15-4
「見ろ。これが我がエアルダールの中心、キングスレーだ」
木漏れ日の中を進むことしばらく、突如として開けた丘の上で、馬上に乗るエリザベス帝がまっすぐに街を指し示す。その指先を追って、同じく白馬に乗るアリシアも、キングスレーの街並みに視線を落とした。
サンプストンからキングスレーに戻った二日後、アリシアは女帝と共に馬を走らせ、キングスレーの郊外を訪れていた。むろん、この遠出は二人きりではない。エアルダールからはフリッツ王子、ハイルランドからはクロヴィス、それと双方から護衛騎士が付き従っている。
町民をけしかけた統一派貴族が捕まったという報告は、いまだ受けていない。サンプストンから帰還してすぐ、クロヴィスから正式に宰相ユグドラシルへと抗議を入れ、宰相からも、事態の背後を早急に調査しハイルランド側に提示すると回答を得ている。
そうしたこともあって、ハイルランドからの追及を避けて、女帝は今日の遠出をキャンセルするかもしれないとクロヴィスはアリシアに話していた。しかし蓋を開けてみれば、颯爽と馬に乗り彼女が現れたので、こちらとしても驚いていた。
「そして、あれがキングスレー城。あの中には、政治、軍事、経済、そのすべてが集っている。言うなれば城は我が国の心臓、城を中心に張り巡らせたネットワークを通じて血を送り、エアルダールという巨大な生き物を生かしている。――その中で、王とはなんであろう」
歌うように言葉を紡いだエリザベス帝は、ふと、眼下の街並みから視線をフリッツへと移す。
「王とはなんだ? 国家の中で、王族とは何だと考える」
「力であり、象徴です」
柔らかな金髪を風になびかせて、フリッツ皇子はよどみなく答えた。なぜか彼はちらりとアリシアを見てから、口元に笑みを浮かべた。
「ひと昔前ならいざ知らず、王がすべての権力を掌握した今、王とは国家そのものです。名声と金、なにより力。王はそれらを体現し、民もまた、王の身にそれを見ることでしょう」
「なるほど、そういう見方もある。どうだ、アリシア。そなたにも同じ問いかけをしよう。ハイルランド王を目指す身として、王とはなんだと心得る。……なぜ、そなたは王を目指す」
王とは、何か。王を目指す理由は、何か。アリシアはしばし考えこんだまま、エアルダール建国の象徴である黒馬に乗る女帝を見つめた。
自分の目指す未来は、民と王とが力を尽くしあい、新たな王国の可能性を切りひらく世界だ。そのためには、わが身のすべてを賭けるつもりであるし、その決意は変わらない。
しかし一方で、キングスレーへの道中で聞かされた、エリザベス帝が王位をとるまでの話を、ここ数日の間アリシアは何度も反芻していた。そして、己に向けられる悪意も、汚名も、恐怖も、すべてを力に変えて君臨する彼女もまた、国に身を捧げる王のあり方の一つだと考えるようになった。
比べるまでもなく、自分とエリザベス帝はまったく異なるタイプの人間だ。それに、たとえエリザベス帝がまったく同じことをハイルランドでやったとしても、必ず成功するとはいえない。
しかし、王として、国を守る者として、時には非情な判断が求められることは確かだ。頭ではわかっていたが、実際に彼女に会って、その考えが強くなった。
だから、改めて、アリシアは己に問いかける。
王とは、なんだ。自分が王を目指すのは、なぜだ。
黙りこくったアリシアに、エリザベス帝が愉快げに赤い唇をつりあげる。しかし、従者の一人が近づいていって耳打ちすると、彼女は眉をくいっと上げた。
「残念だが、タイムアップだ。そなたに、いいものを見せてやろう」
「どちらを目指すのですか?」
馬首を巡らせたエリザベス帝に、とっさにアリシアは問いかけた。この遠出自体、王都郊外の森を散策するとしか聞かされていない。そっとクロヴィスを窺えば、彼もまた訝しげに女帝をみていた。
するとエリザベス帝は、秘密を共有する仲間であるかのように、唇に人差し指をあてた。
「案ずるな、危険はない。……為政者としての資質があるか、余が見てやろう」
馬で森をすすむことしばらく、ふいに石の壁が現れた。アリシアたちが進む道の先には関所のようなものがあり、そこを通ると壁の中に入れるらしい。
関所の両側には鎧をまとった兵士が立つ。その手が握る巨大な槍は凶暴であり、木漏れ日に反射して鈍く光った。
アリシア一向が近づくと、兵士は槍を置き、その場に跪いた。屈んでもなお体躯の大きさがわかる男に、女帝は馬上から声をかけた。
「ユグドラシルに使いをやらせた。話は聞いているな」
「もちろんです、陛下。すぐ、北の塔へとお連れいたします」
「良い。行き方は知っている。なにより、勝手知ったる場だ」
皮肉な笑みを浮かべたエリザベス帝に、アリシアはそこがどこであるかを知った。
ダンスク城砦――通称、嘆きの壁と呼ばれる牢獄だ。古くはキングスレーを守る城砦として使われていたが、今は位の高い罪人だとか反逆を企てた政治犯など、特殊な罪人を幽閉する場として用いられている。
かつてエリザベス帝も、王権を争った際に第一王子の策によってひと月ほど中に閉じ込められたことがある。ベアトリクスが手を回したことで彼女はすぐに解放されたのだが、その後、逆に第一王子がエリザベスの暗殺を企てた咎で幽閉され、城砦の中で命を落としたというのは、運命のいたずらが成せる皮肉だろう。
しかし、エリザベス帝はなぜ、嘆きの壁になど自分を連れてきたのだろう。次第に胸の内の不安が大きくなるのを堪えつつ、前をいく女帝をならい、アリシアも馬を降りた。
華やいだ外観をしたキングスレー城とは異なり、ダンスク城砦は無骨な造りをした古いタイプの城だ。規模は異なるが、どちらかというとアリシアの住むエグディエル城に近いといっていい。
しかし、しんと静まり返った敷地内に人の気配はなく、どこかでカラスの鳴き声だけが響いている。先入観によるものかもしれないが、冷たい石の床や重く閉ざされた暗い窓には、ひたひたと迫る死神の気配が染み付いているようで、アリシアを小さく震わせた。
「アリシア様。大丈夫にございますか」
アリシアの顔色が悪いのに気づいたクロヴィスが、そっと耳元で囁く。だが、アリシアは問題ないと首を振った。
エリザベス帝は、アリシアに王の資質があるか確かめるといって、ここに連れてきた。牢獄に何があるかはわからないが、試されている以上、途中で逃げ出すつもりは毛頭ない。
さて、どうやら女帝は、城にそびえる四つの目立った塔のうち、北側の塔を目指しているらしかった。
暗くじめっとした城内の空気は、爽やかな森林の風とは大違いだ。この中に長くいるだけで、体調を崩してしまいそう。そんなことをアリシアは何度か考えたが、そもそも、城の中に本当に人が捕らえられているのか不思議なくらいの静けさがここにはある。
だが、長い階段を登りきり、とある扉の前に女帝が立ち止まった時、初めて人の気配があった。分厚い扉の向こうから、微かなうめき声が聞こえたのだ。それが聞こえた途端、思わずといったようにフリッツ皇子の視線が女帝に向けられる。表面上は余裕をみせてきた彼だが、どうやら皇子もこの訪問の目的がわからないらしい。
瞬時に緊張をはしらせたアリシアたちを一瞥して、女帝は笑みを深くする。
「そう怯えるな。中の者が、そなたたちを襲うことはない。そのような気力が、残っているわけもないのだからな」
扉の前に控えていた兵士が戸を開いた途端、一向は女帝の言葉の意味を知った。
視界に飛び込んできた異様な光景に、アリシアは一瞬、何が起きているのかを判断することができなかった。つい足を踏み出しそうになって、途端、それを阻むようにクロヴィスがさりげなくアリシアの前に体を滑り込ませた。
「先日の騒ぎを民衆に指示した首謀者、でしょうか?」
「そうだ、と答えたいところだが、残念ながら少し違う。この者は、統一派でも貴族でもなんでもない。外相邸前で騒ぎを起こすよう民を集め、彼らに金を払いはしたが、こいつも雇われにすぎん。そして肝心な首謀者についてだが……、そこまでの情報は持っていないという。所詮、切ることを前提とした末端だ」
硬い声音で問いかけたクロヴィスに、女帝はなんでもないことのように肩を竦める。それを聞いて、アリシアはクロヴィスの肩越しに、暗い小部屋の中を改めて見た。
部屋には、鉄格子のはまった小さな窓がひとつしかない。だから、部屋の中は全体的に薄暗く、空気が澱んでいる。その中には、僅かに血の匂いが混じる。
部屋の中央には、男が一人。最初に異様な印象を与えたのは、天井から伸びる鎖が男の両手を縛り、だらりと力の抜けた男の体をぶら下げているためだ。背中をこちらに向けているため顔をみることは出来ないが男は意識を失っているらしく、時折意味をなさない呻き声がこぼれる。壁に沿ってぐるりと並ぶ兵士たちにも当然その声は聞こえているのだろうが、微動だどころか表情筋ひとつ動かしはしない。それが、ますます異常さを際立たせた。
「余は、ハイルランドに申し訳が立たぬ」
いかにも悩ましいと言いたげに、女帝が頭を振る。声につられてアリシアが彼女に視線をうつすと、深緑の瞳と視線が合わさった。
「この者が情報を持たぬのは確かだ。これほど痛めつけられても、何も吐けぬとは哀れなことだ……。だが、隣国の客人を脅かし、両国の絆を土足で踏みにじったケジメは、誰かが取らなければならない。なあ、アリシア。そなたが余であれば、そなたはどうする? エアルダールはハイルランドに、どう詫びれば良い?」
「私が、陛下なら……」
「そうだ。そなたが、エアルダール王だったなら」
王の資質を見抜いてやろう。丘の上で女帝に言われた言葉が、ふと、頭の中に響く。
アリシアは再度、吊られた男の背を見た。鎖に縛られた手の先は、黒い血がこびりつく。ぼろ布と化した服はあちこちが裂け、痛々しい傷がのぞいた。
「……命をもって償うように。そう、彼に告げるでしょう」
アリシアの言葉に、クロヴィスがわずかに顔をこちらに向けた。紫の瞳は何かを言いたげに揺れたが、すぐに伏せられた。そのことに、アリシアはほんの少しだけ安心した。彼は自分を止めなかった。ただ、案じただけだ。ならば、間違っていない。
「両国の絆のために、――誠意と、威厳を示すために、彼は処刑すべきです。そして、この国に潜む統一派と、目先の利益に目がくらみ力を貸す民に伝えるのです。エアルダール王は、統一派の主張を認めはしないと」
口の中が渇き、心臓が早鐘を打つ。
それでもアリシアの目に迷いはなく、女帝をまっすぐに見据えていた。
誰かが責任を取らねばならない。女帝が、先にいった通りだ。
さかのぼって事件の背後を突き止めることができない以上、エアルダールが取れる道は限られる。だから、答えは決まっていた。答えが決まったうえで、女帝はアリシアに、王として非情な決断を下す覚悟があるのか試したのだ。
牢獄の中に、沈黙が満ちる。ややあって、女帝は赤い唇を吊り上げた。
「なるほど。それは名案だ。すぐに処刑台を整えろ。この者は民の前で罪を告白した後、命をもって罪を償う」
「はっ」
女帝の命を受けて、騎士たちが胸に手をあてる。彼らのうち数名が、城へと伝令を走らせるために動き出そうとした、その時だった。
「今のはあくまで、私がエアルダール王だった場合です。そして、ハイルランド王女としては別の考えがあります。……我が国は、その者の命を望みません。どうか、彼を解放してください」
凛とした声が、冷たい牢獄の中に響く。退出しようとしていた騎士たちがぴたりと足をとめ、その視線が中央にたたずむ女帝へと向けられる。空気がぴりりと張り詰める中、振り返った女帝の眼差しはその場にいる者すべてを凍り付かせるほどに温かみが欠落していた。
「なぜだ?」と、エリザベス帝は短く答えた。
「この男の命に、それほどの価値があるか? ハイルランドにとって益を生むとでも? つまらない同情のために王国の威厳を差し出すというのか、そなたは」
「違います。どこの誰ともわからない男の命を奪っても、我が国の憂いは晴れません。ハイルランドが欲しいのはひとつだけ。―――ゆるぎない、真実のみです」
「真実だと?」
「はい」
空色の瞳が、まっすぐに女帝を射抜く。女帝もまた、真意を探ろうとするように緑の目をすっと細めた。じわじわと部屋を満たしていく緊張の波に、騎士たちはおろか、クロヴィスやフリッツまでもが口を挟めずにいた。
やがて、女帝は何かに思い至ったように、目を見開いた。その変化に、アリシアはすかさず「お願いです、陛下」と重ねて踏み込んだ。
「少しだけお時間をください。二人きりで、陛下の耳に入れたいことがございます」
「待ちたまえ、アリシア。言いたいことがあるのなら、今ここではっきり述べればいい。騎士たちに知られたくないというなら、せめて私は同席させてもらうよ」
「控えろ、フリッツ。アリシアは余と話している」
ぴしゃりと言葉を遮られ、フリッツが一瞬、驚きに目を見開いた。そして、アリシアを見た。もしもアリシアが彼に視線を向けたなら、その瞳に静かな炎が揺らめいたのを見たことだろう。しかし、気を張り詰めて女帝と対峙する彼女が、それに気づくことはなかった。
「いいだろう」と、ぞっとする笑みを浮かべて、女帝は答えた。
「じっくりと話し合おうではないか。余とそなたの、二人だけで」




