金印弁(きんいんべん)
金印弁
その日、亀井南冥が自宅兼私塾、蜚英館の門を出たのは、青く霞む筑紫連山が白み始め、太白星が東の空に残っている頃であった。つい二か月程前、私塾に隣接して開校した藩校、西学問所の玄関に掲げられた甘棠館という文字を見上げる南冥の頬には自然と笑みが浮かんだ。一つの目的を達したという思いが彼の自尊心をくすぐるのである。
天明四(一七八四)年二月、福岡藩は東・西二つの学問所を同時に開設した。東学問所(修猷館)と西学問所(甘棠館)である。東学問所の祭酒(館長)には貝原益軒の高弟竹田定直の孫、竹田定良が就任した。東学問所で講義する「朱子学」は、君臣父子の上下関係の秩序を重んじた大義名分を提唱する封建支配の理論的根拠であって、林羅山以来、江戸幕府の公認の学問であり、福岡藩の藩学でもあった。
一方、西学問所の祭酒に就任したのは亀井南冥である。西学問所で講義する「古文辞学」は、荻生徂徠が唱えた学派で、真理を解するためには漢唐の古義(古文辞)に回帰し、経世実用の学とならねばならないと主張するものであった。
「さて、行くか」
南冥は屈みこんで草鞋の紐を締め直し、立ち上がって呟いた。
西学問所のある福岡城下唐人町を出て、黒門川沿いを歩き、福岡城の堀端の小道を暫く行くと、大手門に続く坂の両側の大木から舞い落ちる花びらが風に誘われて急ぎ足で通り過ぎる南冥の頬を撫でていく。南冥が向かっているのは志賀島という小さな島である。その島で、その年の二月、藩校開設と時を合わせたかのように、小さな印が地中から出土した。その印が一体何であるのかを調べる任務が彼に課せられたのであるが、その任務の遂行は南冥の学者としての名声を高めるか或は失墜させるか、重大な分岐点となるものであると彼は位置づけていた。
博多湾沿いの道を東へ歩いて、那珂川に続いて御笠川という二つの川を渡ると白砂青松の千代の松原と波静かな博多湾の夜明けが、南冥を待っていたかのように、眼前に広がった。千代の松原の中には、筥崎八幡宮という応神天皇を祀る神社がある。福岡藩の初代藩主黒田長政公が寄進した鳥居を潜って筥崎宮の本殿に向かい、柏手を打って頭を下げた後、暫しの休息を取った。かつてこの筥崎の地で「伴天連追放令」を発した太閤秀吉は千代の松原の中で博多の豪商を招いて茶会を催した。それを仕切ったのは千利休であるが、その縁であろうか、利休が寄進したといわれる灯籠が本殿の脇にひっそりと立っている。この灯籠が武士や商人から寄進された他の灯籠に比べていかにも貧相に見えるのはなぜであろう。多々良川の流れを渡りながら南冥は思いを馳せる。この川の上流には、足利尊氏と菊池武敏が戦った多々良浜古戦場があり、そして、博多湾への河口には小早川隆景が築城した名島城跡がある。その建材は福岡城築城の際、悉く持ち去られて今は往事の面影はない。
川はその濁りの中に権力の危うさと儚さを全て呑み込んで滔々と流れている。
仲哀天皇と神功皇后の廟、香椎宮に参拝し、和白という村に差し掛かったのは巳の正刻を過ぎた頃であった。海辺の茶店に腰を下ろし、休息を取った。渇いた咽喉に暖かい番茶が殊の外うまい。この地がいつから和白と呼ばれたのか定かではないが、その昔、神功皇后がこの地で群臣を集めて会議を行ったのがその起源だと言う。朝鮮半島の新羅では貴族による重要な会議を和白といった。してみると、神功皇后は新羅に縁の人であったのか、確かに『記紀』には、皇后の祖先は新羅の王子、天日矛であるという記事がある。いや、それとも古代の筑前国では新羅の言葉が使われていたのであろうか、いや、いや、九州北部と朝鮮半島にまたがる大きな国があって、その国を倭国と呼んでいたのかもしれない。
想像を逞しくして思索を巡らし、真理を探究することに南冥は悦びを感じる。旺盛な知識欲は父、聴因の教育の賜物なのである。静かな遠浅の海を眺めながら暖かい茶を啜っていると、生まれ育った姪浜の事が妙に懐かしく思い出されるのであった。
南冥は、寛保三(一七四三)年、筑前国早良郡姪浜村に生まれた。諱は魯、字は道載、通称は主水という。南冥は彼の号である。姪浜村で開業する古医方の医者、亀井聴因と福岡城下の西を流れる樋井川近くの寺、浄満寺の住職、井浦氏の娘、徳の間に生まれた。
父の勧めで肥前蓮池、竜津寺の僧、大潮に学ぶため、筑前と肥前の国境、三瀬峠の険しい道を歩いて師のもとに向かったのは十四歳の時であった。峠の上から故郷姪浜村の辺りを振り返り見て青雲の志を燃やした昔が思い出される。肥前蓮池で学んだ月日は楽しく、何もかもが珍しく、水が綿に染み込むように貪欲に知識を吸収した。
「あの時は学ぶことすべてが新鮮であった」
そう呟いた南冥はもう一杯、茶を注文した。
大潮は黄檗宗の僧で、既に傘寿に近かった。若いころ江戸在住の折、十三歳年長の荻生徂徠と親しく学問や詩文の交わりをして徂徠の提唱する古文辞学を学んだ。勿論、南冥が大潮に学んだ時、徂徠はすでにこの世には亡く、その弟子、太宰春台も没していた。
大潮は徂徠の弟子ではなかったが、古文辞学を能く修めていた。大潮は親交のあった徂徠の個性ある人となりを時々南冥に話してくれた。
聴因は福岡藩の藩学である朱子学ではなく古文辞学を南冥に学ばせたのだが、それには理由があった。
姪浜村は城下から一里以上離れていることで藩の動向にあまり左右されることもなく、自由な空気に触れることの出来る環境にあった。しかも、廻船や北前船などが通う博多湾に面しており、船乗りや旅行者からもたらされる情報は日本の各地の状況を知ることが出来た。人間には生まれつき天地と同じように上下の定めがあるという、いわゆる道学者の主張する「上下天分の理」には飽き足らなかった。進取の気性に欠ける朱子学は既にその魅力を失い、人間形成には役立たないと聴因は感じていた。その頃、江戸で荻生徂徠が唱えた古文辞学の事を知った。その上で、活力に溢れた経世済民の学である徂徠学こそ我が子が学ぶにふさわしいと考えたのであった。南冥は父の先見の明と決断に今も感謝するのである。
それにしても、浮世のしがらみのしみついた今日、最早、あれほど純粋に学びを楽しむことは出来まい。そんな昔を思い出して、南冥の胸には熱いものが込み上げてくるのであった。
「さて、こうもしておられまい」
南冥は腰を上げた。その日の目的地、奈多浦は近い、そこから十丁ばかり先であった。
和白から志賀島まで伸びる砂嘴、海の中道に入って暫く行った所にその浦はあった。
奈多浦は不思議なところである。玄界灘から打ち寄せる波は長い年月をかけて海底の砂を運び、積み上げて砂の丘を造り上げた。その上に松の植林が行われて海風を遮るようになると、いつ頃からか、砂丘の陰に寄り添うように集落が形成された。海岸に近い漁師の村であるにも関わらず波の音が聞こえず、風も吹かないのは砂丘と松林によって玄界灘の海風が遮られるからである。
奈多浦の漁師が漁に出るためには一度砂丘を上り、松林を潜り抜けて更に砂の斜面を下って海に出るのであるが、帰りは天秤棒をしならせ、砂丘を越えてその日の獲物を運ぶのである。毎日繰り返される集落と海の間の行き来が男たちの身体を赤金のような筋肉で包み、足腰を屈強なものにしていた。そんな男たちが二人、連れ添って大声で豪快に笑いながら歩いていたが、南冥を認めると立ち止まって暫く様子を窺っていたが、一人が思い出したように手を打つと、二人共に走り去った。
浦の中で一際大きな家の近くで足を止めた。網元の源蔵の家であった。源蔵は既に玄関の前に立って自ら南冥を出迎えた。恐らく南冥の来訪を先ほどの漁師が知らせたのであろう。
「これは、南冥先生、さぞお疲れのことで御座いましょう。遠路ご苦労にございます」
「源蔵殿、雑作をかけます」
「いやいや、何をおっしゃいますか、先生には先日から、お世話になっております。どうぞ、遠慮なくお上がりください」
源蔵は家人に目配せして、明日、南冥を志賀島まで案内する予定の漁師を呼びに走らせた。暫くして法被を着た褌姿の屈強な男が、日に焼けた顔を綻ばせて白い歯を見せ、笑って駆け寄って南冥の手を取った。
「やあ、佐平、元気そうだのう。どうかな、その後、体の具合は」
「先生、どうにもいけませんや、このところ、毎日、何だか息苦しくてならねえ」
「どれ、見てみよう」
南冥は佐平の頑丈な胸に耳を当てた。呼吸をする度に、もがり笛の様な音が聞こえる。
南冥は儒学者であると共に古医方の医者でもある。いや、むしろ医者である期間の方が長い。医術の修業の過程で読む医学原書は全て漢字であった。当然のことながら、医術の勉強を熱心にすればするほど儒学の基礎教養は自然と備わったのである。
「そろそろ、煙草を止めたらどうだ、止めないと死ぬぞ」
「いや、いや先生、好きな煙草を止めるくらいなら、死んだ方がましですぜ」
好きなもののためならば、体の具合など一向に気にしない。南冥は苦笑するほか無かった。
彼が金印の調査をするため志賀島に向かうのは今回が二度目である。前回、志賀島に行ったのは半月ほど前であった。和白から砂嘴、海の中道に入り、奈多浦を過ぎてしばらく進むとそこは玄界灘と博多湾を繋ぐ自然の水路になっていて南冥が通りかかった時は丁度満潮時であったので水路は深く、渡れずに難渋していた。その時、声を掛けてくれたのが奈多浦の網元、源蔵であった。南冥は源蔵の申し出を受けてその日奈多浦に宿泊した。
次の朝、源蔵の家の前には浦の住人達の行列が出来ていた。南冥の儒学者としての名声と医者としての評判は筑前国の津々浦々まで知られていた。漁民たちは南冥が奈多浦に立ち寄っているという話を聞きつけて網元の家に押しかけて来たのであった。浦中の男と女が全て駆けつけたと言って良かった。乞われたら快く引き受けるのが南冥の人となりである。
当時の医療は陰陽道や仙術等迷信的な治療が殆どであったので、理に適った南冥の的確な治療に浦人は驚くと共に大いに興味を持ったのであった。彼らは自分たちが抱える様々な悩みを南冥に打ち明けて助言を求めた。彼は健康診断をしながらも人生相談にも乗ってやらねばならなかった。
漁民にとって医者でしかも藩主の侍講という身分の偉い先生が自分たちの身体と心の悩みを受け止め、助言をくれるのである。浦人が網元の門前に列をなしたのも無理の無いことであった。
その折、南冥は志賀島まで行く舟の手配を網元の源蔵に頼んだのであるが、その際、彼が口を利いてくれたのが奈多浦切っての剛の者である佐平であった。
「ところで先生、見知らぬ侍が居るが先生の知り合いかい」
「いや、知らぬ」
奈多浦のように漁師村で人の往来の少ないところは皆が顔見知りである。従って見知らぬよそ者はすぐに目立つのであった。佐平の話では目つきの鋭い、二本差しが、やや離れた物陰から南冥の様子を窺っていて、佐平が近づくと逃げるように立ち去ったということであった。
「気のせいか、ただの通りすがりだったのか」
その夜、源蔵の家では南冥を迎えた酒宴が夜遅くまで賑やかに続いた。
翌朝早く、南冥は佐平の操る伝馬船に乗って奈多浦を発った。
屈託なく晴れた春の海は波もなく、佐平の操る艪の軋む音に合わせて伝馬船は左右に少しばかり揺れながら、心地良く潮を分けて進んだ。
「佐平、あれは藍島かな」
沖合に青く見える島を指して南冥が訪ねる。
「そうだよ、先生、藍島だ」
あの時からもう二十年以上も経つのか。つい先日も佐平の伝馬船で海を渡ったのだが、その時には気付かなかった洋上に浮かぶ小さな島を、眼を細くしてじっと眺めた。
宝暦十二年、南冥は二十歳の時に大潮のもとを離れ、京都に上り、古医方の大家、七十歳の吉松東洞に就くが、若い南冥はその教えに満足できなかった。すぐさまこれを去って大阪の永富独嘯庵のもとで医術と儒学の修行を行った。一年の間、そこで学んだ南冥は嵐のように励み、後に小石元俊、小田亨叔と共に永富門の三傑と称されることになるが、生涯の友となった小石元俊は南冥の凄まじい勉強ぶりを「南冥は、実に猛虎のようなものであった」と評している。
永富門下で学んだ後、宝暦十三(一七六三)年五月、二十一歳の時、姪浜村に帰国すると、折しもその年の冬十二月、十代将軍徳川家治の将軍就任を祝うため、朝鮮通信使が来朝したが、それは、南冥の才能を世に知らしめる大きな転機となったのである。
福岡藩には朝鮮通信使の接待を行う慣例と責任があった。藩がその接待の場所を藍島に設けたのは恐らく警備上の都合であろう。通信使の逗留地に各藩は優れた学者を差し向けて詩歌の交歓を行い、通信使一行を慰めたが、回を重ねると共に各藩の文化水準の高低は、通信使の接待に差し向けられた学者の技量を以て推し測られるようになったのであるが、当然の事ながら、各藩は接待使の人選に大いに気を遣うようになった。南冥は福岡藩士、井上魯菴という朱子学者の従者になり、藍島で韓使と筆談の機会を得たが、若干二十一歳でしかも無位無官の姪浜の村医者の息子である南冥がなぜ韓使と交流の機会を得ることが出来たのか、その理由は定かではないが、機会をとらえて我が子を世に出そうとする聴因が、人脈や財力を使って藩に働きかけたことと、詩学に秀でた接待使の補助要員を求めていた福岡藩の思惑が一致したものと思われるが、既に南冥の文才が城下で評判を得ていたのが最大の理由であったのであろう。
福岡藩の儒官が接待を務めたのは主として、南玉、成大中、元重挙、金仁謙という四人の韓人書記官であった。南冥は藍島で数日間、通信使客館で朝鮮国の秀才と漢詩を練り、批評し合い、筆談で互いの国の状況や文化について意見を交換して大いに楽しんだ。韓人は南冥の才能と学識に驚嘆し、江戸に付くまでの道すがら、各地で南冥のことを喧伝したという。かくして南冥の接待ぶりは広く評判を呼んだのであった。評判を聞いたある高名な学者が南冥を称える手紙を送った時「韓を迎うるの挙は実に一時の萍会なり。何ぞ道うに足るものあらん。ただ、海客をして筑に人なしと言わしめざるが魯の分なり」という返事を返したという。
明るい春の日差しと伝馬船が波を切る心地良い音に南冥はついまどろんでいた。若き日、藍島で行った韓人との詩歌の唱和と筆談による文化と知識の交歓はまさに真剣勝負であった。その時の生々しい体験の記憶が彼の脳裏をつぎつぎと過って行く。
「おや、先生、眠ってるんですかい、志賀島に着きましたぜ。起きて下せえよ」
「おお、夢を見ておったわい。気持ちが良いのう」
日は既に天中に近かった。
「先生、今日はどこに着けましょうか」
「うむ、あの志賀大明神の鳥居近くの浜辺が良かろう」
佐平が艪を操る姿はきびきびとして美しくさえあった。
「佐平、帰りは夕刻になると思ってくれ、これでしばらく飲みながら待っていてくれるか」
南冥は懐から小銭を取り出して手渡しながら言う。
「へい、分かりました。こいつは有難い」
伝馬船を岡に引き揚げるといそいそと酒屋に走る佐平の後姿を見送って、南冥は神社の鳥居を潜り、長い石段を登って行った。左右から原始の森が迫って昼なお暗い。
『記紀』によれば、伊弉諾尊が黄泉国から逃げ帰って、筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊を行ったとき生まれたのが、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三柱の神である。志賀大明神の祭神はそのとき生まれた三柱の綿津見神である。
「阿曇連が祖神ともちいつく神なり」と『記紀』にある通り今も阿曇氏が宮司として守り続けている。
『万葉集』にも「ちはやぶる、金の岬は過ぎぬとも、われは忘れじ、志賀の皇神」と詠じられている社である。それは遥かな昔から神社がこの地に実在していたことを明らかにしている。因みに、金の岬とは筑前国宗像郡内の地名である。もしかしたら、金印が異国から渡って来た言い伝えが何かの形で残っているかもしれない。南冥は印に掘られている文字「漢委奴国王」の漢という字に着目していた。漢という国が中国を支配していたころ、日本には未だ文字が無かった、したがって金印が真物であれば、その底に掘られた五文字は初めて我が神国に伝来した文字ということになると彼は考えていた。
石段を登り切ったところにある「育民橋」という小さな太鼓橋を過ぎて門を潜ると、左脇に社務所がある。神社の境内は南冥の外に人影は無かった。社務所の中から強い視線を感じて振り向くと狩衣姿の老人と目が合った。
「良い天気ですな」
南冥は声を掛け乍ら、何と平凡な言葉を吐いているのだろうと思った。実際、鎮守の森から見上げる空は青く晴れ渡っていた。
「全くですな、ところで初めての参拝かな」
「いや、先日、宮司殿を尋ねて参ったのですが、生憎不在で御座った。本日、宮司殿は居られるかな」
「若しや亀井南冥殿では御座りませぬかな」
「いかにも、某は南冥で御座る」
「これは、これは、お初にお目にかかります。宮司の阿曇と云います。あなたが先日、訪ねて見えたことは権禰宜から聞き及んでおります。今日はまた遠路ご苦労に御座いますが、当社においで下されたは、例の金印の事で何かお調べですかな」
「左様、是非とも宮司殿にお尋ねしたいことがありましてな」
宮司は神殿を指さして言う。
「あの柱をご覧くだされ、真新しい木の香りがここまで届きます。藩のお蔭で本殿と楼門、それに薬師堂など本年二月に改修致したばかりで御座います。藩校、西学問所の祭主である南冥殿を疎かには出来ませぬ、どうぞ何なりとお尋ねくだされ」
南冥を召し抱え、侍講に抜擢した第七代藩主治之は天明元年の秋、三十歳で病死している。第八代藩主治高は四国丸亀の京極氏から養子として迎えられたが、藩主に就任後わずか半年の後、二十九歳で死去している。天明四年二月に志賀大明神の改修を行った第九代藩主斉隆はその時八歳であった。一橋家から迎えられ、藩主に就任したが、その当時の名は斉隆ではなく長暠であった。寛政二年、十四歳の時、将軍徳川家斉に拝謁し、幕庭で元服した。長暠と同じ一橋家出身の将軍家斉はその折、福岡藩主に「斉」の字を贈ったのである。以後、長暠は斉隆と改めたのだがその五年後、十九歳でこの世を去っている。
三十六歳で儒医兼帯として福岡藩に仕官し、今また西学問所の祭主に就任した四十二歳の南冥は、六年の間に三代の藩主に仕えていた。
「そういえば、あの印は、鋳潰して売ってしまおうと言う話が御座ったが、南冥殿が、それを差し止めたと聞き及んでおりますが、あの印はどうなりましたかな」
宮司が南冥の反応を窺う様に顔を近づけて言った。
「そう、誠に危ないところで御座いました。希代の珍宝が危うくこの世から消え去る所でしたが、今は藩が所有しております。ところで宮司殿、あの印に纏わる言い伝えといった様な話は有りますまいか」
「いや、そのような話や言い伝えは聞いたこと御座らぬ」
素っ気無くしかも即座に否定した宮司の言葉の響きに、触れては欲しくない何かの存在を感じた。
二人の脇を若い僧が数人、頭を下げて通り過ぎた。境内には臨済宗の寺、吉祥寺がある。
神仏習合が普通であったこの頃、神社の中に寺があるのはごく当たり前の風景であった。
叶の崎というところで金印が見つかったのは、天明四(一七八四)年二月の事であった。天明二年に奥羽地方で発生した飢饉は翌天明三年の浅間山の噴火による日照不足も重なって次第に全国に伝播して各地に一揆や打ちこわしが起こり、志賀島をはじめ、九州の庶民の生活にも漸く影響が出始めた頃であった。金印を売却して志賀島の村人の生活の足しにしようと考えた村方三役の考えも分からないではない。
南冥は「天明四年志賀島村百姓甚兵衛金印掘出候付口上書」を写し取った奉書紙を懐から取り出して眺めた。口上書は、金印出土地の田地所有者である百姓甚兵衛の口上を志賀島村庄屋、長谷川武蔵が筆記し、那珂郡役所郡奉行津田源次郎宛てに提出したものである。
金印発見の経緯は次のように報告されている。
私の抱え田地である叶崎という所の田境の溝の水の流れ具合が悪かったので、先月の二月二十三日に溝の形を仕直そうとして、岸を切り落としたところ、小さな石が徐々に出てきて、その内そこに二人持ちほどの石が有るのが分かりました。
この石を、かなてこで、堀り除きましたところ、石の間に光る物がありましたので、取り上げてすすいでみましたところ、金の印判のような物でした。
この金の印判のような物を私たちはこれまで見たこともございませんでしたので、私の兄の喜兵衛が以前奉公していた福岡町の家衆の方に見ていただく為、喜兵衛に持って行ってもらって見せたところ、大切な品であると言われましたのでそのまま仕舞っておきました。
三月十五日に庄屋殿から役所に提出するよう申しつけられましたので、提出します。
しかるべくお取り計らい下さいますようお願いします。
志賀嶋村百姓
甚兵衛
天明四年三月十六日
津田源次郎様
御役所
口上書には志賀島村庄屋武蔵、組頭吉三、組頭勘蔵の三名の連名による添え状が付けられている。
右のように甚兵衛の申し上げました通り、少しも相違ございません。
右の品、掘り出したら差置かずに、すぐに申し出るべきでございましたが、噂になるまで差し出さなかったのは不念千万でいい訳も出来ず、恐れ入るばかりでございます。どうぞ、しかるべくお取り計らい下さいますようお願い申し上げます。
同村庄屋 武蔵
組頭 吉三
組頭 勘蔵
同年同日
津田源次郎様
御役所
百姓甚兵衛は二月二十三日に金印を発見したが、郡役所に届けたのは翌月の三月十六日である。発見してから噂になるまで藩に届け出なかったのは、「不念千万で言い訳も出来ない」と書面で述べているが、実はその二十日余りの間のある日、南冥は一度、金印を手にしていたのである。
南冥が郡奉行津田源次郎から連絡を受けたのは口上書が提出された翌日であった。南冥は早速、奉行所に出向いて金印と甚兵衛の口上書を見せてもらった。
南冥と源次郎は以前から互いを見知っていた。南冥の私塾・蜚英館の講義を何度か聞いたことのある源次郎にとって、経世済民を説き、学んだことを実践に移さねばならぬと力説する南冥の火の出るような授業は新鮮な驚きであった。君臣父子の上下関係の秩序ばかりを説く朱子学には無い活力と耳新しさに満ちていた。源次郎は、藩校開設を待って子息を、南冥が教鞭をとる西学問所に入学させた。源次郎は南冥の説く知行合一の教えに惹かれていたが、その一方で、御政道批判とも受け取られかねない彼の鋭い論調には少なからず危惧を覚え、言を慎むように助言することもしばしばあった。
「これは、南冥先生、おいで下されましたか、しばらくお待ちくだされ」
源次郎は部下に命じて口上書と印を持ってこさせて奉行所の執務室に正座している南冥の前に置いた。南冥は先ず印を掌に乗せてゆっくりと眺めた。四角い小さな品でありながら、ずしりとした重さが手に伝わる。黄金の重みと共に歴史の重みが詰まっているためであると感じた。
「うむ」
甚兵衛口上書を手でなぞる様にして読み終えた後、南冥は大きく息をついた。
口上書にある「兄の喜兵衛が以前奉公していた福岡町の家衆の方に見ていただく為、喜兵衛に持って行ってもらって見せたところ、大切な品であると言われました」とあるが、「福岡町の家衆の方」とは、南冥と親交のある米屋才蔵という城下の商人であった。商いを通じて金銀を手にすることの多い才蔵はその印が黄金で出来ていることを一目で見抜いた。だが、印に彫り付けてある文字らしきものが何を意味するのか、その場に居合わせた者は誰一人として皆目見当がつかなかった。才蔵は店の者を南冥のもとに走らせた。使いの案内で南冥が才蔵の家に駆けつけたのは、三月の初めであった。
待ち受けていたのは主才蔵の外には、百姓甚兵衛の兄喜兵衛、それに志賀島村庄屋武蔵の二人であった。
「これは、先生、お忙しいところ早速の御運びを頂き、恐縮で御座います。さて、この品ですが」
才蔵が差し出す品を手に取って方々から眺めたが、土中に埋まっていたにしては、不思議なことに傷も錆も無く、まるで新品同様の見事な輝きを発していた。
「それで才蔵殿、この品の材質はお分かりかな」
「はい、輝き、手触り、重さ、それに指で弾いたときの音から察しますに、黄金の品であることは先ず間違いありますまい。先生にお聞きしたいのは、その底に彫られている文字と思われるものですが、何と書かれているのでありましょうか」
「その前に、この品ですが、形から察するに恐らく印で御座いましょうな、そこで、文字の意味するところですが・・・、才蔵殿、紙と墨はありますかな」
才蔵が家人に命じて紙と墨を準備させると、南冥は先ず墨汁に印を浸した後、それを、和紙に押し付けた。印を和紙から離したときに浮かび上がった文字を見た瞬間、南冥の背筋に稲妻のような衝撃が走った。
「これは・・・」
そこに現れたのは「漢委奴国王」という文字であった。文字の部分が白く浮き出ている、従って凹印である。
「これは間違いなく、印でありますな、しかも我が神国のものではなく、わしの見立てでは唐土の印と思われます」
古代、大陸では、紙が発明されて一般に普及するまでの間、文書のやり取りには木簡や竹簡が用いられていた。木や竹を薄く細い板状に切り、それに墨書したものを紐で綴ったものであるが、秘密を保持するために袋や箱に入れ、紐を架けて泥を塗り、押印する封泥という方法がとられていた。印は凹印であって文字が泥面に浮き出るという仕掛けである。
「才蔵殿、一体これを何処で」
「喜兵衛さん、先生に事の顛末を話して下され」
才蔵に促されて喜兵衛は口を開いた。喜兵衛は町人である。以前才蔵の店で手代として奉公していたため、才蔵とは昵懇の間柄であった。
「はい、私めの弟甚兵衛は志賀島に何枚かの田を所有しております。叶の崎というところは秀次と喜平という水吞百姓に耕作させております。先月の二十三日のことですが、田境の溝を切って水の流れを良くする作業を行っておりましたところ、偶然、土中に埋もれていたこの品を見つけたので御座います。知らせを受けた弟甚兵衛はこの品が何なのか分らず、何はともあれ庄屋の武蔵さんの所へ相談に行ったのです。そうでしたな、庄屋さん」
「先生、喜兵衛の申し上げる通りで御座います」
庄屋武蔵が白髪交じりの頭と首のあたりを撫で乍ら話し出した。
「甚兵衛が私の家に来て申しますには、土中から光る品が出てきたが、その正体が分からず、どうしたものかということでしたので、念のため、組頭の吉三と勘蔵を呼びまして相談致しましたところ、土中から出て来たからには何か私共には計り知れない謂れがあって、勝手に処分すれば神罰が下るかも知れぬ、ここは先ず、神社に奉納したら良いのではないかということになりまして、志賀大明神の阿曇宮司に鬮で占ってもらったところ、奉納はならぬという神意が出ましてな、それならば、致し方御座いません、この光る品がもしも、価値のある物、例えば金であったなら、鋳潰して刀の鍔や印籠に加工すれば高く売れるのではないかということに話が纏まりまして、こうして米屋才蔵さんに相談しているところで御座います」
腕組みをして話を聞いていた南冥は皆を見回しておもむろに口を開いた。
「兎も角、この品が大切なものであることは間違いありますまい。黄金で出来ていることは、才蔵殿の見立てで、疑いの無いところでありましょう。問題はここに彫られている文字で御座る。極めてまれな珍宝であると思われます。勝手な処分はなりませぬぞ」
「ですが、先生、関東で始まった飢饉の所為で村の費えは膨らんでおります。私共といたしましては、これを村のために役立てたいので御座います」
飢饉の影響は昨今九州にも及んでいる。価値が有るものなら売却して村の用に役立てたいという庄屋の言い分も分からないではない。だが、希代の珍宝が鋳潰されることは何としても避けなければならない。
「如何ですかな、金子を用立てますゆえ、わしに譲っては頂けぬかな」
南冥の言葉に武蔵と喜兵衛が顔を見合わせて頷いた。
「先生にお任せいたしましょう」
その場は南冥が金子を用立てる間、印を大切に保管することで話がまとまった。
金策に走り回っていた南冥のもとに米屋才蔵から来た使いの報告で事態は思わぬ方向に進んでいることが分かった。金印が地中から現れたという話が城下で評判となって、噂は藩の耳にも届いているため、印を内々で勝手に処分すれば藩からの御咎めがあるかも知れず、郡奉行へ届ける以外に致し方ない仕儀になったということであった。
「甚兵衛口上書」が奉行所に届けられると、時を置かず、郡奉行津田源次郎から南冥に連絡が入ったのである。
「藩の重役たちはこの品がいったい何なのか分からず、頭を悩ましている様で御座りますよ。先生もご存知の商人、米屋才蔵に問い合わせたところ、この品は黄金で出来ているとのことですが、先生のお見立ては如何でしょうや」
「されば、その印が黄金で出来ていることは、才蔵殿の言に従いましょう。かの御仁は商いを生業とされる方です。金銀の輝き、重さ、手触り、その価値など、その何たるかを心得ておられます。問題はその文字で御座るが、もしかすると、その文字こそ、我が神国に初めて伝来したものであるかも知れませぬぞ」
南冥は源次郎と共に印の重さ、大きさ、寸法を測り、更に口上書の文言を奉書紙に丁寧且つ正確に写し取った。
「源次郎殿、今はまだ、確信をもって申し上げられることは何もありませぬ。兎に角、某の思う所を調べてみたいと考えております」
「左様で御座るか。あい分かりました。近日中に藩から存寄書の提出を求められることになるでありましょうが、何分よろしくお願い致す」
自宅に取って返した南冥は早速その翌日志賀島に向かった。何はともあれ、一度印の出土した志賀島というところを見ておくことが肝要であると思ったからである。机上では気付かない手掛かりが現場に落ちていることが良くあることを南冥は経験上知っていた。
その折、志賀島の金印の出土地と言われる場所を取り急ぎ見て回ったが、第一回目の調査では、これといった目新しい発見は無かった。
南冥が福岡藩から存寄書の差し出しを命じられたのはそれから数日経った頃であった。
「ところで宮司殿、印を志賀大明神に奉納しようという話があったと聞き及んでおりますが・・」
「左様、そんな話が持ち上がりましたが、神鬮を引いたところ、叶わぬと出まして取りやめることとなったのじゃ、それに、あの文字らしきものがのう、さて、何とあったかな」
「この文字のことで御座るかな」
南冥は金印を写し取った奉書紙を取り出して「漢委奴国王」の文字を指さした。
「ほう、やはり文字で御座ったか、そこにある『奴』という文字が奴僕の奴ならば、我が扶桑国を卑しめるもの、神前に奉納する訳には参りませぬな」
阿曇族は、春秋時代、越王勾践が呉王夫差を滅ぼしたとき、祖国、呉を捨てて海を渡って来たか或はそれ以前に唐土から対馬海流に乗って渡来してきたと言われる一族である。
宮司は唐土の文字が理解できるのではないか、金印が発見された場所はかつて志賀大明神の磐座であって、神社には金印に纏わる何かの手掛かりや言い伝えがあるのではないかと疑ったが、今は敢えてそれ以上問うことはせず、先を急ぐこととした。
南冥は宮司に礼を述べ、秀次の家へ向かった。秀次は金印が発見された甚兵衛の「抱え田地」で実際に作業をした水吞百姓である。志賀島は志賀島村、弘村、勝馬村の三つの集落に分かれており、志賀島村は志賀島の南端にあって島への入り口となっている。海岸に沿って歩くと西端に弘村、北端に勝馬村が位置している。秀次の家は神社の階段を下りて少し歩いたところ、志賀島村内の小路町にあった。初め秀次は胡散くさそうにじろじろと眺めていたが、南冥が名を名乗ると、志賀大明神から連絡が入っていたのであろうか、途端に恐縮して頭を深く下げた。
「秀次、案内を頼めるかな」
南冥は懐から小銭を取り出して秀次に手渡しながら言った。
「これは有難うございます。分かりやした、早速ご案内いたしましょう」
現場は志賀島村と弘村の中間ほどにあった。山裾に開かれたあまり大きくはない田地であったが、金印を発見したと秀次が指さす場所は、今はきれいに均されて、田植えの準備のため、いつでも水を張れるように整備されていた。だが、残念なことに金印が見つかった場所から出て来たという石は、今はもうどこにも見当たらず、溝の水は滞ること無く流れていた。稲作の邪魔になる石は全て廃棄されてしまって、手掛かりとなる遺物は何も残されてはいない。古代の首長の墳墓だったのか、それとも神を祀る磐座だったのか、金印のみがあったのか、或は剣や勾玉やその他の副葬品と共に貴人の遺体が一緒に埋葬されていたのか、最早知ることは叶わない。屈んで田の畔を見つめていた南冥は立ち上がって腰を伸ばした。博多湾と玄界灘の潮がぶつかる志賀島沖は見晴らし良く開け、目の前には能古島があって博多湾を挟んだ対岸の半島は手が届くほど近くに見える。半島はかつて伊都国のあったところである。
「うむ」と南冥は思わず唸った。陸路ではなく船を利用すれば伊都国と志賀島は容易に行き来が出来たのかもしれない。伊都国の県主が密にこの志賀島に渡り、金印を隠し埋めたという一部の学者が主張する理屈も無下に否定は出来ない気がした。現地に赴いてみると、机上では考えもつかなかった新たな発見が良くある。
秀次と別れて志賀大明神近くの浜辺に南冥が戻って来た時、日はすっかり暮れていた。
伝馬船に腰掛けて煙草を吹かしている黒い影に向かって声を掛けた。
「佐平、待たせたかな」
「なに、どうってことありませんや。じゃあ、帰りますか」
佐平は、煙管を船べりで叩いて煙草の火を落とした。全天に星が瞬いて、沖合には漁火が揺れている。風はなく、左右に揺れながら進む舟の周囲がぼんやりと浮かびあがるように明るい。南冥は手を伸ばして、潮を掌にすくって弄びながら一人ごとの様に言う。
「美しいのう」
「夜光虫でさあ」
振り返ると佐平の漕ぐ艪の動きに合わせて長い紫の光の筋が海面に続いていた。
藍島で朝鮮通信使の接待をした翌年、明和元(一七六四)年、南冥と聴因は福岡城下、唐人町に移り住んで、医術を開業した。父子の熱心且つ合理的な治療法は次第に城下の評判を呼び、多くの病人が駆けつけた。そして、医業を営む傍ら学塾を兼ねるという形式から亀井塾(蜚英館)は出発した。聴因は医術を専らとし、南冥は私塾で講義する傍ら医術にも精を出した。南冥が講義するのは一貫して古文辞学であったが、彼の評判は高く、徂徠の後継者としてその名は広く知られた。ついに藩は安永七年五月、儒医兼帯として十五人扶持で士分として南冥を召し抱えることになったのである。儒医兼帯とは儒学者と医者を兼ねることを言う。南冥三十六歳の時であったが、聴因の喜びはひとしおであった。
南冥は今、優しくそして常に背中を押してくれた聴因と自分を召し抱え、侍講にまで抜擢してくれた先の藩主治之公のことを思っていた。
この夜光虫の様に輝いては消えていった二人が懐かしく思い出されるのであった。
「先生、奈多に戻って来ましたぜ」
奈多浦に到着して、白い砂丘を上って松林の中に足を踏み入れた時であった。
「ちょっと待った。誰かいますぜ」
佐平が南冥の袖を引いて小声で言う。見回すが南冥には見えない。暗闇が広がり、松の葉を揺らして海風が騒ぐだけである。だが、漁師の目は闇の中で遠くまで見渡すことが出来る。突然黒い影が目の前に走り寄って来た。
「危ねえ」
佐平は南冥を突き飛ばすと間髪を入れずにその影に突進していった。白いものが闇中できらりと光った。次第に目が慣れて南冥にも闇の中の様子が見えて来た。佐平が、上段から刃を振り下ろそうとする男の懐に飛び込んでいく。無言の息遣いと激しく拳を振るう音がして、やがて、黒い影が走り去って行くのが見えた。
「先生、誰かに恨まれる覚えがありなさるか」
闇の中から、ぬっとあらわれた佐平がぽつりと言った。
「ないと思うが、どうかな、わしには分からぬ、それよりも、怪我はないか」
「俺は大丈夫だよ先生、あんな表六野郎に負けはしねえさ、海に飛び込んで大鮫を締め殺すときの様に奴を締め付けて頭を殴りつけてやったが、残念だ、逃がしちまった」
命を狙われる程かどうかは別として、一部の者から快く思われていないことは確かであった。江戸幕府の御用学であり、福岡藩の藩学でもある君臣父子の上下を基本とする朱子学によって現体制を維持しようとする一派にとって、学問は行動を伴うべきであるという革新的な教えは自分たちの地位を脅かすもので南冥を藩の差配や御仕置を批判する危険思想の持ち主であると捉えていた。
何よりも百姓身分の村医者風情を藩が召し抱え、先祖代々使える士分を差し置いて藩主の侍講に据えるなど、言語道断の仕儀であり、彼等の屈辱であった。南冥の異例の立身出世に対して激しい妬みと嫉妬の嵐が吹き荒れるのは当然の帰結であった。
彼がなぜ藩主の侍講を務めるようになったのか、そこには理由があった。
福岡藩第六代藩主継高の子供は十三人いた。そのうち男子は三人であったが、男子は全て三十歳に達する前に率した。そのため、第七代藩主治之は一橋家から迎えられた。
福岡藩の藩学は朱子学であったが、治之があえて古文辞学を修める南冥を侍講に抜擢した理由は彼の祖父が八代将軍徳川吉宗であったことに起因している。
吉宗は享保の改革で実学奨励、殖産興業、新田開発などを推し進めて幕政再建に努め、ある程度の成功を修めた。小石川養生所や目安箱の設置、足高の制、町火消の制度を作るなどの政策を次々と断行して江戸幕府中興の名君と持て囃された。一方で、年貢の税率を上げて百姓の負担を強いた人物でもある。
吉宗は、古文辞学の創始者荻生徂徠の意見書「政談」に大きな刺激を受けて幕政改革の参考にしたが、治之は果断に改革を推し進めた祖父の業績を幼い時から聞かされて強い敬慕の念を抱いていたに違いない。
この時、治之は二十六歳であった。黒田新続家譜には「家中の士気高揚のため文武を講習し、風俗を正しくせんとして学校建設を発起するも存命中には全うできなかった。天明元年秋病を得たが、治癒せぬまま十一月一日没した。享年三十歳」とある。
南冥が藩主の侍講に抜擢されたのは、藩政改革の意欲盛んな若き藩主治之の強い意向が働いたためである。
南冥は「半夜話」と題する藩政改革を示唆する手記を藩に提出した。そこには「気付いたことを申し上げないのは第一の不忠と覚えるので例え御咎めを蒙っても顧みず申し上げる。上司の機嫌を取るためや役得の多い職務に就くため賄賂が横行している。大目付は権力に対して弱く、枝葉末節のみに関わっている。上司の悪事を遠慮なく摘発できる気概のある人を選ぶべきである。武士や庶民を教育する場、学問所の設置が必要である」という趣旨の意見が述べられている。
ある時、南冥の品性を疑う格好の出来事、「まくわ瓜事件」と呼ばれる騒動が起きた。
南冥が藩主から賜ったのは少量のまくわ瓜であった。喜んだ彼は幸せを自分だけではなく多くの人と分かち合いたかった。早速、八百屋からまくわ瓜を大量に買い込み「殿さまからの頂き物です」と言って近所や知り合いの方々に配った。
これを伝え聞いた朱子学者を初め、大義名分を重んじる者たちは南冥の下品極まるその行為に激怒した。南冥の行動は許し難く将に軽蔑する身分の者が行うものであって藩士としてあるまじき行為であった。
事件は重臣たちの間で大いに問題とされたが、藩主の機嫌を損ねることも、罰せられることもなかった。だが、南冥の一連の行動は彼を快く思わない体制派を刺激して、誰かが刺客を放ってもおかしくはなかった。
網元の屋敷近くまで戻った時、夜遅いにもかかわらず、明かりが赤々と灯っていて家には人の出入りが多い。
「何かあったに違いない」
佐平は歩を早め、そして走った。
「先生、早く来てくれ。網元のごりょんさんが危ねえ」
戻って来た佐平の目は異様に吊り上がっている。急いで駆けつけた南冥は奥の部屋に通された。そこには源蔵の妻が布団に横たわっていた。
網元の家の勝手口付近を覗いている侍がいたので、何か御用かと尋ねたところ、南冥の知人だと名乗り、南冥の居場所を聞いたので、志賀島に行っていて、もうすぐ海の方から戻って来る筈だと答えたが、妙に不安を感じ取った網元の妻女は念のため主人に報告しようと源蔵を呼んだところ、いきなり背後から切り付けられたという。悲鳴を聞きつけて源蔵が出て来ると、その武士は源蔵にも切り付けてきた。源蔵が咄嗟に身をかわして構えるとすぐに騒ぎを聞きつけた家人が奥から飛び出して来て、男は逃げ去ったという。幸い源蔵に怪我はなかった。
「先生、如何で御座いましょうか」
源蔵が妻の手をとって感情を懸命に殺した声で尋ねた。傷は少々深い、だが南冥の見立てでは命に別状は無さそうであった。南冥は心苦しかった、自分の意志か或は誰かの依頼を受けたのか何れかは分からないが、その侍の狙いは南冥であったことはまず間違いない。
自分がこの奈多浦に立ち寄ったばかりに浦人に迷惑を掛けてしまった。後悔と怒りの念は南冥の身体を震わせた。
その夜一晩中、怪我人の側に付き添った。源蔵が恐縮して、早く休むように言ったが、南冥は朝まで怪我人に付き添った。唐人町の診療所で弟子たちが患者を診るならいざ知らず、ここは漁師の村である。医術の心得のある者は誰もいない。せっかく救った命を危険にさらす訳にはいかない。軽い病気や怪我は侮らず、重度の怪我や病気は必ずしもそれを恐れない。それが南冥の治療方針であった。
「源蔵殿、お内儀の怪我は山を越したが、暫くは無理をせぬように、そして、十分な休養を取らしてくだされ、頼みましたぞ」
南冥はそう言い残して奈多浦を出立した。日は既に高く上っていた。
「先生、待って下せえ」
佐平が追ってきて、南冥から荷物を奪うように受け取ると肩に担いだ。
「どうした」
「へい、近くまで先生を送って行くようにとの網元の言い付けだよ」
佐平は何かを考え込むように黙って南冥の後を歩いた。
「ここで十分だ」
和白まで歩いて来て荷物を受け取ろうとした南冥に向かって、佐平が真顔で言った。
「先生、俺たち漁師は人ではないのかね、ごりょんさんが侍に切り付けられて死にそうになって、役人に届けたが、相手が二本差しでは真剣に調べてくれそうもねえ、先生、どうにも悔しくてならねえよう」
顔を歪めて訴える佐平の頬に涙が伝って流れている。佐平は数年前弟を無くしていた。
城下に遊びに出た時、弟は若い武士にぶつかった。着飾った娘たちや途絶えることの無い人の通りと喧噪、若者には物珍しいことばかりで見とれていたため、前から来る武士に気が付かなかった。
無礼者と叫んだ武士は佐平の弟を切り捨てた。弟は、数日後その傷がもとで死んだ。
相手の武士に御咎めは無かった。
「先生みたいな偉いお方には、俺ら下々の気持ちは分からねえ」
「分かるとも、佐平、わしの出自は百姓だ」
「しゅつじってなんだ」
「出身、そうだな、もとの身分の事だ」
「へえ、本当か、先生は、百姓なのか」
佐平の顔に少し輝きが戻ったように見えた。
「藩に取り立てられて士分になったが、元は百姓だ」
「先生、奴らに仕返ししても良いか」
「うむ」
即座に否定することが出来ない。佐平の深い悲しみが南冥の胸を揺さぶるからである。
何といって慰めたら佐平は納得するのであろうか、言葉が見つからない。
「いつか身分の隔てのない時代が来る。それまでの辛抱だ」
思わず口を衝いて出た間の抜けた無責任な言葉に激しい動揺と後悔の念を覚えた。
佐平の悲痛な訴えに目を背けて逃げている自分を意識したからである。
理不尽な世の中の仕組みは相当な荒療治を行ったとしても、なかなか変りはしない。
そのことは百姓出身の南冥自身が身につまされて知っている。佐平の側にいて話を聞いてやりたかった。だが、南冥には急いで成し遂げねばならない任務がある。見送る佐平の姿に後ろ髪を引かれる思いであったが、それを振り切って先を急いだ。
「上下天分の理」を説き、人には身分に従った役割があると主張する変革を嫌う支配者層が多数を占める限り、理不尽なこの世の矛盾は何時までも解消することはあるまい。
人々を分け隔てなく教育し、学んだことを実践に移す器量を持つ人材を輩出しなければならない。古文辞学はその手段である。為政者が無節操に使う「民は之に由らしむ可し、之を知らしむ可からず」という教えが論語にある。孔子が説く真の意義を学ぶには、論語を朱子の説を通して理解するのではなく原典に帰って、つまり古文辞によって、その言わんとすることを学ぶのが徂徠学である。「之を知らしむ可からず」とは、知らせることが難しいという謂いであるが、だからといって、知らせる必要がないというのでは、断じてない。南冥は改めて学問を通して身分に拘わらず有為な人材を世に送り出す我が使命の重さを感じていた。
藩から命じられた存寄書の差し出し期限は迫っていた。明日中にはまとめて明後日には提出しなければならないが、調べることは山ほどあった。足は自然に早くなる。
帰り着くなり、すぐさま私塾に篭って唐土の古文書を何度も読み返し、『記紀』に金印の渡来に関する記述が有るか否かを探した。次の日の夕刻、やっとの思いで金印についての「鑑定書」を書き上げた。藩が差し出しを求めた存寄書は「鑑定書」であったが、南冥が提出した存寄書は「鑑定書」「金印弁」「金印弁惑問」の三部構成になっている。そのうち「鑑定書」は、藩が指定する期限内に差し出したが、「金印弁」「金印弁惑問」は少し遅れて追加提出している。
「鑑定書」は奉書紙一枚で、中央に志賀島の見取り図を描き、左上に金印の概要を記載している。
志賀島の見取り図は、南を右に、北を左に描き、志賀島村・弘村・勝馬村の三村を朱で囲み、金印の出土地叶の崎を朱書きしている。また、朱書きで「叶崎マデ 志賀島村ヨリ十二丁余 弘村ヨリ同」という書入れがある。
左上に金印の印影と金印を斜め上方から見た図、鈕図、金印の寸法、漢委奴国王の文字を記載している。
最後に付箋状の貼り札があって、それに「唐土の書に本朝を倭奴国と有之候、委字は倭字を略したる者と相見申候」という記載がある。
なぜ張り札の形で提出したのか、そこに南冥の悩みと苦心の跡があると言われている。
南冥は提出期限寸前まで迷い悩んだ。他の部分は既に記載済みであったが、核心部分、つまり「漢委奴国王」が何を意味するかは空白のままであった。迷いに迷った挙句、遂に、意を決して、核心部分を書いた札を糊で貼り付けて藩に提出したと言うのである。
一方、東学問所は竹田定良以下五名の学者の連署で「金印議」という存寄書を藩に差し出している
「金印議」は「倭奴とは日本全体の古号であって、漢委奴国王とは漢代の臣、漢委奴国王と云う意」であり、印については「『漢委奴国王』印は後漢の光武帝より垂仁天皇に授けられた印」と述べ、印が志賀島で発見された理由については「寿永年中平の乱に、安徳帝筑紫に落下り玉ひ、当国に暫く皇居を構へ、程なく又此地を出て、讃岐の八島に赴く。其後終に壇浦にて入水し玉へり。此時三種神器を始め重宝などを持せ玉ひたる内に此印も有りて、此国より他国へ移り玉ふ時、路に取落したるか、又は入水の時、海中に没し、此嶋に流寄りて、終に土中に埋れたるにても有らんか」と結んでいる。
「金印議」が藩においても、また、学者の間においても極めて不評であったのは言うまでもない。
南冥は「鑑定書」の提出後、日を置いて「金印弁」と「金印弁惑問」を藩に提出しているが、先ず「金印弁」では次のように述べている。
「右金印蛇鈕一枚、体製篆刻図の如し、天明四年甲辰二月廿三日、筑前那珂郡志賀島村農民田を墾し、大石の下より是を得たり、愚案するに、
後漢書東夷伝に曰く、倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為す、凡そ百余国、武帝が朝鮮を滅ぼして自り、使訳漢に通ずる者、三十許の国々、皆王を称し、世々統を伝う、その大倭王は邪馬台に居す云々、又曰う、光武中元二年、倭奴国、貢を奉り朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭は国の極南界也、光武賜うに印綬を以てす云々。
三国志倭人伝に曰く、魏の景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、郡に詣り、天子に詣りて、朝献することを求む、太守劉夏、吏を遣して将いておくり、京都に詣る云々、其の年十二月詔書云々、親魏倭王に封じて、金印紫綬を仮す云々、
右二書に載たる所によるに、異国より本朝に印綬を送りたること、昭然として著しきことなり、三国より以後、隋唐の際は、尚又使者往来も繁く、種々の珍宝なども、互いに贈答ありしことなれど、印綬のことは、彼国の記録にも見当たらず、殊に隋の末、唐の初よりは、倭の名を改し日本と称したれば、明の万歴年中に、太閤秀吉公に印綬を送りたれど、日本国王と記せり、是に因て考れば、この金印は右二書に載たる二印の内には、相違はあるまじきなり、但し漢と称したれば、二印の内にては、光武の印最も近きにや、其形製篆刻の模様は、集古印譜の漢魏の古印に正すに、字法刀法ともに、疑う方なき真物と見えたり、されば右の金印、已に千六百年余の古物にて、異国の文字本朝に渡りたるは、この印を以て最初とすべければ、希代の珍宝と謂うべし、且は我が筑州興学の初年に限り顕れぬるは、文明の瑞祥とも云うべきにや」と云い、「漢委奴国王」印が『後漢書東夷伝』にある、後漢の光武帝が下賜した金印であることを結論付けている。
金印が千六百年余の後、藩校の開校と時を同じくして出土したことが余程嬉しかったのであろう。筑紫文明の隆盛の瑞祥を天が示したと誇らしく宣言している。
次に「金印弁惑問」では、九項目に及ぶ質問「惑問て曰」とその回答「答て曰」という形式をとっている。
「惑問て曰」(あるひとといていわく)で始まる九項目の質問の主旨は次の通りである。
一 漢代の古物であるのに新品に見えるのはなぜか。
二 鈕は亀、虎、駝など種々多いが、蛇鈕は無いのではないか。
三 全体は鋳物とは見えないが、綬を通す穴があるのはやはり鋳物か、いぶかしい。
四 本朝の国号を倭奴国などと卑しめる「奴」と云う字を用いるのは不満である。
五 金印が後漢書に記してある通りとすれば、日本記にも記載がある筈ではないか。
六 人皇(神武天皇)の始めより、文字はあったのではないか。
七 水戸黄門公の『日本史』には、推古帝の時、初めて隋に使を通じるとある。それ以前の通交は虚妄ではないか。
八 「漢委奴国王」の文字は漢の属国とするものである。取り上げるべき物ではない。
九 金印は漢の古物で珍宝とすべきだが、強いて尊崇すべきものであるのか。
これに対して「答て曰」(こたえていわく)で始まる南冥の回答の主旨は次の通りである。
一 黄金は久埋不生、つまり、何年経過しても錆びつかず、傷つかないものである。
二 集古印譜によれば「蛮夷の地虺蛇多し、故に虺鈕を用いる」とある。虺と蛇とは同類の虫であるので本朝を東夷と見て蛇鈕を用いたのである。
三 細工の巧者に聞くと、黄金は他の金属とは異なり自由に彫刻が出来るという。
四 華音で「奴」はノと発音する。本朝の使者が国の名を尋ねられた時「ヤマトノクニ」と答えたのを、倭奴国と記したのであろう。卑しめたものではない。
五 後漢の光武中元二年は垂仁天皇の時で日本書紀の編纂は元正天皇の御代で遥かな年数を経ていた。舎人親王を始めとする編者が金印のことを知らなかったのは明白である。
六 魏志や貝原好古の「和事始」等は、応神帝の頃まで文字はなかったことを証している。
七 黄門公が古来の雑説を疑い、隋以後の説だけを用いられたことは実に明晰だが、後漢書東夷伝にも三国志にも通交のことは詳しく載っている。
八 神功皇宮の頃まで我が神国には文字が無かった。一方、彼の国は堯舜より夏殷周戦国秦漢を経て後漢と続き、文明の最中である。四方の夷狄も帰伏していた折、本朝の使者が参って、封爵を与えたもので、本朝でも他国を外国毛唐人などと言う様なものである。
九 文字が本朝に渡るのは金印のこの五文字が最初である。二千年近き前の文字が今に伝わったもので字面の是非に拘らず、大切に尊崇すべきである。
南冥が「金印弁惑問」を書き終えたのは夜も遅かった。
漸く「漢委奴国王」金印について思うところを全てまとめ上げて書面として藩に提出できる次第となった。
南冥が筆を置いて、行燈の灯を消そうとした時、誰かが格子戸を開ける音がした。暫くして玄関戸を叩く音が聞こえた。
応対に出た塾生が夜分来訪の理由を問う声がし、それに答える声に聞き覚えがあった。
「先生、客人です」
塾生に呼ばれて玄関先まで行くと、暗い中に天秤棒をしならせて荷物を担いでいる男が立っていた。
「先生、俺だよ」
「おお、佐平ではないか」
「網元から、頼まれてやって参りました。先生のお蔭で網元のごりょんさんはすっかり傷も癒えました。こいつはそのお礼の品で、魚の干し物でさあ。皆さんで食って下せえ」
天秤棒で担いだ荷物を上がり框の側に手荒く下ろしながら佐平は言った。干し物の臭いが広がる。
「何もないが、上がって茶を飲んでいけ」
「いえ、明日は早くから、漁に出なくちゃならねえから、そうしてもおられねえや。それよりも先生、さっきから家の周りをうろついている野郎がいますぜ、どうも俺の勘じゃ、先日、ほれ、松林で襲ってきたやつではないかと・・いやきっとそうだ、あの目つきに覚えがある。あの野郎」
思い出したように、そう叫ぶと、佐平は南冥の引き止めるのも聞かず、天秤棒を担いで、外にとびだして行った。
「それじゃ先生、達者でな」
玄関で手を上げて見送る南冥に振り返って会釈した佐平の目がきらりと光った。
書斎に戻った南冥は腕組みをして思いを巡らした。藩に提出する存寄書の準備は整った。
あとは、この顛末について藩の重役たちが細部に渡って聞くであろう質問に、即座に答えられるように頭の中を整理しておく必要があった。幸い佐平の来訪で、すっかり目が覚めて、眠気も遠のいた。
「さて」
小さな声で呟いて目を閉じ、精神を集中して思索と瞑想の中に分け入って行った。
熟読した中国の歴史書を頭の中に思い浮かべる。
我が神国に渡ったと推定される印は三箇である。一つ目は『後漢書東夷伝』に記載のある、後漢の光武帝が倭奴国王へ送った「漢委奴国王」印、二つ目は『魏志倭人伝』に言う魏の景初二年、魏の明帝から邪馬台国の女王卑弥呼に送られた「親魏倭王」印、三つ目は太閤秀吉が明の皇帝から受けた「日本国王」印である。その間、隋、唐、宋、蒙古の国々とは文書や人の往来はあるが、印の渡来はない。
志賀島から出土した印は「漢委奴国王」の「漢」の字から推定して、後漢の光武帝から送られたものに違いない。委の字は倭の字を略したものであろう。その時期は、垂仁天皇の御代であって我が神国には未だ文字が無かった頃である。従って金印の文字は我が国に伝わった最初の文字である。また、志賀島で印が発見されたという事実は実際に唐土から我が神国に文字が伝わったという紛れもない物的証拠である。そして、金印が偽物ではなく真物であるという証拠は「金印弁」と「金印弁惑問」に記載したとおりである。
一方で、『記紀』つまり『古事記』と『日本書紀』を何度読み返してみても本朝に印が渡ったという記録が見当たらないのはなぜか。その訳は、印が渡来した時、我が神国に文字は無く、書き記すことをしなかったために、いつか忘れ去られ、印の存在が後世に伝わらなかったからである。
『記紀』の編纂は平城京に遷都した以後、つまり、印が我が神国に伝わって七百年近く経過した元明及び元正女帝の御代であることから、稗田阿礼と太安万侶、舎人親王と藤原不比等を初めとして『記紀』編纂に携わった面々には金印が渡来した事実を知る術がなかったからであると断じた。
次に南冥は金印が発見されてから郡奉行に届けられるまでの経過を時系列に従って並べてみた。
先ず、金印が発見されたのは天明四年二月二十三日、発見場所は那珂郡志賀島村叶の崎にある百姓甚兵衛の抱え田地である。それは「甚兵衛口上書」に記載の通りであるが、実際に発見したのは水吞百姓の喜平と秀次である。
喜平と秀次はその日のうちに地主甚兵衛に連絡したが、甚兵衛は今までに見たこともない品に驚き、志賀島村庄屋武蔵に報告した。
甚兵衛と武蔵を始めとする村方三役は相談の上、金印を志賀大明神に奉納しようと阿曇宮司に申し出たが、神鬮したところ、志賀大明神の神意に叶わぬと出た。
後日、志賀大明神で南冥自身が阿曇宮司にその訳を問うと「漢委奴国王」の「奴」の字は奴僕の奴の字であって、本朝を貶める文字があることも奉納出来ない理由であると言う。
庄屋武蔵らは甚兵衛の兄、喜兵衛を介して、博多商人、米屋才蔵に印の材質の鑑定を依頼した。
才蔵の見立てで印の材質は金であることが分かったが、印に彫り込んである「漢委奴国王」という文字について、その場に居る者の全員が不案内であったため、南冥がその鑑定をするために才蔵の家に呼ばれた。
印を一目見るなり、歴史的価値の高い珍宝であると見抜いた南冥は、印を鋳潰して売却し、村の費えに当てようと考える庄屋武蔵等に印を買い取ると申し入れた。
それから数日後、金策に動いていた南冥のもとに才蔵から届いた知らせは、金印の噂が城下で評判になって既に藩の知る所となり、黙っておれば御咎めを受けるかもしれないため奉行所に届け出るほかない仕儀になったという内容であった。
三月十六日に「甚兵衛口上書」が奉行所に提出されたが、それは恐らく郡奉行津田源次郎の指導があったためであろうと南冥は推測している。
翌十七日、源次郎の知らせで奉行所に駆けつけた南冥は「甚兵衛口上書」と金印を手に取って改めて詳しく調べた。
翌日、南冥は早速金印の発見された志賀島に向かったが、その折、奈多浦に宿泊をして浦人の健康診断を行った。その際の調査では見るべき成果は得られなかった。
暫くして藩から存寄書の提出を求められた南冥は再度奈多浦に行き、佐平の伝馬船で志賀島に渡った。
志賀大明神の阿曇宮司に会い、その足で実際に金印を発見した秀次を尋ね、叶の崎に向かって、金印を掘り出した様子を詳しく聞いた。
二人持程の平たい石を喜平と二人で、金てこで、取り除いたところ、敷き詰められた石の間に金印があったと秀次は言うが、現地は田植えの準備のため整備されていて、その時出て来た石は跡形もなく取り除かれていた。これらの調査を終えた後、金印の「鑑定書」を作成し、藩に提出した。
そして今日、「金印弁」と「金印弁惑問」を書き終えて、藩に命じられた存寄書の作成を全て終えたのだった。
ふっと溜息をついた後、暫しの休息を取るために横になった南冥は、いつの間にか志賀島の叶の崎の水田に立って畦の側を流れる水を見ていた。突然、畦が崩れ、南冥は後方に飛び退いた。崩れた土中から長方形の箱式石棺が現れた。箱式石棺は朝鮮半島から伝わった埋葬方式である。南冥は驚き、二三歩下がったまま、足元の石棺をじっと見つめた。石棺の蓋がゆっくりと開き、仰向けに横たわった男女二体の姿が現れた。顔には入れ墨が彫られて体のあちこちに丹という赤色の顔料が染みついている。二人は石棺の中でゆっくりと立ち上がり、何かを言いたそうな素振りでじっと南冥を眺めていた。
「そなたたちは何者か」
問いかける南冥に男女は何も答えず、ただ謎の笑みを浮かべているだけである。男は綬という紫の長い紐を首にかけて、それを腹に幾重にも巻きつけていた。綬の先には金印が取り付けてあった。二人はもの言いたげに南冥に向かって手を差し伸べた。
「どこからやって来たのだ、黄泉国からか。わしに何が言いたい」
うなされる声で目覚めた南冥は、自分の中で醸成された思考が夢中に人の姿となって現れ、何かを暗示していると考えた。身体の汗を拭きながら、金印が納められていたのは首長の墳墓に違いないという思いを深くしたのであった。
「昱太郎はいるか」
昱太郎とは、南冥が罷免された後、家督を継ぎ西学問所の教官となる彼の長子であって号は昭陽といった。
「はい、父上ここに居ります」
「これから登城する。この父と一緒に参れ」
藩で仕事をする自分の姿を十一歳になった我が子に見せておきたかった。
完成した存寄書をふろしきに包んで小脇に抱え、登城のため家を出たのは昼を過ぎた未の刻であった。
黒門川の側に大勢の人混みが出来ていて、それを掻き分けて、役人が慌ただしく駆けていった。南冥は腕組みをしてその様子を眺めている商家の手代風の男に訪ねた。
「何かあったのかな」
「お侍の死体が、川に浮かんでいたのだそうです。何でも体中に何かにぶつけたような傷があって、そうそう、頭も割れていたのだそうですよ。お役人の話では、相当酔っ払っていて、足を滑らし、その時に、あちこちぶつかり乍ら川に転げ落ちたのじゃあないかということですがね」
「そうか」
話を聞きながら、なぜか佐平の顔が南冥の脳裏を掠めた。
大手門に続く坂道を登りながら、父聴因と先代藩主治之のことを我が子に話して聞かせた。聴因は、くじけそうになる南冥を元気付け、常にその背中を押し続けてくれた。治之は、周囲の反対を押し切って南冥を召し抱えて侍講に抜擢し、卑しき身分と蔑まれる彼を庇護し、その進言を取り上げて学問所開設を推し進めると共に遺言によって南冥を甘棠館の祭酒に就任させた。懐かしい二人はもうこの世にいない。
「父聴因の子に生まれ、成人して藩主治之公に出会った。わしはまことに幸運であった。だが昱太郎、人は運だけでは何も成し遂げられぬ、倦むことなく学び努力することこそ一番ぞ」
「はい、肝に銘じます」
昱太郎は誇らしげに南冥を見上げて頷いた。南冥は身長も学問も日々成長する我が子が頼もしくまた愛おしかった。
両側に並び立つ見事な桜並木は花の時期をとうに過ぎ、爽やかな風が若葉を揺らして親子の歩く坂道を吹き抜けて行った。今年の春は何時になく忙しく、花を愛でるゆとりも無かったなと思いながら南冥は大手門を潜った。
この後、南冥は金印の調査のために一時中断していた論語の注釈書『論語語由』の完成に向けて情熱を傾けていくのだが、その一方で、西学問所で行う古文辞学の講義は益々巷の評判を得るようになった。特に南冥が講義するときにはその門内に槍が十数本立っていたという。それは、供人に槍を持たせる高位の身分の武士が多数、聴衆に交じっていることを示していた。
この頃、天明の飢饉は全国に広がりつつあった。疲弊した農村では一揆が発生し、都会では物価の高騰に怒った庶民によって打ち壊しが頻発して社会不安は増大した。
遂に老中田沼意次は失脚し、続いて老中に就任した松平定信が行った『寛政の改革』という幕政改革の一環で『寛政異学の禁』が施行されたのは寛政二年、南冥四十八歳の時であった。『寛政異学の禁』とは、幕府直轄の学問所、昌平坂学問所において朱子学以外の講義を禁止するという政策である。
朱子学偏重の波は幕府の政策に習う傾向の強い福岡藩にも押し寄せて、南冥を取り巻く環境は急速に変わっていった。
寛政四年七月、五十歳の南冥は、突如西学問所の祭主を罷免され、蟄居禁足を言い渡された。蟄居禁足とは、外出を許されず、自宅の一室に謹慎する刑罰である。
南冥の行跡のどこに蟄居禁足という重い罪に当たる不都合があったのか記録を見ても該当する大きな過ちは見当たらない。強いて言えば、彼の舌禍が招いたことであろうか。
南冥の弟子で、後に故郷日田において「咸宜園」という私塾を開設した広瀬淡窓は「南冥は気象英邁にして、眼光人を射る人なり。尊貴の人に屈せず、直言して媚びることなし」と述べている。歯に衣着せぬ論法鋭い南冥の人となりについて大いに尊敬をし、また一抹の危うさを感じていたのであろう。
生涯、外出することを禁じられた南冥は学者との詩文の交流を始め、西学問所で講義することは勿論、医者として病人の治療に当たることまで著しく制限された。南冥の落胆と無念の心情は如何ばかりであったのか、推し測るとこの上なく痛ましい。罷免された翌年、論語の注釈書『論語語由』を完成している。それが南冥の藩に対する唯一の抵抗であったのかも知れない。
更に追い打ちをかけるように、六年後の寛政十年二月、西学問所と自宅兼私塾が焼失した。隣接する町家からの出火が原因であった。その年の六月、藩は西学問所の廃止を決定し、武士の子弟は全て東学問所で講義を受けることになった。こうして西学問所(甘棠館)は十四年間でその幕を閉じたのである。
南冥の長子昭陽はその後、早良郡百道に南冥のため隠宅を建て亀井塾を再興した。だが、蟄居禁足という藩の処分は南冥の心身を徐々に蝕んでいった。やがてその行動は常軌を逸するようになる。昭陽が何を言っても悪意に解して聞かず、昼間から酒浸りになるという有様だったという。
文化十一年三月三日、南冥は七十二歳でその生涯を閉じた。焼死であった。
悲報を聞いて日田から弔問に駆けつけた広瀬淡窓は昭陽から死の顛末を聞いて手記に残している。南冥の隠宅は本宅の隣にあったが、本宅で餅つきをして、炭火が多く出たので、下働きの者が南冥の部屋の炉に炭を入れて本宅に戻ったところ、誰かが隠宅から煙が出ているというので昭陽が走って駆けつけると、南冥の部屋が燃えていたので煙を掻い潜って飛び込み、南冥を探したが人影はなかった。南冥先生は先ほど外に出られましたと言う者がいたので安心して消火に当たった。消化を終えて倒壊した壁を引き起こしたところ、うつ伏せに倒れている南冥を発見した。体にはこれといった傷は無かったが既に息は絶えていた。南冥自身が火を放ったのか、自然出火なのか不明であると手記は結んでいる。
昭陽は、その場で短刀を引き抜き、自殺しようとしたが周囲の人たちに引き止められた。
藩は失火で南冥を死なせたことは昭陽の不行き届きであるとしたが、彼の孝心を知っていたのでその責任を不問とした。
庶民は藩の理不尽な仕打ちによって不遇のなかに死んだ南冥を惜しみ、彼の臨終の様子を、次のように言い伝えた。
「南冥先生、燃え盛る火炎の中に端座して両の手を膝に置き、身じろぎもせず、眼光鋭く前方をじっと見つめていた」
南冥の墓は、母の実家である福岡市中央区の浄満寺境内にある。
「漢委奴国王」印は、長く福岡藩の藩庫に納められていたが、現在は博物館の常設展示場で今もその黄金の輝きを放っている。
(参考)
○金印遺跡調査団『「漢委奴国王」金印と志賀島の考古学的研究』(1975福岡市)
○大谷光男『金印ものがたり』(1979・⒒西日本図書館コンサルタント協会)
○早舩正夫『儒学者亀井南冥・ここが偉かった』(2013・1花乱社)
○『亀陽文庫のしおり 亀井南冥と一族の小伝』