16 Death mask
住む世界が違う。
生きる世界が違う。
アガサ・メイスフィールドという男は、貴族たちの――平民と比較すれば――豪華絢爛な世界を抵抗もなく受け止めているのだろうか? そして、彼はどうやってそうした世界と、自分の生きてきた世界とのギャップとに折り合いをつけているのだろう。
もしくは簡単に折り合いをつけることができるものなのだろうか?
そんな疑念が頭の片隅をよぎる。
「彼の心が壊れはじめたのは、妻のローズを失ってからだ」
ステリーはそう言った。
「昔はもう少し感情が豊かで”まとも”だったんだが」
そう付け加えてほほえむナイトはどこか寂しげだ。
繊細で薄いガラスを思わせる脆さにも似た弱さは変わらないが。
ひとつの秘密を聞いてしまうと、さらに多くの秘密を知りたくなってしまう。その好奇心をエリカはぐっと奥歯を噛みしめてこらえると小首を傾げるにとどまった。
――深入りは禁物だ。
底なしの泥沼にはまれば抜け出す事ができなくなる。だから深入りしてはならない。
*
ジョージ・ステリーがエリカの自宅を訪れた数日後、署内のメイスフィールドとエリカの詰めるオフィスにひとりの外国人が訪れた。
茶色の髪と瞳が印象的で、これまたぺらぺらと訛りの強い英語でよくしゃべった。
ジェラール・ゲラン、と男は名乗った。
頭の上に乗っかった帽子を軽く上げて気さくに笑う。
そんな男の双眸に、一方で百戦錬磨の刑事であるオウエン・ストウの嗅覚が敏感に犯罪の臭いをかぎ取ったが、それを口に出して相手を不用意に警戒させるようなことはしなかった。
物事には順序というものがある。
「”エデン”のフランスの支社長を務めています」
株式会社「エデン」。
アメリカ合衆国に本社を置き、世界各国で「人間の死体」の流通に関する業務を行っている。その会社名がエデンというのも、なんとも薄気味が悪いし、罰当たりだ。
「以降お見知りおきを」
そうは言われても、オウエン・ストウにしてみればそんなろくでもない仕事に手を染めている連中と仲良くしたいとも思わないし、お近づきにもなりたくない。仕事柄、人間の死体など見慣れてもいるが、あくまでも「それはそれ」である。
仏頂面のままで唇を引き結んで言葉を似見込んだストウだが、不審の表情をあからさまにたたえたのはエリカ・フェリルのほうだった。片や、メイスフィールドはというと、完全無欠の社交的な笑顔を浮かべて右手を差しだした。
ジェラール・ゲランも笑顔で臨床心理学者の差しだされた手を握り返す。
「ご協力いただけると言うことで、大変恐縮です。わたしは、今回の事件でロンドン市警に協力をさせていただいている精神科医のメイスフィールドと申します。遠路はるばるようこそロンドンへ」
「精神科?」
なめらかに口火を切ったメイスフィールドの完璧な挨拶に、エリカはやや面食らったが、プロファイラーの自己紹介などにはストウのほうは関心もなさそうだ。
おそらくそれこそが、メイスフィールドという男の二面性とも言えるのだろう。
完璧な社会人として振る舞う側面も彼は身につけている。
もっとも、大人としていつまでも子供っぽく分別がつけられないようでも困るのだが。そんなやりとりをするフランス人とメイスフィールドを眺めていたエリカの心に、ジョージ・ステリーの言葉が唐突に蘇った。
――彼の心は壊れかけている。
にこやかな笑顔を浮かべて、非の打ち所のない完璧な学者として振る舞う彼の中でなにかが軋む音をたててさえいるようだ。人当たりもよく、性格も穏やかで社交性も抜群だ。
少なくとも、そう見える。
女性的とも言える立ち居振る舞いを除けば、メイスフィールドの対人関係は非の打ち所がない。ただでさえ彼は他者の心を分析する術に長けた精神科医なのだ。
そんなアガサ・メイスフィールドが、その心を患っているなど、にわかに信じられるわけもない。
「サー・ジョージ・ステリーから伺っています」
メイスフィールドの穏やかないつもの調子に、ラテン・ヨーロッパの男は茶色の髪を軽く揺らした。
足を組み替えてシガレットケースから煙草を取り出して目を上げる。
「吸ってもよろしいですかな?」
「どうぞ」
短く臨床心理学者は応じてから頷いた。
「ステリー卿から仕事を請け負ったことは”ないのですが”、なにせ我々はこういった業界ですので、ステリー卿としては汚れ仕事に関わりを持ちたくないといったところでしょう」
自嘲的に笑う男は、そうしてから一枚の名刺を取り出した。
「なにぶんあの方はようやく念願の貴族の地位を手に入れたのですからな。おそらく今後も教授は”表向きには”我々の力などは必要とせんでしょう」
表向きには、という言葉をことさらに強調して男は薄いしたたかな笑顔を浮かべる。皮肉げなそんな言葉に動揺を見せることもなく、アガサ・メイスフィールドはソファの肘掛けに右手の指を踊らせた。
同席するオウエン・ストウは、アガサ・メイスフィールドの落ち着き払った態度をよそに、ぺらぺらとどうでも良いことをしゃべる男だ、と思った。
こちらから聞いてもいないのに、勝手にジョージ・ステリーに対する自己分析を語って聞かせてくれた。
「それで、お聞きした話ではヨーロッパにおける……――。失礼、イギリス本土における我々の業界のネットワークについて聞きたいとのことでしたが」
相手に話したいだけ、とりあえず話をさせるのはメイスフィールドのテクニックのひとつだ。
強面のベテラン刑事のオウエン・ストウと、若手刑事らしいエリカ・フェリルのぴりぴりと緊張感を漂わせている。一方でメイスフィールドは眉を上げたり下げたりしながら時折、合いの手を入れながらゲランの話しやすい状態へとうまくコントロールしてやった。
とりあえず目の前の男がジョージ・ステリーに対して、内心では面白く感じていないことはわかっていた。権力欲に取り憑かれたステリーに侮蔑を隠すことができずにいながら、反面では強い憧憬を抱く。
屈折した感情だ。
ゲランは自分たちが違法に近いところで行動しているのをわかっているからこそ、警察組織に対して強い警戒感を抱いていたのだが、ストウとエリカにとっては彼ら――犯罪者の悪感情など知った事ではないし、メイスフィールドにしみてもあくまでもオウエン・ストウの要請にそって行動しているだけだった。
「人は、肉から生まれ土に還る。しかし時に死を目前とされた多くの方々が未来の医学の発達のためにと勇気のある決断をされた。我々はそうした方々のお手伝いをしているのです」
どこをどうすればこうも一気にまくし立てることができるのかと感心するほど弁が立つ。おそらくジェラール・ゲランは一見しただけでは礼儀正しくきっちりとスーツを身につけ、愛想良く笑う善人に見えるかもしれない。しかし、それははたして上辺だけでも根っからの性悪だ。
大概の場合、悪党というものは善人より口が達者なものなのだ。
聞くに堪えない長広舌に、そろそろストウがうんざりとしだした頃、アガサ・メイスフィールドはさりげなく視線を横に滑らせると、長い足を組み替えた。
「ミスター・ゲラン。わたしはエデンの業務が違法すれすれの行為を繰り返しているということを今この場で指摘したいわけではありません。仮に、違法寸前の行為に手を染めていたとしても、今はそれを追及すべき時ではないと考えていますし、ミスター・ゲランのおっしゃる通り、お仕事の崇高さには頭が下がります」
含みを持たせたメイスフィールドの言葉に、ゲランはそっと眉間を寄せると視線をさまよわせた。
「つまり?」
問い返したゲランにメイスフィールドは数枚の写真を顔の横で閃かせた。
「……――三十年前、ロンドンで少女の死体遺棄事件ありました。ご存じですか?」
「存じ上げませんね。そんな事件、ヨーロッパ全土で何十件起こっているお思いですか?」
質問に質問で返したゲランは慎重にアガサ・メイスフィールドの瞳を覗き込むと、臨床心理学者の男はすっかり偏食してしまっただろう少女の亡骸の写真をジェラール・ゲランの目の前のテーブルの上に滑らせた。
死に顔は決して安らかとは言えない。
苦しんで死んだのだろうか。
絞め殺されたのか首には指の鬱血した痕が残っている。
全体像はさらに残虐だ。
腹を開かれ、まるで魚か動物の解剖実験かなにかのようだ。
「ひどいものですね」
数枚の写真を指でめくったゲランは興味深そうに片目を細めてから、ちらりとメイスフィールドの整った顔を見やる。
「まるで標本みたいですね、先生?」
しばらくの沈黙の後に、フランス人の男は言葉を選びながらそう告げた。
「三十年前からと先生はおっしゃいましたが、わたしもそこまで年寄りではないので把握しかねますが、このやり口は確かにプロのようで」
自分の悪事を暴かれかねないという状況に、いったんジェラール・ゲランは、用心深く計算高い知識人のジョージ・ステリーに対する攻撃の矛先を納めさせた。
余分な攻撃はヤブから蛇をつつく行為だということに気がついたらしい。
「しかも三十年前とおっしゃるなら、この女の子を解体した奴が”現役”ではない可能性も考えられるんじゃありませんか?」
ならず者が尻尾の先を出した。