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Another code 【伯爵家の後継者】  作者: sakura
序章 出会いと邂逅
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2 知己の再会

 手際よく夕食の準備をする家主の背中を見つめていたエリカは椅子に腰を下ろしたままで考え込んだ。

 百歩譲って彼がアガサ・メイスフィールドであると認めよう。

 確かにその部屋は典型的な独身男性の部屋だ。とはいえ、青少年たちのように男性的とも言える暴力的な主張を感じさせるものはそれほど多くない。カラヤンやバーンスタインなどのレコードやCDが一緒くたに並んでいる戸棚を見る限り、意外とミーハーなところがあるのかもしれない。さらにその隣の棚は書棚になっていて、専門書が山のように並んでいる。その辺りの雑然とした様子はいかにも男性的だ。

「お出かけの予定があったのでは?」

 なにげなく問いかけたエリカに、メイスフィールドは喉で低く笑ってから肩越しに振り返った。やかんを片手にしてコーヒーを煎れる彼は、穏やかに左右にかぶりを振ると緑の瞳でエリカを見つめ返した。

「逆です、ちょっと用足しに外へ出ていて帰ってきたところです」

 それにこんな時刻に用事も何もないでしょう。

「人と会う約束をしていたとか、いくらでも理由はありますし。博士」

「おや」

 博士、と呼ばれて四十代の曰く臨床心理学者は目を見開いてから小首を傾げる。

「オウエンがそれを?」

「はい」

 どうにも調子が狂ってやりづらい。

 エリカは眉をひそめて息を吐き出した。

 メイスフィールドがオウエン・ストウを呼び掛けるときの語り口調はまるで恋人に対するそれかなにかのようで、エリカは自分の逞しい想像に無意識の嫌悪感を感じてぞっと身震いをした。

 ブルドックのようなオウエン・ストウと、目の前の中年の臨床心理学者とが異常な性的関係にあるなど、余り心臓によろしくないし、想像もしたくない。

 ――……汚らわしい。

 そもそもストウはメイスフィールドをよく知っていたようだし、逆もまた然りだ。

 不快な自分の想像に、緊張して渇いてしまった唇を無自覚にエリカが舐めた瞬間、男性にしては品の良い、可愛らしくも聞こえる笑い声が弾けた。

「そんなに緊張しなくても。オウエンとわたしは肉体関係も……。もちろん恋愛関係もないから心配いらないのに」

 クスクスと笑うメイスフィールドの声が不意にバツの悪そうなものが混じった。シャツの袖をまくり上げた彼は、それなりに筋肉の付いた手でフライパンを掴む。

「オウエンとは腐れ縁ってやつ。ぶっちゃけてしまうとね、わたしがこんなしゃべり方だからいつもオウエンに迷惑を掛けてしまうのよ」

 当初の堅苦しい不自然さは、ありのままの自分を取り繕うためのものだったのだ。エリカは唐突に閃いたように回答に到達してひとりで納得した。

「わたしだって男が好きなわけじゃないし、性的嗜好はもっぱらノーマルだからそんなに怖気を感じなくてもいいわ」

 すらすらと出てくる言葉は彼が自分を飾り立てるつもりもなければ、取り繕おうとするためのものでもない。

 肩越しにエリカを見て、片目をつむって見せて彼は料理に戻った。

 仕草といい、語り口調と言い、そのまま女性にすればその辺の少女たちよりもあざとくかわいらしいだろう。

 エリカは頭が痛くなってきた。

 ついでを言えば、オウエン・ストウの言うどの辺りが「気難しい」のかがよくわからなくなってくる。

 要するに取扱注意、ということなのだろうか?

 そんなとき、やはり古風なダイヤル式の電話がジャーンとけたたましいベルの音を響かせた。エリカは文字通り飛び上がった。

 そんな電話機など、今時、祖父母の家でもお目にかかったことがない。

こんばんは(グーテ・ナハト)?」

 流れるように聞こえてくるドイツ語は欠片のスイス訛りもない、ようだ。

 スイスで暮らしているのだからドイツ語を理解して当たり前なのだが、不意にエリカはメイスフィールドとの間に見えない壁のようなものを感じさせられて黙り込んだ。

 長い腕を伸ばして彼はガスの火を消す。

ありがとう(ダンケ)

 そう言ってから受話器を戻した彼は真顔に戻って自分を見つめていた年頃の娘の眼差しに眉尻を下げると笑顔に戻る。再びガスの前に立って、それからしばらくして簡単な夕食がエリカの前に並べられた。

「博士、先ほどのお電話は?」

「仕事の話。気にしないで」

 柔らかく告げたメイスフィールドは、手にしたフォークの先を見つめてから少しだけ考えると改めてエリカを見直した。

「わたしの仕事は、スイスじゃなくてもできるから。……わたしは誰にも縛られないし、誰にも命令されはしない」

 かすかに深度を増したメイスフィールドの声音にエリカは思わずハッとした。

「ストウ警視の依頼の件は……」

「もちろん、それは行くから心配しないで。子猫ちゃん」

 でもオウエンの頼みじゃなかったらお断りだけど。

「……と、おっしゃいますと?」

「精神科医なんて腐るほどいる。わたしの変わりなんていくらでもいるでしょう?」



  *

 翌日の昼過ぎにロンドンに戻ったエリカは長い飛行機での移動にへとへとのままでメイスフィールドを伴って、オウエン・ストウの執務室を訪れた。

 偉い学者の先生を伴って移動しなければならなかったエリカ・フェリルはともかくとして、どうやら一身上の都合で四六時中飛行機で長距離移動を繰り返しているらしいメイスフィールドは腹立たしいほどちっとも疲れていない様子だ。

「メイスフィールド博士をお連れしました、警視」

「あぁ、ありがとう。おかえり、エリカ君」

「どうも」

 疲れ切って憮然とした声に、メイスフィールドは興味深そうな視線を投げかけてから、金色の睫毛を瞬かせる。

 こうしてみればそれなりに目鼻立ちも整っているし、年齢の割に二枚目だ。

 ブルドックのような。

 そんないかめしい印象とは裏腹に、ストウは実のところウィットに富んでいる。しかし残念なことに、社会というものは第一印象が大きな障害になるものだということもエリカは知っている。だからストウの内面性がどれほど誠実で、男前であったとしても初対面の女子供からは大概避けて通られる。

 気の毒だ。

「やぁ、アガサ。ようこそ、久しぶりにロンドンの我が家に帰った気分はどうだね? もっとも君のパトロンたちとの争奪戦は全く骨が折れてかなわんよ」

 腹の肉と頬の肉を揺らして屈託のない笑みを浮かべたストウに、メイスフィールドはぱっと花が咲くような笑顔になった。

「いやね、わたしがあなたと”彼ら”を天秤をかけられるわけがないじゃない」

 見事な女性口調にエリカは頭を抱えた。

「君も相変わらずなようで何よりだ。病気はしてないかね?」

「わたしよりオウエンのほうが、そんなお肉たぷたぷじゃ奥さんが心配するんじゃないの?」

 どうやらメイスフィールドは、ベルンにいたときはまだ本当の自分を明かしていなかったようだ。

 ストウと親しげに言葉を紡ぐメイスフィールドを眺めながら、エリカはふと問題の臨床心理学者が誰かに似ているな、と思った。

 屈強というには及ばないが、短く刈り上げた金髪と整った顔立ちが印象的だ。見ようによってはストウ同様強面(こわもて)なメイスフィールドが、女性的な仕草と口調であることは大変な違和感を覚えたが、上司の前だったからエリカはさすがに口を噤んだ。

 余分なことは言わないに限る。

「今日はもう帰って構わんぞ、エリカ君」

「……ありがとうございます」

 ベルンとロンドンをとんぼ返りしたのだ。

 これで、これから仕事に就けと言われたら、上司といえども異論を唱えたかも知れない。そんなことをエリカは思った。

「どうだね、今夜は再会のお祝いでも……」

「そうね、それもいいけれど、わざわざ手紙と人を使ってまでベルンからわたしを呼んだのだから、まず仕事の話じゃなくって? オウエン?」

「……――」

 そんなやりとりを扉の向こうにかろうじて聞きながら、エリカは通り過ぎる同僚たちが投げかける言葉に片手を振った。

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