【幕間】それぞれのそれから-1-
一度も振り返ることなく去っていったフリッツ王子の姿が、すっかり遠ざかって見えなくなったのを確認した後のこと。
アリシアはクロヴィスに怒られた。それはもう、激しく叱られた。
補佐官の名誉のために言っておくと、彼がこのようにアリシアを怒ることは今までない。二人の意見が対立したことはほとんどないし、シャーロットの一件の時のように、せいぜいアリシアが突っ走ってしまわないようにたしなめることがあるぐらいだ。
けれども、今回ばかりは違った。常に冷静沈着で、主人に忠実な補佐官。今夜はその仮面を、彼はどこかにぽいっと投げ捨てることにしたらしかった。
「まったく、あなたは……! 信頼のおける相手かわからないうちに、誰の目も届かない場所へと二人で行くなどありえない。しかも、そうした状況で相手を挑発するなどもっての外です。どれだけの危険を冒したのか、あなたはおわかりですか?!」
王子が遠ざかったことを確かめた直後、クロヴィスはこのように大きな雷をどかんと落とした。初めて見る彼の剣幕に、アリシアは呆気にとられた。
「シャーロット嬢の時もそうです。あなたは危険を顧みず、飛び込んでいってしまう。ここはハイルランドではありません。もしもあなたに何かあれば、それは個人の問題では収まらないのですよ!?」
「えっと、その、わるかったわ。じゃなくて、ごめんなさい」
「謝っていただきたいのではありません! ただ、ここ数日での行動がどれほど軽率で、御身を危険にさらす行為であったのか、ちゃんと知っていただきたいのです。それと、それから……!」
もどかしそうに、クロヴィスが強く頭を振る。何やら葛藤する補佐官に下手に口出しすることもできず、アリシアがうろたえつつ見守っていると、やがて彼は悔しそうに顔をゆがませた。
「―――心配、したのです」
ああ、そうかと。
聞き取るのが難しいほどの小さな呟きだったが、アリシアを反省させるのには十分だった。
だからアリシアは、せめてもの償いにとクロヴィスに大人しく従った。具体的には、彼に付き添われて部屋へと戻り、手当てを受けた。手当てというのは、つまり、フリッツに掴まれた右手首だ。
彼に指摘されるまで気が付かなかったのだが、アリシアの右手首は赤くなり、わずかに熱をもっていた。おそらく、振り払おうとした手を王子に掴まれた時に、痛めてしまったのだろう。
部屋に戻ると、クロヴィスはすぐに侍女たちに盆を用意させ、その中に張った水に手首を浸すようにアリシアに言った。それから彼は、赤くなった部分を水につける主人の隣に腰掛け、まるで途中で逃げ出さないよう見張るように、じっと手首を見つめていた。
(たったこれだけの怪我、ほっといたって治るのにね)
真剣そのものに、(あるのかないのかもわからない)経過を見守るクロヴィスに、つい苦笑が漏れそうになる。過保護がすぎる補佐官というのも、まったく困ったものだと。
けれども、それだけ彼に心配をかけてしまった。主人を案じてあちこちを探し回り、挙句の果てに王子に手をあげられるなどという場面を見せられた日には、いくらクロヴィスでも生きた心地がしなくなるだろう。
だからこそ彼は、補佐官としての顔を捨ててまで、アリシアを強く叱責したのだ。
しばらくしてからクロヴィスに言われて、アリシアは水盆に浸した手を引いた。ぽたぽたと水が落ちる濡れた手を、クロヴィスが乾いた布で拭いてくれる。
「ねえ、クロヴィス」
「なんですか」
「道に迷ってたら、たまたま私たちのいるところに出ちゃったって話。あれ、本当?」
水滴を拭う手をぴたりと止まる。艶やかな黒髪の間からクロヴィスがアリシアをにらんだ。
「言わなければ、わかりませんか」
「……ううん。わかるわ。ちゃんと、わかっている」
ありがとう。アリシアがそのように言えば、クロヴィスは返事こそしなかったものの、再び手元に視線を戻した。薔薇園に現れて以来、どこかずっと強張ってみえた彼だったが、やっと力が抜けたように見えた。
アニとマルサが水盆やら何やらを手早くまとめて、どこかへと片付けるために扉から出ていく。広い部屋にクロヴィスとアリシアの二人だけが残された。
部屋に、沈黙が落ちた。
ソファにもたれて息をつくクロヴィスを―――安堵をしつつも、どこか疲れて見える彼の横顔を、アリシアは盗み見た。
フリッツ王子が言っていたことは正しい。どれだけ否定しても、クロヴィスという存在はアリシアの中でどんどんと大きくなり、無視できないほどとなっている。しかし、王女である自分と一介の補佐官である彼とが結ばれることは、ほとんど不可能だ。
そもそも、深い忠誠を誓ってくれているがゆえにアリシアに仕え、時には戦友として支えてくれている彼だ。いまさら主人と補佐官という立場ではなく、一人の女性としての感情をアリシアが向けたところで、クロヴィスを困らせてしまうだけだ。
心優しい彼のことだ。向けられた感情に戸惑い、それに応えられないことに苦しむだろう。それだけは、絶対に嫌だ。
少し悩んでから、アリシアはそっとクロヴィスの肩に頭をあずけ、軽く寄り掛かった。主人の邪魔とならない程度に、わずかに補佐官が身じろぎをしたのを感じた。
「どうかされましたか」
「ちょっとだけ。このままでいていい?」
「……はい」
落ちてきた声は諦めをにじませつつも、柔らかい。
今のままでかまわないと、アリシアは目を閉じて思った。かまわないどころか、十分すぎるくらいの贅沢だ。
たとえクロヴィスへの想いが報われることがなくとも、未来を変えるためのかけがえのない戦友として、二人の間には何物にもかえがたい強い絆が結ばれている。彼の心を占めるたった一人の女性となることはかなわないが、思い上がりでもなんでもなく、クロヴィスにとってのアリシアも、特別な存在となっているのだろう。
好きな相手に、ここまで想ってもらえて。
これほどの幸せが他にあるだろうか。
そのように、自分の気持ちに折り合いをつけようした時であった。
「―――あなたという方は、危機感というものをお持ちではないのでしょうか」
溜息ひとつこぼして、クロヴィスが呻く。その声にアリシアがまぶたを開くと、どこか恨めし気なクロヴィスの視線と交わった。
「前にも申し上げましたが、何気ない仕草や言葉が、男のよこしまな気持ちを刺激してしまったらどうします。アリシア様は、その自覚がなさすぎます」
「たしかに言われたけれど……。言ったでしょ。こんなに気を許せるのは、お前を相手にしている時だけだって」
「……フリッツ王子にも、あなたに触れることを許したではありませんか」
「え?」
うまく聞き取ることができず、アリシアが首を傾げた時だった。
かさりと衣擦れの音が響いて、寄り掛かっていた肩がなくなった。気づいた時には、クロヴィスの整った白皙の顔が、おどろくほど近くから自分を見下ろしていた。
彼の両腕は、ちょうどアリシアを閉じ込めるようにしてソファの背もたれに置かれており、逃げ出すことを許してはくれない。そのためなのか、息がかかってしまいそうなほど近くにある彼の姿は、いつもと違って見えた。
それは、初めてみる表情だった。
補佐官としての礼儀正しい顔とも、一人の青年としての親しみを込めた顔とも違う。ふとした瞬間に見せる、困ったような表情とも全然異なる。
静かで、しかし、たしかな熱を帯びた瞳が、まっすぐにアリシアを射抜いていた。
「私になら気を許せる。本当に、そうでしょうか?」
身じろぎひとつ出来ないアリシアに、クロヴィスはどこか皮肉げな笑みを浮かべる。
「――俺だって、男ですよ」
「クロ、ヴィス?」
かすれた声が、アリシアから漏れる。それには答えず、クロヴィスはアリシアの髪を撫で、それから頬に触れた。触れられた場所が熱を持ち、その熱がじりじりと胸を焦がして、息を苦しくさせた。
ソファが軋む音がして、クロヴィスがわずかに身をかがめる。
唇に、熱い吐息がかすめた気がした。
「――――っ」
息をのむ音が耳元で響き、次の瞬間、ぱっと覆いかぶさる体が離れて、アリシアの視界が開けた。何が起こったのかわからず、ぱちくりと瞬きする彼女の視線の先で、補佐官は主人に背を向けて立っていた。
その背は、頑なに振り返ることを拒んでいた。
「本日は、これにて失礼いたします。また明日、身支度が整いました頃にお迎えにあがります。……ゆっくり、おやすみください」
早口に告げると、アリシアが止めるまもなく、クロヴィスは部屋を出て行ってしまった。むなしく閉じる扉の音を聞きながら、残されたアリシアは呆然と固まっていた。
一拍おいた後、彼女の体はソファの上で崩れ落ちた。
(い、今の、一体なに……!?)
淑女の嗜みやら何やらをかなぐり捨ててソファに倒れこんだアリシアは、ばくばくとうるさく鳴り響く胸を両手でぎゅっと押さえた。
口付け、されるかと思った。
あの瞬間―――クロヴィスが身をかがめた時、アリシアはそのような錯覚を抱いた。事実、そうなってもおかしくないほど近くに、彼の秀麗な顔が迫ったのだ
だが、クロヴィスに限ってそんなことはあり得ない。
彼は補佐官で、10近くも年上で、いつもアリシアの行く道を照らしてくれて。
だって。
そんな。
「戻りましたー。ささ、お休みの準備をしちゃいますよー……って、あれ?」
「姫さま、何しているんですかぁ?」
片付けを終えて何気なく扉をあけた侍女ふたりが、そろって目を丸くする。それに答えることも出来ずに、頰も耳も何もかもが真っ赤に染まった顔を覆い隠して、アリシアはソファの上で身悶えをしたのであった。




