1 その者の名はアガサ
――名前はアガサ・メイスフィールド、年齢は四十五歳。国籍はイギリスだが、少しばかり変わり者で今はスイスに住んでいる。ヨーロッパ中からの依頼で余り一所にとどまっているタイプではないから、確かなことは言えないが、最近来た手紙ではスイスのベルンに住んでいるらしかったから、たぶんスイスなのだろう。最近めっきりロンドンでは顔を見ないからな。
「一箇所にとどまっているタイプではないというと、定職にはついていないのですか?」
だとしたら、そんな女に連絡を取ること自体、警察としておかしな話ではないか。今回発生した事件の重要な協力者として名前を挙げられたアガサ・メイスフィールドという名前の存在は、二十代半ばになったばかりの若手の警察官は知らなかった。
腑に落ちない表情をしたのは彼女の目の前にいる上司には伝わったらしく、片手を顔の前でひらひらと振ってから首をすくめて見せた。
四十代半ばで一箇所の土地にとどまることもせず、根無し草のようにヨーロッパ中をまたにかけて飛び歩いているなど、どう考えても一般的な小市民の理解できるところではない。
「どこかの会社の重役さんかなにかですか?」
「いや、違う」
ではいったいなんだろう。
取り引きでヨーロッパを飛び回っているのであればともかく。
「会社員じゃないし、実業家でもない。いわゆる学者さんだ」
「学者の先生ですか?」
「とはいえ、一応医師だがね」
「はぁ……」
「変わり者だから気をつけたまえ、おそらく君が訪ねたらアガサはびっくりするだろうが、わたしは事件で手が離せないと説明してくれればわかってくれるはずだ」
若い娘を煙に巻くような物言いをするやはり五十代にさしかかろうかという少し肥満気味の男は、もう一度肩をすくめてから窓の外に広がるロンドンの街並みを見下ろした。
「そのメイスフィールドさんとはどんな御関係なんです? 警視」
「人の人間関係には口を出すものではない」
唐突な好奇心に駆られた彼女が若者特有の不躾さで男に問いかければ、明らかに憮然とした様子を見せてから両方の肩を怒らせて鼻からフンと息を抜いた。
女性としての見地から評価するならば、少なくとも外見上は若い女性を惹きつける要素はなにもない。はげ上がりつつある広い額と、円形に広がる後頭部の簿毛を見る限りそのうち頭全体が禿げるのも時間の問題だろう。太い眉毛は白髪交じりで、年齢よりも老けて見えるがその青い瞳の鋭さだけが異常さを醸し出していて、まるで獲物を狙う猛禽類のようにも見える。若い頃は柔道とやらをやっていたとか、軍隊で特殊部隊に配属されていたとか、そんな武闘派の一面を感じさせる都市伝説のような噂も存在しているオウエン・ストウはブルドックのように下がった頬の肉を揺らしてから、自分の机に両方の手のひらを付いてからうなるように言葉を発した。
「とにかく、手遅れになる前になんとか次の事件の発生を阻止したい。そのためには、アガサの力が必要なのだ」
アガサ・メイスフィールド。
随分古風な名前だと思いながら、オウエン・ストウ警視の迫力に飲まれたまま若い女性巡査は両目をしばたたくと一歩体をのけぞらせた。
「しょ、承知しました」
*
エリカはオウエン・ストウ警視が渡してきた殴り書きのメモをじっと見つめてから小首を傾げた。
スイス連邦のベルンに居を構えるというアガサ・メイスフィールドの住所だ。
スイスと言えばヨーロッパでも屈指の軍事力が有名で、さらに永世中立国として何十年も前に行われた世界戦争において情報戦の中心地として各国の諜報員が跋扈していたことで知られている。
最近ではスイス連邦が国として関係した戦争犯罪も白日に晒されているが、永世中立国としての評価は下がることもない。
それはさておき、と彼女は飛行機の丸い窓の外を眺めながら意識を切り替えた。エリカの注意はスイスに対してでも、その首都ベルンに対して向けられるものでもなく、もっぱらロンドン市内で発生した児童誘拐事件に向けられていた。
正確に言えば連続児童誘拐事件。
犯人の目的も、要求も不明。
ただまるで煙のように子供たちの足取りが消えた。
さかのぼって調べてみれば、どうやらすでに三件の同様の事件が発生していたらしい。らしいというのは正確な表現ができないためだ。
事件の発端は一ヶ月前のことだ。
ある警察関係者の長女が行方不明になったことから始まる。
学校からの帰宅が遅く、それから警察に届けられたのだがそれこそ煙のように、まるで妖怪かなにかに連れ去られたかのように、少女は姿を消してしまった。それから大がかりな捜査が行われたが、結局、足取りらしい足取りを発見できずに今に至っている。
子供の誘拐において、それだけ事件が長引くと言うことは致命的な問題だ。過去に渡って同様の事件が発生していたことも捜査線上に浮かび上がりはしたものの、「知能の高い犯人」は几帳面に足取りを綺麗に隠蔽したと考えられる。
――やぁ、君を迎えに行ってほしいと君のママから頼まれたんだ。
そう声をかけられでもしたのだろうか。
もっとも、そんな古くさい手段でほいほいとついていくような子供が今時いるとも思えないが。
丸い窓に肘を突いたまま、空を眺めて考え込んでいたエリカは、やがてうつらうつらと船を漕ぎ始めた。
オウエン・ストウの言う、スイス在住のお医者の学者先生とやらが役に立つ情報でもくれればありがたいのだが。おそらく臨床心理学者かなにかに違いない、と勝手に決めつけてエリカは本格的に襲ってきた睡魔に飲み込まれた。
ロンドンからベルンまで二時間弱ほどで到着した。
空港を出た彼女はベルン旧市街にあると言うアガサ・メイスフィールド宅に向かった。だいたいなんで警官の自分が、どれだけ偉いのだかわからないお医者の先生を迎えに行かなければならないのだろう。
憮然としたいのはエリカのほうだが、そんな表情を上司の前で出すわけにも行かない。
二階建ての煉瓦造りの一戸建てにたどり着いたとき、すでに時刻は夕方に近かった。アガサ・メイスフィールドを伴って帰国するのは翌日で良かったが、まだホテルの予約もしていない。
急な海外出張は、オウエン・ストウもろくな準備をする暇がなかったらしい。
ビーッとこれまた古くさいドアフォンの音を立てるそれを押して、エリカは夕暮れに染まりつつある晩秋のベルンの空を見上げて溜め息をついた。
「はいはい、どちら様」
低い男の声が聞こえた。
「ロンドン市警のストウ警視の命令でお迎えに上がりました」
固い声でドア越しにそう告げれば、ドアの曇りガラスの向こうに立つ男は少しだけ困ったような雰囲気を身にまといながらガチャガチャとドアノブを回した。
「誰かが聞いているかもしれないそんなところで、不用意な発言をするのもいかがなものかと思いますが」
随分丁寧な言葉使いをする相手なのだなと思いながら、扉が開くのを待っていると中肉中背の男がにこやかな笑顔で出迎えてくれた。
ドアの脇には「クリニック」とだけ書いてある札がぶら下げられているが、いったい何の科をやっているかこれではさっぱりわからない。
「ストウ警視はお元気ですか?」
「えぇ、全く。元気にしています」
「それで、手紙では誘拐事件だとありましたが」
屋外で物騒な話をするものではないと言いながら、背広姿の男はネクタイを軽く直しながら首を傾げる。
それにしてもどうして目の前の男にこんなにべらべらとロンドンで発生した事件について話をしなければならないのだろう。
自分が用事があるのは「アガサ・メイスフィールド」という女性のはずだ。
「……――わたしが用事があるのはアガサ・メイスフィールドさんのはずなのですが」
「あぁ、それならわたしですがなにか?」
その場の空気を読むこともなさそうな男は短く刈り上げた金髪が印象的だ。
知的な緑の瞳がどこか面白そうにエリカを見つめている。
「はい?」
アガサは女性の名前のはずだ。
推理小説をよく知らない者たちでも、「オリエント急行殺人事件」で有名な探偵エルキュール・ポアロで名声を博した女流作家アガサ・クリスティーの名前からも察するものがあるだろう。
「わたしの本名はアルフォンス・ベネット・アンディ・メイスフィールド。愛称はアガサと言います」
「……はぁ」
ぽかんとしたまま、なんでもない顔をして本名を名乗った相手にエリカは内心でオウエン・ストウに対して悪態をついた。
最初からオウエン・ストウが「アガサ・メイスフィールド」ではなく「アルフォンス・ベネット・アンディ・メイスフィールド」をベルンからロンドンに呼び戻してこいと言えば混乱しなかったのだ。
「あ、申し訳ありません。警視からはアガサ・メイスフィールドという名前でお伺いしていましたので」
「あら、ちゃんと覚えていてくれたのね」
緑の目を細めて笑うと品の良い仕草で体を翻してからエリカを室内に手招いた。
「ホテルは取ってあるの? 速達で部下を送るって書いてきたから何事かと思ったけど。そんなに厄介な事件を抱えているの?」
途端に親しげになったアガサ・メイスフィールドの物言いに、なにやら奇妙な違和感を覚えてエリカは身の置き所のなさを感じて怖じ気づいた。
「オウエンはああ見えても几帳面だから、わたしのことはちゃんと”記憶”していてくれたのね」
クスクスと笑ってから応接室へエリカを招いて、アガサ自身はエリカの真正面のソファに腰を下ろした。
なんというか身のこなしには気品があるというか、そもそもどこか女性らしさすら感じるのは気のせいだろうか。
身長はヨーロッパの人間としては特別大柄なほうでもない。おそらく、特別筋肉質というわけでもなければ肥満というわけでもないだろう。一般的な体型だ。そんな彼から感じるのは自信に溢れた男らしさよりも繊細な女性らしさだ。
――この男は”おかま”かなにかか?
そんな疑問が内心にわき上がるエリカだったが、オウエン・ストウからは「アガサは気難しい」という言葉を耳にしていたため、喉から飛び出しかけた言葉をかろうじて押し込んだ。
「えーっと……」
「エリカ・フェリルさん」
「はい」
おそらく、オウエン・ストウの手紙にエリカの名前があったのだろう。
ずばりと唐突に呼び掛けられて、エリカは背筋を正す。
彼の瞳は不思議だ。
心の内側まで見透かされているような気にさせられる。
「失礼ですが、先生は学者だと聞きました」
「えぇ、一応医師です。ご想像の通り、わたしの本職は臨床心理学者です。ミズ・フェリル。オウエンはわたしの古なじみですし、ぜひ協力させていただきましょう」
「ありがとうございます」
「今晩は我が家に泊まっていってください。余り綺麗ではありませんが客間もありますので」
アガサ・メイスフィールド――もといアルフォンス・ベネット・アンディ・メイスフィールドは、エリカ・フェリルにそう言って胸の前で両手を広げて歓迎のジェスチャーをするとにこやかにほほえんだ。
どこまでも気品がある。
まるで貴族の令嬢かなにかのようだ。
それもそれでなにかがおかしい……――。
エリカはそこまで考えて、右手の平を額にあてると大きな溜め息をついた。




