沖田を見たか
京の西大路の外れに、――小松屋。という一膳めし屋があり、その店内に刀を落とし差しにした浪人らしい男が駆け込んできた。浪人は、にわか雨に打たれて濡れている。
「やっていますか?」
浪人は、濡れた体に手ぬぐいを走らせながら言った。天候が悪いこともあり店内は薄暗く、ほかの客の気配もない。
「見てのとおり」
女主人の紗南が溜息まじりに言った。客はいないが店は開いている。
「はぁ……誰もいないようですが、開いてるんですね?」
「見てのとおりよ」
紗南は情けない顔をしてまた言った。朝からのれんを出して、もう昼過ぎだというのに客が一人もこない。
浪人は汚い身なりをしているが穏やかな感じでまだ若い。人懐っこい感じで、どうしていいのかわからないような笑顔を浮かべるので、紗南もつい気が緩んだ。
「やってるから、好きなところに座って。お店が繁盛しないのは侍のせいなのよ。天朝様か将軍様か知らないけど、喧嘩はよそでして」
二か月前の蛤御門の変で、京では多くの家屋が焼失した。紗南の店の周辺は被害を受けなかったが、市中の混乱は収まらず客は減るばかりだ。
「そうですね……」
浪人はバツが悪そうに首をひねって頭を掻いた。笑顔になんともいえない愛嬌がある。浪人の陽光のような笑顔に照らされ、紗南の湿っていた気持ちがいくらか乾いた。
「あはっ、あんたが悪いとは言ってないから」
浪人の幼い笑顔に気を許して、つい弟に接するような気持ちになった。まだ十代かと浪人にたずねたら二十歳で、紗南と同い年のようだ。
浪人は腕に怪我をしている。
「怪我を……。刀傷じゃない?」
紗南は浪人を奥に上げて手当てをした。
「すみません」
「いいんよ。客はおらんし暇だから」
「でも、私など知らない者を座敷になど」
「気にしないで。ここ、客用の座敷だもん」
幸い傷は浅かった。手当てが終わって、なんにする? と紗南が聞くと、浪人はもう帰ろうとしている。紗南は驚いて浪人の袖を引いた。
「あんた、雨宿りした上に傷の手当てまでしてもらって、なにも頼まないで行くつもり?」
「はあ……。それが、どうしたわけか財布がないんですよ」
浪人はぺたぺた懐や袖を触って悲しい顔をする。
「強盗にでもあったの?」
「まあ、そんなところです」
「刀で脅されて財布を渡したの?」
「いや、道を歩いていると博徒が絡んできて金を出せというので、『出さない』と言ったらいきなり短刀で斬りかかってきたんです」
「博徒が……。それで?」
紗南は眉根を寄せた。近頃は物盗りや押し込みが多発して物騒だ。博打に負けた腹いせに浪人を襲ったのだろうか。世相が荒れて、侍も町人も気が変になっている。
「たかが強請りを斬って捨てるのも可愛そうだったので、私は逃げました。財布はそのときに落としたようです」
浪人はそう言って頭をまた掻いた。照れ臭そうに笑ってる。
「結構な分別やな」
紗南は手の甲を唇に当てて笑った。
侍が、ならず者に脅されて財布を渡して謝ったとは言えないだろう。紗南もそれ以上は聞かないでやった。
ツケということで紗南は浪人に飯を食わせた。
「おかわりをいいですか」
遠慮気味に浪人は椀を出す。
浪人の笑顔に屈託がない。今は薄汚れた格好をしているがよほど育ちがいいものと紗南は思った。椀に飯をよそってやると、飯に汁をかけて浪人はさらさらやるのだが、その姿もどこか上品だ。
「似合わんな」
紗南は浪人に言った。
「あんた、田舎は関東じゃないか。侍の格好してはるけど、商家の二男か三男と見たな。家を飛び出して京に上って一旗上げようとしても、あんたの好きにはならんよ。似合わんことせんと田舎に帰りな。死んだらなにもならんから」
紗南は最初、弟を叱る感じで言っていたが、最後は優しそうな声音だった。
「優しいですね」
浪人は、ご馳走さま、と椀の前で手を合わせた。
「京の女だからね。優しい上にお節介」
「しかし、生まれは江戸ですね。なまりでわかります」
「あら、わかるの」
紗南は綺麗な白い歯を見せて笑った。たしかに江戸の神田の生まれで十四のときに売られて来た。芸妓をやらざるを得なかったのだが、十八歳で客の男に身請けされて、その男が早死にしたために独立してこの店を開いた。
紗南が自分の生い立ちを話すと、
「紗南さんのお店なんですね」
と、浪人は聞いたばかりの名を言って驚いた。まだ二十歳で店持ちとは。座敷を合わせると三十人は入れそうな立派な店だ。
「うん。店持ちになれたのは運が良かったのよ。でも、そのあとがだめね。人を雇おうと思ったけど、客入りがさっぱりで一人で十分だもん」
紗南は自分の生い立ちついでに名も名乗ったが、浪人は名乗らない。腕っぷしは弱そうだから、長州かどこかの天朝方に雇われて情報収集のようなことをやっているのだろうと紗南は睨んだ。今時分、京をうろついている浪人はみんな訳ありだ。
「お代は、かならず持ってきますので」
浪人はそう言って頭を下げた。
「ところで、名乗らないの?」
帰ろうとした浪人の背中に紗南が言った。
「はあ……」
浪人は首をひねった。笑顔と共に首をひねるのが浪人の癖のようだ。
「なによ。嘘の名前を考えてるの? あんたみたいな若造が、そんな気配りいらないわよ。お尋ね者だったとしても、どうせ小者でしょ」
「まあ、そんなところですね。なら、太陽ということで」
「太陽……さん? それは下のお名前?」
「下ですね」
「ふーん、なら太陽さん、待ってるから」
変わった名前だから、あるいは本名かと紗南は思った。
太陽はそれで帰ったのだが、その日は客が彼だけで、太陽のことを思い出す時間が十分にあった。印象深い若者だ。
(身なりを整えれば、娘にも騒がれるのに)
紗南は太陽の真似をして首をひねってみた。
まだ若くて男前だった。太陽がどこかの娘と暮らす姿を勝手に想像して、紗南はその想像に嫉妬した。会ったばかりというのに、太陽の人懐っこい笑顔を思い出すと他人の気がしない。しばらく太陽のことを考え、紗南はかぶりを振って苦笑いした。芸妓時代もその後の落籍時代も男に苦労ばかりさせられてきた。もう男などこりごりのはずだった。
次の日に太陽は二分金を一枚持ってきた。
「ひえっ!」
と、紗南は大げさにおどろいて見せた。
この大金の裏に何か魂胆があるのかもしれない。京では天朝方と幕府方に別れていざこざが絶えない。蛤御門の変のあとに長州勢が駆逐されて長州の後援を受けていた浪人が減っている。紗南の見るところ、太陽は長州に雇われている浪人で、紗南を京の街の情報収集に役立てようとしているのではないか。
「これで、新撰組のことを聞いたら私に教えてください」
真っ直ぐに太陽は言った。紗南の予感が当たったようだ。
「新撰組の……?」
太陽があんまり直線に物を言うので紗南は一瞬目眩がした。一度しか会っていないのに信用されたものだ。しかし、新撰組といえば反幕府側の者を探し出して斬りまくる恐ろしい集団で、あまり関わりたくない。
「ええ。新撰組を名乗る者がこの界隈で御用盗を働いているんです」
「御用盗を……」
紗南は眉をひそめた。御用盗といえば押し込みと一緒だ。金を出さなければ国賊だと罵り、商家から金を強請る。
「泥棒か役人かわからないやつらね」
最近、新撰組が店にも来たが、天下国家のために貢献しろ、と訳のわからない理屈で金も払わない。新撰組もそうだが、このところ得体の知れないよそ者が京に絶えずやってきて横暴を働き、庶民にとっては迷惑この上ない。
「ここにも来たんですか……。そういう横暴をやめさせたいんです」
太陽は怖い顔をした。
「太陽さん、あんたらが天下を取ったら平和になる? なら、助けたげる」
と言っても店で入る話を耳打ちする程度だから、紗南は軽く引き受けた。
太陽が紗南の店で飯を食うと、必ず二分金一枚を置いていった。
「お金はどっちでもいい」
と、紗南は言った。
世の中が良くなるのなら店で入る新撰組の情報などただでくれてやる。それに、なんとなく姉貴肌で太陽の世話を焼いているだけで、こんな大金などいらない。二分といえば町人がひと月も暮らせる額で、溜まっていく二分金を見ていると恐ろしくなる。
「まあ、預かっとくけどね」
それでも紗南は金で苦労したから、いつか役立つかもしれないと思い、貰った金を押入れの奥に隠した。
新撰組がたまに店に来る。紗南の店は酒を出さないが、出さないと「買ってこい!」と凄まれるので、やむなく酒を仕入れるようになった。
「本当に新撰組ですか?」
と、その様子を聞いた太陽が聞くと、
「でしょう。『新撰組が来てやった』とか自分で言ってるもん。すごく態度がでかいの」
特に、沖田総司が悪いやつだと紗南は言った。
「沖田総司が……」
市中の者は誰でも知っている。高名な新撰組の剣客だ。
「あんなやつ」
と言って、紗南は珍しく舌をチャッと鳴らしたから太陽は驚いた。紗南は元芸妓で目元が美しく、言葉遣いに乱暴なこともあるが所作はいつも舞うように美しい。
「沖田総司は悪いやつですか?」
「悪いもなにも」
紗南は左右を見回し声を潜めて、
「酷いものよ」
と言った。
まだ若い。若いだけに分別がつかないのか、食い物や飲み物を出すのが少しでも遅いと紗南を口汚く罵って酌も強要する。物を投げつけられたことも一度や二度ではない。厄介な客は一人でも御免だった。
「店を仕舞わなければならないかも」
紗南はあるとき、飯を食いに来た太陽に言った。
「店を辞めるつもりですか……?」
「客が来ないからこのままじゃ潰れるもん。ぜんぶ侍のせい」
「困りましたね……」
太陽は首をひねった。笑顔はない。
「大丈夫よ。なにをやっても生きていけると思うし。でも、もしも潰れたら責任取ってくれる?」
「私がですか」
太陽は迷惑そうな顔をした。
「侍だから、連帯責任よ」
「はあ……。どうしたら責任を取れますか」
太陽も紗南も笑ってる。二人とも言葉遊びを楽しんでいるようだ。
「私をなんとかしてよ」
「紗南さんを?」
「うん」
太陽をからかっているのか、うなずきながら太陽に顔を近付け、紗南は唇を突き出した。
「な……」
太陽は赤面して顔をそむけた。
太陽は毎回二分金を支払う上客だから彼専用の席がある。新撰組などの幕府側に見られない配慮で、奥の座敷に衝立を設けて太陽のために目隠しまで紗南は作っていた。ここなら、いざとなれば裏から逃げられる。だから、ほかの客はいなかったが、いたとしても誰にも見えない。
「や、やめてください、からかうのは」
「あら……」
紗南は真剣な顔で抗議する太陽に申し訳なくなった。軽い冗談のつもりが、そんなに可憐な態度を取られたら、こっちが恥ずかしい。
(ないのかしら……)
と、紗南は紅に染まった太陽の頬や首筋をこっそり見た。女の経験が……である。
その日、新撰組の連中が昼から紗南の店に来ていた。
女一人の店だから脅しがきくと舐めているのか、だんだん店がたまり場のようになっていた。金は、たまには払うがとても足りない。
(彼に顔を見せてやろう……)
太陽は沖田総司に興味があるようで、紗南が沖田の人相書きを描いてやったが下手すぎて伝わらなかった。今なら来店した沖田の顔を奥からこっそり見ることができる。
だが、店からどう出るか……。
紗南は、にわかに怒ったふりをして昼間から酒をあおる無頼漢どもに言った。
「あんたたち、いいかげんにして。私はこれから知り合いの法事で出掛けるんだよ。今日は閉めるから出てって」
日頃は、大人しく接客をする紗南が突然声を荒げるので、三人の男たちは面食らった。
男たちは顔を見合わせ、次いで赤ら顔の無精髭が、
「女!」
と凄む。しかし紗南も負けない。
「酒も食い物もたくさんあるから、あとは勝手にやってちょうだい!」
紗南は激怒したふりで店を飛び出した。
しかし、太陽の居場所がわからない。
(私としたことが……)
紗南は道を歩きながら途方に暮れた。
近所の者に太陽のことを尋ねてまわると、
「さっき、新撰組に連れていかれた」
と、豆腐屋の女房が驚くべきことを言った。
「新撰組に!?」
紗南の頭が真っ白になった。
「彼は捕まったの?」
「でしょう……」
女房は太陽が紗南のお気に入りの客だと知っているから気の毒そうな顔をした。愛嬌のある青年だから女房も太陽が好きだ。女房が言うには、新撰組のダンダラ羽織を着た連中に囲まれてしょっぴかれて行ったという。浪人が新撰組の屯所に連れていかれたら、首と胴が離れなければ出てこれない。嘘か本当かわからないが、それが京の町人の常識になっていた。
「い、いつ?」
「ついさっきだよ」
紗南はそれを聞いて、おもわず駆けだした。駆けて救えるわけもないが、自分の目で確かめてみたい。なにかの間違いかもしれない……。
新撰組の屯所がある壬生まで駆けて行ったが、太陽にも新撰組の隊士にも会わなかった。
太陽が、すでに中に連れていかれたあとかもしれないと思い、周辺をうろうろして中をうかがっていると、
「誰だ」
と、屯所の門番が紗南に声をかけた。
「いいえ……」
紗南は頭を下げて帰ろうとしたが門番はしつこい。
「どこの誰だ。要件を言え」
女をからかっている感じではなく、不審を感じているようだ。紗南が血相を変えて門の奥を覗こうとしたのが不味かった。
「い、いいえ……。怪しい者ではございません。道に迷いましたもので」
「そうは見えんな」
門番は紗南の腕を掴んで屯所の中へと連れて行った。その腕の痛みで、自分の身に危険が迫っていることに紗南はようやく気づいた。京で鬼のように言われる非常警察組織の新撰組だ。組織の特徴として蛇のような疑り深い粘着質の気質があり、こうなったら簡単には解放されない。
「なにを探っていた」
と、門番に連れられながら腕を乱暴に引っ張られ、その痛みでつい、
「あんたらなんて大っ嫌い」
と、紗南は叫んだ。
太陽が天朝側のどういう組織に使われているのかわからなかったが、彼を手伝うことになって、その端くれのような気で紗南はいた。こうなったら新撰組は敵だ。自分の店で無銭飲食するだけでも憎たらしい。
「殺せ、殺せ!」
と、紗南はもがいて門番の手を振りほどこうとした。紗南は珍しいほどの美人で、特に目元に匂うような美しさがある。門番はますます紗南がただの町人には思えなくなり、よほどの間諜を捕まえたのかと上に報告した。
紗南は庭に座らされ、しばらく待たされると、奥から身なりの良い侍が出てきた。
「いずこのお方かな」
縁側の侍は穏やかに言ったが、紗南は地面に座らされ罪人扱いだ。どうしようかと思ったが、
「私の名は紗南だ。小松屋の女主人だ。金を返せ!」
と、紗南は怒鳴りちらした。
金返せ! と何度も叫んでいると、無銭飲食をする新選組隊士の金を取り立てに来たように紗南自身が錯覚した。
「金かえせ! 金かえせ!」
と一本調子で紗南は喚いた。借金の取り立てで押し通そうと思った。
「どうした」
と、障子の奥から目の涼やかな男が出て来た。
「あ、副長。この女、小松屋の女主人だそうですが、隊士の飲食代を払えと言っています」
「飲食代? 女、いくらだ」
「はい……」
紗南はきょとんとした。
副長というのは泣く子も黙る新撰組副長、土方歳三ではないか……。
「あなたは、土方さん……?」
紗南は下から伺うように言った。紗南でもその名を知っている京の名士だ。
「俺は、あんたにツケはないはずだぜ」
土方が笑って言うと、取り調べをしていた男も笑って少し場が和んだ。もう、この場は借金を取りにきた女を演じきるしかない。紗南は懇願するように言った。
「このままなら、私は首をくくるしかありません。もう死んだも同然です。金を払うか、いっそここで殺してください」
「これはこれは……」
土方は表情を消して言った。
「小松屋の女主人は、そこまで金に困ってないはずだが。金を余分に払う客がいるだろ?」
その冷たい表情に、氷の矢で心臓を射ぬかれた気がした。土方は紗南と太陽のことを知っているようだ。紗南が太陽の手伝いをしていることもばれているのかもしれない。
「どうした、歳」
と、座敷の奥から目の吊り上がった四角い顔の男が出て来た。紋付袴で身分が高そうだ。
(あ……!)
と、紗南は思った。この特徴的な風貌の持ち主のことは噂で聞いている。新撰組局長の近藤勇ではないか。
偉い人に囲まれて紗南はわけがわからなくなりそうだった。太陽は無事だろうか……。紗南は腹をくくって土方や近藤の顔を見据えた。もしも太陽が無事なら、新撰組幹部の顔を彼に伝えることができる。使命があると思うと恐怖も薄らいだ。
「小松屋の女主人が借金の取り立てだそうですよ」
土方が近藤に言った。
「また金か……」
近藤は金の工面に苦労しているのか、への字の口をますます曲げて奥に下がった。
「紗南、お前のことは知っている」
土方は役者のような目鼻立ちの整った顔で冷たく言った。
「江戸で生まれ、京に十四で売られてきた。十八で身請けされたがその旦那がすぐに死亡。……お前が殺して金を奪ったんじゃないかって噂があるのも知っている。十九であの店を開いた資金、あれはどこからきた。天から金が降ってくるわけでもあるまい」
「………………」
紗南はあまりにも自分のことを知っている土方に震え、表情からなにかを読み取られないように下を向いた。店に来る新撰組は太陽の追い手かもしれない。すでにどこまで調べが付いているのかと思い、紗南はぞっとした。紗南の白いうなじが土方に向いている。ちょうど、打ち首をされるような姿勢だった。
夕暮れになり、紗南は京の街をふらふらと歩いていた。霊魂になったわけではない。
殺されるか牢に入れられるか……。そう思っていたら、
「ああ、癖でね。奉行所役人じゃないから店の経緯などどうでもいい。隊士の飲食代は払おう」
土方はそう言って、紗南の言い値の三両二分を払ってくれた。
(どうして解放されたのかしら……)
と考えたが、よくわからない。泳がされているかもしれず、新撰組に監視される生活が始まるかもしれない。だとすれば、太陽は新撰組から逃げおおせたのだろうか……。
紗南は太陽を探して一緒に逃げようと思った。土方から取った金と、店に仕舞ってある太陽に貰った金を合わせれば相当な額になる。江戸に帰って店を始めれば太陽くらい食わせてやれる。
店に帰るとまだ新撰組の三人が居座っていた。沖田総司もまだいる。
「あ…………!」
と、奥の座敷に座る男を見て紗南は身体の外に心臓が飛び出すかと思った。太陽が座っている。奥から太陽は入ったようで、新撰組にはまだ気付かれていないようだ。紗南は裏から入って太陽に逃げるように言った。
「男が逃げるのは清くないなあ……」
太陽は照れたように笑う。
「なに言ってんの、あんた、逃げるのは得意でしょ。あの連中、新撰組よ。あそこの隅に座ってるのが沖田総司。顔だけ覚えて早く逃げなさい」
「あれが、沖田総司……」
首を伸ばすようにして太陽は沖田を見た。沖田は新撰組一の手練れだという。しばらく沖田を見つめ、ようやく腰を上げたので、
「早く」
と紗南が奥の戸を開ける。しかし、太陽は紗南に背を向けて店内に向かって歩きだした。紗南が止めようとしたが間に合わない。
沖田の前に太陽は立ち、
「あなたが、新撰組の沖田総司ですか?」
と聞いた。
「あなたは……?」
沖田が冷めた視線で太陽を見上げる。酒が入っているはずだが、正気は失っていない。
「いや、通りすがりの者ですが、あなたの顔をよく見ておきたくて。ちょっと珍しいですから」
太陽は顔を突き出して、おちょくるように沖田を見た。
「なんだァ、貴様あ!」
沖田の傍らの大男が太陽の胸倉を掴む。そのまま太陽を路上に連れ出した。
(あの人は、死ぬ気ではないか……)
紗南も、転がるようにして連れ出された太陽を追って外に出る。太陽は、三人に肩などを突き飛ばされながら何か声を掛けられている。その様子を、紗南は掛け衿を両手で握りしめて見ていた。
(早く逃げればいいのに……)
と思ったが、すでに彼は逃げられないほど追い詰められているのかもしれない。
太陽は、雄大に構えて夕日を背に風に吹かれている。なぜか微笑み、その余裕があるさまは、死を決した男の佇まいか。太陽は新撰組三人に囲まれて絶体絶命だ。紗南が、とにかく大声を上げて割って入ろうと息を吸い込むと、太陽が紗南の方を見てかぶりを振った。
「あ……!」
紗南はおもわず叫んだ。
太陽が横を向いた隙を沖田は見逃さない。
沖田が素早い動作で刀の柄に右手を走らせるのと、太陽が同じ動作をするのが同時だった。だが太陽の抜刀の方が早い。白刃がきらめき太陽の抜いた刃が一閃し、沖田の首が胴を離れた。沖田は柄に手をかけたまま、抜刀の途中の姿で絶命した。その沖田の首と胴体が地上に落下するまでのわずかの間に、沖田の両隣の新撰組の二人も太陽は斬った。鬼神のような技だった。誰一人、刀さえ抜かせない。
どうっと三人が倒れ、太陽はそこに立ち尽くしている。
紗南はなにが起こったのかしばらく理解できなかったが、我に返って太陽に言った。
「逃げよう」
太陽の手を引いて店の中に連れてゆき、風呂敷をひろげて紗南は手あたり次第に物を包んだ。
「紗南さんが逃げるんですか……?」
太陽は不思議そうに紗南に聞いた。
「あんたと一緒に逃げる。あんたの面倒は見てあげるから」
「はあ……」
「さあ!」
「……本当に紗南さんは私の姉みたいですね」
太陽は頭を掻いて続けた。
「私には本当の姉が田舎にいるんですが、紗南さんと似てますよ。すぐにカッとするところとか、面倒見がいいところとか」
「姉なもんか!」
突っ立っている太陽を紗南は叱った。人を斬ったばかりだというのに、何をこの男はぼんやりしているのだろう。
(だいたい)
と紗南は思った。
(同い年だし、面倒見がいいのは姉じゃなくて女房だろう)
冗談でも、「女房みたいだ」となぜ言わない。
紗南は恨みったらしく、
「まだ私は若いのよ。どうして私を女として見ないのです。冗談でも、姉ではなく女房に例えなさい」
「それでは……。私の女房みたいですね」
太陽は真面目な顔で言い直してくれた。
「あはっ」
と、笑っている場合じゃないが紗南は笑ってしまった。太陽の、そういう馬鹿正直なところが嫌いじゃない。
支度を終えた紗南が太陽の手を引いても、太陽は苦笑いをして動いてくれない。
「なにしてるの、すぐに新撰組がくるわよ。私、新撰組に監視されてるの。一緒に逃げても、私の婿になんかしないから安心して。とにかくここから逃げるの!」
「紗南さん、違うんです」
鬼のような形相で紗南が太陽の手を引いても、やはり太陽は困ったような笑顔を浮かべて首をひねるばかりだった。
「なにが違うってんのよ!」
「実は……私は新撰組の者で、御用盗の調査をしていました」
「えっ……!?」
太陽がなにを言い出しているのか紗南にはわからない。
「この界隈で新撰組の名を語る御用盗が出没して、私はその調査をしていました。新撰組の名を語れば金が出やすいですからね」
「……あなたが新選組? なら、あの人たちは新撰組とちがうの?」
紗南は路上の死体を恐ろしそうに見た。
「違います。彼らは神出鬼没で尻尾がなかなか掴めません。だから、わざとこの一帯を新撰組の見回りから外し、彼らが暗躍しやすいようにしたんです。そしたら……」
と、太陽は首をひねった。
「偽者の沖田総司までが出没しだしたんです」
「……じゃあ、あの首なしも沖田総司さんじゃないってこと?」
「ええ。私が沖田総司です」
「ええっ……!?」
紗南は気を失うかと思った。
本物の新撰組隊士が紗南の店の界隈を巡察するようになると、御用盗どころか得体の知れない浪人の姿まで見えなくなり、治安は急に回復した。徐々に客足も戻ってきた。
(最初から、見回りまくればよかったのに……)
紗南は夢を見ていたような気がした。土方が自分のことに詳しかったのは、沖田に自分のことを聞いていたためだったようだ。
「今更、沖田さんとか言えんし」
と沖田に言うと、
「あだ名が太陽ということで、そう呼んでもいいですよ」
と沖田は言って、よく食べにきてくれるから彼の専用席もそのままにしてある。汚い浪人の格好は変装だったようで、沖田となった彼は急に小奇麗になった。
「あんな嘘つきは知らん」
と豆腐屋の女房には愚痴を言ったが、店が混んで座席がいっぱいになっても、紗南はあの席だけは誰にも座らせなかった。