8 Nightmare
イギリス連邦屈指の頭脳。
それを揶揄だと当時のメイスフィールドは思った。
くだらない下世話な嫌み。そうとしか思っていなかった。そして彼らは二言目には女の服を着て、男に股を開いていればいいんじゃないかと侮辱する。
彼の感性が一般的な男性たちと比較して女性的だからとか。もしくは、彼の立ち居振る舞いが上品だからとか。そうした全くくだらない理由で。
アガサ・メイスフィールドはハッとして息を飲み込んでから、びくりと両方の肩を揺らして体を起こした。
手元から落ちた書類の束の軽い音に驚いた。
――また、同じ悪夢だ。
両目を右手の手のひらで押さえるようにしてうつむくと、彼は重い吐息をついた。
「どうして奥方の写真を飾らないんだ?」
「次の人とつきあうのに、死んだ人の写真が未練がましく飾ってある男の部屋なんて気持ちが悪いでしょ」
かつてオウエン・ストウに問いかけられて、メイスフィールドはそう返した。
そのとき、ストウはそれはそれで納得したような、納得しないような顔つきのまま「ふぅん」と相づちを打っただけだ。
メイスフィールドは、他でもない心理学者だ。
悲しいことに自分の状況を誰でもなく、彼自身が誰よりも理解していた。けれど、人間というのは不便な生き物で、状況を正確に把握し、理解しているからと言って、そこに適応できるわけではない。
アガサ・メイスフィールドもまた、そうした人間のひとりで、それは自分の意志ではどうすることもできないものだった。
「バカなんじゃないの」
ぽつりと彼は呟いた。
あれは不幸な事故だ。
たまたま、連れだって歩道を歩いていたメイスフィールドと、妻のローズに向かってタクシーが突っ込んできたのだ。運転手は麻薬の売人で、警察とのカーチェイスの末にカーブを曲がりきれずに歩道に突っ込んだ。
その事故で、運転手とメイスフィールドの妻は死んだ。メイスフィールド自身も全治六ヶ月の負傷をした。
意識を失う寸前にメイスフィールドの鼓膜をたたいたローズの悲鳴が今も消えない。
いくら悲しみを抱えても、いくら悔やんでも死んだ人間は生き返らない。
灰色の髪に、褐色の瞳の……――。
最後に聞いたローズの叫び声で、いつも悪夢は終わる。繰り返し、繰り返し、彼の夢の中で再生される事故の時の記憶。
彼女を守ることもできなかった。守ろうと、抱き寄せることすらできない、本当の一瞬の出来事だった。
何十年たっても、彼女の死を受け止められない現実に胸の奥がズキリと痛んだ。ローズの両親がメイスフィールドを咎めなかったことも、彼の苦しみに拍車を掛けた。ローズを守るために、抱き寄せることすらできなかった自分を、彼女の両親は咎めなかった。
いっそ、ローズが死んだのはおまえのせいだと詰られれば、どんなに気が楽になっただろう。
「アルフォンス、ローズが死んだのは君の責任ではないのだから……」
娘を失って、ローズの父親は月並みな言葉でメイスフィールドを慰めたが、いったいそんな言葉で慰められたのは誰だったのだろう。
――あんたみたいなおかま野郎と結婚なんかしたから、姉さんが死んだんだ!
彼女の弟からは、やはりそう責められた。
けれどもそれで良かった。
それ以来、妻の家族とはすっかり疎遠になってしまって、時折、誰にも見つからないようにローズの墓に訪れるばかりだ。
長い息を吐き出して、意識を切り替えたメイスフィールドは手の中から落ちた書類の束を、すっかり寝入ってしまっていたソファから立ち上がると束ね直して窓の外の街並みに視線を向ける。
あれ以来、彼女の名前は知己との会話の以外で口にしたことはない。
白々と明け始めた夜に、何度目かの溜め息をついてからメイスフィールドは短く刈り込んだ金髪を指先でつまむと、少しばかり強めに自分の頬をひっぱたいた。
過去に発生した児童失踪事件の捜査資料はあらかた目を通した。
写真やパーソナルデータも確認した。
その中から個々の「事件」の共通事項を洗い出していく。
一見しただけでは関連性のない事件のどこかに共通事項があるというのも少ない話ではない。
思考を巡らせながらシャワーを浴びて、その雫の中で緑の目を開いた彼はしばらくそのままでそうしていた。
人の死の折り重なるところに彼はいる。
それは事件で殺された被害者たちのことであり、そして彼の隣で息絶えた妻のローズであり。追い詰めた犯人たちでもある。
一般市民たちと比較しても尚、多すぎる死の螺旋の交わるところにありながら、常に確たる自分自身を確立していなければならない。
「君はイギリスでもまれにみるその筋の専門家だ。メイスフィールド博士」
――プロファイラー。
その言葉が定着したのは二十世紀の後半だ。
「俗っぽいからそういうの、好きじゃないんですけれど」
別に自分は大した事をしているわけではない。
ただ誠実に、自分にできることをしているだけだ。もっとも、「何に対して」誠実なのか、と問われれば、それに答えることはメイスフィールドにはできはしないのだが。
たとえば、人の頭の中を覗き込むことがおおよそ健全なのか? と問いかけられれば、それをメイスフィールド自身が肯定することなどできはしないのだ。
誰だって、覗き込まれたくないもののひとつやふたつは持っている。人生とは得てしてそういうものだろう。
温かなシャワーの湯を浴びていた彼は、しばらく時間がたってからきつくまぶたを閉じてからタイルばりの床を爪先で踏むと扉を開いて無造作に長い腕を伸ばすとバスタオルを取りあげた。
今では警視になったストウはすっかり肥満気味だが、まだ若い頃に彼と知り合ったメイスフィールドの体型はそれほど変わらない。少し筋肉が落ちたのは年齢のせいだろうか。
体をふいて新しいシャツに着替えた彼はズボンをはいてベルトをしめた。ネクタイをして、カフリンクスをつけるとウェストコートと背広を身につけた。
上品なグレーのスーツは個性はないが、ぴったりと彼の体型にあつらえられている。その着心地にほっと背中をなで下ろして、アガサ・メイスフィールドとしての顔を取り戻した。
「おはようございます! 博士!」
「あぁ、おはよう。あなたは今日も元気ね」
ドアフォンの音と共に響いた若い女性の声に、苦笑しながらメイスフィールドは踵を返してひらりと片手を振った。
ドアの鍵を開けっ放しにしているメイスフィールドか、それとも独身男性の家に勝手に入ってくる若い娘か。不用心なのは果たしてどちらなのだろう。
「腕っ節に自信があるのかどうかは知らないけど、自分が年頃の娘だっていうことには自覚を持ったほうがいいと思うわ」
彼女の鼻の頭に右手の人差し指で押さえてから苦言を呈すると、金髪にヘイゼルの娘はむっとした様子で頬を膨らませた。
「……気をつけているつもりですけど」
警察官という仕事の都合上、自分が常に危険が隣り合わせでいるということには自覚しているつもりだった。それをいかにも知った様子で告げられて、エリカは下唇を噛みしめた。
「わかっています」
「あら、そう。それならいいけど」
ほほえんだ男を見つめたエリカは怒らせていた肩をそっとおろしてから息をついた。何と言うべきか、この男のどこか飄々とした様子に調子を狂わされる。まるで実態のない風邪を捕まえようとしているようだ、とエリカは思った。
一方でメイスフィールドのほうはエリカの若い柔軟性に内心で舌を巻いていた。
オウエン・ストウは彼女がクリスチャンだからメイスフィールドのようなタイプの男を受け付けないのではないかとも言っていたが、案外、ストウの予想は外れていたようだ。
「若いってやっぱりいいわねぇ」
「ストウ警視の命令でお迎えに上がりました」
「あらあら、そんなことしなくてもいいのに。本当にオウエンは心配性なんだから」
目を細めて笑ってみせたアガサ・メイスフィールドは、エリカが紅茶を飲み終わるのを待ちながらリビングにあるファイルとノートを手早くまとめると皮のカバンに押し込んだ。
この男はただ単に「女っぽい」だけではなく、確かに男らしさも持ち合わせているようだ。長く節張った指が印象的でエリカはそんな仕草に目を奪われた。
オウエン・ストウが彼女を迎えに寄越したのは、過去にメイスフィールドが担当した事件に関係しているのだろう。いろいろあったが、いろいろありすぎてどこでどんな恨み辛みを買ったのかなど覚えていない。おおかた、イギリス在住の自称紳士たちがオウエン・ストウに圧力でも掛けてきたのだろう。
ああ見えて実は権力者たちからの押しに弱い一面もある。
「オウエンも偉くなったものねぇ……」
皮肉でもなんでもないと言うように、ぽつりと独白するように言ったメイスフィールドが差しだした片手に、手のひらを重ねて立ち上がりながら、エリカはわずかに眼差しに訝しげな色彩を滲ませた。
「でもオウエンはああ見てて苦労しているから、少しは協力してあげなければね」
含みを持たせたメイスフィールドの物言いが影を感じさせて、エリカは睫毛をしばたたかせると沈黙する。
「博士って変わった方ですね」
「あなたもね、エリカさん」
「そうですか……?」
自宅の玄関の扉に鍵を掛けながら、エリカを横目に見やってからフフと笑って見せた。それからエリカと連れだってロンドン市警へと出勤したメイスフィールドは、首筋を軽く片手で撫でてから、オフィスとしてあてがわれた部屋の机の上に積み上げられた資料の分析を再開したのだった。