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セキセイインコ、君に敬す  作者: 多奈部ラヴィル
2/12

セキセイインコ、君に敬す

 怖い夢を見た。それはこんな夢だった。


バスに揺られていた。隣にはダーリンがいる。わたしは少しうとうとした。秋口。空気は透明だ。

バスを降りた。左腕にクラッチバッグを挟んでいる。そして炯眼に洞察する。トンボだって今透明だ。隠れて、否堂々と、透明なトンボはあちこちに止まっている。 

わたしは今日オレンジ色のブーティーを履いてきてしまった。連れのダーリンはカジュアルな格好で、アディダスを履いている。今朝、確かに迷ったのだ。ブルーのナイキにするか、それともオレンジ色のブーティーにしようか。多分結構歩くはずだ。

その日のわたしの格好は、Aラインの厚手のカットソー、これは濃いグレーで、その下に隠れるように履いている短いキュロット、これは黒で、そしてグレーの靴下だったし、バッグも茶色だったから、さし色にとまではしゃれっ気を出したという意識はしていなかったけれど、なんとなくオレンジ色のブーティーを選んでしまった。もしかしたら、久しぶりのダーリンとのお出かけだったからかもしれない。「お出かけ」が心に沈殿していたのだ。つまり張り切っていたといってもいいのかもしれない。そういう無意識がそのオレンジ色のブーティーをわたしに選ばせたのだ。けれどそれを今になって後悔してる。月曜日から金曜日までは磨かれた黒い革靴を履いているダーリンは、週末に履いたアディダスと軽いスウェットパンツがダーリンにとっての少しの「自由」を体験しているようで、わたしの方を振り向くこともなく、先へ急いでいる。いや、急いでいるわけじゃない。そのアディダスやスウェットパンツの軽さが、ダーリンを軽く運んでいるのだ。

 買ったばかりのブーティーだがすでに一回素足で履いている。その時靴擦れを起こしたが、靴下を履いている今日は靴擦れを起こさない。早くダーリンに追いつき、手をつなぎたい。ショッピングモール内の様々な店をのぞきながら、ふざけたり笑いあったりしたい。

 わたしは

「待って!」

と叫んだ。けれどダーリンが振り向くこともない。わたしはもう一回叫ぶ。

「待って!ダーリン」

やはりなぜかダーリンは振り向かない。

わたしは焦燥に駆られた。このまま、このままダーリンにわたしが追いつくことができず、ダーリン自身も自分の後や隣に、わたしがいないことに気が付いたとき、わたしたちはそれぞれの地点で間違いなく絶望を味わう。再会の機会はあり得ない。再会の手段がないのだ。このままではダーリンにもう会えない。

わたしは無性にさみしくなった。わたしに会えないと気が付いたときのダーリンだって、それをきっと感じる。それではダーリンが可愛そうだ。わたしは迷子になった子供のように泣き出した。そう、今のわたしだって確かに迷子の子供にも似ているのだ。そうして泣きながら、

「ダーリン、待ってよ。待ってよ」

と叫んだ。


 ふとおかしなことに気が付いた。わたしが「待って、待ってダーリン、ダーリン待ってよ。待ってよ」と叫んでいるのに、いいオトナが泣いているのに、混み合ったショッピングモールの行きかう人たちは、わたしを振り向かないし、一瞥もしない。それは「こういう場所だから」っていう意味なのだろうか? けれどダーリンにだってわたしの大声、「待って!」は伝わらないみたいだ。それは人ごみであるとか、距離を考慮してもおかしな気がする。「こういう場所だから」。けれどわたしはそうではないことに気が付いた。

「すみません、」

と声をかけた女性が、わたしがまるで、まるっきり話していないような、その女性に声をかけたという事実がないような様子で行きすぎていくのだ。その女性に尋ねたいことはこうだった。

「すみません、このあたりで、スニーカーとか、百歩譲ってフラットシューズとか、そうね、さらにもっと譲るならこの際ビーサンでもいい。それを売っているようなお店はどこかしら?」

と尋ねたかったのだ。


 コミュニケーション。わたしは相手のコミュニケートを引き受けられるが、わたしからコミュニケートするすべがないという存在に変身してしまったということにやっと気が付いた。それは「絶望という姿」だった。

つまり私の「待って!」という叫びはダーリンには決して伝わらない。わたしからのコミュニケートは不可能であるということはそういうことだ。それが「絶望という姿」だ。

そして私にはこういう予感があった。もしかしたらダーリンの隣や後ろに、わたしは存在しているんじゃないだろうか?


わたしは走り出した。絶望のまま。ショッピングモール内全部かどうかはわからないが、このあたりは床が適度にクッションが効いている。一回倒れそうに右に身体がぶれた。足首がぐにゃりと曲がる。今は特に痛みを感じない。すぐ立て直す。クッションが程よくある床っていうのはとてもいいものだと思う。ブーティーの先端とかかとの圧を分散してくれるみたいだ。汗をかく。このショッピングモールの空調が暑すぎるのか、それとも久しぶりに走っている、それもヒールを履いて、そのせいなのか区別がつかない。さっき炯眼な洞察を誇った。けれど世界にはわたしのわからない、炯眼に洞察してもわからないことはたっぷりある。それをトンボが透き通って止まっていることを炯眼に洞察していた時点でも知っていたのに、その知っていたことをわたしはうっかりと、無視していた。わたしは走る。ダーリンにやっと追いつく。

わたしはどうせ聞こえないだろうと思いながら、ダーリンの左手につかまりながら、

「ダーリン、わたしの声、聞こえなかったんでしょう? わたしってそうなんでしょう?」

とひとりごちたつもりだった。けれどダーリンはいつものダーリンのまま答える。

「こう人が多いとね」

わたしは狐につままれたような気分だ。

わたしたちは並んで自動歩道に乗る。わたしの左手とダーリンの右手はつながれている。そして大変なことに気が付いた。

「どうしよう!バッグをどこかに落としてきちゃった!」

ダーリンはわたしを見て

「左腕にクラッチバッグはあるけれど、それじゃあないバッグなのかな?」

「ああ、あった」

わたしはえへへと笑った。


バッグ。クラッチバッグ。それを左腕の間に挟んで持つということが馬鹿げて感じられてきた。挟むという行為。それは意識を掘り無意識を掘り私全体を凌駕してしまう、そういう持ち方だ。わたしは持ち方を変えようと思った。別にクラッチバッグを持っているからといって妙に張り切っておしゃれにみえようと画策などしていない。わたしは右手の親指と人差し指で、クラッチバッグの端をつまんで持った。わたしなりに思ったのは右手の親指と人差し指というのは、多分身体中の性感帯をのぞけば、一番敏感だと思ったからだ。持っているという事実のビビッド。


 そうしてダーリンに提案する。

「食器を買いましょうよ。取り皿がいいな。あのスペイン食器の店で買いたいな」

「OK。そうしよう」

 わたしたちはスペインの食器を主に扱う「デュマ」という店に入った。一つ一つの食器がやはり高価だ。でも買えないっていうほどじゃない。色鮮やかに焼かれた食器を一つ一つ見ていたら、嫌な予感がした。わたしが右手の親指と人差し指で挟んでいるクラッチバッグが、陳列されている食器にぶつかり、落ち、欠けてしまったり、割れてしまったらどうしようと思いついたからだった。特にガラスのグラスが並んでいるのを見たときには、くらりと、それもまた、わたしの感情を「絶望」と表現しても大げさではないくらいだった。わたしは

「ダーリン、ステキな取り皿もたくさんあるけれど、わたし迷ってしまうわ。とりあえずこの店は急いで出て、利休にご飯を食べに行きましょうよ」

と誘ってみた。

「そうかい? 僕には欲しい食器がたくさんあるように見えるし、君だって気に入る食器がたくさんあると思うのにな」

「お腹が空いたとだけ言いたいけれど、様々な問題を統合して考えた場合、今は取り皿を買わなくてもいいんじゃないかしらって結論が出たのよ。統合っていうやつがいかに大切かってってことダーリンも知っているわよね?」

「OK。そうしよう。君がそう思うのなら」 


そして私たちはカルディで無料のコーヒーをもらい、店内をぐるぐる見ながら飲んでいると、わたしは突然大変なことに気が付いた。

「どうしよう!バッグをどこかに落としてきちゃった!」

「君が右手の親指と人差し指で挟んでいるクラッチバッグのことかい?」

見るとわたしの右手には親指と人差し指で挟んでいるクラッチバッグが挟まれた部分が歪んでくぼみ、多少湿っているほどにシッカリ握られていた。

わたしはからからと笑って、

「右手の親指と人差し指がね、アロンアルファでくっついているんだと思っていたの」

それを、「どうしよう!バッグをどこかに落としてきちゃった!」という言葉とセットの冗談だとダーリンは受け取ったらしくって、からからと笑った。わたしは本気だった。本当に右手の親指と人差し指がアロンアルファでくっついていると勘違いしていたのだ。アロンアルファで右手の親指と人差し指がくっつく。それって日常生活において、結構な頻度で起こることだ。わたしの右手の親指と人差し指は少し鋭敏過ぎたのかもしれない。それは性感帯並みに。けれどわたしももう一回とからからと笑った。

 

わたしはクラッチバッグの正体がわかってきたような気がした。持っていることが当たり前であるとき、忘れているときにクラッチバッグはわたしに安心をもたらし、一回意識にのぼせると、突然そのクラッチバッグは失うかもしれないという、不安という存在に変わる。

 

利休に入り、わたしは牛タンの定食、ダーリンはタンシチューをオーダーした。しばらく笑いながら、冗談を言ったり、これ、すっごく辛いのよね、決して一気に食らいついてはいけないの。このおしんこは上品さを要求する、などと言ってみたり、シチューもなかなかいけるんだ、とダーリンも言ってみたりして、食事を楽しんだ。食後にウーロン茶を、ダーリンはホットで、わたしはアイスで飲みながら、「多分整形している芸能人」なんて一人一人を順番にあげてみたりして、ウーロン茶も飲みおわり、さあ、出ようと立ち上がって、ダーリンがお会計を済ます。


店を出てそれぞれトイレに入った後、ダーリンが

「おや、ハニー? クラッチバッグがないけれど、どうしたんだい?」

と言ってわたしはあまりにも何回も予想し体験してきた絶望が本当の絶望に変わったことが理解され、めまいに襲われてがくりとしゃがみ込み、背中がはって吐き気もし、ダーリンは

「また買えばいい」

そう言っているけれど、あったものが、いまはもうない。そういうクラッチバッグの死にも似た現実はわたしをただ、ただ、死にたさに押しやるだけだった。

そういう夢を見た。


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