17 咆哮
ジェラール・ゲランを送り出したアガサ・メイスフィールドは、いつもと変わらない穏和な表情でかすかに紙のこすれる音をたててファイルをめくる。
「あの男、根っからの悪党だろう?」
静寂を破るのはオウエン・ストウの低い声だ。
エリカのほうはと言えば、どう言葉を切り出したものかと困惑していた。どこか張り詰めた緊張感もただよわせるストウは、さすがにメイスフィールドとつきあいも長く、さりげない様子で口を開いた。
自然体のストウに、メイスフィールドはちらと長い睫毛を上げた。
これが若く活気に溢れた青少年であれば「おまえもまともなやりとりのひとつもできるもんだな」とでもからかうところなのだろうが、なにせオウエン・ストウもアガサ・メイスフィールドも大概良い年だ。そんなことに今さらときめいてからかいの理由にするようなタチではなかった。
その辺りはやはり大人の余裕というやつだろう。
エリカは経験の違いをまざまざと突きつけられたような気がして、ひっそりとけれども落胆気味に大きな溜め息をついた。
結局、百戦錬磨のストウとメイスフィールドにはとてもではないがかなわないのかもしれない。
それがほかでもない、経験値の違いだ。
彼はさりげなくメイスフィールドにジェラール・ゲランに感じさせられたものを追及した。
「……そんなところでしょうね」
でも、と、いつもの調子でメイスフィールドは言葉を続けた。
「今のところ彼らの”犯罪”について追及するべきではないわ。オウエン、あなたもわかっていることでしょうけれど、ジェラール・ゲランなどを追いかけたところでどうせ尻尾は出さないし、時間の無駄。なによりもわたしにとっては契約外よ」
人当たりも良く、優しく穏やかな人柄なのかと思えば、ビジネスに賭けてはドライで素っ気ない面も持ち合わせている。そんなメイスフィールドの二面性が、エリカ・フェリルには今ひとつ理解できない。
もっとも誰しも二面性というものは持ち合わせているものだが。
犯罪を追いかけることがエリカとストウの仕事だが、メイスフィールドはそうではない。
「まぁ、奴らが何をしてようが今のところはその時期ではないな」
警官の子供が誘拐されて以来、すでに一ヶ月以上の時間が経過している。悲しい推測ではあるが、おそらくその生存はすでに絶望的だろう。
しかし、事件が明るみに出た以上、その解決に尽力しなければならない。
ストウが見たところ、警官の子供の誘拐事件はあからさまな挑戦状のように見えた。
この事件を迷宮入りにしてしまえば、それこそ「犯人」の思うツボだ。
今度こそ手がかりを失うだろう。
そして手がかりを失えば、次に事件が進展した時には、被害者はその数を拡大させることになる。
社会を賑わせた数知れないシリアルキラーたちのように。
まさにハロルド・シップマンの再来を思わせる。
「今のところ、一番犯行として類似性があるのはソビエト連邦のアンドレイ・チカチーロでしょうけれど、今回の事件との相違点を考えるならば、”この”犯人――容疑者はチカチーロと比べて圧倒的に”洗練されていて”、腕も良いって言うことね」
テーブルの上に並べられた子供たちの写真を見下ろして、メイスフィールドは言葉を綴る。
だがプロファイラーでもあるアガサ・メイスフィールドは安易な断定は避けた。
「差別主義」
「……うん?」
「アダムがこの完全犯罪のために、実験を繰り返していたのなら、彼は屈折してはいても多少の良心があったのかもしれないし、もしかしたら良心なんて残っていなかったのかもしれない。なんとも言えないわね」
「屈折した良心というのは?」
臨床心理学者の長い講義に耳を傾けていたストウが問いかける。
「同じ白人の少女を苦しめることには、きっと心が痛んだのよ。写真を並べて改めて見てみればわかることだけれど、アダムにもちゃんと好きな女の子のタイプがあるのよ。十歳くらいの金髪碧眼の子。しかも、ませた色気のある女の子ではない。アダムは自分の好みの女の子たちを苦しめたくはなかった。だから、彼は自分の技術が完璧になるまでは”材料”に異なる人種の女の子を使ったの。それでも、自分の好みではない女の子では技術を磨くためとは言え、見たくもなかったんでしょうね」
まったくもって身勝手極まりない。
だから犯人の選んだ少女たちには一定の選別が行われた。
単なるペドフィリアという見方もできるが、それだけではないだろう。
ストウはしかめ面のままで考える。
「犯人はどこにいる」
「ジョージの集めてくれた情報もあるわ。ここまで言えば、オウエン。あなたになら捜査の方向性を決定できるはずよ」
ぴしゃりとメイスフィールドが言い切った。
――オウエン・ストウ。あなたは無能者ではない。
それがメイスフィールドのストウに対する絶対の信頼だった。二十代初めからメイスフィールドとストウが組んだのは十年余りだったが、その間にいくつもの難事件を解決し、殺人事件に巻き込まれた被害者たちを救い出した。
そう……――。
オウエン・ストウがいなければ、イギリス連邦の女王陛下のお膝元――このロンドンで、アメリカのような凶悪事件が多発していたかもしれない。
「鍵は過去の事件の中に」
恐ろしいほど巧妙なやり口の殺人犯が、歳の暗闇に潜んでいる。いや、潜んでいるところはなにも暗がりとは限らない。
長く伏し張った指を大きく開いて、アガサ・メイスフィールドはジョージ・ステリーの持ち込んだファイルの表紙を軽くたたいて片目を細めた。
手がかりはひとつ。
思わせぶりなアガサ・メイスフィールドの台詞にストウは椅子から立ち上がった。
どの被害者も煙のように忽然と姿を消してしまった、ということだけだ。
そしてそんなに生き詰まった状況で、ベルンから帰国した臨床心理学者はあっという間に過去との事件の類似性を見つけ出した。
類似点と相違点。
「エリカさんはどう思う?」
古いファイルと新しいファイルを行きつ戻りつしながら読みふけっていたエリカは唐突に語りかけられて、一瞬理解が追いつかずにふたりの中年男を交互に見比べた。
「……え? なんですか?」
きょとんと目を見開く。
「昔の事件と、今の事件の印象」
「……はぁ」
そう言われても、ロンドン港事件は被害者が有色人種の少女で、解剖され標本寸前にまでなっていた死体遺棄事件で、現在の事件は目下のところただの誘拐事件だ。
ふたつの事件は、その性質からしてまるで違う。
不可解な事件とも言えるが、ただひとつ、エリカは気がついていた。
人種も民族も違うが。
どこか「彼女ら」は似通っている。
透き通るような。
――……少女性。
「博士、よろしいですか?」
不思議な空気を身にまとうメイスフィールドに、いつもエリカはなぜだか背筋が伸びるような思いをさせられる。
ジョージ・ステリーのような威圧感とはまた異なる。
だから彼女はメイスフィールドを「博士」と呼び掛けた。
「仮に。……仮にですが、犯人がなんらかのプレッシャーを感じていて大人の女性に対して欲求を……。そういった性欲を感じないという仮定はできますか?」
ドラマの見過ぎだ。
そう一蹴されるだろうということも覚悟して、エリカは問いかけた。
睡眠と食事と性。
それらは人間の中にある、ごく原始的な欲求だ。
人は性交渉を行うことによって「繁殖」する。
自分の遺伝子を未来に残そうとするのは言わば「本能」。しかし、そうした本能――あるいは原始的な欲求――は、複雑な社会環境の中で群れに適応できるように成長過程でコントロールされていくものだ。
だが、その中でごく少数がそうした社会性からはじき出されていく。
「そうね、ある角度からは正解。でも、別の角度からは不正解」
顔の前に人差し指を立てて、メイスフィールドは緑の瞳を閃かせた。
「”アダム”はとても嫌悪している。たぶん、”嫌い”なのよ。”大人”の女も。そして大人の男も。”それ”を美しくないと思っている。それでも自分自身もそんな原始的な本能に逆らえないことがわかりきっていて、アダムは自分の中に存在する矛盾に苛立っている。美しいと思ったものを、美しいままで残しておきたい」
淡々とメイスフィールドは告げる。
それらはひとりよがりな「アダム」の心に歪が生じる。
「美しくないものが見えるから、アダムには許せない。強い怒りをコントロールできない」
メイスフィールドの言葉にエリカはぞっとした。
欲望のままに、暴力で支配しようとする。
生か、死か。
――汚い。
「オウエン、聞こえるわ……」
魂の叫びが。
まるでそれは犯罪者の咆哮だ。
アガサ・メイスフィールドが耳を澄ました。