3 オウエン
警察関係者の子供が被害にあって、やっと重い腰を上げるだなんて随分と対応が遅いんじゃなくって? オウエン?
エリカがストウの執務室から出て行ったのを確認して、メイスフィールドは来客用のソファに座りながらそう言った。いつも柔らかい女性のような口調と、上品な物腰にごまかされがちだが、メイスフィールドはその辺のなよなよした「おかま」とは訳が違う。仕事の話に切り替わった瞬間に彼から放たれるものは大人の男の色香だった。
「それについては全く不甲斐なく、申し開きができないのだが……」
メイスフィールドに冷静な指摘を受けて、オウエン・ストウは大きな体を居心地悪そうに小さくした。
手厳しい彼の言葉にストウは視線を天井に上げる。
「まぁ、いいでしょう。あなたが”個人として”失敗したわけじゃないし、データベースをきちんと照会しない限り、他の事件との関連性なんてわかりようもありませんものね」
事件はロンドンだけではなくイングランド全土に及ぶ。そんな広範囲の事件――しかも、年間を通じて子供の失踪事件は多数発生している――の関連性を疑って捜査することなど思いも寄らないだろう。
そうこうしているうちに事件は迷宮入りし、家出かなにかのように扱われて闇へと葬られてしまう。
「報告書を読んでくれたかね?」
「エリカさんが持ってきてくれた分は一応ね!」
でも、とメイスフィールドは小さく呟いて付け加えた。
「そうね、きっとこの事件は、この事件だけを見ていても、それぞれはジグゾーパズルのそれぞれのピースのようなものなのだと思うわ」
事件単体を解決しても、おそらく意味などないだろう。
百戦錬磨の臨床心理学者のメイスフィールドの勘が、事件の複雑さを感じ取っていた。それらひとつひとつを見ていても、本質は見えてこない。多くの研究分野において、そうしたことはままある。
「オウエン、ひとつ聞かせてもらえないかしら?」
メイスフィールドは腹の前で両手の指を組んでから問いかける。
「なんだ?」
「あなたが知りたいのは」
そこまで言ってから一度言葉を切った。
「あなたたち”警察”は、その事件を解決できればいいと思っているのか、それともその先にあるかもしれない真実を追い求めるのか。それを教えてちょうだい」
もっとも、オウエン・ストウの言葉がなんであれ、メイスフィールドは彼に対する協力を惜しむつもりはなかった。ただ、ストウの返事次第で、捜査の仕方が変わるだけのことだ。
相手が何を考えているかによって捜査の方法は大きく変化する。
含みを持たせたメイスフィールドの言葉に肥満気味の体を揺らしたストウは逡巡した。
警察としてはひとつの事件でも解決できるに越したことはない。しかし、ストウ本人の個人的な考えではそれだけではない。
イギリス全土の犯罪検挙率を上げ、犯罪の少ない街作りに貢献したいと強く思った。若い女性や老人、そして小さな子供たちが安心して暮らしていける街にしたかった。
「”わたし”はもちろん”その先”を」
「あなたは変わっていないのね」
ストウの返事を受けて、揶揄する様子もなく言葉を返したメイスフィールドはかすかに目元だけで笑って見せる。
「でも、安心したわ。オウエンが以前と変わらないそのままのオウエンで。あなたはどんなにみっともなく太っても、決して志だけはわたしと出逢った時のまま」
誠実で、正義感に溢れ、そして当時は「ハンサム」だった。オウエン・ストウ。
「それがあなたの魅力」
変わったものと言えばなんだろう。
メイスフィールドは自分の正面のソファに腰掛けた巨漢を見つめて考えた。
体型はすっかり変わってしまった。だが、変わったものと言えばそれだけではない。強いて言うならば、瞳の鋭さが増した。こんなにも鋭い眼差しを向けられれば、ストウのことを良く知らない者は怯えて近寄りさえもしないだろう。
警察権力を抱えて生きる者に安らげる場所などありはしない。市民のためのみならず、彼は自分の部下たちが戦う力を得るためにも自らを盾にして戦い続ける。全ての権力を相手に戦う道をストウは選んだ。
肥満の外見以上にずっと侠気溢れる好漢だ。
メイスフィールドはそれを知っている。
もしかしたら、肥満は本人の性格のだらしなさに由来するものだと皮肉を言う者もいるかもしれない。しかし、ストウはそうした気易い面を演出することによって、彼を相手する者たちへの隙を作り上げたのだ。
「でも、そんなしかめ面ばかりしていてはダメ。子供がおまわりさんを怖がって逃げてしまうわ」
唇の前に人差し指を立てて笑った臨床心理学者の言葉に、ストウはさらに鼻の上に寄せたしわをさらに深くして黙り込む。
言葉を探しているときのストウの癖だ。
黙っていれば子供が逃げていく強面はメイスフィールドも同じではないか。そんな言葉に数秒してからたどり着いたストウが口を開きかけたが、結局、メイスフィールドがそれを一方的に遮るように片手を上げたことによって、彼の言葉は封じられた。
「とりあえず、今回の事件に関わりがありそうな資料を全部集めて。それと何人か助手がほしいわ。口うるさくなくて、詮索好きではなくて、職務に忠実なタイプなら性別は問わないわよ」
あと作業するためのオフィスもね。
メイスフィールドはなんでもないことのように言って、手元に差しだされたストウのファイルを指でくりながら視線を走らせる。
そんな精神科医の横顔をを眺めながらストウは思った。
彼も、自分もすっかり年を取った。
神経質で気難しい一面を持つメイスフィールドは、この何年かで少しは角が取れて丸くなったようだ。もっとも、昔からこんな口調のメイスフィールドだったから、誰よりも自分の本音を他者から覆い隠して煙に巻く手段は心得ている。そしてそんな小手先のテクニックによってうまく内面を押し隠してしまう故に、余程親しくない限り、彼の上部に張り付けられた穏やかな仮面に騙されがちだ。
メイスフィールドは、まるで役者のように自分の本質を隠してしまう。
「そういえば、あれ以来再婚はしていないのか?」
「何人かつきあったけど、全然ダメね、それにローズ以上の人は後にも先にもいないわ」
唐突に過去の出来事をほじくり返されて、メイスフィールドは悲しげに笑ってみせた。
「ローズは最高の女性だった。彼女みたいな人は二度と、絶対に現れてはくれないの」
今のメイスフィールドにはかつてはめていた結婚指輪もしていない。
それがストウには残念に思えて、返す言葉もなく睫毛を伏せた。
メイスフィールドの妻は十年ほど前に事故で死んだ……――。
「君も良い男なのになぁ……。女共は見る目がない」
「逆よ、逆。”わたしに見る目がないの”」
ストウがぼやけば「いつものように」メイスフィールドが笑った。彼は決して自虐的なわけでもなければ、投げやりなわけでもない。
穏やかに物事の本質を見極める一方で、その反対側に歪みが生じた。
「わたしは、わたしを制御できない。まるで野生の動物みたいでみっともない」
メイスフィールドが自分を恥じるようにそう言った。
自分を自分の力でコントロールできなくなる。
精神科医であるというのに!
「そんなにわたしのことは心配しないで。オウエン」
にこりと彼はストウに笑った。
「わたしのことなら大丈夫だから。ところで、オウエン?」
メイスフィールドは知的な光を緑の瞳に閃かせてから、ストウを呼び掛ける。
「あの子、なかなか見所ありそうじゃない? 今回の件でだけでいいからわたしに預けてみない?」
「あの子はカトリックだぞ? 大丈夫か?」
「誰も彼も、偏見を向けてくるのは一緒よ。わたしは慣れっこだし、いちいち相手にしていたらきりがないわ」
なんとも自分本意の考え方だが、それはそれで一理ある。
少なくともストウにはそう思えた。
メイスフィールドと出会ったばかりの者は多かれ少なかれ、メイスフィールドに対して似たような感想を抱くものだ。
同性愛者かと。
そしてそれ以上の親交を持てるようになる者は、変わり者と名高いメイスフィールドと信頼を築けた者だけだ。そうでない者は大概の場合、一方的にメイスフィールドが異常者だと決めつけて関係を終わらせてしまう場合が多い。
「まぁ、君が偏見を向けられても構わんというならわたしは構わんが、エリカはいやがるだろうな」
やれやれと苦笑いしてからストウは呟いた。
結構頑固なメイスフィールドは、実は言い出したらなかなか主張を引っ込めないことは、長いつきあいでわかっている。
「だめ?」
「構わんと言っただろう」
「恩に着るわ、わたしとしても仕事はやりやすいほうがいいもの」
気易く告げられて、ストウは肩をすくめた。
大学生に毛が生えただけのような鼻っ柱ばかり強いエリカ・フェリルのことだから、きっと「自分は仕事がやりづらい」とでも主張するだろう。
ストウの知る限り、メイスフィールドは床としてはかなり異端の部類に入る。もっとも、本人は全く世間の目など気にもしていないが、ニュートラルな彼の価値観は多くの場合、大多数の者からの共感は得られない。かと言って、ストウ自身がメイスフィールドを理解できているのかと聞かれるとそれはそれで怪しいものだ。
メイスフィールドは良くも悪くも誰にも捕らわれない鳥のようだ。
自由に彼は空を飛ぶ。
「アガサ、君も充分にわかっていると思うが、イングランドには保守的な連中が多いから気をつけたまえ」
「大丈夫よ、オウエン」
メイスフィールドはウィンクして口角をつり上げてほほえんだ。