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セキセイインコ、君に敬す  作者: 多奈部ラヴィル
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セキセイインコ、君に敬す

・変身


朝起きた。何時だろうと壁の中途にしつらえられたこのマンションを買ったときのオプション、木の棚の上にある目覚まし時計を見ようとした。おや? と思う。

 寝違えたのだろうか? 首がそちらに回らない。


 わたしとダーリンの眠るベッドは、結婚時から徐々に大きさを増していった。疑っていたわけじゃない。信じていなかったわけじゃない。それなのに結婚当初のベッドではどうしても不眠を患ったし、それをダーリンに打ち明けなかった。そしてそれはわたしのダーリンへの裏切りに思えた。だからわたしはわたしを卑下しつつ、それを隠した。けれど引っ越しの度に大きくなっていくベッドに比例してわたしの不眠は治っていった。


 ところで私の首はどうして回らないのだろう? 時計が見えやしない。今ダーリンは朝ごはんをダイニングで食べているのか、歯磨きをしているのか、もう仕事へ行ってしまったのか、それともトイレの中なのか、それらを知るヒントさえ得られない。それっていうのは今何時なのかわからないからだ。仕方がないので身体を起こそうとする。いつもダーリンは先に起きたとしたって、ブラインドを開けない。それは結婚して三年目のある夜、紫外線のもたらす老化現象について、お肌悩みについて、二時間くらいをかけてダーリンの夜の憩いの時間を使って説明したことがあるからだ。つまり私がどんなにか紫外線を恐れているか、つまり夜ナイトクリームをべったりと塗った肌が紫外線にどうしてもさらされたくはないのだということ、それらを語り、そのホットさはダーリンにも熱が伝導していくように伝わり、ダーリンは、

「では僕が先に起きたとしたって、ブラインドを開けちゃいけないっていうわけだね?」

と言って、それを約束してくれた。つまりその頃からわたしはダーリンより先に起きるなんてことがめったになかったっていうことを白状しているようなものでもあるのだ。

 それにしても、と思う。わたしはどんな寝方をしているんだ? 視界に見えるのは白い枕の端とその下のシーツ、これは紫色だが、それしか見えやしない。だからうつぶせで寝てしまったのだろうということは察しがつくが、それっていうのはわたしにとってそうあることじゃないっていうどころか、ほとんどあり得ないことだ。ふと天啓がひらめく。そうだ、わたしは異常なほどの早朝に目が覚めてしまったのではないだろうか? それならばクイーンサイズのベッド、手の届かないところにダーリンがまだ眠っている可能性があるっていうわけだ。

「ダーリン!」  

返事はなかった。

「ダーリン! わたし変な寝方で眠ってしまって」

返事はない。どうやらそんな当ては外れてしまったようだ。試しに反対側のドアを見ようとする。どうやらわたしの寝違い方っていうのは致命的だったようだ。ドアの方にも首が曲がらないし、寝返りも打てない。

 ブラインドが閉められ、天気も外の明るさもわからないし届かない部屋。照明だってついていない。ただ

枕もとの天井にある小さな照明が、かろうじてわたしの狭い視界を照らす。そして何時かなんてことも知りえない。とても静かだ。とても。

 昔わたしは静けさとはさみしさとか心細さを表現するものだって思っていた。静けさ、それは誰もいないとか、何もないとか、一人で宇宙に放り出されてしまったとか、ほかには誰も生存していない何かのあった廃墟であるとか、沈没した船、落ちてしまった飛行機、その中でさみしく一人で生きている、そんな連想が連なって湧いてくる。けれど今はそうじゃない。静けさとはダーリンがお仕事に行っているということを表現し、その表現は、セットで夜七時二六分にダーリンは帰るという想像がついてくる。だから今、静けさはそう絶望っていうわけでもないし、静かな、とても静かな安心を表現しているだけだ。

 もしかしたら今日のわたしはラッキーなのかもしれない。だって何もかもサボっていられる。その理由はこうだ。「だって激しく寝違えて、動けなかったの」。つまりトイレ掃除だって洗濯だって、料理すらサボれるのだ。帰ってきたダーリンはきっとこう言うだろう。

「ハニー、そんなに激しく寝違えるなんてね! かわいそうな僕の子猫ちゃん! さあ今晩食べるデリバリーの中華、紅虎のメニューを一緒に見よう」

 そうだな、わたしは何を食べよう。豚の角煮、これはダーリンにも異存はないはずだ。そして迷うのがエビチリ。エビチリはものすごく好きなわたしだが、紅虎のエビチリは奇妙に思えるほどエビの存在がちっぽけなのだ。つまりエビが少ない。けれどエビの下処理っていうのは結構面倒だ。ゆえにわたしはそうはエビ料理をしない。そういう意味だ。レバニラ炒めっていうのはどうだろう、もしくはチンジャオロースとか? そんなもんいくらでもわたしが作る。わたしが普段滅多に作らないような、そんなメニューっていう方向からアプローチしてみよう。ならばエビチリ? おや? 最初に戻ってしまった。そんなことを考えていたら眠ってしまった。

 尿意を感じて起きた。わたしは激しく寝違えたことをうっかり忘れていて、起きようとした。その時不思議な感覚がした。寝返りはおろか首を左右に曲げることもできないのに、腕や足は自由に、ざわざわと動く気がしたのだ。そうざわざわとだ。そのざわざわとっていうのがわたしにとって、とても違和感のある感覚だった。その時もしかしたらわたしは「這うように」なら動けるのかもしれない、と思った。けれど虫でもあるまいし、這うようにしてでもトイレにとも思わない。そしてトイレまでたどり着いたところでトイレに座るのは不可能にも思える。

 今は何時かな? そう思う。少し眠っただけなのか、それともたっぷり眠ったのかも分からない。昼間なのかな? 夜なのかしら? それもわからない。相変わらず視界はわたしの使う枕の端と紫色のシーツのみだ。外は今日、洗濯日和であったのか、それとも雨なんて降っていたのかそれもわからない。今のわたしにはわからないものだらけだ。つまり今のわたしには文部省も国も世界も関係ないものだ。けれどそれらはいつもわたしに関係があったのだとも思わないな、と思い返す。

 尿意があったから、その後は眠れなかった。静けさの中ただ時間だけが過ぎていく。いや違う。確かにこのマンションに標準仕様の二重サッシは防音性に優れ、静かだが、今のわたしに時間など関係なくなった。時間が流れていくともいえないのだ。

 そして多分七時二六分、マンションのチャイムが鳴った。わたしは心から嬉しかった。待ちに待っていたこの瞬間、とさえ思った。こんなにもダーリンを求め、恋い焦がれるのも久しぶりかもしれなかった。待っていた。あなたを待っていたのよ、ダーリン。

 けれどわたしはのそのそしていた。ベッドの端に這って歩み寄っただけで、それ以外の何もできなかったし、動けなかった。なぜかベッドから降りるっていうことに恐怖を感じたからだ。そう、なぜか。なぜか恐怖を感じたのだ。

 ダーリンの声がする。ハニー? どこだいハニー? ダーリンはリビングに向かって歩きながら、そう叫んでいる。その時間のわたしはいつも、料理をしているか、ソファで食前の腹ごしらえ、ポテトチップスのノリ塩を食べているか、どちらかだし、よっぽどの急用があって、出かけていない限り、ダーリンのチャイムにわたしがカギを開けるのだ。しかもよっぽどの急用っていうやつは今まで一回もなかった。だからダーリンも不思議なのだろう。

ダーリンが寝室のドアを開ける。そしてわたしを見た。わたしはなぜか不思議なことにに照れ笑いを浮かべてしまった。けれどダーリンは深刻そうな顔をして、

「そうか、ハニー。君は悪夢を見てしまったんだね」

と言った。


 「君は悪夢を見てしまったんだね」

ダーリンがもう一回繰り返す。その表情は別に悲しそうっていうわけでもないが、ダーリンの癖、眉間にしわはよっていた。

わたしは返事をしようとした。

「確かに夕べ悪夢は見たの。とっても怖くて不安な夢だった。けれどそんな風な夢、長かった人生の中で、一回も見なかったってわけでもない。そうね、普通の悪夢って言えばいいのかしら?」

けれど言えなかった。わたしは言えなかった。言えないのだ。言葉を発するということができないみたいだ。

「残酷なことをこれから説明することになると思うけど、聞いてほしい。僕はね、結婚前、魔界ハンターを生業としていた時期があったとは以前説明したよね? そしてまたその同時期に、ユーキャンで悪夢バスターの資格も取ってはいたんだ。まあ、その仕事はしなかったわけだけど。僕っていうのは、折々にユーキャンを利用する。今までユーキャンに支えられた人生を歩んできたって言ってもいい。人生の節目節目にユーキャンはそこにいた。そうなんだ。それは君も知っているところだって思う」

 そうして一回、ダーリンは言葉を切った。今度はただの静けさっていう感じじゃなくて、

なにかの予兆をはらんでいるような、熱帯で温度と湿度が一気に上がり、その後にものすごいスコールが降り出すのを感じているようなそんな不安の漂う、沈黙と静けさだった。

「その時ユーキャンで学んだ中にこんな一節があったことを僕は覚えている。つまり、ハニー、現実を直視してもらいたいんだ。ユーキャンでこんな一節があった。『悪夢を見たその翌日の朝、時折その人は芋虫に変身する』」

そこでまた一回、ダーリンは己の言葉をかみしめて味わうように言葉を区切った。

「つまり、君の今の姿は芋虫なんだ」

 奇妙な言い方かもしれないが、わたしは驚いたが、それほどの驚きでもなかった。芋虫にわたしが変身しているという現実は、もちろん驚きではあったのだが、わたしは今日一日、尿意を覚えてもベッドから降りず、ただ枕の端と紫色のシーツを眺め、時間も光も視界も失ったままこうして一日を過ごして、今はただおかしな疲労を覚えていて、なにかに驚くという、体力的にも、もちろん精神的にも、それに対応するような余力を失っていて、ただ「そうなんだ」と思うのみだった。そうしてベッドの上にゆっくりとおしっこをした。


 ダーリンはそれもユーキャンで学んでいたのかもしれなかった。つまり芋虫っていうのは時折、おしっこをベッドにもらす、そういうことだ。だってダーリンはわたしの身体、芋虫から流れるゆっくりとしたおしっこを見ても、何ら驚かなかったからだ。

「ハニー、これからも一緒にむつまじく暮らそう。でもそうすることにあたって、なにが必要になるだろう? ハニー」

わたしにはそれがなんであるのかわからなかった。正直、アヒルのおまる、それかな? と思うのみだった。または紅虎?

「ハニー、聞いてほしい。僕ってのは幼少期とても苦労人だったことは話しただろう? そうだね、幼少期の苦労人っていうのもおかしいかもしれにないけれど、子供ながらに『俺っていうのは苦労人だ』とどこで覚えたのかもわかりゃしないけれど、そう思っていた。というのは僕の父親は元新聞記者で赤旗に転向し、最後は坊主になって結核で死ぬっていう詩的な生き方と死に方をしたんだ。そう、僕が小さいころで、妹がお母さんのお腹に入っているときだった。そしてその母も妹を生み、『サオリ』と命名するやいなや、産後の肥立ちが悪くって死んでしまった。そう、母も父と同じく詩的な生き方と死に方をしたんだ。だから僕は父方の叔母さんの家へ、妹は母方の叔父さんの家へ引き取られ、そういう風に僕と妹は別れた。僕はマメに妹に手紙を出した。妹もマメに僕に返事を書いた。そういう関係がずっと続いていて、最近妹を僕の事務所に誘ったんだ。アルバイトとしてでも、働かないかと。そして今サオリは僕の事務所でコーヒー担当としてアルバイトをしている。まあ、ただのバリスタだから、サオリのやることっていうのは、そう多くはないんだ。

 そしてその一計だ。つまりその暇そうにしているサオリを君の世話係として雇おうかと思っている。幸い部屋は余っているし、サオリは明るく優しい子なんだ。もしかしたらそれは僕と同じく苦労人ゆえかもしれない。きっと君にとってプラスになるって僕は思うんだ」

 そうはいっても私からコミュニケートをとれるわけでもない。少し夕べ見た悪夢を思い出した。コミュニケートを引き受けられても、わたしのコミュニケートは不可能であるという関係の形。

わたしには同意しか許されていないように感じた。

「それでいいかい?」

わたしは結婚後初めてっていうくらいの怒りをダーリンに感じた。ユーキャンで悪夢バスターの資格を取ったというのなら、『その芋虫はなんら己からコミュニケートできません』といった一説があったはずだ。それなのにダーリンはクエスチョンまでつけて

「それでいいかい?」

と言った。それにたいしてわたしが同意も反対もできないということも知っているはずだ。それでいいかい? という発言のあと、わたしが何も言えないということをもちろん大前提の上、クエスチョンまでつけたのち、

「じゃあ、サオリに聞いてみるよ」

と言って、部屋のドアを開け放したままダーリンは行く。さっきまで猛烈に腹が立っていた。それなのにわたしはやっぱりダーリンは優しいなと、ころりと怒りが収まる。そう、今のわたしにとって「ドアが開け放たれている」ということはとても重要なことかもしれなかった。つまりわたしのいるベッドとそのほかの世界をつなぐのは開け放たれたドアだけなのかもしれないのだ。紫外線や老化ということを端折っても、それは窓ではないように感じられた。そしてそれを自然にふるまい行った、ダーリンを尊敬し、その炯眼な洞察に感心する。


「うん、うん。そういうわけさ。妻が芋虫になってしまったんだ。それは別に特別なことじゃないし、妻に対する僕の愛情が一ミリたりとも少なくなるっていうわけでももちろんない。そうだね、僕のマンションに住まないかい? 事務所で働くよりはやりがいもある仕事だと思うし、もちろんバイト料だって今より弾む。そうだね。月に一回くらいは簡単に値がはる靴が買えるっていうその程度だけど、その値がはる靴を簡単に買うっていうこと、結構それって大変だったり、大きなことだって思わないかい?」

そんなことをダーリンはサオリさんに向かって話している。


「お姉さん。はじめまして。サオリです。これからお世話になります」

サオリさんは芋虫であるわたしにたいして頭を下げつつそう言って、またまじまじとわたしを見ると、

「やだ、本当に芋虫なのね」

と言って笑った。

「そう、芋虫よ」

わたしは心の内でそうつぶやく。

「わたし三六歳なの。お姉さんは確か三九歳だっけ? アラフォーね。三六歳っていうのはきっとアラフォーって言わないわよね」

わたしは答えないし、答えられない。胸のうちでのつぶやきさえ思い浮かばない。

「さて、わたしは伊達や酔狂でもない、働きにきたわけだから、さっそくお姉さんのお役にたたなくちゃ」

サオリさんはわたしがいつも窓から外を眺めながら、コストコで買ってくるワインを飲んでいた椅子に座って、ステキなロケーションだわ、とつぶやく。

「こういうのって、わたしはそういうの無縁だって思ってた。外側からしか見る機会はないって思ってた。でも数奇な運命によって、今こうしてマンションの内側から見てる。なんだか変な気持ち。そうね、お姉さんが悪夢とやらを見て、その挙句に芋虫になってしまったおかげっていうのかな。そういえばわたしお腹が空いた夢を見て、起きたら本当にお腹が空いてたっていう夢なら見たことがあるけど、悪夢ってないかも」

そう言って立ち上がり、部屋中にハタキをかけ始めた。掛布団はダーリンが朝、ベランダに干した。寒さは感じないけれど、むき出しになった芋虫の身体に、ホコリがぴたりとくっつくようなそんなイメージが湧く。そうではないのかもしれないし、本当にそうなのかもしれない。よくわからない。体感的感覚はとくにはない。けれど、今までわたしがそうしてきたように、様々な棚を、本当はダスキンで静かに掃除してもらいたかった。そうしたら部屋中にホコリが舞うようなことは避けられたはずだ。今サオリさんは機嫌がよさそうに、歌まで歌っている。

「わたしのわたしの彼は~左利き」

年齢を考えるとよくそんな曲を知っているなと思う。わたしの感想はそれだけだ。

 他人とは言えないのだろうけれど、なんとなく、他人にも近い人間がわたしたちの家の中で掃除をしたり食事をしたり、くつろいだりっていうことが、不思議と居心地の悪いものだなと感じる。特に何が変わったっていうわけでもないし、これから毎日開けられるブラインドや、部屋の掃除、食事の世話、どれをとってみたって、サオリさんに助けられる部分は多い。けれど。けれどなにか

「本当はサオリさんがいない方がよかった」

と思ってしまうのだ。わたしの良くないところかもしれない。

 ダーリンが七時二六分にチャイムを鳴らす。今まではわたしが玄関へ駆けていって、ドアを開け、ダーリンを抱きしめていた。今日からはそれはサオリさんの役目となる。

「はーい」

とサオリさんは朝の

「わたしのわたしの彼は~左利き」

とおんなじ調子で、まるで続きを歌っているような調子で、玄関に向かって歩いていくのがわかる。

 その時、わたしは妙にホッとしたのだ。わたしは今まで七時二六分のチャイムに走って玄関まで行った。サオリさんは今、歩いている。わたしはなんていうか、「勝った」と思った。なぜなのかわたしはその点において、完全にサオリさんに勝っている、そう思った。そして玄関での二人の光景は見れないけれど、兄弟という関係で、やたらめったらハグはしないだろう。

 ダーリンが寝室に来た。笑顔でわたしを見た。そして笑顔のままで鋭く、

「サオリっ」

と怒鳴った。

「サオリ、なぜ妻の下の世話をしないんだ? それだって仕事のうちだろう? そうじゃないか? 君を呼んだのも部屋を貸すのも賃金を払うのも、それを含めてのことだろう」

「お兄さん、お疲れのところ反論するっていうのもなんだけど、じゃあ、わたしはどうすればいいの? この芋虫のどこに排泄器官があるって、お兄さんにはわかるの? わたしにはわからないし、そしてどうしていいのかもわからなかったわ」

わたしは胸のうちで真っ赤になったつもりだった。ダーリンとダーリンの妹のサオリさんがわたしをはさんでわたしの下の世話、つまり大便と小便をどうするのかっていう話し合いをしている。人生っていうのは長いし、今まで長く生きてきた。恥ずかしいこと、いっぱい経験してきた。これからもそういう恥ずかしいこと、そういう体験はたくさんあるのだろう。けれどその中の「恥ずかしい出来事リスト」のトップクラスににこれも並ぶような気がする。

「排泄器官? 確かに俺も今の時点でははっきり言えない。でも後でネットで見れば簡単にわかる、そういうものじゃないか?」

「お言葉のようだけど、排泄器官がどこにあるかってことがわかっても、わたしいやよ。だってうねうねとした芋虫の大便や小便をまだ三六歳にしかならないわたしが、そんなことをしなくちゃならないの?老人ホームに勤める予定は今のところないわ。もしお兄さんがそれでもやるべきだと思うのならわたしはその担当から外れて、お兄さんがやればいいのよ」

「俺には仕事があることはサオリだって十分知っているだろう。俺は忙しい。半年先まで俺のカウンセリングは予約でいっぱいなんだ。俺は週に一回はプラセンタの注射を受けている。ゆめゆめインフルエンザなんて引いている暇もない。それを辞めろというのか?」

「そういうわけじゃないけど………」

「サオリ、君にはまだ、わからないかもしれない。だけど、夫婦で、一緒に眠る、並んで眠る、同じ部屋で眠る。そういうことってとっても大事なことなんだ」

「じゃあ、少し考えさせて」

 

兄弟げんかは終わったようだ。二人でリビングダイニングの方へ歩いていくのがわかる。そして、わたしにはよくわからないが、

「ハラグチ君の彼女が妊娠したらしいよ。結婚するんだそうだ。いわゆるできちゃったなわけだけど、今の時代、そんなことは珍しくもないけど」

とダーリンが言うと

「あらあ、おめでとう。よかったわね、そのハラグチ君もその奥さんも。だってハラグチ君って案外仕事が早いし。わたしからもおめでとうっていうメッセージ、伝えておいてね」

そうなんだ、と思う。ダーリンの事務所で働くハラグチ君は仕事が早くて、彼女が妊娠し、できちゃった結婚をする。そうなんだ。

 そしてサオリさんは食事を作っているようだ。醤油と甘い匂いが漂ってくる。そしてダーリンはテレビを見ているのだろう。時々聞える音楽に、それは多分「エンタの神様」だと予想をつける。ダーリンは時々大きな声で笑っている。それも一つの発見だった。ダーリンの笑い声っていうのは案外大きいんだなっていうこと。

 サオリさんが食事を運んでくれた。トレーに肉じゃがとお味噌汁とご飯の入ったお茶わんが載っている。そしてサオリさんは部屋に入ると、なぜかドアを閉め、

「こういうの、お姉さんは違うって思うでしょう。もしかしたら『まるで晩御飯じゃないみたい』そんな風に思うかもしれない。でもね、わたしたち兄弟は、小さい頃から苦労ををしてきたの。お寿司だって焼き肉だってそうは食べる機会がなかった。そういう風に育ったし、お姉さんはそういう風に育ったわけではないって知ってる。だからこういう晩御飯をバカにする気持ちにもなるかもしれない。でもお姉さんは今芋虫だわ。肉じゃがとお味噌汁。それをバカになんてしないでよね。もし馬鹿にする気持ちがあるのなら、食べないでちょうだいね。わたしたちっていうのはこういう晩御飯を食べて育って、お姉さんは酢豚と春巻きともやしのナムルと中華スープっていう晩御飯で育って、今もそういう晩御飯をお兄さんと食べていることは知っているけど。そう、馬鹿にするなら食べなくてもいいのよ」

 わたしはとても悲しかった。奇妙に悲しかった。わたしは枕をよせておかれたトレーに乗せられた肉じゃがを食べた。とてもおいしいと思った。そしてそのおいしい肉じゃがを食べながら、妙に涙がぽろぽろと流れた。芋虫であっても涙が出る器官はあるみたいだ。なんの涙かはわからない。ただぽろぽろと涙は流れとまることがない。それを見たサオリさんは

「一体なに? 鼻水なんて垂れてるわよ」

そう言ってドアを開け、出て行った。約束通り、ドアは開け放たれている。

 しばらくしてダーリンとサオリさんは、二人でマットレスを運んできた。話を聞いていると、どうやらゲストルームのベッドのマットレスらしい。シングルだ。それをわたしが寝ているベッドの脇に置いて、シーツをかけたり枕を乗せたり、忙しく働いている。そこに置かれていた古いマッサージチェアはどうやらゲストルームに運ばれたらしい。

「ハラグチ君に彼女がいたってなんか、意外」

「俺もちょっと驚いたね」

そんな会話をしながら、それらはスムーズに行われた。

「ずっと離れていた兄弟だけど、なんとなく、わたしやっぱり兄弟なんだなって思うことがたびたびあったわ」

「それは俺もだ。そう気を遣わない相手っていうことかな」

「そうね、それかもしれない。兄弟の本質っていうの」

「そうだな」

二人はそんな会話をしながら、寝室から出ていく。テレビはついているようだが、なんの番組かはわからなかった。時々どっと笑い声が聞こえてくる。

 わたしはこの部屋に一人でいて二人がリビングにいるのなら、この部屋の電気を消してほしかった。別に眠いっていうわけじゃない。

 ダーリンがパジャマで、カッサの香りをさせながら、寝室へ来た。

「ごめんよ。さみしかったかい? ハニー。今日は寝るのが遅くなっちまった。離れ離れで生きてきた兄弟っていのは、何かと話が尽きないものらしい。ごめんよ。もう君は寝ているのかな」

わたしは今、猛烈にコミュニケートしたかった。できることの精一杯、ベッドの上を這ってみせた。

「おや? ハニー、起きていたんだね。今日の出来事、不具合もあった。でも初日から何もかもうまくいくっていうわけでも、世の中そんな簡単にできていないしね。明日の向上を期待して君も眠るといいよ」

わたしはさっきと反対のことを思っていた。まだ灯りを消さないで。

「僕は多忙だっていうこと、もちろん君も知っているけど、そうなんだ。確かに僕は多忙で時間の狂いや間違いを許されない立場なんだ。もう寝ようか」

消さないで! お願い! 灯りを消さないで! そんなわたしの願いとは裏腹に、ダーリンは当然のように電気を消し、毛布をかけているようだ。そして

「おやすみ、ハニー。明日の僥倖をお互いに願って寝よう」

ダーリンはそう言ったが、わたしの胸のうちは、ダーリン、まだ寝ないで! なにかしゃべりましょう! 今日あったなにかや思ったことや感じたこと、そんなことでももっと話しましょう! と痛切に願うのだがわたしにはそれを伝える能力があるわけじゃないのだし、だいたいわたしは話すことがそもそもできないのだ。

ダーリンは目を閉じているのだろう。わたしも目を閉じてみた。けれど閉じなくても閉じてもそれは一緒のような気もした。けどなんとなく覚えている。見えてはいないが聞こえたという記憶。ダーリンと同じくカッサの香りをさせたサオリさんが、

「お兄さん、あのボディーソープいいわね。泡立ちもいいし、香りもいい。わたし気に入ったわ。なんの香りなのかしら?」

「ブロッサム。サクランボだよ」

「そうなの、サクランボなのよ」

わたしも言ってみたかった。


「お姉さん、聞いて。今日ね、お兄さんからバイト料をもらったの。そうね、あからさまに金額なんていうのは野暮よね。でもね、アルバイトにしてはいい金額だったの。わたし、ブーツを買うつもり。黒のエナメルなんていいと思ってる。どうかしらね、お姉さん」

それに答えることができないわたしだが、そうはた目には見えないかもしれないが、わたしは微笑んでいた。そしてなにかおいしいものでも食べてきてっていう風に、わたしからもチップをあげたいような気持になった。わたしは自分でも気づかぬうちに被虐性が増していって、サオリさんの態度や言葉はそれに反比例を描いた。けれどそれはとても自然な成りゆきで、サオリさんがそれに気づくことがあっても、「お姉さんがそうだから」としか思わないだろう。

 それはもちろん、ダーリンと楽しそうに話しているサオリさんたちの仲間には入れないが、わたしはすでにこういう生き方、こういう存在に従順であろうと、心の隅で思っていた。それは誰からもどんなものからも、生きているものからも死んでいるものからも、生も死もないものからも、祝福される感情のように思えたのだ。けれどとも思う。奴隷は祝福される存在なのだろうか?従うという選択肢しか持たぬ存在。不平も禁じられている。

 ある朝、サオリさんはまたしても「わたしのわたしの彼は~左利き」と歌って廊下を歩いて、わたしの部屋に来た。

「お姉さん、朝起きていなかったみたいね。お兄さんがとても重要なことをあなたに話したのだけど、覚えてる?」

わたしは最近はぼけ老人のようになっていて、大事なことをすぐに忘れてしまったり、昼寝が増えたり、そんなこともあって、その話をダーリンから聞いていたとも、忘れていたとも、それって覚えてるとも言えないのだ。

「つまりね、お兄さんはこう言ったのよ。『すまないね、ハニー、今日はちょっとした用事があって、少し帰りが遅くなるんだ。けれど十時二十六分には多分チャイムを鳴らすことができるって思う』そういって仕事へ行ったのよ」

 わたしにはそんな覚えがなかった。そうか、今日のダーリンの帰りは十時二十六分なのか。さみしさが昨日より三時間増える。そう思うと今から少しさみしさを感じる。でも、そう少しだけだ。


「今日ね、お兄さんと有楽町で待ち合わせしているの。一カ月ご苦労様っていうディナーっていうことらしかった。そしてね、そのディナーの前に、『優れたブーツの選び方』を教えてくれるんだって。そう、少し値のはる。だから今日はゆっくりと芋虫であることさえ忘れて、眠っている方が暇を感じないかもしれないわね」

そうはいってもダーリンがいてもサオリさんがいても、別に忙しさは感じないし、ことさら暇だとも感じないように、わたしという芋虫は出来上がっている。三時間のさみしさ。昨日までより三時間増えるさみしさ。それは今のわたしにとってべらぼうに大きいなにかでもない。

「楽しんできてね」

そう言いたい。本当にそう言いたかった。

「素敵なブーツを買ってきてね。帰ったら見せてほしいな」

そう言いたい。本当にそう言いたかった。


するとこの寝室にあるウォークインクローゼットをためらいもせず、サオリさんは開ける。わたしは戸惑う。ここに入っているのは、高かったワンピースとか、大事なワンピース、そういったものだけを入れているクローゼットなのだ。

「お姉さんが寝ている間にね、わたしここを開けちゃったの。そんなことどうでもいいでしょう? お姉さんだって気にしないわよね。だってどうせお兄さんに買ってもらったぜいたく品なのでしょう? ステキなワンピースばっかり!」

そう言ってクローゼットの中に身を隠す。

「これにしようかな」

と言いながら黒いワンピースを手に持っている。それはインポートの、黒のタイトなシルエットに十字にバラの柄が連なって飾られているワンピースで、それっていうのはダーリンが初めて誘ってくれたデートの時に、その誘われたデートは、日雇いの土木作業員にも似合わない、そうその頃ダーリンの仕事はそれだった、クラッシックの音楽鑑賞会だったから、そんな所に行ったこともなかった私が、急いで百貨店に行って、持てるお金をみんなつぎ込むようにして、やっと購入したワンピースで、それは着てほしくない、それ以外のワンピースにしてもらいたいと、焦燥に駆られながら思うけれど、それをサオリさんに伝えるすべがない。

「着替えてみようかしら」

そう言って、わたしの前で、スキニーやスウェットを脱ぎ捨てた。目を見張るような健康さに満ち満ちたスタイルだった。筋肉と脂肪が適度につき、とても張っている。ネイビーのブラジャーをつけたバストもとても豊かだ。わたしはサオリさんの方に寝返りうって、それらを見た。そしてサオリさんはワンピースのサイドのファスナーを探し出して下げ、なんとかワンピースを着た。

「なんだか、少し窮屈な感じがする。でもいいや、姿見を見に行こう」

そう言って玄関に置かれた姿見でその姿を映しているようだ。少し遠くから大きな声でわたしに向かって叫ぶ。

「うん。これでいい。すごくしゃれてる。少しきついのを我慢すればいいかな」

 

 そしてサオリさんはゆっくりと寝室に近づいてきた。「よいしょ」という言葉が時折混じる。そしてドア口に現れたサオリさんは、手に大きな姿見を持ち、それを玄関のかまちから運んできたらしいのだ。

「だって、お姉さん、おそらく、芋虫になってからというもの、ご自身の姿を見たことがないんじゃないかなって思ったの」

そう言って私に見えるよう、何度も角度を変えて姿見を床に転がしたり、わたしのぶよぶよした身体をわたしの寝返りを助けるようにして慎重に横ざまに直し、わたしにわたしの姿を必死に見せようとしている。

 そしてわたしはそれを見た。それはクイーンベッドに堂々と横になる、肌色の大きな芋虫だった。これを美しい姿だと思う人は多分まれだろう。たぶんそれは特殊な仕事に就いている人だ。それどころか、醜くて避けたいもの、目にしたくないっていう人が大勢を占めるだろう。それは女子高性や女子中学生に顕著かもしれにない。女子高生の中にはこのわたしの姿を見て、卒倒する女子もいるかもしれない。きっと子供は逃げていくし、母親やおばあちゃんという役割を持った人たちは、何らかの守らなければならない存在のために、わたしを駆除しようと固い靴で踏みつけるかもしれない。

確かにそういう感慨は浮かんだが、それはそれほどわたしのなかで大きな出来事っていうわけでもなかった。そう。わたしは今そんな姿なんだ。姿見に映るわたしはそう考えているように見える。それが姿見に映るのは、わたしがそう考えているからに他ならない。



「じゃあ、行ってきます」

と言って、サオリさんは玄関を出て行った。


いつも通りだ。またわたしの視界はほぼ枕カバーと紫のシーツのみになった。枕カバーは以前はただの装飾もない枕カバーだったけれど、わたしの枕の端、そこにフリルがついているのが目に入る。それっていうのはわたしの趣味ではなかった。サオリさんが新調してくれた枕カバーだ。そこに文句などもつけようと思わない。このフリルのついた枕カバーをいつでも白く保ってくれているのは、サオリさんなのだ。

 サオリさんには感謝しなければならないな。本当に「楽しんできてね」って言えればいいのになって思う。もう一回も二回も何回だって諦めてきた私からのコミュニケート。でも今、それさえできればと本当に思う。じゃんけんで負けた。負けた方は買った方の言うことをきかなければならない。そんな想像がふと湧く。

 わたしは最近、物忘れもひどく、ベッドに横になったまま動けずにいるというのに、それでもいいかな、その方が楽かななんて思ったりすることも頻繁にある。老人になったのかなと思う。不具の奴隷みたいだ。ブラインドを開けた外の景色を見る。もうとうに一人で寝返りをうつというすべを学習した。たまに戻れなくなることもあるけれど。そんなことを思いながら、うとうとする。そして意識が戻るが、それが本当に現実に意識が戻ったのかっていうことをよく理解できない。そのうちにまたうとうとし、意識が戻ったと確信してみると、今度は「今頃ダーリンとサオリさんは何をしているのかな? サオリさんが気に入ったブーツとダーリンが『これはいいブーツだ』と言う、そんなブーツが見つかったかな?」 そんなことも思う。そしてまた意識は遠のいていく。そしてうつ伏せになる。あまり長くは外の景色を見ていたくない。不具の奴隷。そうであっても、景色を見続けるということは飽きてはいても不思議な感傷を誘う。そうして今のわたしは老人ホームで口をぽっかり開けたまま、眠っているそんなお年寄りと何ら変わりがない。


わたしはダーリンとサオリさんが帰るころ、うっかりと眠っていたらしい。ダーリンはそっとマットレスの上に横になり、言葉も発さず眠ったのだろう。

 翌日の朝、ブラインドを開ける音と、それに伴う明るさ、サオリさんの「ねえ、お姉さん起きてよ、ねえってば」という言葉、そして身体に触れられているという珍しい感触で、やっと起きた。サオリさんがいた。

「お姉さん。聞いてほしいの。昨日ね、わたしとってもかっこよくて、とっても品のいい、とってもいいブーツを買うことができたの。わたしね、以前シンディーローパーに憧れていた時期があって。なにかの音楽雑誌にね、エナメルで編上げのブーツを履いたシンディーローパーの写真が載っていて」

そして言葉を区切って目を伏せた。

「つまり?」

わたしが話すことができたのなら、そういう相槌をうてただろう。

「そしてね、」

「ちょっと待ってね」

そう言ってしばらく後、手にピカピカ光るブーツを手にして現れた。

 とてもいいブーツだってことは一目でわかった。多分シンディーローパーとおそろいのブーツに違いない。最高じゃない。そう言いたい。

「これを選んだとき、わたしおそらくお兄さんが反対するだろうって思ったの。でもその反対だった。お兄さんは『これは少し値がはるけれど、とてもいいブーツだ』、そう言ったの。わたしものすごくうれしかった。靴の良しあしをわかるように育ってきていなかったから自信がなかった。でもね、今はとっても自信があるの。わたしの部屋はこの湾岸の、海の見えるタワーマンションの一室の中にある。今はそんなことまで自信の根拠になっている気がするの。だからね、お姉さんわかってくれるでしょう? このブーツっていうのはそのシンボルだっていう風に思えるの。それを履くっていうこと。わたし夢を見ているみたい」


そしてディナーはおいしかった? と聞きたかった。けれどそれはかなわぬことだった。ウソをついているわけでもない。


 ある晩、わたしは大きなひらめきを感じた。それはダーリンが帰って、ゆっくりとお風呂に入ったらしいその後で、ダーリンとサオリさんは、何を話しているのかっていう、内容やワードも聞こえるわけではないが、そこにくつろいだ雰囲気と楽しそうな団欒があるっていうことはわかる。

 素晴らしいアイディアだ。私は降ってくるように湧いた己の「素晴らしいアイディア」の余韻にしばし浸った。私はぽんと膝を打ったような気がしていた。つまり、その団欒に参加しようというアイディアだ。わたし自身がわたしのエピソード、意見、感想、それって笑っちゃうわね、ウィットにとんだジョーク、それらが言えないとしても、ダーリンもサオリさんも、そしてそのダーリンとサオリさんの言葉は聞こえていることは、二人とm重々承知しているわけだから、その楽しい団欒、それを享受できるし、それらを共有することだってできる。そう思ったのだ。それがわたしのひらめきであり、素晴らしいアイディアだった。

 そこでわたしは初めにクイーンサイズのベッドの上をのそりのそりと這い、ベッドの端までたどり着くと、意を決してベッドから這いながら降りて、着地に成功した そうして廊下をリビングに向かって這っていく。今までは気づいていなかったが、どうやらわたしの芋虫としての這い方っていうのは、しゃくとり虫に似ているのかもしれなかった。

 リビングにつき、ドアを開けてほしいと伝えたかった。けれどそれはできない。そこでもまたわたしにひらめきや素晴らしいアイディアが浮かんだ。ドアに横になって張り付くっていうのがそのひらめきであり、素晴らしいアイディアだった。リビングへ通じるドアはガラスだ。二人のうちどちらかが、最初にわたしの存在に気が付くだろう。

「あ、ドアの外に芋虫がいるみたい」

そう、サオリさんだった。

「ねえ、お兄さん、ちょっとドアを開けてみてくれないかしら」

それに対してダーリンは無言だ。けれどドアを開けてくれて、わたしを見るなり、

「やあ」

と言った。わたしは喜び勇んでやはりのそりのそりと二人が座っていたらしい、ソファにしゃくとり虫のような動き方で、近づいていった。するとサオリさんが悲鳴を上げる。

「いや、いやよ。近づかないで!」

わたしには、いつもわたしを見ているサオリさんがなぜ悲鳴を上げ、近づかないでと拒否をするのかわからない。

「クイーンサイズのベッドに横になっていた時より、明らかに大きくて気持ちが悪い虫だわ。動き方ひとつとってもとっても気持ち悪い。お姉さん、戻ってよ。帰ってよ」

私の家だ。このマンションを買う時に、棚だって食器棚だって、オプションをわたしが選んで、住みよい家にした。寝室の窓はダーリンがブラウンのブラインドを選んだけれど、この水色のバカみたいな明るいカーテンはわたしが選んだ。サオリさんが来てくれる前にはわたしが毎日掃除をしていたし、そこに見えるキッチンで、わたしは夕食の支度をした。

 ダーリンを促すようにサオリさんは見ている。わたしもダーリンの方へ姿勢を立て直す。

「ハニー、今日はお客さんがくるんだ。一緒に夕飯の食事をしようっていう話になってる。つまらないものかもしれないけれど、ピザとチキンをデリバリーしてもらうよう手配も済んでる」

その言葉を聞きながら、その言葉が終ってもわたしは微動だにせず、ダーリンの方を向いている。

「ハニー、今日はお客さんがくるんだ。一緒に夕飯の食事をしようっていう話になってる。つまらないものかもしれないけれど、ピザとチキンをデリバリーしてもらうよう手配も済んでる」


 ダーリンはもう一回そう言った。ダーリンは本来「行間を読め」というような、不親切な話し方をしない。けれど分かったのだ。私は呼ばれていなかった。招かれていなかった。それなのにこんな容姿でひらめきとか素晴らしいアイディアなどと、浮かれて闖入してしまった。そう、私は呼ばれていなかったし、招かれてもいなかった。わたしは一瞬、本当に客っていうのは来るのだろうかといぶかった。今までダーリンを信じてきた。疑ったことなどなかった。多分一回も。

それにたいして最近のダーリンはわたしが芋虫になる前、または、二人で暮らしていたころと、少し変わってしまったような気がする。

わたしはまたのそりのそりとしゃくとり虫風に旋回した。旋回するときわたしはわたしの芋虫としての身体のサイズの予想を、軽く間違え、ドアのあたりにお尻をぶつけ、そのお尻は「ぶしゃ」という音とともに敗れ、わたしにも感じられる汚くて臭い体液が飛び散った。

「やだ、すっごく臭いわ。お姉さんが寝ている、糞便にまみれたベッドより臭いって思う。臭いわ。とっても汚い」

わたしは謝ることもできない。申し訳なかったと思う。それはわたしの汚くて臭い体液をリビングにまき散らしてしまったことだけじゃなかった。呼ばれてもいない、招かれてもいない、それなのにひらめきであるとか、素晴らしいアイディアなどと思って、兄弟の団欒の邪魔をした。わたしは害虫であった。わたしは恥ずかしかった。ただただ恥ずかしかった。そう思いながら寝室にたどり着き、必死でベッドにあがろうとしたが、それもできっこない。そういう腫れ物に触るように扱われている害虫なのだ。いや、そうじゃないかもしれない。サオリさんはブーツを見せてくれたし、わたしにたいしてとても直截にふるまう。それはもともとのサオリさんの資質なのかもしれない。けれどダーリンはその少し黙ってから言葉を発するっていう癖にも見られるように、言葉を選び配慮する。その傾向はわたしが虫になってからとても顕著だ。本当に客は来るのだろうか。そしてサオリさんが自然という神の意志に従っているのか、それとも神の意志を遂行しているのはダーリンなのかそれもわからない。その時お風呂場でバケツに勢いよく水を注ぐ音が聞こえてきた。

 わたしは申し訳ないと思いながらも、ダーリンがいつも眠るマットレスにうつぶせになった。果たして客は来た。その事実はとてもわたしを安心させるものだった。裏切られたわけじゃない。


「やあやあやあ、どうも。お招きにあずかりまして」

と客は玄関で騒いでいる。声からすると中年の男性のようだ。サオリさんまで玄関に出て、いらっしゃいませなんて言っている。バリスタ経験を踏んだからだろうか? 

「先生お疲れのところ、どうも済みません。今妻が不在なんですよ。なので大したものは用意できなかったんですけど」

「そんなことおっしゃらないでください。やあ、いい木を使ってる。どこの不動産ですか」

「住友不動産なんですよ。小さな家です」

「いやあ、ご謙遜。立派なお宅だなあ」

そんなことを言いながら、その一団は今リビングに向かう途中のようだ。さっとダーリンが寝室のドアを閉めたのがわかる。

そして、

「ちょっとリビングが匂うんですよ。猫がそそうをしちゃってね」

「おや? 猫を飼ってらっしゃるとは初めて聞いた。僕も飼っていることはご存知の通りだ」

「いや、特に猫は飼っていなんいです」


 知っていた。もう知ってしまった。わたしがその団欒に加わることなんて永久にできないのだ。

そしてわたしにはちっぽけなことすらわからない。ダーリンと、ダーリンが「先生」と呼ぶ中年男性と、また、サオリさんと、その関係。

 

 幼い頃に味わった。「これは本物だな」というさみしさっていう感情。その感情と今のわたしの感情はとてもよく似てるような気がする。コミュニケーション。それは芋虫になってから、とてもよく考えたテーマだった。わたしには伝わるけれどわたしは伝えることができないという不具的な状態。いつか終わる日が来るのだろうか? もし話せたのなら、それをユーキャンで学習済みのダーリンに聞きたい。とても聞きたい。それでいてこれでも、いいかな、と思う。特に人生を渡っていくためにこの姿では困るっていうことが、さみしさを考慮に入れないならそれもないような気がする。ゆっくりとしか変化せず、ただ時計の針が動くのがやけに遅いとイライラする日もあったけれど、最近は眠っているのか、夢の中にいるのか、それとも現実を見ているのかそれもよく判断できなくなっている。もう時計の針を気にすることもなくなった。そう、そういう芋虫っていう存在。見た目も醜いけれどわたしは特段驚かなかった。気持ちが悪い、汚い、臭いと言われるならば、一室に一人きりで身を隠せばいいだけだ。そう、そうやって海を見ている。意識が混濁する。夢など見たこともない。そう眠る。団欒を壊そうなんてつもりもない。

それならば、もし手を差し出してくれる人が現れても、力なく握ってみた後に、そっと手を離せばいいだけだ。


 そんなことを考えていたら、口から白くて細い糸がしゅるしゅると出てきた。歯で少しその糸をかじってみる。甘かった。そしてその糸はわたしの芋虫という身体を包んでいく。

それは一時間半くらいで終わり、わたしの芋虫という身体は、白い糸で編まれたカプセルに包まれた。

 わたしは変かもしれないけれど、久しぶりの自由を感じた。別に寝返りが得意っていうことでもないし、視界はさえぎられた。けれど思い出されるのだ。幼い頃押し入れに入って一人で遊んだ。押し入れの布団の上にお菓子を並べ、お菓子屋さんごっこをした。

それなのに、成長すると、左腕をケガばかりするようになった。ケガ? そうケガだ。それはわたしの意図したことではないからだ。なにか別のものがわたしの左腕を切りつけてケガを無数に作ったのだ。わたし自身っていうわけじゃない。わたしの中の「わたし」とは別なものだ。

ふと身体が軽いと感じた。試しに動いてみる。どうやら芋虫ではないらしい。でもわたしは慎重だ。芋虫ではないとしても他の何か、例えばゴキブリという生活に根ざした害虫の可能性だってある。でも視界が真っ白な今を、わたしは不思議と謳歌しているのだ。わたしはもしかしたらゴキブリよりも芋虫の方が嫌いだった? いや、ゴキブリは苦手だ。


客が帰るようだ。玄関でにぎやかな声が聞こえる。

「いやあ、本当にお邪魔しました。おいしいものまでいただいちゃってね。まあ、一つアドバイスするなら、猫を飼うっていうのも悪くないものですよ。できればとらネコをね」

「アドバイスまでいただいて。先生いつでも寄ってください。今度は家内がいるときにでも」

「やあ、やあ、お邪魔しました。ごちそうさま。ではよい夜を。サオリさん、さようなら」


 ダーリンが寝室のドアを開け放つ。けれど白いカプセルに包まれたわたしは、その表情がわからない。

「ごめんよ。ハニー、ドアをぴたりと閉めてしまうなんて。でもそういうことって時にあるだろう? そう、とってもデリケートな問題なんだ。ハニー、君の洞察はそれをきっと見抜いているよね」

そして、わたしの姿を見て、

「おや、ハニー、君はとうとう蛹になったんだね。俺はとっくにユーキャンで学んでいた。そう、悪夢を見た後の芋虫に変化した人はいずれ蛹になるとね」

 そうなんだ。わたしはそんなのもっと早く教えてくれればよかったのに、ダーリンと言いたいところだ。押し入れの中は暗かった。灯りをつけられたこの部屋で蛹になる。白いカプセルしか視界にはない。そうしてとても明るい。押し入れとこのカプセルの差は明るいか暗いかそれだけだ。けれど「閉じこもる」という感覚は幼い頃、慣れ親しんでいたせいなのか、どうしてなのかはわからないけれど、わたしにリラックスと安心を与える。窓から眺めるゆっくりとした変化しかしないロケーション。それよりもこのただの「明るい白に包まれている」というなんの視覚的変化のない蛹、その中に「閉じこもっている」方がいいって思える。

 

そうして数日が過ぎた。季節は四分の一だけ過ぎたみたいだ。ただ、お腹が空いた。蛹には食事を摂取するっていう習慣はないのか、そういう器官がないようなのだ。それに伴いわたしは排泄がなくなった。

 ふと糸が口からしゅるしゅると出てきたとき、噛んだ糸は甘かった、それを思い出した。そして蛹の殻を食べてみた。まるでお祭りで買った露店の綿菓子みたいだ。とってもおいしい。そして懐かしい。懐かしさっていうのはとても大切な気持ちだ。わたしにとって、青い稲やそれを通り越してあるバイク屋のネオン、お昼寝、柔らかいタオルケット、コタツで食べたシュークリーム、そして結婚後すぐに住んでいたモルタルのアパートからすぐの西友のネオンと喫煙スペースとエコー、それらすべてを大切だと思えるからこそ、今も大切だと思えるのかもしれないって思うのだ。たとえ今を大切だと思えなくても、振り返ってみると安普請のモルタルのアパートに近く西友が、とても美しい西友があってよかったなって肯定できるように。

それは夕方だった。わたしはあまりにもお腹が空いていたから、夢中で甘い蛹の殻を食べた。七時二六分、チャイムが押され、サオリさんが、自分の鍵で開けりゃいいのにと機嫌悪そうに言って、めんどくさそうに「はーーーい」と言いながら、玄関の鍵を開けたようだ。

「やあ、ハニー。改めまして、これからもよろしく。仲むつまじい関係をこれからも続けていこう」


 わたしは生まれていたのだ。それはダーリンの説明によると、「北川景子と綾瀬はるかと吉永小百合とクレオパトラを足して四で割ったような姿」であるそうだ。

おや? と自身の身体を見て思う。アンダーヘアさえ隠されていない。そうわたしは生まれたままの裸体であった。そうなのだ。真っ裸でマットレスの上に立っていた。そう自由をやっと手に入れたらしい。限度ある自由っていうのを。そしてすぐさま毛布を頭までかぶりしばらくそうしていて、毛布からひょいと顔を出してみた。笑顔のダーリン、部屋の外から、サオリさんもその光景をのぞいている。わたしは得意の照れ笑いを見せた。

「サオリ、出ていってほしい」

「いやよ! わたし友達にもメールしたし、ラインもした。いろいろあったけど、今は湾岸にそびえるタワーマンションの三六階に住んでるのってね。すべては順調なのってね」

「じゃあ、今度は今はこのアパートに住んでいますって、引っ越しをしてメールなりラインなりしたらいい」

ぴしゃんと大きな、スカッとするような音がした。つまりサオリさんがダーリンの左の頬をぶったのだ。

サオリさんは泣き出した。リビングから出ていって、自室に戻ったようだった。とぎれとぎれに少し大げさにも思える泣き声が聞こえ、それはわたしたちがベッドに入ってから、さらに大きくなった。もう鼻歌を聞くこともないのかな? そう思うと確かにセンチメンタルを少しだけ感じる。それとともに、タワーマンションに浮かれてしまって、湾岸にそびえたつタワーマンションの三六階に拘りたかったっていう気持ちもよくわかる。けれど、人生ってそういうものじゃない。わたしが芋虫であったり蛹であったりして必要だったサオリさんは、もう出番がないのだし、出ていくべきなのだ。人っていうのはそういう風に仕組まれている。そう自然に従うしかない。後退は猫と一緒であり得ないのだ。


サオリさんはとてもてきぱきした人だ。その日のうちに段ボールを取り寄せたかと思うと、荷物をまとめ、あのリビングでの会談があった三日後には引っ越し業者と一緒に去っていった。そして去り際に

「お姉さん、もうワンピースはいらないって思うけど。もう買わなくていいんじゃないの? わたしはまたお兄さんの事務所でバリスタ係として働くことになったわ。お姉さんは知らないでしょう? お兄さんがどんな格好でどんなお仕事をしているか。わたしは知ってるの。すべては順調よ。順調っていう言葉はこういう時に使うべきものなのね」

その言葉を聞いてわたしが思ったのは、サオリさんの人生っていうのは、いつでも順調なのではないか、という感想だ。


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