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激怒した騎士

 ざまぁ版、第一弾です。

 大変お待たせしました。

 結局一万文字越えです……。

 描写自体は比較的さらっと書いておりますが、猟奇的描写がありますので、お読みの際はくれぐれもご注意ください。

 まだまだディートフリートは現実を理解していません。


 1シルバー1円な感じです。

 皇国内の通貨になっています。

 帝国でも使えますが、価値が変動します。

 それ以上の設定は今の所考えていません。



 全身を流れる汗に辟易としながら顔の汗を拭う。

 拭った布からも染みついた汗の臭いが鼻について眉根を寄せた。

 頻繁に訪れていたクラウディアのお蔭で、仄かに石鹸の香る清潔な布には不自由していなかったのだが、ここしばらく見るだけで元気になれる可愛らしい顔を見ていない。


 妊娠を告げられた過保護な家族が、活発なクラウディアを外へ出したがらないのだろうと簡単に推察できた。

 夫として、子の父親として堂々と迎えに行ってやらねばと思うも、アレクサンドラから連絡が来ないので、それも難しい。

 ディートフリートに惚れ込んでいたアレクサンドラが嫉妬の余り、陛下へ婚約破棄を願い出ていないらしく報告がこないのだ。


「ったく! 今更嫉妬とか、相変わらず可愛げのねぇ女だよな……」


 今までディートフリートが命じた事は全て迅速にこなしてきたアレクサンドラだ。

 今回に限って連絡が全くないというのは、どう考えてもディートフリートとクラウディアの仲をやっかんでいるとかしか考えられなかった。


「こっちからわざわざ連絡しても返事もよこさねぇたぁ、御仕置きが必要だよな。結婚の祝福は神殿長に頼むとするか……」


 神殿長はディートフリートに目をかけてくれている。

 最近では嫌々アレクサンドラを訪ねる度に労ってくれていた。

 祝福ぐらい気持ち良く引き受けてくれるだろう。


「ディートフリート・ヴュルツナー!」


 閉じていた目を大きく見開いて、声の方向へ素早く身体を向ける。

 その声は、何時だって第一騎士団長! と厳しくも優しい声でディートフリートを呼んでいたからだ。

 ディートフリートと同じように驚愕しつつも慌てて敬意を取る第一騎士団員達に目もくれず、オイゲン騎士総団長は、敵にしか向けなかったはずの威圧感を持ってディートフリートを睥睨する。


「ランドルフ・ヴュルツナー騎士総団顧問殿より伝言賜った。本日は本宅へ帰宅するべし! との事だ」


「はっ!」


 威圧感に負けて膝を折る。

 深く首を垂れても、憎しみに満ち満ちた鋭い眼差しがディートフリートの背中を容赦なく貫いた。

 顔を上げる許可も出さず、そのまま立ち去られた現実が理解できずに、ただ瞬きを繰り返す。


「……一体、何をそんなに怒っているんだ?」


 カントール第三騎士団長に時々揶揄されるほどに、部下の失態には寛容すぎる方だ。

 第一騎士団長という高位のディートフリートだが、騎士総団長を勤めるバッヘルにしてみれば、やはりディートフリートは大切にしているはずの部下の一人だ。

 本来なら有り得ない態度だろう。


「……もしかして、アレクサンドラが告げ口でもしたのか?」


 神殿に押し込められているアレクサンドラだが、抜け道は幾らでもある。

 そのうち幾つかはディートフリートが教えてやったものだ。


 バッヘルは王家への忠義が大変厚く、アレクサンドラの事も常々心配していた。

 王家の一族と言っても名ばかりのアレクサンドラが、バッヘルに心配されるような存在とも思えなかったが弱き者と判別しているのだろう。 

 バッヘルの女子供に優しい面は嫌いではなかったが、やはり相手は選んで欲しいものだ。


「しかし、本宅へ? しかも、呼び出しとか! どういうつもりなんだかなぁ、じっさまも」


 第一騎士団長になってすぐに、自分がヴュルツナー家の当主となるべきだと主張したのだが、一笑に付された。


 曰く、お前は幼すぎる、と。


 どこが! と激怒すれば。

 反論の許されない強圧と共に。


 全て!

 特に精神が幼子そのものだ! 


 と叱咤された。


 幼子の精神でどんな手を使ったら騎士団長になれるのかと問い詰めてやりたかったが、ランドルフを言いくるめるだけの実績がなかったので、その時は唇を噛み締めて我慢した。

 戦争の一つでもあれば、軽くランドルフの実績など塗り替えてやるものを。


「……待てよ? もしかして、アレクサンドラの奴。ちゃんと陛下に破棄を申し出ていたのか?」


 騎士総団長を介しての本宅への呼び出しならば、間違いなく重要な案件であるはずだ。

 だとすると、ランドルフの意に反して家督を譲らざる得なくなったのかもしれない。

 子の親になるならそれ相応の地位が必要であろうと、陛下に諭されたとも考えられる。

 ランドルフもバッヘルと同じく王家へ絶対の忠誠を誓っているので、ディートフリートが取ったアレクサンドラへの対応に腹を立てている可能性も高い。


「ったく。好きでもねぇ、ブサイク押し付けられて。散々貴重な時間をくれてやったんだ。慰謝料請求したいレベルだっつーのに。ったく、じっさまの王家第一主義には困ったもんだぜ」


 騎士団長に与えられている一室で、鼻を鳴らしながら汗をさっぱりと流して私服を取り出す。

 久しぶりとは言え、本宅に帰宅するだけだ。

 畏まる必要などどこにもないだろう。

 すれ違ったバッヘルが咎める目をしていたが、気が付かなかったふりをして笑顔で目礼をすると本宅へと向かった。




 騎士団には寮もあるが、ディートフリートは小さい一軒家を借りている。

 クラウディアと存分に睦み合うためだ。

 肉体関係を持つまでは寮住まいであったので、美味しい食事と疲れの取れるベッド目当てで頻繁に本宅へも戻っていたが最近はめっきりご無沙汰していた。


「……でも、よ? おかしいだろ、これ……」


 ヴュルツナーへ代々仕えてきた執事が腰を折り、おかえりなさいませ、ディートフリート様と、恭しく扉を開くのが今までだった。

 特に時間を指定した訳でもないのに静かに開かれる扉。

 門番から執事へ話が即時伝わるようになっているのだろうなと、随分昔に感心したことがあった。

 しかし、扉は何時まで経っても開かない。

 そういえば、門番も居なかったように思う。

 重い扉を自分の手で開いて絶句して後に叫んだ。


「……はぁ? なんだよっ! これはっ!」


 扉を開けて広がる玄関ホール。

 中央には二階へ続く階段。

 隅々まで丁寧に掃除が行き届き、代々陛下から承ってきた武具や調度品が品良く並べられていたはずのその場所。


「何も、ねぇって……何一つ、ねぇって?」


 掃除は神経質なまでになされていた。

 だがしかし、新築の屋敷のように何一つ調度品がないのだ。

 絨毯もないせいで一歩踏み出すと靴音が無駄に大きく響き渡る。


「一体……どうしたってんだ?」


 愕然としながらも、足を進める。

 真っ直ぐランドルフの部屋は向かうも姿はない。

 人の気配も全く感じられない。


「流行病とか? や。だったら俺にも連絡がくるだろう、さすがに……」


 執事他、使用人達が数十人はいたはずなのに、ランドルフの部屋へ行く途中に覗いた全ての場所に人影は見えなかった。


「後は……大広間か?」


 ランドルフが居そうな場所を考えながら歩く。

背後から何か悍ましいモノが追掛けてくるような気がして、自然と足が速まった。

靴音が耳につき、こめかみから冷たい汗が一筋伝う。


「じっさ! ま、ぁ?」


 訳の分からない不快感を振り切るように大広間へ続く扉を開け放つ。

 ランドルフは、居た。

 がらんとした何もない大広間にたった一つ置かれた豪奢な椅子に浅く座り、大きく足を開き、その間に剣を突き立て瞑想でもしているように目を閉じている。


「いったい、なにがっ!」


「剣を捧げよっ!」


「は、ぁ?」


「額づいて、剣を、捧げよっ!」


 剣を捧げると一口に言っても、色々な捧げ方がある。

 相手によっても、状況によっても違う。

 一人前の騎士になる儀式の最後に、その作法は教えられた。

 誰しも、絶対に使いたくないという思いを抱きながら。

 これが最初で最後でなくてはならないと真摯に誓いつつ。

 王族への不敬の罪で、断罪を待つ時専用の体勢を。


「ボケたのかよっ! それは陛下しかっ!」


 立ち上がったランドルフに対して、剣を向けてしまった。

 反射的にだ。

 ランドルフが今の今まで、敵にしか向けなかったはずの凄絶な殺気を放ってきたからだ。


「捧げぬのならば、それも良し」


「あ、ぁ、あ?」


 耳元でひゅんと風が鳴った。

 ランドルフと自分の距離を考えれば有り得ない、剣が風を切り裂く音だ。


 初めに感じたのは熱。


「がああああああああっ!」


 膝が砕けて純白が美しい床石に両掌をついた。


「あ! あがあっ! ああっ! うわぁああああああ!」


 痛みは太腿から伝い落ちる鮮血で下肢が血塗れになっていると、気が付いてからやってきた。


昨日さくじつ。爵位と名を返上した」


「は? いぎぃいっ! ぐぅっ!」


 上げようとした頭が踏み躙られる。

 視界が一瞬真っ暗になるほどの強さで額が床に打ち付けられた。


「屋敷も同様。資産も全て。使用人達の再就職の手配もすんでおる。わしの再就職もまた同様」


「いだっ! 痛いっ!」


 顎を蹴り上げられて空に舞いそうになった身体は、目の前を横切った数度の剣技による風の動きによって傷もなく整えられて、ランドルフの前に立たされている。

 有り得ない剣技に驚く余裕はない。


「本日を以って、貴様とは絶縁じゃ。好きに生きるがよい」


「なに、を、言ってる? 孫は、俺しかいない。ヴュルツナー家、が……」


「名を返上したと申したであろう? もう、ヴュルツナー家はこの世のどこにも存在せん」


「んな! 簡単にっ! 断絶、できるわけっ!」


「貴様のしでかした事を考えれば、生温い処罰よの。そうそう、これを、見るが良い」


 脂汗で見えにくくなっている視界を、必死の瞬きで少しだけ見えるようにする。

 ランドルフはディートフリートの目の前に剣を翳した。

 先程ディートフリートの下肢を血みどろにした剣だ。

 まだ血が滴っている。

 剣には肉も残されていた。

 

「これも、罰の一つじゃ。貴様に、子孫を残す幸福は生涯許されぬ」


 ランドルフの言葉の意味が理解できなかった。

 しかし、剣に貫かれている肉が球状をしているのに気が付き。

 二つ、あるのを認識し。

 痛みの場所を明確に特定して。


「あ! あああっ! それっ! それはぁ!」


 必死に手を伸ばす先で、それは。

 ディートフリートの、陰嚢は、燃やし尽くされた。

 聖炎せいえんと呼ばれる目にも眩しい純白の炎は、通常の炎と違って全てを焼きつくし、再生を許さない。

 本来は、悪霊や魔族に向けられる神聖な炎だった。


「ひ! ぎぃいいいいいい!」


「出血多量の死なぞに、逃げるのは許されぬ」


 剣先が更に大きく布を切り割いて傷口に押し当てられる。

 出血は、止まった。

 気絶すら許されぬ苦痛と肉の焼ける臭いを執拗に残しながらも。


「一つ、聞きたい」


 崩れ落ち、力なく血臭しかしない床に押し付けていた頬が持ち上げられる。

 髪の毛を引き上げられる痛みはなかった。

 実際あったのだろうが、下肢の痛みが強くて感じることができなかったようだ。


「何故、わしに相談せず、婚約破棄をした?」


「相談、するほどのことでも、ないと、思った」


「……ほぅ?」


「ずっと! ずっと! ずっと! 好きでもねぇ。何に一つ良い所のねぇ、女を、押し付けられて! 身を慎めとか! おかしいだろっ!」


 痛みも相俟って、ランドルフに罵声を浴びせる。


「!?」


 ランドルフから発せられる冷気に、周囲の温度が数度下がった気がした。

 顔全体からどっと有り得ない量の冷や汗が溢れ出る。


「……相性というものも、ある。陛下から賜ったありがたきご縁ではあったが、順番さえ守れば、最悪。いや、順番が守れずとも、手順さえ踏めば婚約破棄は可能であったのじゃ」


 髪の先まで凍りつきそうな目線で見下されながら、言葉が延々と続く。


「幼い頃は仲も良かったので安心しておったのじゃがの。ましてやアレクサンドラ様は年を重ねるごとに……下賤な物言いじゃが……その価値が理解できる尊いお方じゃからな」


「あの、女の価値、とかって?」


「……表向き冷遇されていても、アレクサンドラ様は国民にも広く貢献しておられる第一王位後継者じゃ。伴侶に継承権はないが高い地位は約束される。貴様の能力では届かなかった騎士総団長や騎士総団顧問の座へもバッヘル殿やわしより遥かに早く着任できたであろうな」


「俺の、能力っ!」


 最年少の騎士団長として着任できたのは、ディートフリートの能力が高かったからに決まっていると言うのに、ランドルフは何を言っているのか。


「貴様の能力など本来ならば団長にまで上り詰める力もない瑣末なものよ。バッヘル殿がわしやスヴェンの忠誠と実績を重んじたのと、アレクサンドラ様の手助けがあったから、どうにか着任できたのじゃ」


「あいつの、手助けって? はぁ? 何が、できたってんだ?」


 神殿に閉じ込められたままの状態で。


「自覚できておったら、婚約破棄を押し付けるなどという、非常識で非人道的な事はさすがにせなんだろうなぁ?」


 笑みが深くなった。

 狂気の微笑と呼ぶのに相応しい微笑だろう。

 少なくとも孫を見る目ではない。


「あのお方は、お前が周囲の迷惑を考えない行動をする都度に手紙を認めておったのじゃ。地位は低いが忠実なアレクサンドラ様の専用文官が、それを届けておったのじゃよ。美しい筆致での誠実な文章。冷遇されておっても王家に尽くす健気なアレクサンドラ様からの真摯な手紙を受け取れば、無碍にもできまい」


「ん、だよ、それっ!」


 ディートフリートがアレクサンドラと共に居る時に何度か、姿を見たことがある。

小柄で貧相な身なりをしていたが、瞳だけは鮮やかに美しい緑色をしていた珍しい女性文官だ。

 一度瞳の美しさを褒めてやったら、一瞬だけ凄まじい嫌悪を乗せてディートフリートを睨み付けてきた。

 次の瞬間には土下座をして感謝をしていたので、許してやったけれども。

 それ以降はフードを深くかぶっていたので二度と見えなかったと、どうでもいい事までも思い出した。


「愚かなお前はアレクサンドラ様を王族と認識できておらなかったようじゃがな。極々一部の愚鈍を除いて、アレクサンドラ様は手の届かぬ高貴なお方であると理解しておったのじゃ」


「陛下に冷遇されていたら、高貴なご身分も、意味ねぇだろっ?」


「冷遇には意味があると、推測していた人物は少なくない。良識ある者は皆、慈悲深いアレクサンドラ様に敬意を払っておったのじゃよ。だから貴様は……自ら足を運びこうべを垂れて、陛下に婚約破棄を申し出なければならなかったのじゃ」


 痛みは相変わらず酷いが少しは慣れてきた。

 騎士は怪我の程度をきちんと把握した上で、上手な痛みの逃がし方を会得している。


「更に王家との婚約故、当主であるわしも当然同席せねばならなかった……これだけ。たったこれだけの手順を踏まえておればっ! ヴュルツナー家が王家への不敬により断絶などと言う大惨事にならなかったのじゃがなぁ……今更申しても……詮無きことじゃの」


「仮に、きちんと手順を踏んでも、本当に婚約破棄はなされたのか? あいつ、俺に執着してたじゃねぇか」


「……貴様の目は飾り物でしかなかったのじゃな。確かに幼き頃は貴様に好意を持っていたそうじゃ。けれど、ここ数年は義務だけで貴様と対峙しておったとの仰せじゃ」


「は、ぁ?」


「逆の立場になって考えてもみるがいい。ただ一人許された相手に邪険にされ続ければ、好意どころか憎悪を抱いてもおかしくないぞ? あの方は、ただ……無関心になってしまわれたようじゃがなぁ……」


 後悔を突き詰めた瞳の先にはアレクサンドラがいるのだ。

 ディートフリートではない。


「あいつが、俺に、無関心? はっ! そんなはず、あるわけねぇ。結局婚約破棄だって、ちゃんと陛下に申し上げたんだろ? 俺の望む通りに!」


「……そう思いたければ思うがよい。確かにお前の望む通りの婚約破棄はなった。アレクサンドラ様は帝国へ嫁がれる」


「帝国だとっ!」


 ディートフリートが使っている情報屋によれば、ヴォルトゥニュ帝国は近くミスイア皇国へ攻め込む準備を整えているという。

 詳細まで掴めていなかったので陛下へ奏上していない情報だったが、そんな馬鹿げた話になるのなら未確定状態であっても早々に奏上すべきだった。


「駄目だっ! 陛下に、奏上をっ!」


「……何を、奏上する?」


「帝国がミスイアに攻め入るって情報を掴んでんだよっ! あいつが嫁ぐとか、弱み握られるだけだろっ!」


「奏上の必要はない。無駄じゃ。アレクサンドラ様がこの国を去れば、ミスイア皇国は時を置かずして滅ぶのじゃからなぁ……」


「んっとに! 何を言ってんだよっ! じっさまっ!」


「わしをじっさまと呼ぶな! 貴様とは絶縁したのじゃ! ……そもそも平民となった貴様に、陛下へのお目通りは許されぬ。貴様は多くの人生を狂わせすぎた。今更何をしても無駄じゃ。地に這いつくばって、己のしでかした惨事を見続けるがよい。死など、決して、許さぬ」


「ぎやあああああああああああああ!」


 また耳元で風切の音。

 今度は四肢が切断された。

 剣は鞘から抜かれた様子もなく、ランドルフの腰から下がっているというのに。

 目にも止まらぬ早業だった。


 新たな痛みに絶叫を上げる。


「ひぎぃいいいいい!」


 同じように傷口が焼かれ生臭い煙が立ち上る。

 煙は鮮やかに赤かった。

 訓練中の事故で見た血煙にとても良く似ていた。


「貴様の不貞相手にも相応の罰が下されよう。因果応報じゃ。だが、何の罪もない曾孫は……貴様の子だと言うだけで断罪されねばならぬ曾孫は……」


 不憫じゃ、な。

 と。


 皇国随一の聖剣使いと言われたランドルフとは思えぬ覇気なく掠れた声音に、ディートフリートは初めてランドルフが老人と言われる年齢の男であるのだと、激痛で薄れゆく意識の中で認識した。




「ああああっ!」


 全身汗だくになって飛び起きた。


「夢、だったのか?」


 周囲を見ればディートフリートの借りている一軒屋で、ベッドに横たわっている状態だ。

 首を持ち上げて恐る恐る見れば、手も、足もあった。

 だが。


「現実、だったのかよっ!」


 下肢に伸ばした指先に、あるはずの陰嚢が触れなかった。


「いぎぃ!」


 布越しにそっと触れただけなのに、新たな脂汗が全身から噴き出すほどの激痛を覚えたディートフリートは奥歯をぎりぎりと噛み締める。


「陰嚢はいかな術者でも再生できませんし、痛みは一生付き纏います。ですが軽減する方法は存在します」


「なんだとっ!」


 声のする方に首を捻じ曲げる。

 第一騎士団直属の治癒師が辛気臭い深緑のローブを身に纏い静かに佇んでいた。


「……存在しますが、今の貴殿には使えません」


「どうしてだっ!」


「治癒に見合う代金が支払えないだろうからです」


「はぁ?」


 何を馬鹿な事を言っているのだと、意識しない素っ頓狂な声が出た。


「まず、四肢を繋げる状態にしました代金が100万シルバー。次に四肢を繋ぎました代金が

4000万シルバーです」


「寝言は寝て言えっ!」


 100万シルバーは平民四人家族が一年生活できる金額。


 4000万シルバーは平民四人家族が快適に住める広さの家が、日々の生活に困らない程度の野菜が作れる畑付で買える金額。


「そもそも騎士の治癒代金は無料だろうがっ!」


「職務中の怪我もしくは不慮の事故であれば、無料です。ですが貴殿はそれに該当しません」


「事情、知ってるのかよっ!」


「こちらへ連れてくる際にランドルフ様に直接話を伺いました。ランドルフ様は放置しろとおっしゃったのですがねぇ……あの方も所詮は生粋の貴族。罰が生温い。王家への不敬で四肢欠損に陥った屑など害悪にしかなりません。五体満足精神健常状態であるからこそ、罪がより多く贖えると説得したのですよ」


 生殖能力と四肢を奪われた非道が、生温い罰、とは。


「王への不敬に対する許可済の断罪ですから、規定には該当しませんし、そもそも貴殿……」


 常にへらへらと笑っているだけの印象だった治療師の口の端が奇妙に吊り上る。


「騎士ではないのですから、無料治癒の対象外ですよ?」


 平民が貴族に向けたら不敬罪で罰せられておかしくないほどの、嘲笑だった。


「ランドルフ様より、貴殿が騎士でも貴族でもなくなったのも伺いました。正式な通達がなされたのも確認済です。さぁ、即時代金をお支払下さいませ」


 ただ傷を治すしかできない治癒師のあまりにも驕った発言に、視界が深紅に染まる。


「貴様にはっ! 怪我人に向ける情がねぇのかっ!」


「酷いおっしゃりようですねぇ。直属になる前には、違法でありますが料金を頂かずに治療したこともあります。事情を十分把握した上で罪人にも治癒を施しました。仲間内では治癒師一のお人よしと言われておりますよ。だからこそ、たった一人の第一騎士団の専属治癒師を勤めておりましたし」


 どういうことだと眉根を寄せれば、治癒師は楽しそうに言葉を続ける。


「どの騎士団より第一騎士団は、治癒師を大事にしないと有名でしたからねぇ……私以外は全員拒否したのですよ」


 心外だった。

 バッヘルのように治癒師がいなければ、騎士団は立ち行かぬ! と広言するほど特別扱いはしなかったが、カントールのように治癒師など使い捨てれば良いと、常に何人もの治癒師を抱えて最前線まで連れて行き酷使はしていない。

 無理をさせたと思ったら、特別手当も支払わせた。


「前線へ侍ることも許されずただ一人拠点で待ち続けるだけ。既に手遅れとなった者達を神殿にも連れてゆかずに押し付けて、治癒ができなければ無能と罵声を浴びせ暴力を揮う。特別手当というのはですね? 本来騎士団長が支払うべきものなのですよ。ご存じでしたか?」


 知る訳がない。

 怪我を負った者が支払うのが一般的に決まっている。


「知りませんよねぇ? 皆貴殿の八つ当たりを恐れて忠告なぞしませんでしたし。後は……アレクサンドラ皇女からの援助もありましたから……」


 また、アレクサンドラだ。

 あの女がでしゃばっているから話がおかしくなっている。


「慈悲深きアレクサンドラ様が、我が婚約者が無理をさせてすまないと、そんな風におっしゃって、わざわざ手紙をくださり、更には色々と縁を繋いでくださるから、皆放置していたのですよ。あくまでも彼の方の顔を立てていただけです」


「あいつがっ! 余計なこと、しなきゃ!」


「貴殿は騎士団長どころか、騎士として名を馳せる事も出来なかったでしょうね?」


「俺の実力ならっ!」


「純粋な剣技なら筆頭騎士が、策謀ならば参謀が、カリスマ性と指揮能力であれば副官の方が断然上です。貴殿は能力のバランスが良かったのと、祖父のランドルフ様、亡き御父上のスヴェン様の実績と王家からの厚い信頼があったから、かろうじて騎士団長に就任できたのですよ」


 ランドルフと同じ言葉だ。

 実績があるランドルフにならまだしも、治癒師ごときに言われる恥辱には耐え切れない。


「ふざけっ!」


「ふざけてなどおりません。貴殿以外の全てが知る事実で現実ですよ。あぁ……もしかするとクラウディア嬢も存じ上げなかったかもしれませんねぇ……」


 ただでさえ怒りに狂っていたのだが。


「クラウディアにまで、何かしたのか!」


 愛しい女の名前を貶めるように囁かれ、激昂のままに治癒師の襟元を掴み上げた。

 掴み上げようと、した。


「あががががっ!」


「申し上げましたでしょう? 激痛が一生付き纏うと。まぁ日常生活には支障はありませんけれどね」


 両腕に走った痛みに涙腺がぶちきれる勢いで涙が溢れ出た。


「代金は預金の方から引き落とさせて頂きますね。こちらが領収書です」


 ベッドの側に置かれた小机の上へ、紙切れが一枚置かれる。


「参考までに申しあげておきますと……痛みを消せるのは騎士団所属の治癒師か、神殿でも上の階級にある方々だけです。ああ、アレクサンドラ様でしたら簡単に消せるでしょう」


 涙目のままで、治癒師を見上げる。


 今までならば常に変わらぬ微笑を浮かべて。


『痛みますか? すぐに鎮痛剤を投与しましょう。こちらを飲んでください。塗り薬も塗っておきましょうね』


 と、過剰なほど丁寧な治癒を施したと言うのに。


 今は人を見下しきった嘲笑を浮かべたまま淡々と、ディートフリートが知らなかった、知ろうともしなかった現実を紡いでゆく。


「ですが貴殿にはアレクサンドラ皇女に拝謁できる身分がない。騎士団員でもなくなったので騎士団所属の治癒師には頼む権限もない。四肢欠損の復元に関しては、私とランドルフ様で決めた事ですから例外事項と思って下さい。そして神殿なら寄付を積めば可能でしょうが……」


 預金はまだ僅かだが残っている。

 使い果たしてでも治してしまいたかった。


「最近、神殿長の専横が問題になっている状態ですからねぇ。最低でも1000万シルバーは必要でしょう」


 1000万シルバー。

 預金を全額放出しても、半分以上は借金をしなければならない金額だ。

 騎士団長でなくとも騎士であったなら借金は容易だっただろう。

 利息なども最低限に抑えられていると、ギャンブルに嵌っていた部下の一人が言っていた。


「たかだか、この程度の痛みで預金を使われない方が宜しいと思いますよ? 現実は貴殿が考えているよりも遥か厳しいものです。結婚間近の婚約者が居る相手を孕ませたら普通はですね? 婚約者であったアレクサンドラ皇女と孕ませた相手の婚約者にも慰謝料を支払うものですよ」


 がんっと頭を鈍器で殴られた衝撃が襲う。

 アレクサンドラへの慰謝料はどうにでもできるだろうが、宮廷楽師の分までは考えてもみなかった。

 寝取られる方が間抜けだとは言え、宮廷楽師の身分は決して低くない。

 交渉が必要だ。


「そうそう。ヴォルフガング・バウスネルン殿は現在、王宮に常在しておられます。アレクサンドラ皇女を音楽でお慰めしているようですね」


 どういうことだ?

 バウスネルンはクラウディアにベタ惚れだった。

 側を離れるのを嫌っていたはずだ。

 陛下の命令だとしてもおかしい。


 ディートフリートの子を孕んだクラウディアを見捨てたのだろうか。

 だとしたらバウスネルンは、どうやって己の子ではないと知れたのか。

 ディートフリートは神殿の知り合いに金を握らせて、本人にもわからぬようにクラウディアを診察させたので、知り得る事が出来たのだが。

 同じように診察させたのか?

 クラウディアを信じきっていて、ディートフリートと関係があるなどとは想像すらしなかっただろう男が?


 解からない事が多かったが、直接問いただせばいいだけだ。

 ついでにアレクサンドラに言って、痛みも消させればいい。

 身分違いで会えずとも必ず抜け道はあるはずだ。


 しかし治癒師が、嘲るように嘯いた。


「アレクサンドラ皇女も、バウスネルン殿も。今の貴殿に取っては手の届かない遠い存在なのだと、ご自覚された方が宜しいですよ?」


 治癒師が家を出ていく寸前に目線を寄越したのは小机。

 恐らくは領収書。

 慎重に伸ばしたせいか痛みは走らない爪先で領収書を摘まみ上げる。


 宛名が、ディートフリート殿、と。

 平民になった証のように、家名なく綴られていたのが奇妙に目へ焼き付いた。




 新キャラが出てしまいました。

 文官さんも治癒師さんも帝国へ行く組みです。

 ディートフリートが痛みで昏倒している間に、ランドルフと色々交渉した治癒師さんはできる人です。

 後日談で、治癒師についてとか、平民出の苦労とか語らせたいですね。


 次は……誰にしよう。

 迷っています。

 側室か宰相、もしくは宮廷魔導師長の誰かになる気がします。


 誤字脱字、ストーリー上の齟齬など指摘いただけるとありがたいです。

 齟齬に関しては修正に時間を頂く場合がありますので、ご了承ください。


 お読みいただきありがとうございました。

 次回も引き続きお楽しみいただけると嬉しいです。


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