4 終わりの始まり
紙をめくる微かな音が彼の自宅の書斎に響く。
「奇妙だ、とは思わなかったの? オウエン?」
「思ったさ、決まっている」
「これまで」慎重に行動してきただろう「犯人」とやらにしては、唐突な警察関係者の子供を誘拐するという行為が腑に落ちない。
「エスカレートしていると考えるべきか?」
「違うわね」
問いかけられてメイスフィールドはストウに断言した。
確かにエスカレートはしているだろう。しかし、ストウの言う「エスカレート」ではないということをメイスフィールドは資料を読んだ時点で確信していた。
「毎年、誘拐、もしくは失踪事件がイギリス全土でどれだけ起こっていると思っているの? 少なく見積もって、この一件を含めて四件あったとして、問題の犯人が事件を一年前からはじめていた、という根拠は皆無なわけじゃない? そもそも警察はこの”事件”の全体像を把握していないはずなら、この事件がエスカレートしている可能性を肯定することはできないわね」
「しかし、こういった事件の容疑者は多くの場合、その犯行を激化させるものだろう」
「そうね、おそらくこの事件の容疑者、仮にアダムとするわね。――このアダムは、オウエンが想定しているとおり、いわゆる連続犯であると、わたしも考えるわ。とは言っても、関連性のある事件に全て目を通している訳じゃないからあくまでも仮定の話」
アダム――。
その言葉に、ストウは片方の眉尻をつり上げた。
容疑者の名前がわかっていないとき、もしくは特定の人物の名前がわからないとき、メイスフィールドは、相手を男と仮定していれば「アダム」と、そして女であると仮定すれば「イブ」と呼ぶ。
それはつまり、彼が容疑者を男性であると考えているということを現していた。
もっとも、ストウはメイスフィールドが話を遮られることを余り好まないことはよく知っていたから、これみよがしに追及しない。
うっかり安易に追及して、メイスフィールドの神経質な面を刺激でもしたら目もあてられない。
「でも、”全ての可能性を排除して”考えを特定の方向に恣意的に方向付けることは危険じゃないかしら?」
「それはそうだが」
「つまり今のところ全ては謎のまま。だから一方的な決めつけは良くないわ」
「……うむ」
メイスフィールドは、ストウとの会話を思い出した。
そんな時だ。
突然、机の端の乗っているアナログの電話がベルの音を立てたことに気がついて書類から顔を上げる。
「はい、もしもし」
メイスフィールドです、と名乗った彼は、電話の向こうから聞こえる男の声にやんわりとほほえんだ。
「あら、お久しぶり」
「噂で聞いたよ、なんだ、ロンドンに帰ってきていたなら一声かけてくれればいいじゃないか」
「だって、オウエンから……。ストウ警視からの直々の呼び出しをもらったから、連絡をする時間がなかったのよ、ごめんなさいね」
受話器の向こう側から聞こえてくる男の声に、口元に片手をあてたメイスフィールドはころころと笑うと、書斎のマホガニーの机に書類を伏せた臨床心理学者は落ち着いた様子で革張りの椅子に腰掛けた。
「せっかく君のために君の自宅をいつでも君が戻ってきて生活できるようにぴかぴかにしておいてやったのだから、一報くらいくれてもバチはあたらんと思うのだが」
「そうね、ロンドンに戻ってくるのはかれこれ三年ぶりくらいだけど、とっても快適よ。ありがとう、ジョージ」
「まぁ、君が事件に首を突っ込むとなにもかも忘れてしまうのは今に始まったことではないし、そんな君に助けられたのはわたしも同じだから、文句は言えんか。恩着せがましい言い方をしては紳士的ではないな。申し訳ない」
苦笑した相手に、メイスフィールドは受話器を握ったまま、相手が自分の姿を見えていないこともわかっていて左右にかぶりを振った。
「そんなことないわ、感謝してるわ。ありがとう。……ところで、噂って言うのは?」
電話の相手はメイスフィールドの問いに、空港で彼を見かけた者がいることを伝えてきて、「なるほど」と小首を傾げた。
しばらく電話の相手と他愛のない会話を交わしてから受話器を置いた。
――メイスフィールドの行くところに「事件」がある。
それは彼とつきあいのある人間の多くが知るところだ。だから、メイスフィールドの知己たちは彼の行動をことさらに介入するようなことはしない。
先ほどまでの電話の内容から意識を現在直面している問題に引き戻したメイスフィールドは、椅子に深く体を預けると腹の前で両手の指を組み合わせてから、顎を軽く上げると目を閉じた。
問題は、どこから始まったのか。
それをメイスフィールドは考えた。
そうこうしているうちに日が暮れて、室内を闇が満たしはじめた時刻になって彼はやっと立ち上がると暖房のスイッチを入れて腕時計で時間を確認した。
さすがに冷蔵庫の中は空っぽで食事は外でするしかないだろう。
久しぶりにロンドンの自宅の室内の掃除が行き届いているのは、ロンドンに住むメイスフィールドの知人の手による者だ。彼の生活に立ち入ってくる者は、みだりにその周辺をかき乱すようなことをしない。
「もてる男はつらいわね」
そう苦笑してからコートの袖に腕を通して、ベルトをしめるとポケットに財布を突っ込んだ。
*
「アガサがロンドンに帰ってきたらしいな。ストウ」
「あぁ、ステリーか」
ジョージ・ステリーは長い腕を偉そうに組んで仁王立ちで自分のデスクに付いているオウエン・ストウを見下ろした。
「別に俺とアガサの関係は貴様が嫉妬するようなもんじゃないぞ」
ぞんざいに言い捨てたストウは、分厚い肩を揺らすようにしてから頬杖を突くと片目を細めてから目の前に立っている金髪碧眼の中年男を睨み上げた。
ジョージ・ステリーはロンドン市内でも名医と知られており、財力もあってメイスフィールドのパトロンのひとりだった。
「いちいちおまえさんと張り合っていてもキリがないからな」
憮然として唇をへの字に曲げたストウは、顔の前でしっしっと片手を振ってから視線を天井へと向ける。
「俺のほうが金もあるしな」
しゃくに障る物言いをされてストウは視線を走らせると、白けた様子で鼻から息を抜く。
「それはともかく、アガサがロンドンに帰ってきたっていうことは、なんらかの事件だろう? それにアガサはおまえから直々だと言っていたぞ」
「おまえも知っているだろう、例の誘拐事件の件だよ」
苛立たしげに太い指でデスクを叩くストウに、金髪碧眼の男は片方の眉をつり上げた。
「おまえのことは気に入らないが、アガサはおまえを信頼しているからな、ステリー」
「それはどうも」
肩をすくめたジョージ・ステリーは夕闇に沈みつつあるロンドンの空を見上げてから、窓際の椅子に腰を下ろしている刑事を横目で見下ろして、鼻の上でしわを寄せてみせる。顎を撫でながら考え込んだステリーは独白するように呟いた。
「しかし、引っかかるな」
「そうだろう」
相づちを打ったストウは窓に寄りかかっているステリーを見上げる。
「それで、アガサはなんと?」
「まだなにも」
「なるほど」
まるで自分の成し遂げた「偉業」を誇示しているようにも見える今回の事件。すでに捜査陣は失踪事件、あるいは誘拐事件として被害者の生存は絶望視しているし、同様にオウエン・ストウも分析していた。
ストウの元にこの事件が回ってくるまですでに一ヶ月も経過していたのだから。通常ならば、次々と発生する事件に有耶無耶にされて迷宮入りするというパターンだが、今回ばかりは事情が違った。
「一般人の子供だったら、警官共は捜査もおざなりで済ませるだろうからな」
「そんなことはないと思うが……」
「しかし警察だって利権が絡むところだろう、それはストウ、おまえもよく知っているじゃないか」
何の利益にもならない子供の家出など重きを置くべくもない。
そう思っている警察官僚が少なくないことをステリーが指摘すると、居心地悪そうにストウは太い首をすくめる。
「それは返す言葉もない」
「……――アガサは仕事となると周りが見えなくなる嫌いがあるからな、万が一、彼に危険が迫るとなればヨーロッパ中の”名士”が黙ってはいないだろう。それだけは肝に銘じておけ」
「”ミスター・ステリー”、おまえに言われるまでもない」
メイスフィールドは男にも女にもよくもてる。
それは惚れているという心理状態を通り越して、心酔の域に達している。それをストウもステリーも知っていた。
「ストウ、この事件はただの誘拐事件じゃないぞ。追うとなればそれなりの危険と痛みを伴うだろう。充分身辺に気をつけたまえ」