14-6
フリッツ王子がシャーロットに好意を抱いている。この仮説を立てたのには、確固たる根拠があったわけではない。ただ前世での流れを考えた時、そうであったほうが自然だと思ったのだ。
前回、どういった流れでシャーロットとフリッツが恋仲になったのかはわからないが、大まかに推察するならパターンは2つだ。本人たちが周囲の反対を押し切って関係を結んだか、政治的な思惑があり女帝や宰相の後押しをもとに一緒になったかである。
けれども、そのどちらにせよ、フリッツ王子がシャーロットに好意を抱いていることが前提となる。前者はいわずもがな、後者なら、アリシアという正妃がいながら別の女性を囲うという大それたことをするのに、王子本人にその意思がないというのは考えづらかったのだ。
このように考えてアリシアは賭けにでたのだが、読みは当たったようだ。手応えをかみしめつつ、彼女はもう一歩踏み込むことにした。
「やはりそうでしたのね。けれども、もう時間がありません。あの子は―――シャーロットはもうすぐ婚約することになりそうだと話していました。このままご自身の気持ちから目を背けては、取返しのつかないこととなります。それでも、よろしいのですか?」
「はっきり言いたまえ。君は、いったい何が言いたい?」
薄雲が流れて、月を覆い隠す。夜闇が深まる中で、王子は静かに立ち上がった。うっすらと浮かび上がる白皙の顔に、細められた目の奥で瞳が冷ややかな光を放つ。
纏う空気が、がらりと変わった。
これが本当のフリッツかと、アリシアは息をのんだ。エアルダールの良き後継者としての仮面を脱ぎ捨てた、すべての感情をそぎ落としたかのような凍えた美貌の青年。
それは却ってぞくりとした色気を漂わせ、間違いなく彼が女帝エリザベスの血を引いているのだと見る者に悟らせる。
まるで夜闇の一部へと溶け込んでしまったかのような王子と向き合うために、アリシアも立ち上がった。
「ご無礼をお許しください。しかし、私が申しあげたいのは、無理に私たちが結ばれる必要はないということです。何も結婚せずとも、私たちが良き王として手を結べば、両国の結束を強めることができますもの。それが一番ではありませんか」
「つまり、私と一緒になるつもりはない。そう言いたいのだろう、君は」
いい捨てたフリッツは、咳のような乾いた息を吐きだした。それが笑いだと気づくのに、アリシアは若干の時間を要した。
気が付けば、アリシアの顎にはフリッツの手が添えられ、無理やりに上向かされていた。自分を見据える人形にも似た無感動の瞳に、アリシアの背筋に震えが走る。思わず逃げようと身をよじれば、驚くほど強い力で手首をつかまれた。
「それで君はどうすんだ? めでたく晴れて、真実の愛とやらを貫くのかい?」
「何を仰っているのか、意味がわかりかねます。私は両国のために……」
「本当にそれだけかな。自分で言うのもなんだけれど、異性のウケは悪くない方なんだ。そうまでして私を拒み、さて、君が手に入れたいのは誰だろう」
他国の王子か、ハイルランドの貴族の子息か。
答えを求めて呟いたフリッツであったが、ふと、合点がいったように目を細めた。
「なるほど、彼か。君に仕える美しい補佐官がいたね」
その言葉を聞いた途端、彼女の胸の内にはひどく苦いものが広がった。
アリシアが隣国との縁談をさけてきたのは、もちろん母国ハイルランドのことを思えばこそであり、それは自体は疑うべくもない真実である。
けれどもそれらをすべて置いておくなら、アリシア自身の気持ちはどうなのだ。
それを改めて突きつけられたとき、たしかに少女の頭には彼の顔が―――未来をかけた戦いに共に挑んでくれる青年の姿が浮かんだ。思い浮かべてしまったのだ。
「駄目だよ。その願いはかなわない」
苦い気持ちを堪えるアリシアに、フリッツはゆっくりと首を振った。
「現実をごらん。王女である君と一介の補佐官である彼とが、真っ当な形で結ばれることなんて、天地がひっくり返ってもありえない」
「そんなこと」
「わかっているって? それとも、頑張ってみないとわからない? もしも後者だとしたら、なんて愚かなのだろう。君はひとりの女性である前に王族だ。私だって同じだよ。所詮は、偉大な王のために用意された操り駒―――ただ、それだけだ」
私たちは似た者同士だね。
呪いのように、王子は囁いた。
「私たちはきっと、いいパートナーになれる。二人とも、一番欲しいものは手に入らないだろう。けれども、痛みも苦しみも分かり合える私たちなら、互いに寂しさを埋め合うことができる。……手をとってくれ、アリシア。それが、エアルダール王の望みだ」
添えられていた手が、アリシアの頬へとすべる。形のよい手から伝わる熱は冷たく、なぜだかとても悲しかった。
共に堕ちようと、王子の瞳は告げていた。
だが—―――、
「お断りします」
乾いた音を響かせ、フリッツの手をアリシアが払う。そして彼女は強い光をたたえた空色のまなざしで、目を見開く王子をまっすぐに見据えた。
フリッツの言うことは、一部において正しい。チェスター家に生まれたアリシアは、ひとりの女である前にハイルランドの王女だ。
しかし、だからといってアリシアは自らの境遇を嘆いたり、運命を呪ったりはしない。その点で、アリシアとフリッツの物事のとらえ方は根本で異なる。
その大きな違いこそが、彼を夫とするべきではないと彼女に悟らせたのだ。
「あなたのこと、同情はします。父は私に自由にやることを許してくれたし、私の周りには支えてくれる人がたくさんいた。殿下が味わった苦しみは、私とは比べものにならなかったのでしょう……。ですが」
誰かがあつらえたかのように雲が流れて、白い月が夜空を照らす。純白の光が舞い降りて毅然と王子を見上げる王女の姿を輝かせた。
「殿下がおっしゃる通り、私たちは王族です。国を背負うためには、王族としての覚悟と、未来を切り開く強い意志が必要です。――けれど、今のあなたからは、あなた自身の意志を感じない。ハイルランド王女として、そのような方を夫に迎えるわけにはいきません」
その時、初めて王子の表情に明確な変化がうまれた。自分と同じだ。そのように思っていた相手から裏切られた怒りが、屈辱が、彼の端正な顔をはげしく歪ませていた。
「この……!」
月を背負って、フリッツが大きく手を振り上げる。それを見つめるアリシアは、微動だにしなかった。恐怖で動けなかったのではなく、彼の怒りを受けとめようと思ったのだ。事実、それだけの失礼千万を、王子に対して働いた自覚はあった。
だから、アリシアは来るべき衝撃に備えて、強く目を閉じた。
それなのに。
「おやめください!!」
ざざっと薔薇が揺れる音がして、黒い影がアリシアとフリッツの間に割って入る。驚いて少女が目を開けば、自分を庇う背中の先で、まさに振り下ろされようとしていたフリッツの手が、何者かによってぱしりと受け止められた。
さすがの王子の顔にも、驚きの色が浮かぶ。けれど、彼よりもよほど驚いているのがアリシアだ。同時に、自分でも気づかぬうちに全身を縛り付けていた緊張が抜けて、なんだか無性に泣きたくなった。
どうして彼は、側にいてほしいときに限って、駆け付けてくれてしまうのだろう。
「――一体、これはどういうことか、ご説明いただけますか?」
肩越しに、主人の安否を気遣って、紫の瞳がちらりと向けられる。そうして青年は―――クロヴィスは、改めてフリッツに向き直った。
なぜ、クロヴィスがここに。そのように思わないでもなかったが、それを確かめている余裕はどうやらないらしかった。
「どういうことか、ご説明いただけますか?」
振り上げた手を掴まれたまま眉をひそめるフリッツと、自分を庇う背中を、目を丸くして見上げるアリシア。その間に立つクロヴィスは、焦れたように同じ質問を繰り返した。
まずいと、アリシアは直感した。一見、冷静に事を見極めようとしているようにみえて、クロヴィスの声は普段より硬い。主人思いの補佐官が王子に食ってかかってしまうのを止めるべく、アリシアは慌てて声をあげた。
「待って! 失礼を働いたのは、私の方なの。だから、殿下をお放しして」
「アリシア様が?」
肩越しに振り返ったクロヴィスの紫の瞳には、彼にしては珍しく疑念を見て取ることができた。この場をおさめるために、アリシアが嘘をついているのではないか。補佐官はそのように思ったらしかった。
それで、アリシアは確信した。とっさに二人の間に割って入ったクロヴィスだが、直前まで二人が何を話していたかまでは把握していない。おそらく席を外してから姿が見えなくなった二人を探していて、ある意味ではタイミングよく、先ほどの場面に出くわしてしまったのだ。
「そうよ。今すぐ、フリッツ様の手を解放して。これは命令です」
「……信じて、よろしいのですね?」
「もちろん」
フリッツの手前、あえて強い口調で命を下せば、クロヴィスは真意を見定めようとするように目を細める。ややあって、彼はフリッツの手を解放した。自由になった王子は掴まれていた部分をさすりつつ、瞳を光らせてクロヴィスを見た。
「クロムウェル補佐官だったな。君は、どうしてここにいる。席を外す時、私は彼女と二人で話をすると言った。それが、彼女――君の主人であるアリシアからの申し出だったためだ。まさかとは思うが、私たちを追ってきたんじゃないだろうね」
口調は穏やかだが、クロヴィスを追及する王子がまとう空気は鋭い。だが、アリシアが口を開くよりも早く、クロヴィスは己の胸に手をあてると、いっそ恭しい仕草で頭を垂れた。
「申し訳ございません。不慣れなもので、夜風に涼もうと歩いていたところ道に迷い、偶然、この場にたどり着いた次第にございます」
「偶然、ね。随分と都合がいいように思うけれど、そういうこともあるのかな」
「話し声を頼りに道を抜けようとしたのが悪かったのでしょう。結果として、主をお守りすることが出来たのですから、思いもよらない僥倖となりましたが」
ぴんと張り詰めた空気が流れて、二人の青年が睨みあう。ややあって、先に目を逸らしたのはフリッツの方だった。
「まあ、いい。何にせよ、私はもう少しで、大事な客人に取返しのつかないことをしてしまうところだった。止めてくれたことに感謝をし、君のことは不問としよう。アリシア。君にも謝罪がしたい。本当にすまなかった」
「それには及びません。私こそ、数々のご無礼をどうかお許しください」
「この場は非公式なのだろう。最初に君がいった通りだ。……そろそろ、部屋に戻るといい。皆には私からうまく話しておこう」
「お気遣い感謝します」
頭を下げたアリシアを一瞥して、フリッツは背を向けた。
「先ほどの話だが、私の気持ちは変わらない。陛下が私と君の縁談を望む限り、彼女の意志に従うまでだ。……だが、君が母の気持ちを変えるとでもいうなら、好きにすればいい。そんなことが可能であるなら、ね」
「―――わかりましたわ。お言葉に甘えて、好きにさせていただきます」
フリッツの言葉から滲む、どろりと澱んだものをはねのけて、アリシアはきっぱりと答えた。迷いのない返答に、王子は咳のような乾いた笑みを二つほど漏らして、背中を小さく揺らした。それから彼は、夜の暗がりの中へと足を踏み出した。
遠ざかっていく王子の背中は、なぜだか孤独で、悲しく見えた。
王子が言う通り、共に王族に生まれて、国を背負う立場にあるアリシアとフリッツは、似た者同士なのだろう。彼女が背負う覚悟は王子のものともなり得たし、彼を苛む孤独はアリシアを蝕んだかもしれない。そうした意味では、二人は裏と表の存在だ。
だが、前世でも今生でも、二人の道はふかく交わりはしなかった。
前世で王子に恋い焦がれたアリシアであったが、かつての自分では、王子の苦しみの半分も理解することはできなかった。それを理解できる今となっては、いや、むしろ理解できるからこそ、彼の背中を追いかけることはできない。
言い様のない感情が胸を満たすのを感じながら、アリシアは改めて王子の背に別れを告げた。
たとえ人生をやりなおしても、決して結ばれることはない。
そういう運命だったのだ。
そういう縁も、たまにはあるのだ。




