6 エリカ
仕事に私情を挟むことなど決してあってはならない。
それはわかっている。
だけれども、エリカ・フェリルは憮然と眉の間にしわを刻んで唇を尖らせた。
どこからどう考えても納得いかないし、善良な小市民の自分が突然理由もなく狙撃で狙われなければならない理由もない。
命令だからそこにいる。
それがあくまでも彼女の立場だ。
「どうしたの? 機嫌が悪そうね」
エリカの目の前にいる男はそう言って上品な笑顔をたたえてみせた。
機嫌が悪いと言うよりも、どちらかと言うと困惑に近いのだが、アガサ・メイスフィールドは特にエリカの内心を察することもせずにニコニコとほほえんでいる。
赤い煉瓦造りの二階建ての彼の自宅は少しばかり古めかしさを感じさせるが、それもそれでなかなか趣がある。そこそこの広さがある書斎は書庫と兼用なのか壁際にどっしりと本棚が並べられていて、ベルンの彼の自宅と比べても専門書の数はなかなか見るべきものがある。キッチンとダイニングルーム、そしてリビング。男ひとりの生活をしているというのに手入れの行き届いた部屋にはプロの仕事を感じさせる。
彼にはパトロンという出資者がいるから余り資金的な問題に心を煩わせることがないらしく贅沢な物件だ。しかもその贅沢な物件に、ストウが言ったところから考えるところ三年間は誰も住んでいなかったと考えて良いだろう。
誰も住んでいない家を清潔にするにはそれなりの維持費がかかる。
一昔前の冒険家でもなければ芸術家でもなく、最先端の発明に携わる発明家でもない、たかが臨床心理学者にパトロンがつくというのはなんともおかしな話だった。そんなことは現代っ子のエリカにも充分すぎるほど理解できた。
奇妙すぎてどんな表情をすればいいのかわからないエリカは、いつ迫るとも知れない本格的な生命の危機――それもかなり深刻な――に、岩のように表情をこわばらせたままで、内心で冷や汗をかいた。
「博士は何者なんですか?」
ようやくそれだけ問いかける。
「ただの学者よ。精神科医」
そう言ってから片手で紅茶のポットをあげて緑の瞳を細める。うっかり口を滑らせて殺されかけたのだ。それも警察署内の上司の前で。
明確な危機感に動きがぎこちなくなっても誰も咎める者はいないだろう。
――ただの学者。
――ただの精神科医。
しかし、本当に?
「どうしてわたしなんですか?」
緊張感から口の中がからからに渇いた。言葉を選んで短く問いかけると、メイスフィールドはリビングのソファに腰を下ろしている若い娘を凝視する。
「……殺されかけたんですよ」
恨み言でも言うようにエリカがようやくの思いで言葉をしぼりだすと、メイスフィールドはティーカップに紅茶を注ぎながら口元に指先をあてて天井を見上げた。
「話はジョージとオウエンに聞いたわよ。狙撃されたんですってね」
まるで世間話でもするようなメイスフィールドの調子に、エリカは腑に落ちないものを感じて口元に片手をあてた。
「紅茶をどうぞ。ダージリンのオータムナルフラッシュ。ジョージが用意をしておいてくれたものみたいだけれど」
秋摘みのダージリンティーは独特なまろやかな風味が印象的だと言われるが、実のところ現代っ子のエリカにはいまひとつ高級紅茶の良さはわからない。実家では一キロいくらの安価な紅茶しか飲んだことがない。
「ジョージも律儀よね、わたしがいつ帰ってくるかもわからないって言うのに季節に合わせた紅茶をキッチンに用意しておいてくれたんだから」
あきれたように肩をすくめたメイスフィールドに、やはりぎこちなく笑ったエリカは内心で「おい」と突っ込みを入れた。口に出さないのは、いつ殺されるかわからないためだ。
つまりオウエン・ストウのところで出会ったジョージ・ステリーは、メイスフィールドがいつロンドンに帰ってきても良いように、季節に合わせた紅茶を取りそろえていたということだろう。
「高価な紅茶はよくわかりません」
「あら、奇遇ね」
「は……?」
「わたしも高級紅茶の味は今ひとつよくわからないのよ。ジョージは最高の茶葉を用意してくれたみたいだけど、豚に真珠ね」
どこか自虐的な笑みをたたえるメイスフィールドは、ソファに深く体を沈めてから数秒、思考の淵に沈んで穏やかにエリカを見つめ返す。
「どうせジョージがあなたに余分なことを吹き込んだんでしょうけれど、誤解があるようだから言っておくけれど、わたしを護衛してくれる方たちは、いくらすぐに腕力に訴えるからといって、別に無節操に市民を殺しているわけじゃないのよ。見たとおり、わたしがこんなだから頼りなく思われているだけ。それで、彼らはわたしのことを行く先々で守ってくれているの」
「……でも、わたしは本当に殺されかけたんですよ!」
「仮に、もしも本当に彼らがあなたの命をゴミ屑程度にしか思っていないのであれば、”警告”なんていう回りくどいことは最初からしないわ。強いて言うなら、彼らなりのジョークのつもりだったんでしょうね」
緑色の瞳がきらりと知的な光を閃かせた。
鼻先をかすめた狙撃は、とてもエリカには冗談で済ませることができるわけがない。
「そんな馬鹿なこと……!」
「彼らが本当にエリカさんのことを気に入らないのであれば、”殺しのプロ”がそんなまどろっこしいことをするわけがないじゃない?」
なんでもないことのようにメイスフィールドが言った。
世間話でもするような気軽さで。
そんな彼の様子にエリカはぞっとする。
彼は知っているのだ。
メイスフィールドという男に対して出資する人間がどれほどの冷徹な凶暴性を秘めているのかを。それらは本来、エリカのような一般的な小市民など知る由もない権力者たちの横暴に他ならない。
一介の刑事などにはとても手の届かないだろう異なる世界。
世界とは、同じように見えて、違う立場の人間からは全く違う世界に映ることを、エリカはまだ知らなかった。そして、同じ世界をメイスフィールドの目には、また別のものに映っているのだということを。
――彼女は知らない。
「フェリルさん、あなたはまだ若くて柔軟だから、世界を知る勇気がある。ジョージとオウエンはあなたに”あんなこと”を言って脅したけれど、選ぶのはあなた自身。世界の真の姿を……、人の本当の姿を見る勇気があるなら、あなたはきっとわたしの期待に応えてくれると思っているわ」
彼女は権力に対して挑戦的だが野心が強い。
おそらく警察に就職をしたのはなんらかの事情で犯罪者に対して憤りを抱いているからだろう。まっすぐで、意志の強そうな瞳は彼女の警察という組織に対する矜持を感じた。本来、男性社会でもある警察組織に踏み込むような女性に強い意志がないはずがない。
正義感や、社会の歪みに対する憤り。
そうした強い不満を抱いて彼女らは警察組織に乗り込んだ。
「別にわたしはあなたを過小評価して使いっ走りにするためにオウエンに提案したわけじゃないの。……わたしは、あなたに可能性を感じた」
それだけだ。
「あなたについていけば、誘拐事件は解決するとでも言うんですか?」
「百パーセントとは言い切れないけど、尽力するわ」
解決しなければならない事件がある。
それならばエリカは手段を選ばない。
アガサ・メイスフィールドと言う男がそのためのカードを持っているなら、利用するだけのことだ。
「わかりました、博士の力を貸してください」
「えぇ、いくらでも」
それからメイスフィールドは「オウエンとジョージが散々脅かしてしまってごめんなさいね」と柔らかく付け加えた。
「ところで、博士。わたしを狙撃で狙ったのはプロですよね? ミスター・ステリーは自分ではないと言っていましたが、博士はどのようにお考えですか?」
「ジョージが自分じゃないと言っていたからと言って、本当にジョージが命令した訳じゃないとは限らない、と?」
もっともな疑問だ。
それでこそ刑事らしい。
その程度のことにも疑問を持たないようでは刑事失格だ。
「そうね、彼はイギリス国内でも有数の循環器の外科医。そんな彼が自分の名前に傷をつけるようなリスクを冒すとも思えないし、なにより彼の流儀には反するわ。彼はもっとスマートに標的を地獄へたたき落とすもの。だから、そういう意味でもジョージのやり方じゃないことは確かだと思うわよ。多分、ジョージの言っていた通り東ヨーロッパの誰かさんだと思うけれど、心当たりが多すぎてピックアップするには時間がかかるわね」
確信めいた言葉を綴りながらやんわりとほほえんだメイスフィールドは、エリカの探るような鋭い眼差しをおもしろがって観察している。経験の浅い刑事だが、エリカにもさすがにそれは理解できた。
「博士は、同僚の心理分析なんかはしないんですか?」
唐突にエリカが切り出した。
「たとえばあなたとか?」
「……はい」
「そうね、やってほしいならやってあげるけど、一緒に仕事をしている人間が四六時中自分の気持ちを詮索しているとなれば仕事をしづらいでしょうから、わたしは単独で仕事をする時以外はなるべく”味方”の心理状態を探ったりしないわね。もちろん、”危機的状況”に陥っていれば話は違うけれども」
なにやら揶揄するような臨床心理学者の言葉にエリカは再び眉間を寄せた。
精神科医の言う「危機的状況」とはいったいどういうことなのだろうか、と。
「さぁ、明日から問題の児童誘拐事件の捜査よ。頑張りましょうね」
エリカの内心をおもんぱかることもせずに、メイスフィールドは新米の助手に相変わらずの笑顔を向けて宣言するのだった。