16-7
来た道を逆にたどり、アリシアとクロヴィスはエラム川を離れた。
すぐに城に戻っては、ちょうど舞踏会から引き上げる貴族と鉢合わせかねない。そのため、ふたりは通りの出店などに立ち寄りながら、しばらく時間をつぶすことにした。
出店は、最初に立ち寄った場所のように灯籠を売っているところもあれば、昼間の市場と同じに手軽に買える小物を扱っている店もある。中には、ホットワインや軽食といったものを出している店もあり、食欲をそそるなんとも言えない香りが漂っていて、つい心を惹かれてしまう。
そんな風にあちこちを巡っていると、背後から聞き覚えのある声が響いた。
「お前、クロか? で、となりは……っ!?」
名前を言いかけて、青年は慌てて己の口をぱちんと手で覆う。それでも、見えている顔の上半分で驚きをいっぱいに表現する彼に、アリシアの顔には自然と笑顔が浮かんだ。
「エド! この中で会えるなんて。元気にしてた?」
「元気にしてた? じゃ、ねえよ‼」
嬉しそうに手をあげたアリシアに、思わずといった口調で青年が叫ぶ。はたして彼は、アリシアが初めて城下に視察に出たときにあちこちを案内してくれた、ガラス工芸職人の息子エドモンドである。
当時12歳だったエドモンド少年もすっかり大きくなり、今では父の跡を継ぐために職人工房で見習いとして働いている。そんな彼との交流は、時々アリシアが城下へとお忍びで出てくるたびに、密かに続いていた。
周りの人たちに気づかれないようにという配慮だろう。エドモンドは素早くアリシアに近寄ると、こそこそと耳打ちをした。
「お前なあ、いいのかよ。仮にも一国のお姫様が、祭だなんて、あちこちから大勢の人間が集まる場所をウロウロしていて。さすがに危なすぎるだろ」
「大丈夫よ。すれ違ったひと、誰も気づいていないもの」
「あったり前だ! どこの誰が、『今すれ違った人、ひょっとしてうちの国のお姫さまかしら?』なんて思うかよ! ったく、見た目はばっちり成長したってのに、相変わらずのお転婆だなあ、お前はさ……」
胸を張って答えたというのに、逆にエドモンドには呆れられる。
と、ふたりが身を寄せて話してると、ふいにアリシアの肩が後ろから引かれた。そうやってさりげなくアリシアを自分のもとに引き戻しておきながら、クロヴィスは平然とエドモンドに尋ねた。
「父君は一緒じゃないのか? 星祭は、工房のみなで灯籠を用意して流すのだと、前に聞いたように思うが」
「灯籠流しなら、もう済ませたぜ。で、みんなは先に酒屋に行ってんだ。俺も行くつもりなんだが、その前にこれを工房に置きにいこうと思ってな」
そういって、彼は肩からぶら下げた重そうな布バックを見やった。エドモンドによると、中には工具が色々と入っているらしい。星祭を見に来たついでに、知り合いの職人が見習いであるエドモンドのために、色々と道具を譲ってくれたのだという。
すると急に、エドモンドがぽんと手を打った。
「そうだ。お前ら、まだ時間はあるか? クロに見せたいものがあるんだよ」
顔を見合わせた主従ふたりは、すぐに頷いて了承した。それで、慣れた様子で人混みの中をすいすいと進むエドモンドの後について、遠い昔に訪れたことのあるガラス工房へと足を運んだ。
エドモンドがふたりを案内したのは職人たちの作業場ではなく、通りに面した表側にある小さな店のほうだった。店内にはこまごまとした雑貨や置物が所狭しと並べてあり、それがさらに室内を狭く感じさせている。けれども、一見雑多に見える展示の仕方は却って趣きがあり、まるで魔法使いの書斎にでも紛れ込んだようだ。
商会に流す以外の小さな作品や知り合いの職人の作品を取り扱っているのだと、エドモンドはランタンに火をともしながら説明した。
「じゃあ、前にお母さまが出していた露店のほうは?」
「ああ。あれはな、俺みたいな見習い連中が練習で作った作品のうち、そこそこ出来がいいやつを集めて、ああして売ってんだ。うちの工房の名を背負って売るほどのものじゃねえが、捨てちまうのももったいないからな」
「なるほど。では、エドの作ったものも、市場に行けば買えるわけか」
「お、ちょ、待て! ちゃんと納得できるもんが作れたら、お前らに真っ先に見せてやるからさ。それまでは、絶対見ちゃなんねーぞ」
少し慌てた様子で、エドモンドが奥の工房へと続く扉を背でかばう。その先にあるだろう彼の作品を見てみたいと思いつつ、エドモンドの職人としてのプライドに免じて、アリシアはひとまず我慢することにした。
「それで、クロヴィスに見せたいものって?」
「そうそう、それだ。たしかここらへんに……。あった!」
ほっとした表情を浮かべてから、エドモンドはカウンタ―の中をごそごそと漁る。いくつかの品々がどけられる音がしたあと、立ち上がった彼の手には細長い木箱があった。
「前にクロが話してくれたことあったろ。面白いものをつくる職人がいるって。こないだ偶然、その人と知り合う機会があって、いくつかうちの店で扱う用に買い取ったんだ。ほら、見てみろ」
そういって、エドモンドが木箱の蓋を取る。中を覗き込んだアリシアは、そこに予想外のものを見つけて、あっと声をあげた。
「これって、まさか百式眼鏡?」
「え?」
思わず零れた言葉に、クロヴィスとエドモンドが同時に反応する。虚をつかれて瞬きするクロヴィスの隣で、エドモンドは感心したように頭の後ろで腕を組んだ。
「アリシアも知ってんのか。あ、さてはクロに聞いたんだろ。じゃなかったら、あんなど田舎の爺さんが切り盛りしている工房の作品なんて、知るわけないもんな」
「いや。俺は何も……」
答えながら、クロヴィスの目がアリシアに問いかける。それで、前世や星の使いと出会った夢の中で百式眼鏡を見たのだということまでは、クロヴィスに話していなかったことに思い当たった。
「えっと……。昔、見たことがあったのよ。それよりも、クロヴィスはどうして百式眼鏡を知っているの? 故郷で作っているって?」
「俺の生まれであるケルスの町に、それを作っているフォードという職人がいるんです。ケルスの町では、百式眼鏡は運勢を占う御守りとして親しまれているのですが、生憎作り手が少なく、今ではフォードの工房ひとつしかありません」
「そうだったの」
意外な答えに、今度はアリシアが驚く番だった。
クロムウェル家が、モーリス侯爵領のはずれにあるケルスという小さな町に本拠地を置いてるということは、前にクロヴィスから聞いていた。しかし、まさかそこが星の使いが言うところの、百式眼鏡が作られた『田舎の方の町』だとは思いもしなかった。
クロヴィスも依然として、怪訝な表情を浮かべている。当然だ。先ほどの話によると、百式眼鏡は相当に珍しい代物で、まったく流通していないらしい。
あとで、前世でそれを見たことを説明するべきだろうか。そんな風にアリシアが悩んでいると、ふたりを交互に見ていたエドモンドがにかっと笑った。
「それはそうとしてさ。これ、クロにやるよ」
「は? 待て、これは商品として仕入れたんだろう?」
驚いたクロヴィスが、アリシアから目線を外す。
「そうだけどさ。お前が教えてくれたわけだし、仕入れたのもこれひとつじゃない。それに、百式眼鏡は御守りになるって、さっき自分で言ってたじゃねえか。大事な王女様を守るのに、持っといて損はないんじゃねーの?」
「なら、金額を言ってくれ。せめて、きちんと買わせてもらう」
「めんどくせえな。やるって言ってんだから、素直にもらっておけ。なんだかんだ、いつもうちの物を買ってくれる礼だ。ほら、お前のものなんだから、しっかりと持て!」
クロヴィスは困ったような顔で、百式眼鏡をエドモンドから受け取る。アリシアも隣からそれを覗き込むと、木筒の表面には繊細な茨を模した彫りがぐるりと施され、その合間には細やかな薔薇模様も彫られているのが見えた。
その模様には見覚えがある。なんどか夢でも見たから、間違いない。
これは、あの夜にみた百式眼鏡と同じものだ。
「……そっか、そうだったのね」
思い出すのは、命を落とす直前の記憶。血の海に横たわるアリシアの前に、百式眼鏡は転がってきた。今まで特に気を留めたことはなかったが、アリシアの持ち物ではない以上、城に乗り込んできた誰かが落としたとしか考えられない。
そしてあの時、クロヴィスは革命軍を先導して星霜の間に乗り込んできた。覚悟を決めた彼が、未来を照らす御守りとして百式眼鏡を懐に入れていたとしても不思議はない。
「あの百式眼鏡は、クロヴィスが……」
「俺が、なんです?」
響いた声に、アリシアは我に返った。はっとして横を見れば、ふたたびクロヴィスが訝しげにこちらを見ている。その目には、先ほどよりもはっきりとした疑念が浮かんでいる。
まずい。
クロヴィスには、彼が前世でアリシアの命を奪った張本人であることはおろか、アリシアの死に際にエグディエル城にいたことすら伝えていない。つまりは彼にとって、最期の時に彼の持ち物があること自体ありえない。
「み、見せてもらってもいい?」
紫の瞳にすべてを見透かされてしまう前に、アリシアはとっさに、百式眼鏡に手を伸ばす。
――アリシアの指が木筒に触れた瞬間、違和感があった。
胸のうちに、奇妙な震えが生じる。ぞわぞわと蠢くそれは、頭から爪の先を瞬時に駆け巡り、奥底に眠る何かを無理やりに引き出そうとする。見てはならない、覗いてはならないと、全身が警告する。
だが、その場をごまかすことに必死だったアリシアは、違和感を前に引き返すという選択肢を思いつかなかった。
右手が取り上げた筒が、吸い寄せられるように目の前に掲げられる。
そうして、世界が回った。
鏡のピースの中で、細切れの世界がかくん、かくんと形を変える。そのたびに、空に煌く星の輝きをそのまま閉じ込めたような澄んだ高い音が響く。
かくりと世界が大きく回ったとき、手応えがあった。あるべきモノが、あるべきトコロに収まったという感覚。
途端、アリシアの体は急速に落下を始めた。
落ちていくアリシアとすれ違うように、下から細い光の筋がいくつも上へと流れていく。光はどんどんと増えて、まるで流星群に飲み込まれたかのようだ。
気が付くと、アリシアは、固い大理石の床の上に立っていた。ひやりとした空気も、遠くから響く張り詰めた音色も、温度のない瞳でこちらを見つめる銅像たちにも、覚えがある。
それは、星霜の間だった。
と、その時、アリシアの胸のあたりに何かがぶつかったような衝撃が走る。目線を落とせば、己の胸には鈍く輝く剣が深々と突き刺さり、そこから赤い鮮血が零れ落ちた。けれども不思議と傷口が痛むことはなく、どこか遠い世界で起きてる出来事を見ているような心地がした。
〝〈傾国の毒薔薇〉め〟
耳慣れた声が、聴きなれない声音で響く。刃の先を目で追って、そこに前世のクロヴィスの姿を見とめた時、アリシアは懐かしいとすら感じた。
〝愛におぼれ、心の目を曇らせ、民から目を背けた結果がこれだ。あの世で、己が罪を悔やむがいい〟
冷たい大理石に身を横たえ、アリシアは冷静にその言葉を受け止める。見上げるアリシアの視線の先で、クロヴィスは身にまとうマントの裾で剣についた血をぬぐい、どこか痛ましげに表情をゆがめた。
だが、彼はすぐに表情を消すと、他の男たちへと振り返った。
〝フリッツ王は、この先にいる。おそらく、水路を通じて外に逃れるつもりだ。だが、略奪の王を引きずり出すまでは、民衆が収まることはない。奴を追え、そして暴動を終わらせるぞ!〟
〝ああ‼〟
クロヴィスの呼びかけに、剣を携えた数名が駆けだす。アリシアが倒れてすぐに走っていった者もいたために、見上げる先にいるのはクロヴィスともう一人だけとなった。
左手だけ革の手袋をはめた男が、クロヴィスに問いかけた。
〝王妃の首を持っていくか? そのほうが、王も逃げようという気概が削がれるかもしれないぞ〟
〝この方に、手を出すな〟
鋭く返したクロヴィスの声は硬い。相手を一瞥することもなく投げかけられた言葉に、男も肩を竦める。
〝おいおい。ためらいなく殺しておいて、よく言うぜ〟
〝この方は先王の血を引く、チェスター家の末裔。最後の、希望となるべき人だった。――こんな場所で、こんな理由で死ぬべき人ではなかった〟
〝だが、殺した。到底、『希望』とは呼べない存在になり果てていたから〟
青薔薇姫の呼び名も、今となっては皮肉だなと。男はそう言って唇をゆがめた。対するクロヴィスはそれには答えず、剣を握りなおしてから足を踏み出す。
〝行くぞ。間に合わなくなると面倒だ……っ!?〟
ふいに息をのんだクロヴィスが、振り向きざまに剣を構える。そこに、金属同士がぶつかる重たい音を響かせて、剣が打ち込まれた。
剣を手に襲い掛かったのは、先ほどまで話していた男だ。状況がつかめないアリシアの目の前で、再び打ち込まれた一撃をかわしながら、クロヴィスが広間の奥へと鋭く視線を投げかける。つられてそちらを見て、アリシアは目を見開いた。
先を行ったと思われた男たちが、次々に柱の陰から飛び出す。クロヴィスの呼びかけに応じて後を追っていた男たちも慌てて剣を構えるが、体制が整うより先に剣を打ち込まれ、血を噴いて倒れ伏す。
一体、なにが起きているというのだろう。
混乱するアリシアは、信じられない想いでゆるゆると首を振る。その間にも、男たちはくぐもったうめき声と一緒に地に身を横たえる。それを横目で確認しながら、剣を受け止めるクロヴィスが叫ぶ。
〝なぜ……! お前は……‼〟
〝この国の人間じゃないのさ〟
男の声に、初めてエアルダール訛りが混じる。
アリシアは叫んだ。否、叫ぼうとした。だが、アリシアの細い喉は声を発することはなく、出来ることと言えば、背後から襲い掛かった別のひとりの剣がクロヴィスの体を貫くのを見守ることだけだった。
クロヴィスの口から、真っ赤な血の塊がこぼれる。体を支えることが難しくなった彼が膝をつきそうになった瞬間、その髪を男が掴んだ。苦痛に表情をゆがめながらも、必死に焦点を結び、クロヴィスが男を睨みつける。
その首筋に、男が剣を添わせた。
〝暴動を誘導したのち、フリッツ王を無事にエアルダールに連れ帰る。それが、ユグドラシル様から与えられた役目だ。……あんたに恨みはないが、悪いな〟
男が剣を引く。
視界が、赤くそまった。
呆然と、アリシアは目の前に倒れるクロヴィスを見つめた。生者にはあり得ないほど蒼白なことを除いては、秀麗な顔はまるで眠っているかのようだ。と、彼の胸元から何かが落ち、ころころと転がった。すぐ近くで止まったそれは、あの百式眼鏡だった。
何も言えないまま、アリシアは百式眼鏡を見て、もう一度クロヴィスを見た。
その目から、一筋の涙が零れ落ちた。
クロヴィス。クロヴィス。
動かない手を、アリシアは必死に伸ばす。
視界が歪み、頬を涙が濡らしていく。
クロヴィス。クロヴィス。
静かに、残酷に。赤い血が、大理石に広がっていく。
それでもアリシアは、真っ白になった頭の中で、懸命に彼の名を呼ぶ。
死なないでほしい。生きて欲しい。笑ってほしい。声をあげてほしい。
クロヴィス。クロヴィス。クロヴィス。クロヴィス――――――。
「死なないで!! クロヴィス!!!!!!!!!」
「アリシア!!」
ふいに耳に飛び込んだ凛とした声音に、アリシアの意識は一気に引き戻された。とっさに目の前のものにしがみつけば、それはクロヴィスが身にまとう服だった。それと、身体を包みこむ温かな感触で、アリシアは自身が彼の腕の中にいることを知った。
隙間から外を窺えば、青ざめたエドモンドと視線が交わった。
「どうしたんだよ、お前……。急に何かに憑かれたみたいな……こんな……」
「アリシア」
エドモンドの言葉を遮り、クロヴィスが名前を呼ぶ。すがるように、アリシアはクロヴィスの胸に耳を押し当てた。そうやって、彼が生きていることの証を探した。
アリシアの大きな空色の目からは次々に涙があふれて零れ落ちた。蒼白な顔が、力なく投げ出された手が、冷たい大理石に広がる赤い海が、瞼に焼き付いて離れなかった。
クロヴィスにしがみついたまま、アリシアは唇を震わせた。
「死なないで、クロヴィス。嫌よ。死んでしまっては、嫌……」
「俺はここにいます。――大丈夫です、アリシア。俺はちゃんと、ここにいる」
アリシアを抱きしめる腕の力が、強くなる。クロヴィスの言葉がゆっくりと全身に染み入り、恐怖に凍えたアリシアの体を解きほぐしていく。
彼は生きている。その実感が、ようやくすとんと胸の内に落ちた。
「―――……っ!」
アリシアは泣いた。声を押し殺し、全身を震わせ、泣き続けた。クロヴィスはその間、彼女を抱きしめていた。だが、アリシアを受け止めてやりながらも、彼自身、迷う瞳は揺れていた。
――百式眼鏡は、何も語ることなく、机に転がっていた。




