16-3
アリシアは小走りに駆けていた。その手は、丸めて赤い紐で結ばれた文を握っている。
リディ・サザーランドから書状が届いた。朝からみっちりと詰め込まれたダンスレッスンの最中にナイゼルから報せを受けたアリシアは、居ても経ってもいられなくなり、すぐに王の執務室へと急いだ。そして、ジェームズ王から書状を受け取るや否や、執務室を飛び出したのである。
「クロヴィスはいる!?」
ばたんと勢いよく補佐室の扉が開き、机に向かっていた補佐官たちが一斉に驚いて顔をあげる。彼らは入り口に立つのがアリシア王女だと気づくと、ますます目を丸くした。
だが、アリシアの求める王女付き補佐官の姿は、その中にない。幼い頃のように補佐室に飛び込んでしまったことを今更に恥じながら、扉から一番近くにいた補佐官に、アリシアはおずおずと尋ねた。
「ごめんなさい。クロヴィスに、話したいことがあったのだけれど」
「申し訳ありません、アリシア様。クロヴィスさんはナイゼル様に言われて、今は休んでいます」
「え?」
首を傾げるアリシアに、若い補佐官はすまなそうに眉尻を下げた。その後を継いだのは、ライアンというベテランの補佐官だ。
「クロヴィスのやつ、ここ最近、夜もろくに寝ないで仕事を詰めているんですよ。それをナイゼル様に見抜かれましてね。無理して式典中に倒れられてもかなわないからって、一度部屋に戻したんですよ」
「そんな……。知らなかったわ」
アリシアの前では、涼しい顔をして政務に当たっていた補佐官の顔が、瞼の裏にちらつく。ほとんど毎日顔を合わせているというのに、そこまで無理を重ねていたということは知らなかった。
けれども、考えてみれば自然なことだ。建国式典の前は特に補佐室は慌ただしくなる。隣国エアルダールへの視察から戻ってすぐにその忙しさの中に身を置き、おまけに、アリシアの政務はいつもと変わらずに支えてくれている。いくらクロヴィスが表面では平気な顔をしていたって、疲れが溜まっていると想像がついて然るべきだった。
ショックを受けるアリシアに、ライアンは慰めるような目を向けた。
「アリシア様が悪いんじゃない。なまじ器用なだけに、なんでも自分でやっちまうあいつが悪いんです。どうせクロヴィスは、あなたの前では弱音を決して吐かないでしょう?」
「そうだけど……」
「それに、アリシア様が至急に用があるというなら、話は別です。どうぞ、部屋でお待ちください。クロヴィスにそちらへ向かうように、私から伝えます」
「あ、いいえ! そこまでしなくて大丈夫よ」
慌ててアリシアは首を振った。リディの身を案じていたため、無事な知らせが届いた喜びでつい走ってきてしまったが、ぱっと目を通してみた感じではただの近況報告だ。
それに今日はダンスレッスンのほかにも、女官長の強い勧めで仕立てたドレスを合わせるなどの予定が入っており、珍しくクロヴィスと顔を合わせる予定はない。もともと会う予定もなかったのにここで呼び出してしまっては、クロヴィスの負担をさらに増やすだけだ。
「本当に、急ぎの内容ではなかったの。色々と教えてくれてありがとう、ライアン」
「いえいえ。無駄足を踏ませてしまってすみません」
後で、クロヴィスの様子を若い奴に見にいかせますよと。なおも心配そうなアリシアを気遣ってか、ライアンはそう約束してくれた。
補佐室を後にしたアリシアは、しょんぼりと廊下を歩いていた。
クロヴィスとは、昨日も顔を合わせた。その時は、メリクリウス商会とイスト商会の提携について、ジュードを交えてあれこれと議論を重ねたのだが、有能な補佐官である彼にいつもと変わった様子はなかった。
〝どうせクロヴィスは、あなたの前では弱音を決して吐かないでしょう?〟
ライアンの何気ない言葉が蘇り、アリシアの胸をずきりと痛めた。
クロヴィスは優しい。そして、誰よりもアリシアをよく見ている。そんな彼だから、常に一歩先を行き、アリシアの些細な変化も見逃さずに気遣ってくれる。
それなのに、自分ときたらどうだろう。大切な従者なのに、―――恋人なのに、弱った姿を見せてもらうことも叶わず、といって自分で気が付くこともできない。
そもそも自分たちの関係は、本当に恋人と呼べるものなのだろうか。周囲の目があるとはいえ、あの閉ざされた馬車の中でのやり取りを最後に、まともに心を通わせることもままならないのだ。
主従関係ではなく、恋人同士として。
子供と大人ではなく、対等なふたりの人間として。
こうありたいと願うアリシアの気持ちとは裏腹に、差ばかりが歴然と浮かび上がる。
(ああ、もう! 余計なこと考えない!)
ひとり廊下を行くアリシアは、ぶんぶんと勢いよく首を振った。
とにかく、ダンスホールに戻ろう。ナイゼルから報せを聞いたときのアリシアの様子を見て、女官長もすぐに練習を中止にしてくれたが、戻ったら戻ったですぐに再開してくれるはずだ。
そう思うのに、アリシアの足はダンスホールではなく、別のところへ向かう。いくつかの回廊を抜け、居城を一度出て、騎士らとすれ違いながら芝生を歩く。そうやってたどり着いたのは、城の敷地内に建つ文官用の宿舎だった。
日中のためか、宿舎に人の気配はない。こっそり中に入ったアリシアは、以前会話の中で聞かされた情報を頼りに、足早に廊下を進んだ。
そうして、とある部屋の前に立ったアリシアは、緊張した面持ちで扉を見つめた。
記憶に間違いがなければ、目の前の扉の奥に、クロヴィスが住む部屋があるはずだ。幼い頃、城のあらゆる場所に顔を出しては女官長に叱られていたアリシアだが、さすがにここにくるのは初めてである。
(つい、こんなところに来てしまったわ……)
あとで、様子を見に人をやらせる。そうライアンは話していたが、それでも、アリシアはクロヴィスのことが気がかりだったのだ。
すっかり寝入っているかもしれない。自分が行っても、邪魔なだけかもしれない。そんな考えが何度も頭を掠めた。けれども、もしアリシアに出来るのことがあるなら、……ほんの少しでも彼を見舞うことができるならと、足を運んでしまった。
小さく息を吸って、吐く。恐るおそる、右手を掲げる。
ノックの音は、控えめに響いた。息をつめて待つが、返事はない。もしかして、気分転換にどこか出かけたのだろうか。そう思って試しにドアノブを握ると、意外なことに扉が開いだ。
家主の了承もなく入るのは気が引けたが、ここまで来たら女は度胸だ。出来るだけ足音を殺してアリシアは部屋に入ると、そっと後ろ手に扉を閉めた。
簡素な部屋だった。華美を好まないクロヴィスらしく、備え付けと思われる調度品以外に無駄な家具はない。寝室は別にあるのか、ベッドの代わりに隣室へと続く扉がある。
なによりも目立つのは、棚にぎっしりと並べられた書物の多さで、納まりきらない本に至っては、絨毯の敷かれた床の上に重ねて積まれている。特に部屋の中央にあるソファの周りには本の山が集中しており、普段、彼がそこに座って書物に目を通していることがうかがえた。
と、こちらに背もたれを向けているソファの影から、足のようなものが伸びていることにアリシアは気がついた。
そろそろと忍び足で近づいて正面に回ると、やはりというか、そこにいたのはクロヴィスだった。
ソファの上で、クロヴィスは眠っていた。ローブや上着、タイなどは外され、反対側に置かれたソファの背もたれに掛けられている。彼が上半身にまとうのは白シャツのみで、いつもは閉じている胸元をいくらか開けて寛がせていた。
軽く手が乗せられた胸は微かに上下に動き、そのたびに薄く開かれた唇から規則的な寝息が漏れる。無防備な寝顔はいつもより彼を幼く見せ、一方で閉じられた瞼を縁取るまつ毛が驚くほど長く、どうしようもなく色気を漂わせている。
アリシアは、顔が熱くなるのを感じた。
一目、顔を見たら帰ろう。そう思っていたのに、アリシアは踵を返すことが出来ない。代わりに眠るクロヴィスに近づくと、身をかがめた。近くで見ると眠る恋人はますます美しく、胸の鼓動が跳ねるのを感じた。
彼に、触れたい。
湧き上がる衝動に抗いきれず、そろそろと手を伸ばす。
その手が掴まれ、アリシアはクロヴィスの上に倒れこんだ。
「感心しませんね。男の部屋になど、不用意に入るべきではない」
「クロヴィス!? 起きてたの!?」
「眠っていましたよ。運よく目覚めただけです」
驚くあまりに、声が裏返る。そんなアリシアを、まだ眠たげな紫の瞳がじっと見つめている。
と、自分がクロヴィスの上に倒れこんだままであるということ、自身の手が彼の胸板の上に置かれていることに気が付いて、アリシアは一気に頭の中が沸騰する心地がした。慌てて彼の上から退こうとしたが、彼女を捕まえるクロヴィスがそれを許してはくれなかった。
「は、離して!」
「嫌です。先に触れようとしたのは、あなたでしょう?」
「そ、そうだけど! そうじゃなくて!」
「嫌です」
慌てるアリシアを、なおもクロヴィスはきっぱりと一刀両断。それどころか、クロヴィスはアリシアの背に手を回し、さらに自身へと引き寄せた。
「く、クロ……」
「城に戻ってから、――いいえ。その前から、あなたに触れるのを我慢してきたのです。こんな好機を見逃せるわけがない。俺は十分、〝待て〟をしたとは思いませんか?」
クロヴィスの言葉に、アリシアは思わず動きを止めた。まじまじと恋人を見返せば、彼は真剣な顔をしていた。
気恥ずかしくなって、アリシアは俯いた。彼が本当の事を話しているなら。冗談でもなんでもなく、本心を話しているのなら、まるで。
(クロヴィスも、寂しかったみたいじゃない……)
アリシアの指に力がこもり、白シャツに皺が寄る。嬉しいやら恥ずかしいやらで前を向けないアリシアの髪を、大きな手が優しく梳く。
「―――目を閉じてください。もっと近く、あなたを感じたい」
その言葉は魔法のように耳を打ち、全身を絡め取った。
彼に言われるまま、アリシアは瞼を閉じる。
首筋に温かな体温が触れ、促すように引き寄せられる。
―――その時、木の扉を叩く音が三度響いた。
途端、アリシアはがばりと身を起こすと、クロヴィスが止める間もなく脱兎のごとくソファから飛びのいた。
(びびびびびびびっくりした!!)
胸のあたりが、バクバクと嫌な音を立てている。そんなアリシアを、クロヴィスはソファから体を半分起こしたまま見て、一度扉へと視線を向け、もう一度アリシアへと戻した。
それから小さく嘆息し、扉へ向けて「どうぞ」と呼びかけた。
かちゃりと扉が開き、先ほどアリシアが補佐室を訪れた際、最初に応対してくれた若い補佐官が顔をのぞかせた。
「失礼します、クロヴィスさん。お加減いかがですか……って、アリシア様!?」
ドームを被せた銀皿と水差しを手に部屋に入ってきた補佐官は、アリシアの存在に気が付くと、ぎょっとしたように目を丸くして足を止めた。当然だろう。同僚の部屋を訪ねて、そこで王女に出くわすなど誰も思わない。
やや腰が引けたまま、若い補佐官はアリシアとクロヴィスを交互に見ている。アリシアが言い訳を口にしようとしたとき、クロヴィスがソファから立ち上がり、腕を組んだ。
「俺が休んでいるなどと、誰か口を滑らせただろう。そのせいで、こうしてアリシア様が心配して駆け付けてくださったんだぞ」
「あ、え、ああ! そういうことだったんですか。なんだー、びっくりした」
平然と言い放つクロヴィスに、若い補佐官もほっとした様子。途端にすたすたと近づいてくると、申し訳なさそうにアリシアにぺこりと頭を下げた。
「すみません、アリシア様。クロヴィスさんのお見舞いに行かれるとわかっていたら、ここまでお連れしましたのに」
「補佐室を出てから、急に思いついたから……。えっと、それは?」
「ああ、これはですね、ナイゼル様が調理長に頼んで作ってもらったんです。クロヴィスさん、ぐっすり眠っていてお昼も食べれてないだろうからって」
「そこまで寝入ってはないんだが……。まあ、食べてないのも事実ですが」
微妙な顔をして、クロヴィスが銀皿を受け取る。だが、ドームの中から野菜やチーズを挟んだパンが姿を現すとわずかに顔を綻ばせたので、空腹は覚えていたようだ。
結局、いくつかやり取りを重ねた後、若い補佐官は去っていった。クロヴィスも、もともと終日休むつもりはなかったらしく、食事を済ませたら補佐室に戻ると話していた。
そうして部屋には、再びアリシアとクロヴィスのふたりだけが残された。




