21 風の鳴る日
人の話を聞いていない。
後部座席に座ったエリカは憮然として大きな溜め息をついた。
一方的でひとりよがり。
概して学者というものはそんなものなのだろうが、メイスフィールドと関係を築きはじめたエリカには苛立つことのほうが多すぎた。
一方的に話をするメイスフィールドに、オウエン・ストウはやはりいつものようにたまに相づちを打ちながら耳を傾けている。
それがふたりの距離感なのだろう。
近すぎもしなければ、遠すぎもしない。
自然体でひどく穏やかだ。
とりあえずナイトや貴族たちとの人間関係よりも、ストウとメイスフィールドの関係のほうが、幾分か人並みのものなのだろう。
高すぎず、低すぎず。
車中で講義でもするようなアガサ・メイスフィールドの声を聞いている内に、エリカは車窓から降り注ぐ日差しの暖かさに睡魔に襲われた。
*
遠い昔日に。
キラキラと夏の日差しが降り注ぐ丘に、少女はひとりで自転車をこいでいた。
はじめてひとりで乗れるようになった自転車がうれしかったのだ。
「遠くへ行っちゃダメよ、エリカ」
「わかっているわ、ママ」
わかっている。
そんなことは口だけだ。
母親――エイダの実家はウェールズとの国境よりの畑の真ん中にある小さな田舎町だ。帰省していた母と、その親族の目を盗んで少女は自転車のペダルを田舎道をこいだ。
駆け抜ける風に。
通り過ぎるトラックに。
少しだけ大人に近づいたような気がした。
「すぐに暗くなるからね、都会と違って。だから気をつけるんだよ。おチビちゃん」
最近は世の中物騒になったもんだ。
昔はこんな田舎はどの家も扉も窓も開けっ放しだったもんだがねぇ。
延々と続く年寄りの言葉が鬱陶しくて、エリカは気もそぞろに「気をつけるわ、ありがとう」と応じてからトラックの運転手から離れて自転車をこぎはじめた。
それから数日して、少女は今度は青いトラックを見かけた。当時から一度見た人間の顔を忘れないという特技を発揮していたから、自転車で村内を走り回るうちに村民のほぼ全員の顔を覚えてしまっていた。
「誰かしら」
見たことのないヒゲ面の、がっちりとした体格の男。
きっと殴られでもしたら一瞬で昏倒しそうだなどと暢気に考える。
そして翌日、村内のエリカと同じ年頃の少女が消えた。青いトラックの男も二度と見かけることはなかった。
当時、十歳にもならなかったエリカはそれが何なのかわかっていなかったが、今でも目に焼き付いたものは忘れもしない。
白髪交じりの金髪の、白い卑下の男。
何年かたってから、村内にはひっそりと墓が建てられたらしい、とエイダからエリカは小耳に挟んだ。そして少女の行方はというと、結局、わからずじまいだった。
唐突に夢見心地に思い出して。エリカは飛び起きる。
「あ! 痛……っ!」
勢い余って車の低い天井に頭をぶつけたエリカは、咄嗟に自分の手で頭を抱えた。運転席からはオウエン・ストウが訝しげな眼差しを向けたが、ヘイゼルの瞳をしばたたかせた彼女は状況を再確認する。
どうやらリーバー伯爵邸からの帰路の車中で、すっかり眠り込んでしまったようだ。
「ストウ警視!」
フラッシュバックするのは幼い頃の記憶だ。
エリカがまだ一桁の年齢だった頃。遠すぎる過去の記憶に、すっかり忘れていた。
どうして今の今まで忘れていたのだろう。
幼心にそう思える程度には、大事件だったはずだ。
小さな村からひとりの少女が消えた。
目撃情報はなし。今、ロンドンで起こっている事件と同じように、雲をかき消すように、忽然と姿を消したこと。
おそらく時系列から考えると。十六年から十七年前。こんなにも身近にかの悪名高い「ロンドン港事件」が発生していた。
それは戦慄するほど衝撃的な事件だった。
「どうした? エリカ」
「……母の実家の近くで、迷宮入りした児童失踪事件があります。わたし自身もまだ小さかったので記憶が曖昧ですが、母が言っていた事を考えればまだ解決していないはずです」
事件は未解決のまま放置され、関係者たちはやがて諦観する。
「当たってみる価値はあると思います」
意気込んでオウエン・ストウの座る運転席のヘッドレストを掴むように身を乗り出すが、メイスフィールドは言葉もなく右手を軽く挙げてから振ってみせた。
「ともあれ、バトラー男爵に会ってからにしましょう。被害者は逃げないし、追いかける優先順位を考えれば”アダム”を追いかけるほうが得策よ」
「……はい」
いきなり出鼻をくじかれて、エリカは素っ気ないメイスフィールドの言葉に肩を落とした。
確かに、ほぼ確実に殺害されているだろう被害者よりも、犯人を捕まえるほうが先決だ。冷たくも聞こえるメイスフィールドの声色にエリカは居心地が悪くて眉間を寄せる。アガサ・メイスフィールドの言うことはいちいちもっともすぎる。
どちらが先か。
それを考えなければならない。
メイスフィールドの言葉に、時には冷徹に彼の声は静かに響く。
「わかりました、博士」
トーンの落ちたエリカの声に、メイスフィールドは目配せをするようにしてほほえみかけた。
「大丈夫。”それ”があなたたち人間の、”人間らしさ”なのだから」
まるで自分は「人間」とは違う生き物なのだとでも言うかのように。
ひっそりとアガサ・メイスフィールドは微笑する。それがひどく悲しそうで、エリカは目を奪われた。
「博士?」
どうしたのか、と問いかけようとしてエリカはそのまま言葉を飲み込んで、車の助手席で窓に肘をついているメイスフィールドの横顔に釘付けになった。
「なんでもないわよ」
人という生き物は人間らしく一喜一憂する。
それでいいのだ。
「昔はわたしもそんなに熱い時代があったなぁ……って、そう思っただけよ」
「今だって充分熱いだろう」
「そうかしら?」
ちらりとメイスフィールドがオウエン・ストウを横目に流し見る。ひどく冷静で、どこか感情のこもっていない眼差しだった。
「そうでなければ、君が今でも”有志で”プロファイラーを続けている理由がなかろう?」
「あらぁ、買いかぶりよ。オウエン。わたしはそんなに立派な人間じゃないわ。よく言うじゃない? 働かざる者食うべからずって。本当、大変よねぇ、日銭稼ぎのその日暮らしだと、自分の将来が心配だわぁ……」
冗談交じりに顔の前で片手を振ったメイスフィールドは、体に合わせてあつらえられた上質のスーツを身につけている。
「……は?」
アガサ・メイスフィールドのなにげない言葉に、それまで深刻に事態を受け止めて考え込んでいたエリカ・フェリルはぽかんと大口を開けたまま呆然とした。
数え切れないほどのクレジットカードと、やはり数え切れない札束のおさまった財布を持って、初対面と変わらない赤の他人のエリカのために飛行機のファーストクラスのチケットをなんでもない様子で取ってくれたような高名なプロファイラーが「日銭稼ぎのその日暮らし」とはよく言ったものだ。
「なぁに? エリカさん?」
「……べ、別になんでもありません」
口ごもったエリカは閉口した。
「エリカさん、お金に大した意味なんてないのよ」
それは生活をするための資金の調達に苦労することのないメイスフィールドだから、金銭に意味などないなどと言えるのだ。
本当にその日暮らしであれば、エリカの目の前で助手席に座る臨床心理学者のようにあっけらかんとなどしていられないだろう。
「取るに足りないことなのよ。……お金なんて、重要なことじゃないのよ。死んでもいいと思っていたけれど、そんなわたしを救ってくれたのも結局お金なのよね。彼らは、わたしが命を絶つ事なんて許してくれなかった」
まただ……――。
メイスフィールドと関わりを持つようになってから、彼に対して度々感じている距離感をひしひしと感じさせられる。エリカと、オウエン・ストウと、そしてアガサ・メイスフィールドの間には深い闇のような溝が存在している。
寂しそうな彼の横顔に、ざっと車の外で風が鳴った。




