23 Jack the Ripper
バトラー邸を出たオウエン・ストウは、スーツのポケットから携帯電話を取り出すと、その受話器に向かってがなりたてた。
――場所はイースト・エンド・オブ・ロンドン! 緊急配備だ!
叫んだストウの声を聞きながら、アガサ・メイスフィールドはズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、どこか上の空の様子で目の前の中空を見つめていた。
静と動。
ふたりはまるで対照的だ。
まるでかつて発生した未解決事件、十九世紀末の切り裂きジャックを思わせる。今もその事件は解決していない。その手がかりすらもない。仮にそうした手がかりがあったとしても、とっくに消えてしまったことだろう。
永遠の迷宮入りだ。
そしてイースト・エンド・オブ・ロンドンと言えば切り裂きジャックとも言える。
「ロンドンと言えばジャック・ザ・リッパーね」
「うむ」
女王陛下のお膝元。
イングランドの首都――ロンドン。
華やかな都市の輝きに紛れて事件は発生した。
物憂げにも見えるメイスフィールドの横顔を見つめたストウに、エリカは片目を細めると身を乗り出して、無意識に片手を差し伸べた。なにかに手が届くと思っていたわけではない。
アガサ・メイスフィールドという男の視界になにが映っているのか。
それを知りたいと思った。彼の心象風景の一シーンを知りたいと思ってしまった。
「噂では聞いている。アガサ」
「……なに?」
低く響く男たちの言葉に、エリカは不意に息を飲んだ。
「君が警察をやめてからどれだけ凄惨な事件に関わってきたのかも。だが、本当にそれでいいのか?」
「やだ、困ってるから協力してくれって言ったのはオウエンのほうじゃない」
ひらひらとメイスフィールドは片手を顔の前で振って見せた。
「それはそうなのだが……」
オウエン・ストウは口ごもった。
ヨーロッパを駆けずり回ってメイスフィールドは異常な殺人事件と数多くか変わり続け、そしてそうした名声と評価は次から次へと噂を呼んだ。
前代未聞――希有な才能を持つヨーロッパ屈指の臨床心理学者。そういった評価を呼び込み、解決の糸口の見えない猟奇殺人の現場にメイスフィールドを招き寄せた。
本心で彼がなにを考えていたにしろ、表面的にはメイスフィールドが嫌な顔をしたことなど一度としてなかったという。彼は昔から「そう」だった。
「困っている人を見ると放っておけないのよ。性分ね」
「警察署でそんなことを言っていると身が持たないぞ」
どこかで線引きをしなければならないのが警官だ。
もっとも、犯罪心理分析官として入職した彼にとって、一般的な意味で制服警官たちのように市民たちの相談に乗るわけではないのではあるが。
そんなやりとりを良くしたものだ。
「君の心に負担を敷くことになっているのは充分承知している。リーバー伯からもきつく言われているからな」
優しくてお人好し。
そんな人柄を絵に描いたようなアガサ・メイスフィールドは、常識的な一般庶民たちと比較して、異常な事件と向かい合い続けてきた。イングランド――ロンドンだけではない。
それを言ってしまえば、殺人課の刑事など心の均衡など保っていられないほど刺激の強い現場を見てきているという言い方もできるが、似通っているのはあくまでも外面だけだ。刑事たちが外見的な捜査を進めることとは異なり、メイスフィールドはその内側に潜り込む。
常軌を逸した殺人鬼たちの心の奥に。
だからこそメイスフィールドの心は失調した。
「ねぇ、エリカさん」
「はい?」
唐突にメイスフィールドがエリカの名前を呼び掛ける。突然すぎて驚いた女性警官は、飛び上がって驚いた。
「あなたにも覚悟はあるんでしょう?」
「……もちろん」
あります。
そう言いかけて言葉を飲み込んだ。
まだ刑事としての経験も浅い彼女は、自分の覚悟とやらがどれほど本気のものなのかもわかっていない。
ただ、困っている人を放っておけないと、衝動のままに警察の世界に飛び込んだ。
「オウエン、あなたもひどい人ね。こんな若い女の子をわたしにつけるなんて。かわいそうだとは思わないの?」
吐き捨てるような響きを含めてメイスフィールドは言ってから横を向いた。視線を背けるのはオウエン・ストウの姿を目にしたくないのかもしれない。
メイスフィールドの言っている「かわいそう」とはどういう意味だろう。
若すぎて圧倒的に経験不足のエリカ・フェリルと、百戦錬磨の刑事でもあるオウエン・ストウの視線を避けるように、そうしてぽつりとつぶやいた。
「女の子は、もっと平和に交通整理でもしていればいいのよ」
メイスフィールドの言葉はなにげないものだったのかもしれない。悪気はなかったのだと思いたい。しかし、エリカの逆鱗に触れた。
交通整理でもしていればいいとは何事だ!
頭で考えるよりも先に体が動いた。
顔を背けて横を向いてしまったメイスフィールドの手首を右手で掴み締める。そんなエリカの行動を見咎めたオウエン・ストウが彼女を制止しようとして伸ばされた腕を咄嗟に振り払ってから若い娘はヘイゼルの瞳に強い光を閃かせる。
「そ……っ、それはどういう意味ですか!」
「エリカさん?」
長く骨張った女の指に手首を握られて、メイスフィールドは長い金色の睫毛を瞬かせた。
「女は交通整理だけしてろってことですか?」
語気が荒くなるのは彼女の殺人課の刑事としての矜持からだ。
「ちょっ……、待って。エリカさん、そういう意味じゃないわ」
メイスフィールドのスーツは仕立ても上質で、ひどく手触りが良い。けれどもそんなことを思うよりも先に体が動いた。
胸ぐらを掴んで持ち上げるように締め上げた。
「やめんか、エリカ」
「警視は黙っていてください!」
女だからという理由だけで、殺人課の刑事としては軽んじられてきたこと。そんなことはわかっている。警察、しかも刑事警察という世界は男の世界だ。その世界を身ひとつで渡ってきた彼女は男たちからは軽視され続けてきたのだ。
それに加えて少しばかりは一目置いていたメイスフィールドに「交通整理でもしていればいい」という言葉にひどく腹立ちさえも感じた。
結局、男と言うのはみんなこうなのだ。
無意味な優越感で「彼ら」は「女」という生き物を軽視している。どうしてこれが腹が立たずにいられようか。
「落ち着いて、エリカさん」
「わたしは刑事なんです。困っている人を放ってはおけない。それを放置して、さらなる犠牲者が出るなら黙っていられません。男だからとか、女だからとか……、そんな無意味な決めつけは心外です」
つかみかかる勢いのエリカに、弱り切った様子でほほえんだアガサ・メイスフィールドは、自分の胸の辺りにある娘の顔と、そんな彼女を自分から引きはがそうとしているストウを交互に見つめてから、行き場を失ったきりだった両手を持ち上げるとそっと女性らしい肩を掴んで引きはがす。いくら威勢が良くても女性は女性だ。その力に男のメイスフィールドが負けるはずがない。
「わかっているわ。言葉が過ぎたわ。ごめんなさい、エリカさん」
「……あ、すみません」
ごめんなさいと困ったように男に言われて、エリカは一瞬後に我に返った。
「別に女性は交通整理でもしていろっていう意味ではないわ」
そう言ってからメイスフィールドは、再び悲しげに目を伏せると長い睫毛を揺らした。
「ただ、わたしはわたしの関わる事件にあなたが関わることで、心を傷つけるのではないかと思うと、それをとても心配しているの」
「意味がわかりません……」
メイスフィールドにエリカは眉をひそめた。
少なくとも殺人課の刑事としてはいくつかの現場に入り、残酷な遺体にも遭遇してきたつもりだった。だから、アガサ・メイスフィールドの言いたいことがわからない。どうして刑事警察である自分にそんなことを言うのだろう。
「……そうね、あなたはまだ人の心に巣くう闇を知らないから、そんな簡単に覚悟を決められるのよ」
そう告げて臨床心理学者の男はかぶりを振った。
「若いって羨ましいわ」
眩しそうに両目を細めた彼は、不意に真顔に戻ると自分の体から娘の体を引きはがすとストウの車のボンネットを軽く手のひらで叩いて踵を返した。
「闇は、エリカさんの想像を超える。バトラー男爵の言う人魚とやらを作った”アダム”は想像を絶した猟奇殺人を続けているということになるわ。それが、あなたの心に良い影響を与える結果になるとは、”わたし”は思わない。良くも悪くもこの事件はあなた自身に大きな影響を与えることになる」
充分覚悟を決めて。
「心が揺らがないように」
ぞっとするほど冷たく感じるメイスフィールドの声と眼差しに、エリカ・フェリルは絶句した。
「この事件、百年前のジャック・ザ・リッパーなんてものじゃないわ」




