16-6
「前にね、……ああ。これは、クロくんには内緒でお願いしますよ。男同士の裏話を恋人に教えるなんて、本当はマナー違反ですから」
ね、と促しながら、ジュードがわずかに顔をアリシアに向ける。こくりと小さく頷くと、再び彼は視線を夜景へと戻した。
「クロくんが、一度だけ、ひどく酒に酔ったことがありました。商会の定期報告か何かで、彼がひとりで我が屋敷を訪ねたときです。ちょうど、アリシア様の16歳の誕生日の直後でしたよ」
ということは、まだ一年たたない最近の出来事だ。しかし、クロヴィスがジュードの屋敷で「ひどく酔った」というのは初耳である。そもそも彼は酒を嗜む程度しか口にしないし、仮に飲んだとしても、ロバートほどではないにせよクロヴィスも酒に強いのだ。
さてジュードによると、いつものように夜に一緒に飲もうと誘ってみたところ、その日のクロヴィスは珍しく、スイスイとウィスキーを口にした。今までこんなに飲んでくれることはなかったので、侯爵が嬉しくなって新しく瓶を開けると、やっぱり彼はスイスイと飲む。
そんなわけで、すっかり楽しくなったジュードが次々にグラスに注いだため、気が付いた時には、クロヴィスは完全に酔いつぶれてしまっていたらしい。
「待って。冷静に、何しているのよ」
「わわ。すみません。僕も悪かったですけど、あのクロくんがまさか、自分の限界を超えるまで飲み続けるとは思わなかったんですよ!」
もの言いたげな目をしてアリシアが睨めば、ジュードは慌てて申し開きをひと言。けれども、確かに彼の言うように、クロヴィスがそういう飲み方をするのは初めてのことなので、アリシアも矛を収めることにする。
話を戻そう。クロヴィスの異変に気付いたジュードは、慌てて水をたくさん飲ませてやった。それでもふらふらとおさまりが付かないのでソファに横たえてやると、クロヴィス自身やらかしてしまった自覚はあったのか、腕で顔を隠して小さく呻いたという。
家主としても酔いつぶれた客人をほったらかしに部屋に戻るわけにいかず、しばらくウィスキーを舐めながら傍にいてやると、やがて、クロヴィスがぽつぽつと話し始めた。
「クロくんが話したのはね、先日あったという、アリシア様の誕生パーティのことでした」
「私の?」
「ええ。あなたはそれが、社交界デビューでもあったらしいですね」
素直にアリシアが頷くと、ジュードはグラスで口を湿らせてから、再び口を開いた。
アリシアの16歳の誕生日を祝う宴は、本人が社交界デビューをするという節目の年でもあったため、いつにも増して大掛かりに執り行われた。いわゆる社交界の華と呼ばれる紳士淑女、各国の王族たち、そうした華やいだ世界に、ハイルランドの青薔薇が初めて迎えられたのである。
「その時の光景が瞼に焼き付いて離れないと、クロくんは言っていたんだ」
大広間に管楽器の音色が響く。
朱色の扉が開き、王の腕に手を絡めた姿が明らかとなる。
ゆっくりと足を踏み出した彼女の髪が、はらりと後ろに流れて煌く――――。
「それを聞いて、僕は思ったんですよ。クロくんにとって、あなたは『守るべき小さな女の子』だった。だけど、その瞬間を境に『小さな女の子』には見えなくなってしまったんだなって」
嬉しそうに、苦しそうに。
幸せそうに、つらそうに。
とりとめなく話していたクロヴィスは、いつしか寝入ってしまったという。
「それからがまた、大変でしてね。ご存じの通り、日中はいいですけど、夜の談話室は冷えるんです。だから、なんとかクロくんを担ぎ上げて部屋に運んで……って、そんな話はどうでもよろしい」
自分で始めたくせに、ジュードはぴしゃりと己の話を遮る。
そうして彼は、とても穏やかな笑みを浮かべた。
「要は何が言いたいかということですが、どうか、あなた方には幸せになってほしい。身分もある。立場もある。面倒くさいしがらみが、たんまりとある。けれど、せっかく勇気を出して手を伸ばしたんだ。簡単に離してしまっては勿体ない!」
ジュードの言葉に、アリシアは思わず俯いた。それこそが長い間アリシアを臆病にさせ、最後のさいごまで迷わせた悩みであったからだ。
今だって迷いがないわけではない。けれども、不安の全てを受け止めた上で、クロヴィスは壁を乗り越えてきてくれた。その全てを、共に乗り越えようと言ってくれた。
そんなアリシアの内心を知ってか知らずか、ジュードはしばらくの間、しげしげと年下の王女の様子を窺っていた。そして、ふいにアリシアが手に持つグラスを取り上げると、「えいやっ」とアリシアの背中を押した。
「ちょっと、きゃっ!?」
「まずは飛び込んでごらんなさい! それが、あなたの十八番でしょう?」
二、三歩、たたらを踏んでからアリシアが驚いて振り返れば、ジュードもまた、広間の中に戻ろうとすることころだった。目を白黒させるアリシアに後ろ手をひらひらと振りながら、彼は笑って言った。
「走りなさい! 素敵な夜は、まだまだ始まったばかりだ」
それを最後に、ローゼン侯爵の姿は踊る人々の間に紛れて消えた。
しばらく呆然としていたアリシアだったが、ジュードの姿が見えなくなったところで、はっと我に返った。それから躊躇うように一歩を踏み出し、ついでもう一歩を踏み出した。三歩目からは走り出しており、その足取りに迷いはすでになかった。
遠い日に行われた式典のように、アリシアは駆けていた。
紳士淑女たちが、ワルツに体を揺らす。ふわりとしたドレスの裾が、色とりどりの花のように広がる。その間を、薄水色のドレスを翻してアリシアは走る。
何度も何度も、そうやってアリシアは手を伸ばしてきた。
何度も何度も、彼もまた手を伸ばしてくれた。
すれ違う人々の向こうに、すらりとした長身が映る。
大好きな笑顔が、大好きな声が、大好きな手が、そこにある。
「クロヴィス!!」
響いた声に、クロヴィスが振り返る。紫の澄んだ目が、アリシアをとらえて驚きに染まる。いつの日かと同じに少女は補佐官の右手を摑み、――走り出した。
「――っ! あ、アリシア様!?」
「来て!」とアリシアは叫んだ。「一緒に来て、私と!」
人々の間を縫って駆けながら、アリシアは後ろを振り返る。肩越しに見えるクロヴィスはひどく驚いた表情でぽかんと口を開け、――――小さく吹きだし、飾り気のない笑顔で心底おかしそうに笑った。
「行きますよ」と、笑い声の合間にクロヴィスは答えた。「あなたとならば、どこまでも」
色彩も、眩い輝きも、華やかな調べも、全てが後ろに遠ざかっていく。
そうしてふたりは、社交の場から抜け出した。
「どうしよう……」
夜にも関わらず、エグディエルの街並みには人があふれている。広場には出店が立ち並び、それぞれが軒先にキャンドルやランタンをぶら下げているため、オレンジの灯がちろちろと揺れて暗さを感じさせない。
そんな中、すっぽりと被ったフードの下で、アリシアは打ちひしがれていた。その隣では、クロヴィスがくつくつと笑いを噛み殺している。
なお、ホールを抜け出してすぐ、ふたりはそれぞれに着替えてから街に来ている。星祭には身なりの良い商人なども来ているため、とっさの変装とはいえ街中で浮いてしまうということはない。
いつまでも肩を震わせている恋人には触れずに、アリシアはさらに頭を抱える。
「あんな風に抜け出したりして、絶対あとで怒られるわ……。ううん、怒られるだけならいいほうよ。クロヴィスとのことを、みんなに不審に思われでもしたら」
自分で言っていて不安になり、ついにアリシアは顔を青ざめさせる。それで、いよいよクロヴィスは吹きだした。抗議を込めてアリシアが睨みつければ、笑いながらあっけらかんと腕を組んだ。
「今更、何を仰いますか。大丈夫ですよ。いっそ、こういう際には堂々とすればいい。アリシア様のことですから、何かを急に思いついて、居ても経ってもいられずに従者を連れ出したのかなと。皆、そのように勝手に納得してくれますよ」
「そんないい加減なことを言って!」
「いい加減ではありません。あなたの問いを、適当にあしらうことなどあり得ない」
「……そういうところは、ちゃんと補佐官なのね」
「補佐官ですよ。そして、あなたの恋人です」
いうが早いが、クロヴィスはアリシアを引き寄せる。包まれた腕の中で彼を見上げれば、頰を白い指が撫でた。
「とはいえ、余計な横槍を入れられては面倒だ。城に戻ったあとは、念のため火消しをしておきます。今は、まだ」
今は、まだ。囁かれた言葉の意味を、わからないほど鈍くはない。だからアリシアはうっかり赤面しつつ、せめてもの仕返しに頰に添えられた手を掴んでやった。
「…………灯籠流し、近くで見たい。あと、出店も回りたい」
「喜んで」と、クロヴィスは微笑んだ。「それでは、行きましょうか」
ランタンの灯が照らす街並みを、ふたりは手を繋いで歩く。時折、カラーグラスを使ったものが混ざるためか、夜であってもカラフルな色彩が町にあふれている。星祭。その名に恥じず、この町を空から見たならば、大地が星空のように見えるのかもしれないと、アリシアは思った。
エラム川に近づくにつれて、人混みが増す。合わせて、川へと向かう人々の手に灯籠が目立つようになる。
それを眺めていると、道の途中にある出店に立ち寄り、クロヴィスが灯籠を一点求めた。人の好さそうな店主から手渡されたそれは、薄い布の向こうで紅い火がちろちろと揺れて、とても幻想的だ。
灯籠をぶら下げ、ふたたび川へと向かう。隣を行く人も、そのまた隣を行く人も、灯籠を掲げている。通りには次々に人が加わり、自分たち自身がひとつの大きな川になったかのような心地がして、足元がふわふわと落ち着かなくなる。
ふと、このまま人々の中に溶けてしまえたらいいのにと、アリシアは思う。自分は王族などではなく、彼も補佐官などではなく。どこにでもいる普通の男女として出会い、恋し、愛し合う。そんな「当たり前」が、ふたりにあったならと。
けれども、アリシアはすぐに、その考えに首を振る。
一度すべてが終わる瞬間を見てきた自分だからこそ、切り開ける未来がある。そう信じて歩んできた道を振り返れば、隣にはいつもクロヴィスがいてくれた。
やりなおしの生を与えられた王女と、その補佐官。ふたりの出会いは、一風変わったものだったかもしれない。けれども、この数奇な巡りあわせを経て、ふたりは何度も互いとの絆を結んできたのだ。
「せーの」と声が重なる。その一言で、水に浮かべた灯籠を同時に押し出す。
アリシアたちの灯籠は、ゆらゆらと揺れながら流れにのった。そして、同じように送り出された他の灯籠と一緒に、水面を照らす光の大群にのまれていく。ついに、自分たちの灯籠がどれであったか判別がつかなくなった時、隣に立つクロヴィスが小さく息を吐いた。
「キスを、してもいいですか?」
「え?」
思わず聞き返せば、柔らかく微笑むクロヴィスと視線が交わった。
「こんな言い伝えがあるそうです。星祭の夜、想いあう恋人同士が交わした口付けは、ふたりを永遠に結びつけると」
「その言い伝え、クロヴィスは信じているの?」
クロヴィスらしくないので首を傾げれば、案の定、彼はあっさりと首を振る。
「効力があると思うかという意味なら、答えはノーです。奇跡は、人の意志の上に成り立つものです。一見、偶然のめぐり合わせに見えても、最後にそれを引き寄せるのは『為そうとする意志』だ。あなたがたくさんの人々の中から、俺の手を摑んでくれたように」
「じゃあ、どうして……」
「願掛けのひとつとして、試してみて損はない。それに口実があれば、恥ずかしがり屋のあなたも受け入れてくれるでしょう?」
エラム川を流れる無数の灯籠の灯が、ゆらゆらと揺れる波に反射する。それはまるで、光の妖精が水面を飛び回って遊んでいるようだ。
「口実なんかなくたって」と、オレンジ色を頬に映してアリシアは答える。「理由なんてなくたって、私だってクロヴィスに触れたい。……キス、してほしい」
虚を突かれたクロヴィスの目が、大きく見開かれる。だが、向かい合うアリシアは、恋人を直視することができずにいる。真っ赤に染めあがった顔を俯かせていると、クロヴィスの手が腰に回され、抱き上げられた。
驚くアリシアは、慌ててクロヴィスの首に手を回す。逃れようもなく正面から見上げるクロヴィスの視線を受け止めると、彼は溜息をついた。
「困ったな」と、彼は途方にくれたような声で言った。「抑えが、利かなくなるでしょう」
「抑えなければいいじゃない」と、アリシアも答えた。「あなたは私の恋人なんだもの」
クロヴィスが何かを言おうとしたが、その口が言葉を飲み込んで閉じられる。秀麗な顔はどこか悔しげに見えて、いつも余裕の差を見せつけられてきた(と、本人は思っている)アリシアは、ほんの少しだけ得意な気分になる。
それで、アリシアはゆっくりと身を屈めて――初めて、自分から彼に口付けた。
煌く水面を背景に、ふたり分のシルエットが浮かび上がる。数奇な巡りあわせで結ばれたふたりも、この時ばかりは、数多といる恋人たちと変わらずに見えたのであった。
2017年11月24 日に書籍が主婦と生活社様から発売されました。
これからも、『青薔薇姫~』をよろしくお願いいたします。




