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Another code 【伯爵家の後継者】  作者: sakura
第三章 真相の交わるところ
28/29

27 伯爵家の権力

 現代社会に貴族――特権階級などナンセンスだ。もっとも、そんな遠い歴史の中ですら、「特権階級に属する者たち」が、特別な権利と恩恵にあずかれた時代などそれほど多くはない。

「寝た気がしない……」

 ぼやいたのは朝のロンドンに車を走らせるオウエン・ストウだ。

 あくびをかみ殺してから、やれやれと眉間にしわを寄せた。事実上、スペンサー家から出勤する形になってしまったストウは、一般庶民から見れば贅沢の限りを尽くした屋敷で一晩を明かすことになってしまい、その緊張感から全く疲れなど抜けなかった。

 じろりと自分の隣の助手席では悪びれもせずに、船を漕ぐメイスフィールドに運転を代わってもらえばよかったと、内心で大変後悔した。

 メイスフィールドとは古いつきあいだがら、彼のことはよく知っている。

 ウィリアム・スペンサー。

 五十代で、灰色の髪とブラウンの瞳が印象的な紳士である。

 爵位も持たず、その立場は平民として扱われているが、政治的な影響力が驚くほど強いことで知られている。

「夜中に押しかけてきて、無礼にも程があるのではないか」

 当初、そう言ってウィリアム・スペンサーは、怒って顔を合わせようとすらしなかった。とはいえ、これについては、オウエン・ストウも全くもって当然の反応だ、と思った。最近のひとり暮らしの若者じゃあるまいし、どこの誰がアポイトメントもなしに深夜近くに突然訪問を受けて迷惑と感じるなというほうが無理からぬ話だろう。

「先ほどロンドンに戻ったばかりで、その足でそのままこちらを訪問したことをお詫びいたします」

 臆面もなくメイスフィールドはそう言った。

 面の皮が厚いとはまさにこのことだ!

 誠実で、控えめだが、アガサ・メイスフィールドという男は、ここぞというところの駆け引きを行うべきところを良くわきまえている。だから、彼は猟奇殺人犯などを追いかけることができるのだ。

「嘘をつくな」

 ウィリアム・スペンサーは、両腕を胸の前で組み、玄関先の壁にもたれかかったままで、鼻白んだ様子で即答する。

「申し訳ありません」

 にこりと笑う金髪の五分刈りの男に、スペンサーの名前を名乗る紳士はさらに毒気を抜かれた様子で肩を落とした。

「リーバー伯に確認を取るから待っていたまえ」

「恐縮です」

 完全無欠の笑顔を押し通すメイスフィールドのこのやり方は、相手がリーバー伯爵よりも格下であるときによく使う手だ。

 彼は自らリーバー伯爵に慕われていることを、良く利用した。特に、このイギリス連邦領ではその特権が彼の行動の助けとなることもまた多い。面倒なことに、メイスフィールドがリーバー伯爵の名前を出すことに、伯爵自身が喜んでいるところもあったから手におえない。

 アガサ・メイスフィールドという臨床心理学者には「常識が通用しない」。

 それからしばらくして、ヴィクトリア・オールディスからの確認が取れたらしいが、問題のウィリアム・スペンサーは伯爵閣下からこっぴどく怒られたらしい。

 渋面をたたえてふたりを応接室へと案内させた彼は、憮然とした様子でリーバー伯爵の秘蔵っ子と、ストウを前に再び姿を見せたときは、執心のためのガウン姿から接客のためのスーツに着替えてきた。

「お手を煩わせて申し訳ありません」

「リーバー伯爵は”おっかない”」

 わずかに困惑した様子で微笑するメイスフィールドに対して、スペンサーは首をすくめてみせてからその隣にいる厳つい空気を身につけた中年男を検分するように上から下まで見下ろした。

「あんまりあの方を怒らせないほうが得策だ」

 そう言ってからスペンサーはカチャカチャと陶器のティーカップを鳴らして、じろりとメイスフィールドを睨み付けた。

「だいたいずるいじゃないか。リーバー伯爵のお名前を出されたら、我々のような俗物には抗いようがない」

 ともすればウィリアム・スペンサーの気分ひとつで、ストウの首など飛びかねない。

「ロンドン市警のストウと言います」

 警察の身分証を見せたストウを一瞥し、スペンサーはフンと機嫌悪そうに鼻を鳴らした。

「刑事か」

 深夜の尋ね人という常識外れの相手に、貴族の血族の男は長い足を組み直す。

「主に異常殺人案件を扱っております」

 今までストウが目の当たりにしてきた殺人事件の動機は様々だった。

 怨恨や家庭内トラブルといった些細なものから、無差別殺人屋快楽殺人まで。ありとあらゆる事件と接してきたが、今回の事件は、ストウが出会ったそうした事件と比較して突出して猟奇的だ。

 ただの児童誘拐事件とも思われていたが、メイスフィールドが介入したことによって、その異常性がじょじょに明らかになりつつある。

「殺人事件?」

 聞き慣れないらしい単語を、耳にしてスペンサーはティー・カップをソーサーに戻すと片方の眉毛をつり上げた。

 こと、ストウの異常殺人案件という言葉が彼の関心を引いたようだ。

 海千山千の政治の猛者は、オウエン・ストウからアガサ・メイスフィールドに続いて視線を移すと、なにごとか考え込むような素振りをしてから鼻の穴を膨らませる。

「最近、この街でそんな物騒な殺人事件が起こったとは聞いてないがね?」

 探りをいれるようなスペンサーの台詞に、にこりとメイスフィールドは笑った。

「正確に言えば、今のところ殺人事件として捜査しているわけではありません」

「ほう?」

 可能性として、その確立が非常に高いというだけだ。

 頻発する児童誘拐事件に、住民たちは枕を高くして眠れない状況に陥っていた。その事態を打開するためにストウ自ら捜査に乗り出した。

「ヨーロッパでも高名なメイスフィールド博士がベルンから戻ったという話は先日聞いている。なにせ、スイス銀行のグレッツナーがここぞとばかりに自分の威信を誇示しようと吹聴して回っているようだからな」

 それで、とスペンサーはソファに腰を下ろしたまま、肘掛けに肘をついて視線を滑らせる。

「言われるほど大した身分ではありません。ただの世捨て人のわたしを、伯爵閣下たちが養ってくださっているのです」

「謙虚なことだ」

 鼻先でスペンサーが笑う。

「それで、そのヨーロッパ随一の心理学者の先生が追いかけている事件ともなれば、それなりに大事件だと判断して良いのだろうな」

「はっきり申し上げますと、ロンドン港事件に関係しているとわたしは考えております」

 メイスフィールドが唐突に切り出した名前に、驚いた様子でウィリアム・スペンサーは肩を揺らした。

「……ロンドン港事件か、随分と古い名前だが」

 はて、と記憶を探るようにスペンサーは顎に右の手のひらを当てると小首を傾げた。

 ロンドン港事件のはじまりは、およそ三十年前。やがて世間から姿を消し、事件も発生しなくなり、忘れ去られた。

 それが約二十五年前の話だ。

 五年間もの間に、次々と少女たちが殺されうち捨てられた。

 残虐な事件だった――。記憶を辿るスペンサーに、メイスフィールドが本題を切り出した頃にはすでに午前一時を回っていた。

 突然のメイスフィールドとストウの訪問に当初は機嫌も良くなかったが、メイスフィールドとストウの話に耳を傾けるうちにそんな気分も吹き飛んだ様子だ。

 現在起こっているかもしれない異常な殺人事件を前にして、ウィリアム・スペンサーは興味深そうにブラウンの瞳に知的な光を輝かせた。

「……君が欲するのは”わたしの力”か」

「はい、閣下(オナラブル)

「リーバー伯爵のお名前をもってすればわたしに助力を請うよりも確実なところではないか?」

「伯爵のお名前を濫用するわけにも参りません」

 ストウを置き去りにして、スペンサーとメイスフィールドの会話は勝手に進んでいく。

「控えめなんだか、強引なんだか」

 肩をすくめたウィリアム・スペンサーは、うんざりと疲れた様子でソファに深く座り直した。


 そんなことがあったのが深夜のことだ。

 おかげで翌日の仕事も控えていたオウエン・ストウはろくに眠れなかった。

 スペンサー邸の客間を遅くに割り当てられたは良いが、結局、事件のことを考えていたからほとんど眠れるわけがない。

 そんな経緯(いきさつ)だ。

 あくびを漏らしたストウは助手席で眠るメイスフィールドを肘でつついて起こしてから低く声を放つ。

「おい、本当にあんなで良かったのか?」

「あの程度のことで機嫌を損ねるような人じゃないですよ」

 薄く目を開い当代きってのプロファイラーは微笑した。

「まぁ、あちらの世界ではリーバー伯爵の機嫌を損ねるほうが大問題であろうからな」

 女の噂話は恐い、と言うではないか。

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