16-4
さて、どうしようと。ソファに座るアリシアは、考えていた。
対して向かいに座るクロヴィスはというと、若い補佐官が持ってきたパンをぱくぱくと片付けている。彼は最初、持ち前の生真面目さが顔を出し、主人を差し置いて自分だけが食事を摂ることを躊躇していた。しかし、気になるようなら部屋から出ていくとアリシアが申し出ると、急に大人しく食べ始めた。
そうしたわけで、かえってアリシアは、クロヴィスの部屋をお暇するタイミングを逸していた。
なお、若い補佐官が持ってきた水差しの中身はぶどうジュースだった。小さめのゴブレットに注いでもらったそれをちびちびと飲みつつ、アリシアはクロヴィスを盗み見た。
彼に、いつもと変わった様子は見られない。ぐっすりと睡眠をとった後だからかもしれないが、とてもじゃないが、無理を重ねて倒れる寸前まで自分を追い詰めていたようには見えない。
いや、今だけではない。昨日だって、その前だって、そんな片鱗はちっともアリシアの前では出さなかった。それは単にアリシアが鈍いというより、クロヴィスが意図的に隠していたためだろう。
「辛いなら辛いと、言ってくれればよかったのに……」
「は?」
相手に聞かせるつもりのない呟きだったが、クロヴィスはそれを聞き逃しはしなかった。彼は食べるのをやめてアリシアを見た。だから、仕方なくアリシアは続けた。
「ねえ。クロヴィスが支えてくれるのは嬉しいけれど、私も昔よりは自分で出来るようになったわ。あまりに忙しいときは、無理して私のところへ来なくてもいいのよ」
「興味深いことを仰いますね。それは冗談ですか?」
「冗談なんかじゃないわ。私はお前のことを……」
「心配して、ですか? それで、あなたにお仕えする時間を削れと」
言葉遣いは丁寧なままだが、クロヴィスの声には若干の不服が混じる。彼は手に持つ残りの欠片を口にし、それを咀嚼して飲み込んでから、改めて首を振った。
「お断りします。第一に、私の立場は王女付き補佐官、つまり最優先すべきはアリシア様に関する事柄です。補佐室で他の業務に追われることで、あなたにお仕えするのに支障が出るほうが問題です」
「そ、それはそうかもしれないけれど、補佐室が忙しい期間だけなら」
「第二の理由として、私が、――――俺が、あなたに会いたいんです。」
「はい?」
アリシアの唇から、間抜けな声が漏れる。するとクロヴィスは、困ったように眉をひそめてから、目を逸らした。その頬は、微かに赤く染まっていた。
「自分でも大人げないと思いますが、このところ、視界の端で常にあなたを探している。今日だってそうだ。お会いする予定はないとわかっているのに、会いたくて堪らなかった」
「そんな、だって、そんな素ぶりちっとも……」
「格好悪いですよね。俺はあなたより10歳ちかく年上のはずなのに、こんなにも余裕がない。それどころか恋人として、もっとあなたにも強請られたいと願ってしまう」
言葉が喉に詰まって、アリシアは慌てて顔を俯かせた。そうでもしないと、もう一度クロヴィスの胸に飛び込んでしまいそうだったのだ。
そんなアリシアの内心を知ってか知らずか、クロヴィスは照れくさそうに微笑んだ。
「心配をかけたことは謝ります。後輩たちも育ってきましたし、周囲を頼ることも覚えましょう。だから、お願いです。俺に「来るな」などと、言わないでください」
いけませんか?とクロヴィスが首を傾げる。その甘い仕草も、表情も、声も、アリシアをそわそわと落ち着かない心地にさせる。「はい」とだけ蚊の鳴くような声でどうにか答えると、それはそれは嬉しそうに、クロヴィスは笑ったのだった。
水差しを取り上げ、注ぐ。それを飲み干し白布で口元を拭ってから、クロヴィスは顔を上げた。
「ところで、そちらの書状はなんですか? 思うに、それを見せるために私を探していたのでは?」
言われてアリシアは、傍に置いたままになっていたリディの文の存在を思い出した。色々とあったから頭から抜け落ちていたが、もともとはそれを見せるために補佐室へと足を運んだのだった。
「リディから手紙が届いたの。私もさっき、中身をみたばかりなのだけど」
「リディから?」
クロヴィスの目が驚きに僅かに見開かれる。アリシアがそれを手渡すと、丁寧な手つきで紐をほどき、くるくると開いた。
「親愛なるアリシア様。お変わりなくお過ごしでしょうか……」
澄んだ紫の瞳が紙面の上を走るのを、アリシアは見守る。さらりと内容を確認したクロヴィスは、次いで何やら思案するように顎に手を当て、再び書状を読み返した。
なかなか顔をあげようとしない彼に、アリシアは首を傾げた。
じっくり読みこんだわけではないが、手紙の内容は近況報告だった。だからこそアリシアは、緊急の用であればクロヴィスを呼ぶと申し出たライアンに、その必要はないと答えた。
リディの手紙に書かれていたのは、簡単に言えばこうだ。
エアルダールについてから、自分はキングスレーのクラウン外相宅に身を置いている。キングスレー城への出入りは比較的自由に行えるよう取り計らってもらえたため、苦労はしていない。近々、何処どこに視察に行くつもりだ――――。
さて、しばらく難しい顔をして考え込んでいたクロヴィスだったが、ふいに立ち上がると、大股の足取りで本棚へと向かった。そして一冊の本を引き出すと、ソファへと戻って手紙の隣にそれを開いた。
「それは?」
「エアルダール視察の間、個人的につけた記録です。こちらはほとんど日誌のようなもので、視察団がつけていた正式な記録は補佐室にありますが……。と、ありました」
はらり、はらりと紙をめくる音が止まり、細い指が流れるような書体の上に置かれた。それでアリシアはクロヴィスの隣へと場所を移り、一緒になって記録と手紙とを覗き込んだ。
「リディが視察に行くと記した地区です。レジェ、イェーツ、ファインズ。どれも、かつて視察団時代に訪れた町や村です」
「そこには何があるの?」
アリシアの問いかけに、クロヴィスは顔をあげた。艶めく黒髪の合間で、切れ長の目がすっと細められた。
「孤児院です。どれも、比較的大きな」そう、クロヴィスは言った。「3つの孤児院は共通して、宰相エリック・ユグドラシルが支援しています」
「私が気になるのは、3つの場所を訪問する目的が手紙の中に明示していないことです。よくも悪くも、リディは物事をはっきり申される方だ。目的を書かなかったのは、それを濁すことで何か伝えたいメッセージがあったのだと考えられます」
すらすらと言葉を紡ぎながら、クロヴィスは手早くタイを締め、上着を羽織る。手慣れた仕草に見惚れていると、仕度を終えたクロヴィスが振り返り、「行きましょうか」とアリシアを促した。
途中、通りがかった侍女に銀皿などを厨房に戻してもらうよう頼みつつ(あとで調理長にもお礼を言いに行かねばと、クロヴィスは言っていた)、ふたりは歩みを進める。その道すがら、クロヴィスはさらに続けた。
「前に、ユグドラシル様がいくつかの孤児院を支援しているという話はしましたね」
「ええ。シャーロットや、彼女の兄たちも、そうした孤児院から引き取られて養子にされたのだったわね」
「シャーロット嬢がもともといたのは、イェーツにあるゴールトン孤児院です。兄たちの出身も、それぞれレジェのブロック孤児院、ファインズのサーセス孤児院。ユグドラシル様が支援する孤児院がほかに一切ないわけではありませんが、この3つは飛びぬけてその比重が高い」
だから、視察時代も宰相の計らいで訪問する機会があったのだと、クロヴィスは話した。
「リディは当然、この手紙に私が目を通すことを想定しているはずです。しかし、3つの地名から連想できる名をどう捉えるべきか、そこまでは示していない。彼自身、まだ確証がないのかもしれません」
「つまり……、あの宰相が、ロイドと通じていた黒幕だということ?」
アリシアの問いに、クロヴィスは足を止めた。気が付くと、いつの間にふたりはアリシアの部屋の前に立っていた。
「それは、まだわかりません。警戒すべき人物なのか、そうではないのか。疑いは正しいのか、正しくないのか。それを確かめるためにこれから動くのでしょうが、万が一の時に備えて、先に私たちに名前だけを伝えたのでしょう」
「万が一の時……」
心臓がぎゅっと掴まれた心地がして、アリシアは無意識のうちに、祈るように胸の前で手を握りあわせていた。すると、クロヴィスの手がそっとアリシアの頭に乗せられた。
見上げたアリシアに、クロヴィスは微笑んだ。
「大丈夫ですよ。あの方はしぶとい。それに、誰よりも芯のある人です。悪戯に我が身を危険に晒して、志し半ばにして倒れるような御仁ではありません。そう信じたから、あなたもリディを隣国へ送ったのでしょう?」
「そう……ね。そうよね」
自分に言い聞かせるように、アリシアは何度も頷いた。
サザーランドは約束を違えない。そう言って、リディも「必ず戻ってくる」と不敵な笑みを浮かべていた。危険を分かった上で送り出したアリシアは、彼を信じて待つよりないのだ。
そう納得しようとしても、胸に芽生えた不安の種を簡単に消すことは難しい。浮かない顔でアリシアが考え込んでいると、なぜたかクロヴィスは無言のままじっと見つめていた。
そして、何を思ったのか身を屈めると、アリシアの額に素早く口付けを落とした。
「妬けますね。そんなに彼が心配ですか?」
細めた目の奥で、紫の瞳が妖しく揺らめく。突然の変化にどきりと心臓を高鳴らせつつ、アリシアは慌てた。
「あ、当たり前でしょ。妬けるだなんて、そんな……」
「冗談です」
にこりと笑って、クロヴィスが一言。感情の起伏が追いつかないアリシアの背を押しつつ、彼は部屋の扉を開けた。
「私の記憶が確かであれば、そろそろ、ドレスの仕立て屋が到着する頃合いかと。フーリエ様が迎えに来るまで、こちらでお待ちください」
「あ……」
「また明日、アリシア様。――お会い出来て、嬉しゅうございました」
軽く一礼したのを最後に、クロヴィスの手が扉から離れる。ぱたりと音を立てて、それは閉じた。向こうに消えてしまった恋人を想いながら、アリシアは扉の表面をそっと撫でた。
(ほんとに、もう……)
まだ、唇が触れた箇所が熱い。
彼のおかげで不安に思う気持ちは紛れた。それ自体はありがたく思いつつ、素直に感謝できない自分は、まだ幼いのだろうか。そう、アリシアは自問した。
クロヴィスに余裕がないなんて、嘘だ。
だって自分は、離れた瞬間にもう、こんなに彼を欲している。
「姫様?」
「どうしたんですかぁ、姫様?」
主の帰宅に気づき奥の控室から出てきた侍女ふたりが、揃って不思議そうに声を掛ける。それに、半ばやけっぱち気味に「なんでもないの!」と返しつつ、アリシアは扉の前を離れたのであった。




