26 権力の行方
ロンドンでは前代未聞とも言える猟奇殺人を前にして、大きなショックと動揺を隠しきれず、人目――とは言っても、その場にいたのはオウエン・ストウとアガサ・メイスフィールドだけだったが――をはばかりもせずに号泣したエリカ・フェリルをなだめて落ち着かせ、とりあえず彼女が良心と共に暮らす自宅に送り届けると、時刻はすっかり夜半に近くなっていた。
革製のビジネスカバンを手にしたメイスフィールドは、ストウの走らせる自家用車の助手席に座ったままで、ちらと視線を古い友人でもある刑事に投げてよこした。
「メアリーが、あなたの帰りが遅いと心配するんじゃなくって?」
妻の名前を出して問いかけた彼に、ストウは肉付きの良すぎる肩を小さくすくめた。
二重顎がぶるんと揺れた。
「あれは自分が刑事の妻だとすっかり諦めてくれているからな、余分な心配はいらん。彼女の機嫌が心配ならば、君の名前で薔薇の花束でも贈ってやれば有耶無耶にできる。もちろん、色は白で。豪華なやつを」
「あらあら、現金ね」
クスクスと笑ったメイスフィールドにハンドルを握り直したストウは、フロントガラスの向こうに広がる黒い闇を睨み付けた。
そこに諸悪の根源があるとでも言いたげに。
「……問題が、ロンドンの外にまで及ぶことになるなら、事態はそれなりに深刻だ。わたしの権限の及ぶ範囲となると残念なことに限られる。そうなると”また”くだらん主導権争いだ。まったくもってうんざりする」
人の命。
事件の解明。
そうしたものの全てが、高慢ちきの欲張りな連中の権力争いの道具となることを、オウエン・ストウは心の底から嫌悪する。
被害者や、被害者たちの家族のためではない。
私利私欲のためだ。
「このまま少しドライブをしましょう。オウエン」
やがてメイスフィールドはぽつりと呟いた。
苦々しいしかめ面をしたままのストウの内心を見透かしていて、彼は言及しない。
「別に構わんがね……?」
唐突な知己の言葉に少しばかりオウエン・ストウは困惑した。
彼はいつもこうだ。そんなことも頭の片隅で考えたが、結局、どこぞの同性愛者のカップルでもあるまいし、このままモーテルにしけ込むというわけでもないだろう。
彼の性格を考えれば。
いつでも、アガサ・メイスフィールドは控えめで思慮深い。
「どこへ?」
少しだけ車の速度を落として、ストウが問いかけた。
「スペンサー伯爵家」
「は?」
素っ頓狂な声を上げたストウにメイスフィールドが睫毛を揺らしてかすかに笑った。
「だから、スペンサー伯爵家。聞こえなかった?」
まるで世間話でもするように、メイスフィールドがオウエン・ストウに告げた。
「……まさかその年で耳でも悪くなったってわけでもないでしょう?」
「そりゃ、当然、わたしの耳は正常なはずだが」
彼はスペンサー伯爵家と言った。
ストウの聞き間違えでなければ。
「さすがにわたしだって、公爵家に直接働きかけるだけの権力を持っているわけでもないし、たかが心理学者じゃあねぇ……。いずれにしても公爵家に動いていただくような案件でもないわ」
「……ほぅ」
「なんでもないことのように」、彼は告げる。
「スペンサー伯爵家って、あのスペンサー伯爵家だよな?」
スペンサー家と言えば、イギリスでも名だたる貴族の一族だ。その中にはマールヴァラ公爵家、スペンサー伯爵家、そしてチャーチル子爵家が該当する。さらに言えば、スペンサー伯爵家と言えば、時の皇太子妃を輩出した。
「……つまり、わたしはスペンサー・ハウスにでも向かえばいいのか?」
「なに言ってるのよ、あんなところに行ってもロスチャイルドの下っ端にしか会えないでしょ。意味がないわ」
そう言いながら、メイスフィールドはオウエン・ストウの耳を繊細な指先で引っ張った。
「ロスチャイルドねぇ……」
スペンサー家にしろロスチャイルド家にしろ、平民の刑事であるオウエン・ストウには雲の上の存在だが、アガサ・メイスフィールドにとっては、そんなことはどうでも良さそうだ。実際のところ、彼にとって地位や名誉など大した意味を持ちはしないのかもしれない。
しかし、彼は引くべきカードを良く理解してもいる。
それがメイスフィールドの非凡さだ。
「圧力でもかけようっていうのか?」
「別にスペンサー伯爵ご自身にお会いしようってわけじゃないわよ」
「そりゃそうだが」
スペンサー家も、ロスチャイルド家もストウなどは新聞やテレビの中でしか知らない。
豪華絢爛な世界は彼にとって未知の世界だ。
驚きの余り、汗ばんだ手のひらで気持ちを落ち着けようとするかのようにハンドルを握り直す。
「然るべき力が必要ならば、”然るべき”行動をするだけよ」
浮世離れした。
そこに異なる色彩の世界など存在しないとでも言うかのように。
「お力添えをいただけるだろうか」
こんな平民の薄汚れた下界に、彼らは目を向けるだろうか。
やや青ざめた顔でストウが呟いた。たかが刑事ひとりの力などではどうすることもできはしない巨大な世界。
そこにあるはずの境界線も、アガサ・メイスフィールドという臨床心理学者の博士はいとも簡単に飛び越えた。
「リーバー伯爵のお名前だけでは少し心許ないかもしれないけれど、あの方はわたしに名前を勝手に使われても怒ったりはしないわ。それに、伯爵閣下は”田舎貴族”とは家、千年もの長い時間に培った発言力は”揺るぎない”」
そこでメイスフィールドは一旦、言葉を切った。
「脈々と受け継がれるのは、血統だけではないのよ」
それこそが貴族の存在意義だ。
貴族の、貴族たる所以。
血統をつなぎ。
絆をつなぐ。
千年間、絶えることなく続いたイングランド有数の伯爵家。
曰く――スペンサー家のような政治的発言力こそないに等しいが、そんなことがリーバー伯爵家の真価ではない。ここぞと言うときに発揮される伯爵家の発言力は、目をみはるべきものがある。
噂ではかのハプスブルグ家やブルボン家ともつながりがあるとも囁かれる。
「……あのばーさんがなぁ」
確かにメイスフィールドの言う通り、ヴィクトリア・オールディスは彼が勝手に彼女の名前を持ちだしたところで怒り出すようなことはないだろう。
相手が後継者として溺愛するアガサ・メイスフィールドであれば。
「君にもあの伯爵閣下と同じ血が流れているとは思えんが」
なにやら一気に沢山のことを考え込みすぎて疲れ切った気分になったらしいストウがぼやくように告げれば、メイスフィールドのほうは街灯に途切れ途切れに顔を照らされて、やはり困ったようにほほえんだ。
「家系図によれば、わたしがリーバー伯爵家につながりがあるのは三百年くらい前のご先祖様らしいわよ」
「……知っている」
もはや赤の他人ではないか。
つまるところ、アガサ・メイスフィールド程度の血縁関係の人間となれば、それこそ星の数ほどいる計算になるというのに、リーバー伯爵ヴィクトリア・オールディスは、そうした家系図上にある人間たちには目もくれず、メイスフィールドのみを後継者として指名してしまった。
おかげでアガサ・メイスフィールドという男はヴィクトリア・オールディスの近しい血縁関係の人間たちから攻撃を受け続けて今に至る。
「もしも、わたくしの知らないところでかわいいアガサが人知れず暗殺されるようなことになれば、わたくしはイギリス王室に爵位を返上させていただきます」
リーバー伯爵はそう宣言したとかしないとか。
貴族という泥沼のような世界で女伯爵としてその名誉を一身に浴びてきた彼女は、けれども、だからこそ後継者である気立ての良い男が攻撃の的にされることを憎悪していた。
イギリス貴族界の鬼婆とも呼ばれる彼女には、当然のことながら、メイスフィールドを盲目的に溺愛しているわけでもないことをストウは知っていた。
彼女はかつて、血族内で起こった想像を絶した悲劇に直面し、結果として深い疵を心に負った。そして極度の人間不信に陥った彼女を救ったのは、数々の猟奇殺人に直面してきたメイスフィールドという無欲な青年だったのだ。
心に疵を負ったアガサ・メイスフィールドにも。
心を傷つけた事件に直面せざるを得なかったリーバー伯爵ヴィクトリア・オールディスにも、それぞれにやむを得ない理由があった。
自分の力ではどうすることもできない理由。
――わたしのせいじゃない、と目を塞いでしまえればどんなに楽だろう。数々の事件に遭遇したストウは、彼らの心をストウなりに理解した。
「どうして、わたしはこんなに不幸なのだろう」
不意にアガサ・メイスフィールドが助手席に座り、窓に頬杖をついてそう言った。
「……うん?」
「そう、リーバー伯爵はおっしゃっていたわ」
――どうしてわたくしはこんなに不幸なのだろう。わたくしは、後継者に恵まれなかった。全てが憎悪と私利私欲で塗り固められてしまったのは、わたくしの生まれのせいではないのに。わたくしが悪いわけではないのに……。
年老いた者の絶望ほど悲劇的なものはなかった。
そんな絶望したリーバー伯爵を、「彼」が救ったのだ。




