判断したのだ。


 だが、これらを聞いてなお、クロヴィスがまとう空気は鋭い。否、いっそますます不穏なものとなったと言っても過言ではなかった。


「手元に置く。それが、本当に有効な策と言えましょうか? 第一、エアルダールの後継者であるフリッツ皇子を、枢密院や民が手放しに歓迎するとは思えません」


「もちろん、婚姻より先に、お父様に私をハイルランド次期後継者に正式に指名していただくわ。王位継承の憂いが晴れれば、殿下に対する忌避感も少しは紛れるはずよ」


「ではシャーロット嬢はどうします。前世と同じに皇子が寵姫として囲うようなことがあれば、みなは黙っていませんよ」


「かわいそうだけれど、ユグドラシル宰相が失脚すれば、あの子は殿下の隣にふさわしい立場ではなくなる。なにより、エリザベス帝が黙ってはいないわ。皇子に恨まれることになろうと、シャーロットのことは諦めてもらうわ」


「ああ、なるほど。それは妙案です。しかし、他にも方法はあるはずだ。せっかく、エリザベス帝と友好な協力関係を築いたのです。フリッツ皇子を警戒しつつ、彼女が在位のうちに隣国との関係をより強固なものとしておけば……!」


「それが上手くいかなかったら、多くの血が流れるのよ!」


 痛いほどの沈黙が、部屋に満ちる。

 変わって、先ほどより強くなった雨が窓を叩く音が、嫌に耳についた。


「決めたのよ」と、声が震えだすのをなんとか堪えて、アリシアは告げた。


「私がやりなおしの生を与えられたのは、王国を救うため。この使命は、どうあっても失敗するわけにはいかない。そのためなら、私は……!」


「――俺はいらないと。そう、仰るのですか」


 アリシアの顔をみたクロヴィスは、すぐに「すみません」と呟いて目を逸らす。彼は次に言うべき言葉を探すように3、4歩歩き回った。


 立ち止まった彼が顔をあげたとき、その瞳は迷うように揺れていた。


「……ひとつだけ、知りたいことがあります。あなたは二度、俺に怯えたことがある。一度は星霜の間で倒れたとき。そして一度は、初めて会った時です」


 最初は、過去の事件――祖父、ザック・グラハムが起こした一連の騒動を知ってのことだと思ったのだと、ふいを突かれて固まるアリシアにクロヴィスは告げた。


「けれども、あなたはリディが話すまで、過去の事件を知らなった。では、あなたは何に怯えたのでしょう。なぜ、まるで亡霊を見たかのような顔で、俺を見たのでしょう」


 アリシアは、自身の手足が急速に冷えていくのを感じた。


 嫌だ。これ以上、先を聞きたくない。

 そう願う心とは裏腹に、少女は呆然としたまま、その言葉を聞いた。



「前世であなたの命を奪ったのは、俺ですね」



 窓を大量の水滴が滑り落ち、その陰が床にゆらゆらと模様を作る。降りしきる雨音の中、緊張をはらんだクロヴィスの吐息が、やけに大きく部屋に響く。


 最悪だと、アリシアは思った。


 事実を知れば、彼がどれだけ傷つき、苦しむか、アリシアはよくわかっている。それなのに、彼を突き放そうとしている自分が、どうして彼を慰めることができるだろう。……ただ、事実を告げることしか出来ない自分は、なんと残酷なのだろう。


「そうよ」と、掠れる声でアリシアは答えた。「クロヴィス・クロムウェル。あなたの剣が、前世で私を殺したの」


 クロヴィスは呻いた。苦しげに声を絞り出した彼は、痛みをこらえるように目を閉じて俯いた。永遠にも思えた沈黙の後、彼は深く長く息を吐きだし、ずっと強張ったままだった肩から力を抜いた。


 紫の瞳はもう、アリシアを映してはくれなかった。


「わかりました」と、クロヴィスは疲れたように言った。


「本日、私はローゼン領に発たねばなりません。あなたも、明日からシェラフォード地区への視察がある。互いにそれらが済み、次にこの城でお会いしたとき、隣国との調整について色々と方向性を話し合いましょう」


「……この件はあなたではなく、ナイゼルに」


「私がやります」


 有無を言わさぬ口調で、クロヴィスが強く遮る。

 言葉を飲み込んだアリシアの前で、彼は悲しげな笑みを浮かべた。


「あなたの補佐官は私ですよ。それだけは、奪わないでください」


 さあっと、強い雨が吹き付ける。


 胸が引き裂かれるほどに切なく、儚く。それだけを告げたクロヴィスは、胸に手を当てて一礼をすると、静かに部屋を後にした。彼が出て行ったあと、閉ざされた扉の音がむなしく部屋の中に響いた。


 ひとり残されたアリシアは、天井を仰ぎ、それから窓の外に顔を向けた。


 さようなら、と。

 音もなく紡がれた言葉は、涙と共に地へと零れ落ちていった。






 だが、それから数日後、隣国の使者がもたらした報せにより事態は急変した。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ