5 異世界へ続く道
――第一印象は浮世離れしている変わり者。
言葉を交わしてみて感じたのは、知的で、思った以上に品があると言うことだった。
とはいえ、だからといって生理的に受け付けるタイプかと言われれば、それとこれとは話が別だ。
「言動に気をつけたまえ」
ことさら慎重に声音を潜めたオウエン・ストウは、自分の唇の前に人差し指を立ててわざとらしく執務室を見渡した。
エリカとストウしかいない、ストウの執務室でいったい誰がその会話を盗み聞きしているとでも言うのだろう!
「……どういう意味ですか、警視」
憮然としたエリカは鼻から息を抜いて、窓際に立って通りを見下ろしているストウを凝視した。
「どこで誰が聞いているともわからん。彼に対する侮蔑には血相を変える連中がいるからな」
それは脅しかなにかだろうか。
エリカは、目の前の警視の物言いに眉をひそめると下唇を噛みしめて苛立たしげに踵を軽く打ち鳴らした。
「意味を理解しかねます」
「君には理解不能だろうな」
「わかっているなら、わたしにも理解できるように言ってください。メイスフィールド博士の立場が理解できない以上、わたしは自分がどう立ち居振る舞うべきかも判断できません」
「――……アガサの後見人をしているのは、ヨーロッパ全土の政財界の名士だ。どいつもこいつも”彼”の協力を受けて”事件”が解決された。連中は、アガサに心酔しているし、アガサに危なっかしいところがあることも知っている。だから、彼らはいつでもアガサの行動には充分配慮をしているだろうから、それを考えれば君の行動が彼らに筒抜けになるだろうことは明らかだ」
オウエン・ストウの説明に、エリカは顎に指を当てたままで考え込んだ。
「それで、博士を侮辱するとどういうことになるんです?」
「おそらく、君の身にも危害が及ぶ」
きっぱりと断言するようにストウが告げると、エリカはギョッとして言葉を飲み込む。しかしエリカは善良な一般市民であり、秩序の守護者でもある警察官だ。そんな自分が、どうして政財界の名士たちが心酔する男を侮辱したという理由だけでエリカの身の上に危険が及ばなければならない理由はない。
「はぁ?」
「だから、必要以上に君がアガサを侮辱すれば、君の身を弁護しきれんほどの危険が及ぶと言っているのだ」
「現代でそんなことが本当にあると思っているんですか?」
闇から闇へ。
漫画や小説の中で暗殺される登場人物でもあるまいし。
馬鹿馬鹿しくなって、エリカが鼻を鳴らすとストウは低く微かに笑い声を上げた。
「エリカ君、君がどう思おうと自由だが、わたしは個人として君が口を慎んでくれることを願おう」
そうストウが言った瞬間だった。
冷たい衝撃が不意にエリカの鼻先をかすめた。
凍り付いたのはエリカで、その瞬間を目の当たりにしたオウエン・ストウは顔色ひとつ変えない。まるでそんな場面を見たのは一度や二度ではないとでも言うかのように。
「……なっ」
なんだ、と思う間すらない。
狙撃だと一瞬で理解したエリカは、ほぼ同時にぞっと冷たく背筋を駆け抜けた悪寒に口元をおさえたままで言葉を失って膝から脱力して崩れ落ちた。
「一度目は、警告」
冷ややかにストウが告げた。
青い瞳に光が閃く。
「……二度目は生命はない」
「わたしは闇雲に彼を侮辱するからと言ってその命を奪うようなことはしないが、東の連中にイギリスの道理は通用しないから気をつけることだ、フェリル巡査」
キィとストウの執務室の扉が軋んだ音を立ててツィードのスーツを身につけた紳士が入室してきて、床にへたりこんでいるエリカ・フェリルに長い腕を差し伸べた。
「……わたし、は?」
「ストウ警視やわたし同様に、アガサに惚れ込んでいる人間は少なくないということだよ、ミズ・フェリル」
だからこそ不用意な発言は慎むべきだ。
ロンドンのど真ん中で狙撃で狙われるとは思ってもいなかった。
警官だからといって銃の扱いに慣れているわけではない。エリカは警官であって軍人ではない。
「しかし、違法な強硬手段に訴えれば身の破滅を招きかねないのではありませんか?」
口ごもりながらエリカが固い声で問いかけると、金髪碧眼の紳士は穏やかにほほえみながらそっと窓の外に視線をやった。壁に残った銃弾の痕と、ひびの入った窓ガラス。その向こう側にそびえ立つビルを眺めた。
「狙撃手の捜査は無駄でしょうな、ストウ警視」
「……――」
金髪の男に訝しげな眼差しを向けるエリカに、ツィードのスーツ姿の男はひらりと肩の上で片手を振った。
部下の手前で弱り切った顔をしているストウに、彼は動揺も見せずにこつりとひびの入った窓ガラスを叩いてみせた。
「”黒幕”は、警官など煙を巻くことに良く慣れている人物だ」
警察権力などものともしない政財界の権力をほしいままに振るう者。
「よく覚えておきなさい、アガサは無力であるが故に、多くの者が彼の周りを監視しているのだよ」
彼に害をなす者に鉄槌を下すために、その牙を研いでいる。
「そういうことだ、エリカ。すでに君は彼と接触している。彼の周囲の守りを固める者たちの監視の目の下にあると考えたまえ。君に、否やはない。自分の身がかわいければ、アガサの助手として任務にあたることだ」
「……承知しました」
口の中が渇いてうまく言葉を紡げない。
一度目の狙撃が警告だと言うならば、二度目は確実に彼女の命を狙ってくるかもしれない。
しかし、彼らの警告の理由がわからなくてエリカは困惑した。
メイスフィールドを侮辱したことが殺されかけた理由なのだとしたら、うっかり口を滑らせれば死ぬということだ。メイスフィールドの助手として任務に当たって、軽口を叩かないで居られる自信などなかった。
「冗談を言った程度では殺されないから安心しなさい」
「……失礼ですが、あなたは?」
「ステリー……。彼の支援者のひとりですよ」
金髪碧眼の男はいたずらっぽく笑ってから、ストウとエリカに順繰りと視線を流してみせる。
「君のような小市民など、我々はいくらでも闇の向こうに消すことができる」
半ば強引とも言えるストウとステリーの采配によって、エリカは最終的に「アガサ・メイスフィールド」の助手という立場におさまることになった。エリカとしては嫌々なのだが、余分な行動をすれば確実に殺されるという危機感に身動きがままならない。
「ミスター・ステリー、余り二十代の女の子を脅かす者ではないぞ」
「別に脅しているわけではない。わたしは心配しているだけだ」
オウエン・ストウの言葉を受けて、ステリーと呼ばれた紳士はこともなげに言ってのけた。
至極冷静に。
彼らはメイスフィールドに危険が迫った度に、そうして殺された人間が存在しているということを暗に告げている。そういった場面にストウもステリーも慣れきっているのだ。
「……ストウ警視、それは、まさか……!」
行き着いた解答にエリカはぞっとして自分の体を両腕で抱きしめて総毛立った。
「警察よりも先回りして事件をもみ消すことが得意な連中だということだ。こればかりはわたしにもどうすることもできん。政財界の有力者ともなれば、小市民の命を煙のように消し去ることは可能だ」
「そんなこと許されるはずが……!」
エリカが色を失って咄嗟にストウのデスクに片手をついて身を乗り出すと、肥満のストウと紳士的なステリーは顔を見合わせた。
「残念なことに、君はそういう世界に足を突っ込むことになったのだ。観念したまえ」
なにやらとんでもない世界に踏み込んでしまったような気がして、エリカは愕然とした。そもそも好きでステリーとストウの言う「異世界」に足を突っ込んだわけではないのだが、どうやら目の前の男たちにとってエリカの煩悶はどうでも良いことらしかった。つくづく運がない、と、彼女は盛大な溜め息をついた。