7 submission
人間ひとりを――。
その存在を、夜のように、霧のように”跡形もなく”消し去ることはそれほど容易なことではない。現代社会においては、ほとんど不可能だと言っていいだろう。
「そこにある”サイン”を見逃しているだけ」
ファイルに鋭い視線を突き立てながらメイスフィールドはほとんど無表情のままでそう言った。
これが自宅で話をしていた時の人当たりの良い「お姉さん」のような男と同一人物なのかと思う程、彼は目の前に並べられているとても証拠とは言えない代物を前に、顔色ひとつ変えはしない。
「この場合の”サイン”というのは?」
テーブルを挟んだはす向かいの席についたオウエン・ストウが問いかけると、アガサ・メイスフィールドはファイルに落としていた目線をちらりと上げた。
「失踪した子供たちは確かに存在していて、親も兄弟もいるという明白な事実と、通常、子供達が自らの意志で失踪することがほとんどないこと。中学生や高校生ならばいざ知らず、幼児に毛が生えたような小学生がそんなことを考えるわけもない。そしてそんな幼い子供たちが跡形もなく消失したと言う事実こそ、”それそのもの”が”犯人”の残したサインなのよ」
そこまで言葉を綴ってからメイスフィールドは一度息を吸い込んだ。
「全てはサインに満ちている。明白な言葉や態度による自己主張が最も端的でわかりやすいと感じるでしょうけど、もちろんそればかりではない。生き物の残すサインを、正確に読み取れば答えは自ずと導くことができるのよ」
歌をうたうようによどみなく、ベテランの臨床心理学者は続けた。
「人は群れを造る動物で、群れの外では生きていけない。人である以上、社会から切り離されることはあり得ない。こと、こうした一見完璧にも見える犯罪者たちも同じ。世界から被る理不尽に彼らは強い不満を感じて妄想を悪化させるの。社会に肯定されないからこそ、極めて自己中心的な自己主張を繰り返す」
「博士、よろしいですか?」
「どうぞ」
メイスフィールドの言葉を句切るように、エリカは小さく挙手をして、その言葉を遮った。
まるで講義を聴いている気分にさせられた。
「ありがとうございます」
そう言い置いてから、エリカは小首を傾げた。
肩の上で金色の髪が揺れる。ヘイゼルの瞳が、思った以上に好奇心をたたえていて、それがオウエン・ストウには興味深かった。彼女は、敬虔なクリスチャンだから、一見すれば同性愛者のようにも見えるメイスフィールドに対して、強烈な拒絶反応を示すかと思ったのだが、実際はそうでもなかった。
「博士のおっしゃる声なき自己主張というのは、この場合どういったものでしょうか?」
若い女性警察官の言葉にメイスフィールドは、机にファイルの端を打ち付けてから鋭く瞳を走らせた。
「今まで完璧な犯行を重ねてきた容疑者……――、”アダム”はより強い刺激を求めて、より危うげなスリルを求めて挑戦状をたたきつけたの。警官の子供が狙われたのは偶然などではないわ。アダムは計算高いから、偶然の幸運などに頼ったりはしないでしょうね。常に彼は自分が支配する側でなければならないと自分に言い聞かせているでしょうし、理想の自分により近づくためならば手段は選ばないでしょう」
「……博士が容疑者を男だと仮定した理由を教えてください」
エリカは追及の手を緩めない。
これが一般的な刑事であれば、もっともらしい彼の弁舌に「あぁ、なるほど」と簡単に納得していただろう。しかし、彼女はそうではなかった。
「そうね、確かに被害者が幼い子供だから、この場合は女性の容疑者も考えられるわね。女性的な慎重さで、神経質なほど徹底的に証拠の隠滅をしていることから、初めて資料を見たときは女性も視野にいれたわ」
けれども違う。
メイスフィールドは穏やかな口ぶりではっきりと断言する。
「これまでの犯行は確かに女性的な繊細さも感じられるけれど、最新の誘拐事件が警官の子供という時点で、わたしは女性犯人説を否定するに至ったわ。まず、アダムは警官の子供を誘拐している、それはあなたたちにもわかるわね? これは今までの失踪事件にはなかった特徴よ。わたしの推測では容疑者は徹底的に被害者の家族や友人関係を調査して把握している。それこそ偏執的なほど。そんな容疑者が、この一番新しい被害者の子供が警官の子供だったと言うことを知らないわけがない。つまりそれを知っていて誘拐したのだとしたら、アダムは状況をコントロールしたがっているのよ。状況を支配し、恐怖を植え付け、まるでカルト宗教の教祖かなにかね。警察も、メディアも、世論も、全てを自分のコントロール下に置きたがるのは、男の傾向よ」
「女性でもそういったタイプの犯人はいるかもしれません」
エリカは尚も食い下がった。
「そうね、いるかもしれないわ。でも女性の犯人の場合、大概、対象は特定の存在に縛られることが多いのよ。男は違うの、群れのトップに立ち、群れを率い、その群れをコントロールしたがるのはオスの修正」
「……ですが」
確かに多くの場合、組織を束ねるのは男であることが多い。
声高に女性蔑視を叫ぶ者も未だに多い。それは警察という男性社会に生きるエリカにもよくわかっていることだ。女だからという理由だけで、侮蔑の眼差しを向けられ、男たちと同等に戦っていくことも許されない。それがエリカには口惜しい。
そんなエリカの内心を見透かしたように真正面からたたきつけられたアガサ・メイスフィールドの言葉がなぜだか無性に悔しくて、唇を尖らせた。
――女だから。
それだけの理由で、同じ場所に立つこともままならない悔しさは男のメイスフィールドや、ストウにはとても理解できないだろう。
「エリカさん、そんな顔しなくても大丈夫よ、別にあなたのことを卑下しているわけじゃないわ。わたしたちは、あなたに相応の礼儀を払っているもの」
相応に、という部分に引っかかるものを感じなくもなかったが、結局、それ以上の追及は下世話に思えてエリカは穏やかなメイスフィールドの微笑に黙り込んだ。
「確かにあなたの言う通り、男だと決めつけて捜査の方向性を決めるのは好ましくないわね」
椅子に深く座り直して、メイスフィールドは足の上でファイルを軽くはたいてみせる。
「でも、わたしは犯人は男だと思うわよ。その場をコントロールし、屈服させることで満足感を得るのは男のやり方。女はそんな七面倒くさいやりかたはしないわ。あなただってそうでしょう? 全ての男を支配して、世界を支配してコントロールしたいと思う?」
「犯罪者の考えることなんてよくわかりません」
憮然としたエリカにアガサ・メイスフィールドとオウエン・ストウは苦笑した。
確かに刑事とは言え、一般的な女性と犯罪者の心理を同列に置くのは失礼なことだったのかもしれない。
「まぁ、いずれにしても捜査を進めればわかることね。犯人が男であれ、女であれ。やるべきことは事件を解決するだけよ」
「確かにそうですけど」
犯人が男であっても女であっても、そんなことは刑事のエリカには無縁のことだ。犯罪者を逮捕するのが彼らの仕事だった。
「犯人像を割り出したところで、犯行を明らかにする糸口が見えてこないのでは話にならないものね。それでオウエン? 問題の誘拐事件の捜査は進んでいるの?」
メイスフィールドの目の前に並んでいるのは、被害者の失踪当時の個人情報だ。事件性があるのか、ないのかさえ怪しく思える。
異常な性的嗜好の持ち主という考え方もできるが、同性愛者などイギリスではそれほど珍しくはない。イギリスどころが、ヨーロッパ全土に同性愛者は蔓延している。それが個人的にどう思えるかはともかくとして、厳しい眼差しのままアガサ・メイスフィールドは顎に親指と人差し指を当てると思考の淵に沈み込んだ。
「……屈服させる」
ぽつりと臨床心理学者の男は呟いた。
そのつぶやきは余りにも小さすぎて、ともすればうっかり聞き逃してしまいそうだ。
「……え?」
エリカがメイスフィールドが唇から吐きだした言葉を聞き返すが、一方のメイスフィールドのほうはそんなエリカの様子に気がつく様子もない。
「服従と支配」
子供を力でねじ伏せ、さらにその存在を社会に知らしめる。
それによって生じるのは無差別の犯罪に対する恐怖。
数々の事象の中に見え隠れするのは服従というキーワードだ。
「では、子供が対象になるのは力に自信がないのか、それとも大人の女に興味がないのか……。それとも、大人の女を忌避しているのか」
メイスフィールドの言葉は続いていく。
そんな彼の真剣な眼差しに、エリカは魅入られたかと思った。
「エリカ君、彼をそっとしておいてやりなさい」
オウエン・ストウの言葉が唐突に聞こえてきて、エリカはびくりと背筋を正した。
「今の彼になにを言っても、どうせ聞こえてはいないさ」