【幕間】それぞれのそれからー2-
時は少しだけさかのぼる。
アリシアがクロヴィスに連れられ自室へと向かっていた頃、人気のない回廊に立つ長身の影があった。白い月明りが照らし出したその顔は、エアルダールの第一王子、フリッツである。
アリシアらと別れた後、宴の席へと戻ったフリッツ王子は、隣国の客人が部屋へと戻ったことを伝えると同時に、自身も退席する旨をつたえてすぐにその場を抜け出した。女帝や彼女が招いた客人たちはまだ饗宴を楽しんでいるのだろうが、喧噪はここまでは届かない。
外界から切り離されたかの如く、しんと静まり返った回廊で、フリッツはじっと柱の間から外を―――藍色の空に浮かぶ白い月を見上げていた。
何も言わず一人空を見上げるその横顔は、夜空ではなく、そこに浮かぶ何かしらの答えを探し求めているかのようであった。やがて王子はガラスにも似た瞳に失望を浮かべると、月明りに背を向けて歩き出した。
その時、若い女の声が回廊に響いた。
「殿下! おまちください、フリッツ殿下」
「……シャーロット?」
王子が足を止めて振り返るのと、小走りでかけてきたシャーロットが王子に追いつくのが、ほとんど同時であった。フリッツが見下ろした先で、赤い髪をゆらしながら何度も息をついてから、シャーロットは白いレースのチーフを差し出した。
「お忘れ物です。父が椅子に落ちていたのを見つけて、おそらく、殿下のだからと……。私、今ならまだ間に合うかと思って」
「それで、追いかけてきてくれたのか」
「はい……。あ、いえ、見苦しい姿をお見せして、申し訳ありません!」
しっかりドレスに身を包んでいるというのに、淑やかに振る舞うどころか思いっきり駆けてきてしまったことを、今更のようにシャーロットは恥じた。髪と同じに頬を真っ赤にそめて彼女が慌てると、フリッツはゆっくりと首をふった。
「かまうものか。……これは」
「もしかして、殿下のものではありませんでしたか?」
「いいや、私のものだ。だが、君は覚えていないか?」
白いチーフを受け取った王子は、それを目の前で広げた。どことなく見覚えがある気がしつつもシャーロットは首を傾げ、そして、あっと小さく叫んだ。
「まさか、私が差し上げたものですか?」
「ああ。幼い時分に、君が私にくれたものだ」
言われて、シャーロットは思い出した。
王子の相手役として王城に呼ばれていた頃、シャーロットは王子に一つの贈り物をした。王子は何も言わなかったが、他の子供たちが仲間はずれをしなくなったのは、彼が裏で手を回したに違いなかった。それで父に相談をして、白いチーフを贈ったのである。
あらためて王子の手の中のそれをみれば、確かに、自分がかつて王子に渡したものだ。シャーロットはひどく驚いた。5年以上も前に贈ったものであるし、父や母に相談しながら一生懸命選んだものではあるが、王子であればもっとずっと良い物を持っているはすだ。
なんだか懐かしいやら嬉しいやらで、思わずシャーロットは声を弾ませた。
「驚きました。まだ、持っていてくださったのですね。けれど、あの頃から殿下はどんどん立派になられてしまいました。ああして、城で一緒に過ごさせていただいていたのが、今となっては嘘みたいです」
「そうかな。私としては、そのようなつもりはないよ」
「いいえ、絶対そうです! さっきだって、アリシア様と並ばれて、お二人ともとっても素敵でした。さすが王族同士というか、流れている空気が他の人とは違うなあって」
「……そんな風に、君には見えたのか」
吐き出されたそれに苦いものを感じ取り、シャーロットは顔をあげ、おやと首を傾げた。その時になって、彼女ははじめて、王子がいつもの調子ではないことに気が付いた。
背けられた横顔には、翳りがみえた。胸の内を相手に悟らせまいとするように浮かべたそつのない笑顔の仮面は、今はそこにはない。
どうにも気がかりで、見かけるたびに王子を目で追ってきたシャーロットだったが、こんなにも憔悴した彼を見るのは初めてだった。
「彼女と私は違うよ。彼女は、私が間違っていると言う。私は、彼女の方こそ間違っていると思う。……そう、思っているはずなんだ」
自分がわからなくなるよ。そう言って、王子は頭を振った。
「私なりに、尽くしてきたつもりだ。皆の期待に応え、第一王子としての役目を果たそうとした。けれども、駄目なんだ。私はどこまでいっても偉大な王のおまけで、それ以上にも、それ以下にもなれない。だから、せめて私は、良き駒であろうとした」
「何かあったのですか? どうして、そんなこと」
「自分が一番わかっているんだ。何者にもなれず、といって、人形にもなりきれず。そんな自分にようやく諦めがついたと思っていたのに、胸が軋んで悲鳴をあげる……。中途半端だ、私は」
苦し気に吐き出されたそれは、ほとんど独り言だった。
まじまじと目の前の王子を見ながら、シャーロットは懸命に考えた。一体、今日の王子はどうしてしまったのだろうか。先ほど、客人であるアリシアと共に宴の席に現れた時には、いつもと変わった様子は見られなかった。
どうしたものかとシャーロットが返事に窮していると、乾いた笑みを二つほど漏らしてから、「すまない」と王子は首を振った。
「こんなことを話して、どうかしているな。忘れてくれ。……届けてくれて、感謝する。私にとって、これは大切なものなんだ」
「ま、待ってください、殿下!」
踵をかえそうとした王子を、とっさにシャーロットは引き留めた。
「中途半端だなんて、そんな悲しいことを言わないでください。あんなに小さな頃から、難しい本をたくさん読んで、武術も馬術もあらゆることも身につけて、エリザベス様のあとを継ぐために頑張ってきたではありませんか。ちゃんと努力してきたのに、自分で自分を否定してしまったら、あんまりに殿下がかわいそうです」
「……違うんだ。そういうことを言っているのではないんだ」
「何が違うというのですか。エリザベス様が偉大な王だからですか? 自分はエリザベス様にはなれないからですか?」
ぴしゃりと王子の言葉を遮って、シャーロットが怒ったように言う。その剣幕に驚くフリッツ王子につめよると、「いいですか」と彼女はつづけた。
「私は殿下とちがって、頭がよくありません。けれども、これだけははっきりわかります。殿下は、殿下です。殿下はエリザベス様にはなれないけれど、なる必要なんてないんです。だって、違う人間なんだもの」
「だが、それでは誰も、―――母も、私を認めはしまい。偉大なる王の栄光の影で、日を重ねるごとに小さな失望がつみあがる。その重みが、苦しみが、君にはわからないだろう」
「わかりません。わからないですよ、そんなの。私には難しすぎます」
けれど、と、シャーロットは白いレースのチーフごと、王子の手を両手で包んだ。
「アリシア様だって、言っていました。自分は民と並び立つ王になりたいのだと。エリザベス様は偉大な方だけれど、正解はひとつじゃないんです。フリッツ様はフリッツ様のまま、あなただけの王の形を目指せばいいではありませんか」
「私だけの王の形? ずいぶんと勝手を言ってくれる。そんなもの、どこにあるというんだ」
「それだって、これから探せばいいんです。ああ、もう。フリッツ様はあれもこれも、難しく考えすぎです。やっぱり殿下は、もっともっと空を眺める時間を作るべきです!」
言い切ってからシャーロットは我に返り、慌てて口をつぐんだ。
恐る恐る顔をあげれば、王子は大きく見開いた深緑の瞳をシャーロットに向けて、ぴくりとも動かなかった。何がそこまで王子の心に止まったのかはわからないが、彼は発すべき言葉をどこかになくしてしまったらしかった。
王子に怒った様子が見られないことにほっとしつつも、あまりに真剣に自分を見つめるものだから、シャーロットは次第に気恥ずかしさを覚え始めた。そもそも、王子と二人きりで世間以上に踏み込んだ話題を話すことになるなど、彼女はまったく想定していなかったのである。
落ち着かなく瞳を泳がせたシャーロットは、王子の手を掴んでいた両手をおずおずとひっこめると、曖昧に笑って彼から距離をとった。
「では。私はこれで……」
「待ってくれ」
そそくさと背を向けたシャーロットの手を、王子がつかんだ。まさか引き留められるなどと考えていなかった彼女は飛び上がらんばかりに驚いたが、フリッツの方は彼女を離してやるつもりはないらしかった。
「君は変わらないな。――相変わらず呑気で、私には理解しかねる」
「あの……?」
「君がもうすぐ婚約するというのは、本当か?」
恐る恐る呼びかければ、返ってきたのはあまりに脈絡のない問いかけだ。よもや何かを聞き間違えたかと疑いつつシャーロットが振り向こうとすれば、それよりも早く、彼女の身体はあたたかな感覚に包まれた。
自分がフリッツに背後から抱きしめられたのだと気づいたのは、たっぷり数秒たってからだった。
「で、で、で、で、殿下!?」
「嫌だ」
あまりのことに混乱したシャーロットであったが、耳元でひびいた切ない響きに、驚きも何もわすれてぴたりと動きを止めた。すると、彼女を包み込む王子の力が強まり、自分の背中が硬い王子の胸とぶつかるのをシャーロットは感じた。
「君だけは失いたくない。君が隣にいない空は、ひどく味気ないんだ」
「本当に、今日はどうされたんですか? 一体、何が、……っ!?」
ただごとではない彼の様子に、シャーロットはなんとか身をよじって後ろに首を向けた。しかし、フリッツが浮かべる表情を確かめることは、かなわなかった。
あたたかく柔らかな感触がシャーロットの唇を奪い、大きく見開かれた視線の先には、女性のように長く繊細なまつ毛がふるりと震えた。
なんで、どうして、と次々と疑問が押し寄せ、シャーロットをひどく混乱させる。だが、彼女を閉じ込める王子の力は大人の男性のそれなのに、逃げないでくれと縋る手は怯える子供のようで、振り払ってしまえば深く傷つけてしまうことが容易に想像できた。
悩んだ末、シャーロットは抵抗することを諦め、瞼を閉じた。
たった二人だけしかいない、静かな回廊での出来事であった。




