1-1 喧騒に浮動する怪
首筋に差し込む陽の光に夏の熱を感じるようになってきた梅雨入り前の季節。真昼のコンクリートジャングルは黒の分厚い背広を羽織ったサラリーマンやタイトスカートを突っ張らせて早歩きするOL、薄汚れた作業着姿で仲間と歩く土方、有名ブランドのバッグを下げた、グラサンをかける有閑マダム達、車道の左端を颯爽と走るロードバイクの外国人、文庫本を片手に杖をつきながら歩く老人等、周りに意識を向ければこの街には色々な人がいることがわかる。夜になれば小洒落た奥様方や授業をサボる学生服姿の少年達に代わり、派手なドレス姿と燦爛としたヘアスタイルの女性やただのスーツ姿ではない、ノーネクタイに胸元を開けた姿の男の人を見かけるようになる。昨年度の発表で人口が300万を突破したと発表した石蕗市。元々は広大な面積を持ち、東部の海岸と西部の山岳地帯と温泉を利用した観光都市としての側面が強かったのだが、前市長が10年程前に中心部の広大な平野部と港を利用した巨大都市圏を形成すると宣言、交通網を瞬く間に整備、外国企業も含めた民間企業を積極的に誘致し、今や全国トップクラスの大都市へと成長した新興商業都市だ。これでも未だ発展途上の最中にあるというこの街は昼夜問わず多種多様な人が闊歩している。
そんな人工物の街の中にある小さいながらも緑に溢れたオアシスのような公園。ここに子供や大人まで様々な人が過ごしている中、一人の少年がベンチに座っていた。
「成果は無しか……チッ」
顔を歪ませながら吐き捨て、口に咥えているロリポップを舐める。彼の好物であるそれはイライラした時の鎮静剤にもなるのだ。
飴をなめている最中、彼のポケットの中に入っているスマートフォンが突然震え出した。
「葉? 成果はあった?」
画面を一度も見ず機械的に通話ボタンを押し、口内で転がるロリポップを出して片手で持ったまま、葉というあだ名で呼ばれた少年は通話主と会話を始めた。
「なんもないっつーか、あの住所もぬけの殻だった。表札とかも外されてさ」
「やっぱりなにもなかったんだ。全くアイツはいつも2,3手遅いんだから」
通話口から聞こえてくる声は若々しい、いや幼いと言ってもいいくらいの女の声。ロリポップを舐める少年よりも子供っぽい声の主は困惑する少年のことなど知ったことではないと言わんばかりに話を勝手に進めてしまう。
「いつ出てったとかそういう話も聞いた? どんな人が出入りしていたとかも」
「ちょっと待って……今年の2月に引越し業者が入ったらしい。隣のフロアが占い師入ってるから聞いてきたけど、何度か白衣を着た男女が入っていくのを見たって。あと1階がコンビニなんだけど、そこの店主の話ではちょうど俺くらいの歳の子が大人数人に連れられてビル上がっていくのを何回か見たけど最近は見なくなったって言ってた」
「なるほどね……アンタくらいの歳の子が、ねぇ」
「あのさぁ……この人達は一体何なんだ?」
銜え直したロリポップはパチンコ球以下にまで小さくなっていた。舌の動きで奥歯へ誘導して棒と一緒に飴玉を噛み砕く。口の中で飴玉が砕ける音が反響し、甘ったるいぶどうの味が染みわたる。
「とりあえず天城でいつものコーヒー豆もらって帰ってきて。それから説明するから」
「別に今でもいいでしょ」
「あたしだってちょっと色々整理したいのよ。チェルがコーヒー入れてくれるから帰っておいで」
「……わかっ」
少年が座るベンチの正面、この公園のシンボルであるとても大きな木とそれに止まる小鳥を象った金属のモニュメントがあり、少年が座るベンチの反対側には植え込みが半月状に植えられている。その手前にいつの間にか少女がいた。
「……葉? どうした?」
通話している間はずっと正面を向いていた、だから自然とそのモニュメントをずっと見ていた。その間、誰かがモニュメントの周りで遊んでいたということは確認していない。
少女は砂埃か埃で薄黒く汚れた白いワンピースを着ていて、外出には使われないはずの室内用スリッパを履いていた。背丈や容貌から小学校中学年くらいと想像できるがその表情は恐ろしさを覚えるほど無表情。長くべったりした黒髪やその足取りがふらふらと力ないこともあり、燦爛と輝く太陽のもとでありながら幽霊や亡霊の類を想像させる。
「いや……なんでも……っ!」
ずっと見つめていたからだろうか、その少女と目があった。たった一瞬だった。
「あっそう。まっ、早く帰ってきてよね。チェルがドーナッツ出してくれるって!」
通話が途切れてツーツーと電子音が流れる中、少年は通話口を当てたまま立ち尽くしていた。少女はモニュメントの陰に隠れたのかわからないが、姿を消してしまった。
「……」
モニュメントの陰の方へ歩いてみたが彼女の姿は既になく、公園を見渡しても見つけることはできなかった。たった一瞬目があって驚く合間、数秒という時間であの少女の足取りではすぐに姿を消すとはとても考えにくい。少女に気づいていたのも少年だけだろうか、他の人々の要素に変わったものはない。少年こそが一番に動揺して、一番に焦っていた。
「……何だったんだあの子は。気になるけど」
突然姿を表して、びっくりしている間にいなくなる。その神出鬼没っぷりは少年にとって幽霊以外で形容するものを思い浮かばなかった。明らかに年下の少女、力関係なら間違いなく上なのに恐ろしくて仕方なかった。
コンビニ袋に入っていた2本目のロリポップのビニールを解いて口に入れる。
少し舐めて植え込みを眺めていた時だった。
「ん……?なんだこれは?」
半月状に植えられていた植え込みではあるが、その一端に布切れのようなものがひっかかっていた。薄茶の砂埃がついた白い布切れだった。奇しくもその状態のものに見覚えは合った。
「一応拾っておこう。帰ったらあの人達に話すか……」
これ以上公園にいても仕方がないと思った少年はロリポップを咥えたまま、モニュメントに背中を向けて出口へと向かっていった。
「……」
「ただいまー」
「おっそい葉! お母様を待たせるとは偉くなったもんね!」
「悪かったって。ほら、天城さんから豆もらってきたから」
「ごくろうさま。チェルー!早速入れてくれる?」
公園を出てから2時間余り、お使いを終えた少年は自宅、そして自身の仕事場でもある石蕗市郊外にあるビルへ帰ってきていた。
築ウン十年という、古ぼけたこのビルには主である少年に電話をかけてきたこの女性、そしてチェルと言われた、
「おかえり、ヨーイチ。もらってきたコーヒー渡してくれる? あなたのお母様は早くおやつにしたいみたいよ?」
「あたしががっついてるみたいに言うな! いつものように荒挽きで頼むよー」
「了解しました。おやつは冷蔵庫に入ってるから……ヨーイチ、頼める?」
黒のロングワンピースと純白のフリルエプロン、メイドの命と称される同色のヘッドドレスに身を包んだ碧眼のブロンド女性。どうみても日本の、しかも屋敷とは程遠い古臭いビルには似つかわしくない場所に、タメ口も利くメイドがいた。
「ういうい。今日はスコーンか。紅茶の方が合ってそうなもんだけど」
「ヒルナ○デスでスコーンの特集やってたのよ。そしたら朋香さまがどうしてもって」
「チョコ入れてもらったからコーヒーにも合うはずよ! あ、葉はスコーン持ってきたらこっちきて」
ブロンドのメイドさんが居れば、もう一人はこのビルの主である朋香と言われた女性で、少年のお母様ともいわれた人。しかしビルの持ち主で母親というにはあまりに異様な容姿とも言える人だった。
「そういやあの子……お母さんとそんなに……いや流石に」
「ん? あ、そういやアンタなんか電話で様子ちょっとおかしかったけど」
腰の手前まで伸びた髪を一つにくくり、ブカブカなロングTシャツにショートパンツというメイドさんと正反対な緩い格好である彼女は中学校に入りたての子供のような容姿であり、少年と並んでも親子に見られることが殆ど無い。姉弟に思われるならまだしも、大抵の場合は兄妹に見られてきている。
そんな母親というには幼すぎる人がこの少年の母親であり、メイドの主であり、このビルの名義人である青野朋香という女性であった。
「あー……チェルがコーヒー淹れ終わったら話す。それよりも調査報告の資料パソコンに入れたいでしょ? ほれ」
街に出向いていた少年、朋香の息子であるこの少年が青野葉一郎。現在高校2年の17歳だ。朋香ほどではないが葉一郎もまた年齢に比べてやや童顔気味であり、背丈もあの親の片鱗は見られる。本人はだいぶ気にしているが。
「どーもご苦労さん。ひとまず依頼はないから今日はもうゆっくりしてていいよ」
「今日久しぶりに依頼があったわけだけど」
「2週間ぶり……でしたっけ? しかも運び屋とかお使いじゃなくてちゃんとした調査依頼でしたものね」
「そうそう!新規の顧客なのよ!」
「まず普通の探偵事務所なら2週間ぶりの仕事ってことはないと思うんだがな……」
「ま、あたしが広告ほとんど出してないだけなんだけどね。アンタ忙しくて学校行けなくていいの???」
「……私はヨーイチがいないと困るわ」
「……愛されてるねぇ」
「チェルはもっと他の人にも慣れたほうがいいと思うんだが」
朋香と葉一郎は親子である。ではこのメイドは一体何者なのか?
「私はヨーイチと朋香さまのメイドです。ご主人様方を愛するのは当然のことですから」
実に臆せず大胆に告白するこのメイド、名前をプレッチェル=ロジック=青野。数年前に朋香の養子として向かい入れ、そこまでの経緯があって現在2人のメイドとなっている。あだ名はチェル。学年は葉一郎と同じだが誕生日はチェルの方が遅いので義理の妹ということになっているのだが、当人たちにその意識はない。むしろ本来はご主人様と使用人という関係であるはずなのだが、葉一郎とチェルの間にだけ敬語がないように、そうとも言い切れない関係にもなっている。本人達もどういう位置づけなのか説明するのも面倒なようだ。
「はい、淹れたてコーヒーです。覚めないうちにお召し上がり下さいね」
「あいあい。んー……ずずっ……んっ! やっぱり荒挽きが美味しい!」
「色々と試行錯誤されてましたものね。朋香様は苦いのが少し苦手みたいですから」
「ミルク入れちまえば変わんないでしょ……」
「あたしの息子なのに聞いて呆れますわ」
小言を挟む葉一郎もミルクと角砂糖をドバドバ入れる朋香もこのおやつの時間は大好きだ。
チェルが淹れたコーヒーと昼ごはんを終えてから作られるお菓子で過ごす昼下がりの団欒。休日であることもあってこの時間はゆったりと流れていく。親子2人と養子兼メイドという一般的ではない関係だったが、この3人にとっては数年前からの当たり前、常識であり、チェルがメイドとして1人前レベルになってからの習慣だった。
「あむっ……よう、ほういえばさぁ、れんわの……あんか……んぐんぐっ……あっはっれ……」
「スコーン食べながらはやめようか……」
「ん? あぁ……それで?」
「あ、あぁ。えっと……」
葉一郎は少し気が進まなかったものの、チェルも含めて公園で見かけた幽霊のような少女を見かけた話をすることにした。
「……というわけなんだ」
「幽霊ねぇ……。葉がボーっとしてただけじゃないの?なんか見落としてるんだって」
「幽霊って明るい場所にでも出るものなのでしょうか? テレビの心霊写真とかはだいたい暗かったですよね?」
「昼間に撮られたものもあるでしょ。まぁそれも何かの陰にうつりこんでたとかなんだが……けどはっきりとしてたんだぞ?」
記憶が朧気だったらまだしも、葉一郎は2,3時間前に見た物の話をしている。公園のモニュメントの周りは植え込みしかなく、それも葉一郎のベンチの反対側にしか植えられてなかった。葉一郎から見た方向では陰になるようなものはそれこそ、そのモニュメントしかない。
「幽霊……朋香様、探偵は幽霊も探すものなのですか?」
「違うに決まってるでしょ。あんなのすぴりちゅあるかうんせらーにでも任せときゃいいの。だいたい幽霊なんているわけ無いでしょええ絶対いない」
「と言ってもなあ……急に湧いて出てきたんだし」
「険しい顔してるアンタ見ておっかなびっくり出て行っちゃったんでしょ。子供怖がらせちゃってかわいそーに」
「……」
目が合ってから彼女は立ち去っただけにうまく言い返すことができなかった。
「薄汚れたワンピースってのが気になるわ……。この街にもストリートチルドレンがいるということなの?」
「ああそうだワンピースだ。ちょっと待って」
葉一郎がポケットから取り出したビニールパックに入っている布切れを取り出した。モニュメントそばの植え込みにひっかかっていた彼女の着ていた服の物とみられるものだ。
「なにこれ?」
2人に簡単に説明する。
「結構汚れてるわ。それにこの生地……夏物かしら?まだ暖かい季節だったのが幸いね」
「警察だったらこの布からどのメーカーの服のものなのかとかそういう追跡できそうだけどな……」
「科学捜査は無理」
「知ってた」
非常に唐突であるが、彼らは探偵である。主に朋香が外部からの依頼を受け付けて調査の方針を決め、葉一郎が実地へ赴いて調査や追跡を行う。チェルは必要に応じて2人のどちらかの応援要員である。事務所の名前は『ナット・ハーブ』
探偵事務所を開設したのが今から4年前、チェルを養子にとってからしばらく経った頃のことだった。その頃から朋香の元に、当時高度経済成長時代を彷彿させるほどの急成長を遂げた石蕗市の内地調査が彼女の同業者から舞い込み、彼女の本業が疎かになってしまうということがあった。それならば事業化して金を取ってしまおうという魂胆と単なる暇つぶしでここまで続いてきた。そんな下心満載ないきさつのせいか、採算がとれるような収入を得られたことは一度もない。依頼は月に1度か2度。これは学生の身分であるチェルと葉一郎に配慮して積極的な宣伝をしてこなかった事だったが、それならばさっさとこの事務所を畳むべきではと朋香以外の2人が常々思っていることである。とはいえ、今の事業の規模なら2人の負担も特に問題がないレベルで続いているので特別な文句があるわけではなかった。そもそも朋香にはこの事務所を畳むつもりは毛頭ないらしい。
朋香の本業というのは、実はデイトレーダーである。市場流動性の高い株式やFX等を日に何度も取引し、細かく利益を上げていく手法だ。コレを十数年前から生業としており、その腕前は日本経済界の闇の重鎮とまで言われている……というのは息子たちが知り及ぶところではない。彼らは母親がデイトレードでビルを買ったり人一人養子に迎え入れたり、遊興で探偵やっていられている程度には稼いでいるという認識である。その認識が既に非常識的な状況なのであるが、あんな母親の元で育ってきたものだから感覚が麻痺しても仕方のない事なのだろう。また近年ではデイトレードの保険とさらなる収入源の確保に石蕗市やその他全国各地に不動産を幾つか取得した。本人は日本で一番の不労所得を得てる大人と豪語するダメ人間っぷりだが、その恩恵に与る2人はノーコメントを貫いている。
当然石蕗市の急激な発展にも彼女が一枚噛んでおり、要するに先ほどの調査というのも聞いて呆れるマッチポンプというわけなのだ。
そもそも不労所得で生計を成り立たせているのは心証が悪い。朋香自身が言われる分にはどこ吹く風といった感じだが、2人に風評被害を及ぼさないためというのも探偵事務所を構え続けているという。
探偵とデイトレード。それが青野家の生活の基盤だった。この事を知っているのはごく一部のみで、高校の知り合いにも伝えたことはない。
「幽霊……いや、幽霊なんていない。いないけど……気になる、よねぇ?」
「……まさか」
葉一郎が初めてコーヒーを飲んだ子供みたいな顔をした。
「お捜しに……なるのですか? 正直それは」
「そういうと思ってるけど、石蕗市にホームレス疑惑の女の子って普通じゃないの。葉、アンタはどういうことかわかる」
「えっと……えっと?」
「石蕗市は労働者最適化法っていう制度が施行されている、んでしたっけ?朋香様」
「そう。この制度は民間企業の求人を受けられない人の受け皿。石蕗市の公共事業を進める公務員として雇っていく制度なの。その御蔭で行き場を失って路上に屯していたホームレスは減ってクリーンな街になっていった。この制度で公務員となった人たちは市営住宅地に集められているみたいね。それと同時に、孤児となった子も放っておく訳にはいかない。ストリートチルドレンの問題は知っているでしょ?」
ホームレスだけでなく孤児となった子の保護も熱心に行っている。公共の孤児院は簡易的な学校機能もあり、そこの教諭もまたかつてホームレスであった人達も多いという。
ホームレスがいるだけで街の景観にも影響を与えると睨んだ条例施行当時の市長は慧眼だった。民間企業の積極的な誘致と積極的な公共事業で市場の新陳代謝を高め、現在の地位を築いた。そしてこの街は未だ発展途上の中途にある。
そんなわけで、この街はホームレスやストリートチルドレンの類とは無縁となっていた。そんな中、あの幽霊少女である。
「アンタちゃんと授業聞いてんの?」
「ま、そんなことよりえっと……女の子のことだろ? その……今度会った時は」
「そ、ちゃんと連れてきてね」
「わかっ……はぇ!? 連れてくるぅ!?」
「当たり前じゃないの。話を聞いて身寄りがないとわかったら連れてきてね」
「あ、あの……あまりに直球過ぎやしません?」
親に向かって敬語で答えるほどに息子は母親の破天荒に動揺していた。連れてきてどうするのか、いや身寄りの有無を探らせる時点でこの母親の腹は既に決まっている。
「ただの迷子かもしれない、そもそも放っておいたら市が面倒見てくれるんだろ? なら家がでしゃばる必要がどこにある」
そんな気軽に孤児をホイホイ招き入れていたらこの古臭いビルが孤児院になってしまう。たった3人でしか使ってないのでスペースには余裕があるにしろ、探偵やって2人養っている状態で更に孤児院も営む余裕まではあると思っていなかった。
「それもそうだけどね」
朋香はチョコチップスコーンの残りを口に含み、すっかりぬるくなった甘ったるいコーヒーで流し込む。
「見知った子が所在知らぬ場所に連れて行かれていったってのはなかなか堪えるものだよ。例えばアンタ達の高校の目の前のコンビニの店員さん。貴方達は顔くらいわかるでしょ? その人が突然行方不明になったと聞かされたら……無関心でいられる?」
「……その子とは今日一目あっただけなんだが」
「そうかもしれないけどね。きれいな服を着た健康そうな大人だったらあたしだってそう思うだけかもしれないけど」
カップをティーソーサーに置いて立ち上がり、仕事用のPCが置いてあるデスクの椅子へ向かっていった。彼女のおやつタイムはもう終わったようだ。
「とにかく、明日もう一度行ってもらうからね。あの公園とその近辺捜索して頂戴」
デスクトップに繋がれているヘッドホンを装着して、朋香は完全に取引モードに入ってしまった。こうなると取り付く島もないのは経験則が証明を繰り返してきたことだった。
「ヨーイチ、おかわりいる? 少し濃い目のものも淹れたわ」
「……頼む」
自身の分のスコーンはまだ残っていたが、ポケットの中に移しておいてあったロリポップを取り出し、封を切って口の中に入れた。
釈然としない気持ちは口の中の甘さに増幅されて淀みのように溜まっていった。
翌日の昼。昨日と同じ、石蕗市街にある金属のモニュメントが目印の公園。今日はベンチに座らず、直接モニュメントのそばまで来ていた。
「この辺りだったよな……それで急に現れて……」
モニュメントの方向からも昨日自分が座っていたベンチはよく見える。彼女と同じ背丈になるよう屈んでみてもそれは変わらない。そうしてみると、やはり陰になるようなものは目の前の木のモニュメント以外は考えられない。
「そうなるとこのモニュメント実はどこか仕掛けが合って……」
このモニュメント、葉一郎が両腕を広げて前から寄りかかっても両手が全く届かない程に大きく、小さい子供どころか大きめな男性でもなければすっぽり隠れられそうなほどだ。ベンチの反対側には植え込み。ベンチからは陰となる位置に寄りかかって座れば、周りからはぱっと見隠れられているようにも見える。
しかしそれは、まるで隠れているみたいだ。
「それで俺に気づいて慌てて……ってところか。ここだったな」
彼女のワンピースの切れ端とみられる布はモニュメントから見て左側の植え込みの端にひっかかっていた。公園の出入り口もちょうどその方向であるので、ここから立ち去ったのだろう。出入口の先は歩道橋がある交差点で信号の様子に拘らず通行することができる。
「もし何かから隠れながら……としたら一箇所に止まるのは良くないかもしれない……のか? とはいえビル街ってそうそう中に気軽に立ち入れるところなんてないし……」
雨宿り感覚で中に立ち入れそうな建物はコンビニくらいだろう。この辺一帯は他に喫茶店や美容院、何らかの事務所が立ち並んでいるばかりだ。パチンコ屋も何店か存在するが小さい子供が入れるとは到底思えない。入れそうな店といえばコンビニくらいなものだろう。
「この公園にはもういないかもな……。他を探そう」
スマートフォンを取り出して地図アプリを開き、周囲の立地を改めて調べていた時だった。
「うわっ!」
公園の出入口へ差し掛かるところだった。ドサッという音とともに左半身に何か硬いものと一緒にがぶつかった感触。すぐに顔を上げるとスーツを着た見事な七三分けの男性が葉一郎を見下ろしている。胸ポケットには硬いものの正体であるふきの葉っぱのような、下部から左右へ円形に張り出したような形の金属製のバッチが付けられている。
画面に注視していたせいで注意力が完全におろそかになっていた。
「んんっ……!」
「す、すみません……」
サングラスをかけていて表情は伺えないものの、スマートフォンを弄っていた若者とぶつかっていい気持ちはしていないだろう。鼻息を荒らげて葉一郎を威嚇するように見下した。身長も葉一郎の頭一つ分くらい高く、ぶつかった時の感触もかなり固かった。相当体を鍛えていそうな様子である。
頭を下げながらそそくさと立ち去ろうとして
「あっ、キミ。ぶつかりついでなんだが」
「……?」
その体躯に合った、渋く重苦しいような声だった。
「我々はこの少女を捜索している」
高級そうなスーツの内ポケットから写真を取り出し、葉一郎の前に取り出してみせる。その写真に写っていたのは10歳くらいの、無表情な女の子だった。
「……っ!」
そう……昨日見た女の子だった。
違いといえば着ている衣服が綺麗になっていることくらいだった。
「……? 見たことあるのか?」
「いやっその……」
全身の毛が逆立つような気分だった。自分達が(嫌々ながら)探している子供を、見るからに威圧感たっぷりな男の人が探している。周囲を歩く人もちらちら見てくる程に目立つ人と、だ。
「……」
何度見ても昨日あのモニュメントで見た少女だった。一軒家の玄関の前で、葉一郎も見た白いワンピースを着ている。
葉一郎が昨日見た小汚く弱々しかった少女をどう見ても物騒な男の人が探している。
「……知り合いに似てる人がいるなあと思って」
葉一郎は男から目を逸らしながら答えた。
「……!? それは誰なんだ!」
「い……いやっ。その知り合いは今もう高校生くらいで……この写真最近のものですよね?」
「そ、そういうことか……紛らわしい」
「その子は一体……」
「いや、君には関係ないことだ。それよりも歩きスマホを止めるんだな」
彼は写真を胸ポケットにしまい、葉一郎を睨むように見つめながら立ち去って行こうとした。
「あの、警察の方ですか……?」
立ち去っていこうとする直前、葉一郎は朋香が昨日言っていたことを思い出していた。街を彷徨う女の子の保護、そのための捜索。市からの要請で警察が動くという仕組みなのだろうか、と彼は考えた。
「……」
男は答えず葉一郎が向かう方向とは反対方向へ、歩道橋を渡るとその大柄な体も見えなくなっていった。
「……」
葉一郎は地図アプリから切り替え、通話ボタンを押した。
プルルルルルル……
「なーにー? もう……ふあぁっ……見つかったのん?」
通話に出た女性はのんきにあくび混じりで答えていた。ちょうどランチタイムの時間だ、満腹になって眠気が舞い込んできたといったところだろう。
もう少し静かなところで電話しようと、葉一郎は公園へ戻りながら電話することにする。
「ああ見つかったよ」
「えっマジで!?」
「同じ子探してる奴がな」
「はぁ!?」
通話口から聞こえる甲高い声に耳が痛くなりそうだった。
「さっきスーツ姿の男の人とちょっとぶつかってさ、その時についでにとこんなやつを探してるって感じで」
「どんな男だったの!?
「サングラスかけたヨコワケハンサムガイだった。身体もでかくてSPみたいだったな。正直こんな町中に物騒な人がいたもんだと思ったぞ」
「名前やどこの職員だとかは?」
「……答えなかった」
威圧感に押されていたが去る直前に、確かに聞いた。結局何も答えてくれず、そのまま立ち去っていったのだが。
「……あんたはどう思う?」
葉一郎が電話をかけた女性、朋香はそう聞いてきた。
「……俺が警察だったら警察だって答える。なんてことはない普通の人探しだ。身体をぶつけられたっていう経緯はあるけど、何も身分を隠して訊くことはない」
「アンタと話し終えたあと、誰かに話を聞いてる様子は合った?」
「いや、この公園前の通り結構人通りあるんだけど、通行人から積極的に話を聞いてる様子はなかった。ああそうだ! そういや警察だったら真っ先に警察手帳見せるか」
受話器片手に、歩みは例のモニュメントの近くまで来ていた。
男は写真だけを見せて、自身が警察だと示すものは何も見せなかった。では警察ではない何者かが捜索しているということだ。
「市の職員が探しているということか? いや、それならそうと答えてもいいんじゃ……孤児院のこともあるんだし」
「話聞いてると怪しいねその人。市の制度で保護してるっていう説明くらいしてもいいのに……もし見つかったりしたら……」
「……」
あの男が少女を見つけた場合、彼女はどうなるのだろう。どうにも穏便な結果に落ち着くとは思えない。ならば市が彼女を引き取るまでにあの男から、
「もしかしたら同じようにその子を探してる人が他にもいるかもしれない。そんなことも言ってた?」
「いや……」
彼らから保護する意味でも見つけ出すべきなのだろう。
「……わかったよ。養子にするかどうかはともかく、彼女は連れて帰る。現時点で追手に追われているとなれば話は別だ」
「やーっと乗り気になってくれたね! じゃあよろしく頼むよ。見つけたらまた折り返しでんわ頼むわね」
「あぁ、それ……じ……」
何気なしにモニュメントの方向を見て、
「……あっ」
人がいた。しかもそれは、
「ん……? 葉?」
薄汚れた白いワンピースの幽霊少女。ぼーっとした表情の少女がモニュメントにもたれかかりながらこちらを、
「よーう! どうしたー……ってもしかして……」
「……」
見つめていた。
「……」
口の中が一瞬にして乾いたような気がした。それくらいの衝撃。それくらいの驚愕。昨日見た少女が、印象に残ったあの少女が昨日と同じ場所で。
「……ひっ」
葉一郎はゆっくりと、両手を開いて上げながら少女に近づく。少女は急に近づく自分より大きい男に怯えるかのようにのけぞるが
「うっ……あっ……」
昨日は立っていた。今日は座り込んでいる。彼女にとっては知らない大人に迫られているという危機的な状況なのに立ち上がろうとしない。
葉一郎はしゃがんで座り込んだ彼女と目線を合わせる。危機感を薄れさせるには目線の高さは重要なのだ。
「大丈夫……悪いことはしない。キミを助けに来た」
無表情だった少女の感情的な顔に少し安堵するも、初めて近づいたことで深刻な状態を知ることとなった。
顔は泥か砂埃で土気色に染められ、垣間から赤く染まった肌が見え、頬がこけている。白いワンピースは汚れているだけでなく一部がほつれたり破れたり、また昨日植え込みに引っ掛けて破いたところも確認できる。それだけ材質ももろくなっているのだろうか。またやせ細った手足も汚れたり、痣や擦り傷切り傷も何箇所か見受けられた。
呼吸のリズムもどこか切羽詰まったように乱れていた。汚れた顔は赤く染まっている。
「……はぁっ……、お、にぃ……ちゃ……」
「無理に喋るな……少しおでこ触るぞ」
まだ怯えた様子はあるが、抵抗はなかった。いや、もうそんな体力がなかったと言う方がいいのだろう。触らせてもらったおでこは普通ではない熱を持っていた。体力低下に加えて傷口からの感染症だろうか。
「よーう!!! 返事しろー!!! 見つけたの!!!???」
なにか甲高い声が脇から飛び込んできたのを聞いて電話を切ってなかったことを思い出した。
「ちょっとコレ被っててくれ」
葉一郎が着ていたピンクのパーカーを脱いで彼女の顔がフードに隠れるように被せ、立ち上がってスマートフォンを再び耳に当てる。
「……たった今、昨日見た場所だ。が、昨日と比べてかなり弱ってる……熱があるな。いや昨日も満身創痍だったかもしれないけど……」
「わかった。今動けそう?」
「おぶっていけないことはないが、多分目立つかもしれない。そうなると、さっきの人たちが気になる」
こんなに小さな少女なら家まで背負っていくことも難しくはないだろうが、何分目立ってしまうだろう。そうなると先ほどぶつかった男(もしかしたら集団)が大変気になる。彼女を完全に隠しながら移動できる保証はどこにもない。
「それなら、その公園にどこか隠れそうな所ある?トイレとか」
「トイレ……ある」
「そこに5分10分隠れてて。今からアンタのいる公園にタクシー来てもらうから、ついたらそのドライバーが電話してもらうようにするから出てきて、それでうちに帰っておいで」
「GPSアプリ……ようやく役に立ちそうだな」
「それじゃ、くれぐれも彼らに見つからないように用心して。あと、変な気は起こさないこと!」
朋香との通話が切れた。
「変な気って……どう考えてもそれどころじゃねえだろ」
小言を挟んでスマートフォンをしまい、辺り一面360度を見渡す。例のスーツ服の男やそれっぽい人に細心の注意を払わなくてはならない。
「俺達は大丈夫だから……背中に乗ってくれ。その病気も治してやる」
少女に背中を向けて誘いこむように屈む。彼女が背中に乗ってくれるまで葉一郎はその姿勢のままで待ち続ける。
「俺はお前を助ける」
「……んっ」
半ば倒れこむように、少女は葉一郎の背中に乗った。それを競技用ピストルがなった瞬間のスタートダッシュのごとく、一筋の暴風となって安全地帯の公衆トイレに突っ込んでいった。自分の服につく汚れや何日も風呂や着替えもできていないことによる臭いも意識の外、意地でも顧みることはしない。
「ううっ……はぁ……」
「悪い揺らしたか。もう少しの辛抱だから……」
トイレの中にも侵入してくることを考慮して個室の中に入っていた。しかし公園の公衆トイレというのはどこも衛生状態が酷いものなのだろうかここも例外ではなく、背中に乗る少女の顔色も外にいた時よりまして悪くなってきているように見えた。体の調子が悪い状態で揺らされて臭いの充満する密室に連れ込まれて、葉一郎自身も勘弁してほしい状況だと省みる。
「どう見ても良くはないよな……ホント悪い」
首の後で何かが横に揺れる動作をしたように感じた。
プルルルルルルッ
「電話……もしかして」
自分達の息遣い以外の音がないトイレに着信音が響いた。画面に表示される未登録番号、一瞬びっくりしたものの朋香がタクシーを呼んでくれていたことを思い出してすぐ察しがついた。
それにしては早いと思った葉一郎だったが……
「いつもご利用ありがとうございマスタング個人タクシーハイウェイビーのミハエル速瀬とは私のことでございます貴方がトモコ様の息子さんのヨウタロウ君ですねいやいや返事しなくてもわかります私はプロですから仕事は何事も早い方がいい出来るものなら余計なことは省いたほうがいい時間や誰かに追われているのなら尚更のことですあっ後1分弱でそちらの公園につきますのであっそうだそのままトイレの中に待機しててくださいね歩く時間がもったいない私がトイレの直ぐ側までお迎えに上がりま……」
通話ボタンを押した瞬間から凄まじい早口とその割にはとても聞きやすい優れた滑舌、通話校からも聞こえるタイヤが激しく地面と擦れる音。予想通り朋香が呼んだタクシードライバーだったが、人物像はワイルドピッチしていた。
「エンジン音がすると思いましたら表に出てきてくださいさっと入ってこれるよう後部座席のドアは自動で開きます代金も後でトモコ様からいただくことになっておりますのでご安心くださいええそうです現金精算は時間がかかる釣り銭が出てしまえば尚更煩雑だもしかしたらヨウタロウ君が今万札しか持っていないことも十分にありえるのですこの様に……」
通話口から一方的にまくし立てられていく声に葉一郎は返事すらかなわなかった。彼の早口は留まることを知らず、しかし発声はいいから聞き入ってしまう。通話時間わずか20秒にして自分自身が1分以上しゃべっている内容を言っていたような気さえする。
とはいえ、葉一郎からも何か反撃をしたかった。朋香はともかく葉一郎自身の名前も間違っていることを、その滑舌の良さ故に聞き逃すことはなかった。
「あの、一応言っておきますけど葉一郎じゃなくて……」
「あースミマセン私こういう商売しておきながら人の名前覚えるのが苦手でございましてねイヤイヤ人には何事も得意不得意がある私は速さにおいては誰にも負けません故にタクシードライバーをしている人々の無駄な移動時間を限界まで縮めて仕事できる時間を増やす私も仕事の効率を限界まで高める互いにWINWINではありませんかあっ今公園内入りましたクラクションが聞こえるでしょうこの公園は当然ながら車両進入禁止です速やかに外に出る準備をヨウタロウ君にはしていただきたい」
早口で喋りながら、ドライバーの実況通りに公衆トイレの外と通話口の2重にクラクションが聞こえてきた。通話時間はまだ50秒の手前、彼が語った時間より早く着いていた。
「うーん車庫を出て7分20秒45世界が拡大してしまったこれはいけないプロとしてお恥ずかしい限りでございますところでヨウタロウ君まだ出てこないようですが私はもう到着いたしました遠慮なさることはない早く私のGT-Rに乗るといいキミと連れのお嬢様にスピードの向こう側を見せて差し上げま」
「……ふんっ!」
延々と喋ってくる彼のテンション、スピードについていけなくなった葉一郎は一方的に電話を切った。
そのトイレの出入口の真ん前にクラクションの正体、モーターショーから飛び出してきたような、真っ赤なスポーツカーは後部座席を開けながら出迎えていた。コレを見る通りすがりの公園利用者は、いや日本全国の人がコレをタクシーだとは絶対に思わないだろう、と余計なことを考えていたところを、おしりを思いっきり押されて車の中へホールイン。背負っていた女の子を隣に座らせる間にドライバーは運転席に既に座ってフロントミラーから青紫のスポーツサングラスを煌めかせていた。
「本日は個人タクシーハイウェイビーをご利用いただきましてまことにありがとうごいざいマスタングドライバーのミハエル速瀬と申しますどうぞドライバーではなくミハエルとお呼びくださいませなお車内は急加速急停止による揺れが頻発すると予想されますGT-Rの制動性は素晴らしい日本人の叡智が結晶化されたスーパーカーですですがそれでもお客様に不愉快を生じさせてしまう可能性があるそこを予め断っておきたいしかしそれは全てお客様を快適かつ1秒でも目的地にお届けするためそう1秒でも目的地までの所要時間を減らすそれこそが世界を縮めることそれが私の……」
「あーもうわかりました! さっさと出てくだ……うわっ!」
「コレは失礼しました確かに長々と喋るのは良くないいくら私が早口で喋っても時間を発生させてしまうそれはお客さまにとっても……」
「……」
この人を黙らせるのは無理だと葉一郎は諦めることにした。
公園に乗り上げたミハエル速瀬のGT-Rは公園利用者の視線を独占しながら街路に飛び出し、実にスムーズに合流した。それなりに交通量ある道路にもかかわらず我が物顔で車は加速し、前を走る車と車間距離が詰まれば即車線変更して更に加速していく。信号が赤でも対面しない側の信号が青になるまでは青の灯火と同義、そもそも街中の信号の状態を把握しているかのような動きで赤信号に当たることが殆どなかった。一体どういう走行技術をしているのだろうか。
「こんな……スピード出して、大丈夫なんですか……? むちゃくちゃ危なっ……うわっ!」
「だーいじょうぶです大船に乗った気持ちでヨウタロウ君にはリラックスしていただきたい最も船だなんて生っちょろいスピードではありませんがねスピードは正義であり絶対ですがこと車に関してはアクセルとクラッチ操作だけで出せるそれだけならペーパードライバーでも可能だですから私は周囲の環境と車両の状態の認識の速度と正確さそしてハンドル捌きを徹底的に鍛え上げました」
後部座席に座る客の顔をひきつらせながら赤いGT-Rは前方の車を掻き分け、縫うように走行していく。赤い閃光のように街を走行していくその景色は異様なものだった。交通量が多めな街中をこんなにも早く走る方法があるとは。
「石蕗市中心区を抜けましたもう少しで目的地に到着ですいやはや今日はなかなか調子がいいニューレコードを期待できそうで私としても大変嬉しい」
ミハエルは一段強くとアクセルを踏み込む。速度メーターは更に触れ上がり、下道でありながら140km/hに差し掛かろうとしていた。瞬く間に自宅近所の風景に近づいてくる。
「ホントはえぇ……警察とかにしょっぴかれそうだな……」
「若いころはよくオービス光らせてましたねぇいやはやあの頃はまだあまちゃんだった」
「……」
そんな若い頃の経験のおかげかオービスにも警察にも捕まることはなく、叩き上げのスキルは彼の言うニューレコードを見事に達成して自宅兼事務所のビル前に到着した。
「うーん8分10秒931素晴らしい今日は調子が良かったのですが数字はそれを如実に表したとても気分がいいいい仕事が出来ましたささ降りてください無事にお客様を降車させるまでが私タクシードライバーの仕事でございます」
早口で喋りつつ後部座席を開けてから自身も降車し、葉一郎の隣でずっとぐったりしていた少女を抱きかかえる。葉一郎が一旦外に出てから背負った方がいいという判断だ。
「世界を縮ませてもらった御礼として今日は少し割引させてもらったと朋香様にお伝え下さいそれとこれも」
葉一郎にコンビニ袋を手渡した。中にはロリポップやチョコレート、粉末のスポーツドリンク等様々なものが入っていた。
「お嬢様の病気も1秒でも早く!またのご利用をお待ちしておりますそれではミハエル速瀬はコレにて失礼」
挨拶しながら彼は運転席に座ってドアを閉め、さっとエンジンを掛けて瞬く間に赤色のGT-Rは道路の向こうへ小さくなっていった。去り際も早い人だった。
石蕗市の中心部から十数キロ離れた旧バイパス沿いの町、鷹野町に我らがナッティド・ハーブの事務所と自宅が入ったビルがある。旧バイパスにはスーパーやコンビニ等の店が立ち並び、少し小道に入ると住宅街となっており、いわばベットタウンのような町である。近年急速に発展して鷹野町のようなベッドタウンの開発が急ピッチで進められている石蕗市だがここは昔からの住宅街となっており、どこか石蕗市とは切り離された昔ながらの雰囲気が漂っていた。それが朋香の目に止まって、石蕗市を調査する目的として探偵事務所を立ち上げる少し前に今のビルを買い取った。チェルを引き取った後の話である。
「もう少しの辛抱だ……」
背中に乗る少女の弱々しい吐息を聞きながら、少年はビルの中へ入った