24 追う者と追われる者
想像を絶する状況が彼女を待っているだろう。
それこそ、彼女が今まで直面してきた殺人事件とは質の異なる類のものだ。たとえば、かつてベトナムでの戦争の頃に余りにも過酷な戦場に置かれた兵士たちの多くが、心を壊して祖国へ帰らざるを得なかったように。
どれだけ苦しんでも拭いきれない現実は、否応なしにその状況に直面した人物の心に大きな傷痕を残していくものだ。
自分が「強靱」と思っている人物であれば、なおさらそうした状況に直面した時の落差は大きくなるだろう。
人の心には、時に強さと弱さ。その相反するものを共有しているものだということを、多くの人間が理解していないのだ。
後部座席で強い意志を煌めかせている若い娘を瞳だけを動かして肩越しに動かしてから無言で見やる。ヨーロッパ各国でアガサ・メイスフィールドが出会った多くの若い警官たちも「そう」だった。
若さ故に息巻いて自分の強さを見誤った――。
「ねぇ、オウエン。あの子は本当に大丈夫なの?」
「……と、思うが」
理想と現実。
想像と現実は得てして異なるものだ。
「しかし君も彼女を気に入っているじゃないか」
「気に入っているわよ。元気な女の子は見ているこちらも元気になれるものね」
言い切ったメイスフィールドに、オウエン・ストウは車のハンドルを握って薄い唇を引き結ぶとはげかかった自分の頭を軽く撫でる。
高級住宅街からそのまま、移民や下層階級の人々が住むイースト・エンド・オブ・ロンドンの下町へと車を走らせるストウは、厳しい眼差しで黙り込んでいたが再び口を開いた。
「なにがあると思う?」
「全てが残されているとは思えないわね。なにせ二十年もたっているんだから。十中八九犯人はすでにあらかたの痕跡を消して逃げ出していると思うわ」
「そうだろうなぁ」
メイスフィールドの言葉を受けて、オウエン・ストウは太い眉毛を寄せると思案に暮れた。
ジェイソン・バトラーが問題の「人魚」とやらを目にしたのは二十年前だ。とっくの昔に足跡など消えていると考えれば良いだろう。
「でも、手がかりくらい残っているかもしれない」
オウエン・ストウの言葉にアガサ・メイスフィールドは相づちを打った。
*
ロンドンの中心地――シティ・オブ・ロンドンの東に広がる労働者階級が暮らすイースト・エンドの片隅、ロンドン空襲の後に立てられた小さなビルディングの地下から複数の子供の遺体が発見された。
性別は女。
中には水槽に沈められ、放置されたきりの少女のホルマリン漬けもあった。
閉ざされたきりの地下室は、厳重に閉鎖されて、その末に忘れ去られた。きっとバトラーも忘れたかったのだ。
犯罪に巻き込まれただろう少女たちの亡骸。
大スターらしい思い込みと、優越感は、本来、平凡な社会人が、社会人として育んでくるはずの大人としての責任感から遠ざける。そしてそれらが、芸能界という特殊な世界に犯罪を蔓延させるのだ。
自分は他人とは違う。
自分だけは大丈夫。
そういう自己欺瞞。
「ご苦労」
オウエン・ストウは現場の入り口に立っている制服警官に声をかけてから立ち入り禁止テープを中腰でくぐってから、背後に立つメイスフィールドとエリカ・フェリルに目配せをした。
「博士」
エリカも、真剣な眼差しでビルの入り口を凝視しているアガサ・メイスフィールドに小声で呼び掛けた。
「えぇ」
短く応じて頷いたメイスフィールドは、さっとテープをくぐって踵を鳴らした娘に続く。薄暗い廊下に入っていく彼は年季の入った古いビルの壁に片手をついた。
「こっちだ」
埃っぽい天井の低い階段をこつこつとおりていく三人はライトで照らされた室内に素早く視線を走らせる。
狭い地下室の中には、壁際に背の高い特注品だろう水槽がずらりと並んでいて、その中にはひからびた小さなミイラや、すっかり肉が腐食してしまった人骨などが乱雑な具合に埃の中に埋もれていた。
中には壊れていない水槽も残っており、その中はホルマリンで満たされている。劣化してくすんだ黄色い液体の中に沈んだ少女の遺体。
掘りの浅い平坦な顔立ちはきっとアジア人の少女だろうか。
無表情で背広のポケットから白い手袋を取り出したメイスフィールドは、さも当然といった様子でその水槽のガラスに手のひらを押し当てた。
「かわいそうに、絞め殺されたのね」
首に残るのは指の痕だ。
けれども陵辱された痕跡はないようだ。
苦しんで死んだのか、そのデスマスクはわずかに表情が歪んでいる。
腹を切り裂かれ、内臓が検分されでもしたように露出している。腹の皮膚はピンで留められて開かれており、頭蓋骨は額の上で丸く切り離されていて脳が丸見えだ。
美的価値観は人それぞれだったとしても、少女の顔立ちは誰が見ても美しいと言えるだろう。
そうした絶対の価値観の上に成立する美貌。
「こんなにかわいらしかったのに、あなたは”アダム”の毒牙の犠牲になってしまったのね」
死者に語りかけるメイスフィールドの口調はひどく優しい。
まるで小さな子供をあやしてでもいるようだ。
「このビルの持ち主は?」
「今、所有者と昔の借り主を当たっている」
「そう」
水槽のホルマリンに漬けられた少女を見つめているメイスフィールドに、オウエン・ストウは言葉を投げかける。
「どう思う?」
「言ったでしょう? オウエン。アダムにも”好み”があるのよ。この子らは、彼の好みじゃなかったからこんな薄暗くて埃っぽい地下室に”置き去り”にされたのよ。わたしは法医学のことなんてまるでわからないけれど、きっとこの子たちは十歳以下。一番小さな子供はおそらく生後間もない」
淡々とした物言いのメイスフィールドに、オウエン・ストウとエリカ・フェリルは呆然とした。
そこにある残骸は、すでに持ち主に不用とうち捨てられた死骸たち。
死者は声なき声すら発することを許されず、その中の苦痛に満ちた表情を浮かべている少女も朽ち始めているのかすっかり変色していた。
あたりまえだ。
いくら標本化されているとは言え、長い年月の中では手入れもされなければ劣化していく。
「彼の”本命”はすでに別の所に運び去られているけれども、これで手がかりは”見つかった”」
愛おしげに少女を見つめるメイスフィールドは、足音も立てずに静かにふたりの刑事を振り返った。
「アダムは、確かにあの未解決のロンドン港事件とつながっているし、これらの”標本”を見ても、それなりの財力がある。そしてそれなりの外科技術も持っていて六十代以上となれば限定されるはずよ」
ほとんど表情を変えることもなく呟いたメイスフィールドの横顔が寂しさを感じさせられて、片手で口元をおおったままで息を飲み込んだ。
なぜ、彼はこんな表情をするのだろう。
――伯爵閣下。
メイスフィールドが穏やかに相手の名前を呼び掛ける。
上流階層とありとあらゆる業種に人脈を持つリーバー伯爵ヴィクトリア・オールディスであればその特定はそれほど難しい話ではない。
むしろ、そんなことよりも今まで事件が「事件」として日の目を見なかったことのほうが恐るべきことだ。
犯人には追跡者に対する驚くべき嗅覚が備わっているのかもしれない。
そう考えると追跡者としては慎重にならざるを得ないというものだ。
しばらく電話を片手にリーバー女伯爵と話をしていたメイスフィールドはやがて、電話を懐にしまい込んでから意味深長な眼差しでオウエン・ストウとエリカ・フェリルを振り返った。
「それよりも、オウエン。彼は随分と”慎重なタチ”のようだからリーバー伯爵の手助けがあるからといって用心を怠らないことね」
「わかっている」
犯罪者は追跡をかいくぐることにかけては天才的のようだ。
「それよりも、リーバー伯爵はなんと?」
「”心当たりならある”と」
「ほう……?」
興味深そうにオウエン・ストウの青い瞳が細められた。
感想、拍手などお待ちしています。




