15 貴き光
要注意人物――。
エリカは目線を下げてから上げた。
自宅のドアにとりつけたブザーを押すとビーッという耳障りな音が鳴った。
「あら、おかえり……?」
言いかけた母親の言葉が止まる。理由はわかっている。
彼女の背後に立つ壮年の美丈夫にエリカの母親、エイダは目をぱちくりとしばたたかせて言葉を失っていた。
「ただいま」
強引に母親を押しのけて自宅の中に入ろうとする彼女に、背後の男が言葉を投げかける。
「お母さまに失礼だろう」
「……どうしてあなたがここにいるんです?」
ともすれば不機嫌に響きがちになる彼女の声に訝しさを隠しきれないのは母親で、エリカの背後に立つ男はこともなげに微笑をたたえている。
一目見ただけでも圧倒的な存在感とカリスマ性を漂わせるその男は、どの年代の女性たちから見てもハンサムなことこの上ない。ついでを言えば、エリカの母親が驚いて言葉を失ったのは、なによりも自分の娘と釣り合いがとれる相手ではないことがすぐにわかったからだ。さらに言えば男の左手の薬指に結婚指輪がはめられていることもあった。
「えぇと……、どちら様?」
ニコニコと穏やかな笑顔をたたえながら、エリカの母親が臨戦態勢になった。
「はじめまして、ミセス・フェリル。わたしはステリーと申します。娘さんとお話しをさせていただきたくて参りました」
完全無欠の笑顔で彼が告げた。
「ステリーさん……?」
彼の名前を繰り返してエイダ・フェリルは笑顔のままで思考を巡らせている。まだ警戒は解いてはいない様子だ。
「ロンドン市内で外科医をしております」
言いながら名刺を取り出したステリーに、問題の名刺と男を見比べていたエイダはしばらく玄関先で言葉を交わしていたが「あら」と口元に手を当てて、人差し指を立てる。
そう。
ジョージ・ステリーと言えば、それなりに有名人だ。
目鼻立ちは甘すぎず、精悍な目元と薄い唇がバランスが良い。長い指は節くれ立っていて、医師を名乗るにふさわしくいかにも器用そうだった。上品で真面目そうな立ち居振る舞いの中に、わずかな茶目っ気も感じさせてそれが女性を惹きつける。
言うならば文句のつけようのない二枚目だ。
いっそ医師などしているよりもタレントかなにかになったほうが良いのではないかとエリカは思った。
確か、とエリカは自分の記憶をたぐり寄せた。
知的で、容姿も抜群のステリーは海軍の予備役で、現在も軍医としての地位にある、心臓外科医として国内外を飛び回り、リスクの高い手術の数々を行って、多くの命を救ってきた。その中には、貴族や名士たちも数多い。さらにそれらの功績をもって、昨年、王室からナイトに叙せられてもいる。
とはいえ、確かジョージ・ステリーの母方には遠縁に貴族がいたはずだ。
要するに、ステリーは一応、庶民とは言えそういった家柄の出身なのである。
「サー・ジョージ・ステリー!」
びっくり仰天と言った様子のエイダに、エリカは思わず頭を抱えた。
「こんな貧相なところへようこそおいでくださいました……?」
「だから、どうして天下の騎士様がこんな一般庶民のところに来るんですか!」
とうとう耐えきれなくなったエリカが母親のエイダを押しのけるようにして身を乗り出した。
「わたしはあなたの素性を知りたかっただけだよ。彼……――、アガサに相応しい女性かどうかをね」
「はぁ?」
*
そんなことからエリカの自宅を訪れたジョージ・ステリーは、優美に長い足を組んでから室内を見渡して溜め息をついた。
「貧乏な家で悪うございました」
「そんなことは一言も言っていないだろう。だいたい庶民の家なんてどこもこんなもんだろう」
そう告げたステリーに、エリカは彼の言葉の意味を考える。
「……どういう意味ですか?」
思うところは山ほどあるが言いたい言葉を飲み込んで、ようやくそれだけ口にする。このいかにも一般庶民の家に上流階級の人間が座っているというのも奇妙な光景だ。
「君はどこまでアガサのことを知っている?」
「ストウ警視から聞いた以上のことは知りませんがなにか?」
単刀直入に問いかけられて、エリカも簡潔な台詞で応じるとステリーは知的な光を青い瞳にちらつかせて、ことさらにがっかりした様子で息を長く吐きだした。
自分の価値観だけで他人を評価する。
金持ちは金持ちの。
上流階層は上流階層の。
成り上がりは成り上がりの。
そして平民は平民としての価値観を。
貴族と平民という、異なる階層を育み続けてきたイギリス連邦という社会の大きな歪みだ。
互いに理解しようのないもの。
生まれながらにしてすり込まれた価値観。
「彼がとある伯爵家の跡取りだと言えば君はどう思う?」
伯爵家……!
唐突な名詞にエリカは思わず背筋を正すがそれだけだ。根っから平民の出身のエリカにはいわゆる「お貴族様」のありがたみなど解いて聞かされてもさっぱり理解ができないだろう。
「だから、平民出身のわたしに博士と関わるなと、ミスター・ステリーはおっしゃいたいのですか?」
刺々しくなる声色を隠しきれない。
今時、平民と貴族の違いを突きつけられても、封建社会でもあるまいし苛立ちが募るばかりだ。
今の時代は階級の違いなど微々たるものだ。
そう思っていた。そして、それはほとんどの平民にとって大した問題ではなかった。
「そうは言っていない。君を選んだのは、ストウ警視だ。その命令をわたしが覆せるわけでもない。だが、君のことはアガサも一目で気に入ったようだし、彼と今後も関わるつもりならば、君は彼のことをもっと知らなければならない」
皮肉げだが、それなりに説得力のあるステリーの言葉に、エリカは視線を床にさまよわせると言葉を探した。確かにジョージ・ステリーの言う通り、エリカはメイスフィールドのことをほとんど知らない。
もはやなにも知らないと言っても過言ではないのかもしれない。
「お言葉の意図を理解しかねます」
おそらくエリカの返事はそれほど的外れではないはずだ。
かろうじてそれだけ言った若い女性巡査に、イギリスの現代の騎士はからりと青空のように笑って見せた。
「よろしい、正解だ」
「……ありがとうございます」
まるで腹の探り合いのようだ。
だいたい貴族の末席にあたるような男を相手にしていても肩が凝るというのに、さらにストレスにしかならない議論を続けるのも胃に穴があきそうだ。
こんな場違いな男には早々にご帰宅願いたい。
そう思ってエリカは追及の深度を鋭くした。
「博士の助手として指名されたのはわたしの意志ではありません。ミスター・ステリーがわたしを不適格と考えられるのでしたら、ストウ警視に直接苦情を言っていただけませんか?」
然るべき階級に生まれた人間には、然るべき階級の生まれの助手が必要だと考えるのであればそうすればいい。
暗にそう告げるエリカの攻撃的な発言は、ともすれば致命的なものになるかもしれない。それでも我が物顔の高圧的な男の態度が気に入らなくてエリカは若さ故の無謀さで切り込んだ。
「君はただのしがない勤め人だろうからね、決定権などないことはわかっている。それに、君はわたしの正体を知っても及び腰にならなかった。それだけでも大した度胸だ」
ぬけぬけと言われてエリカはこめかみに青筋を浮かべた。
どこまでも人を馬鹿にしている。
そもそも母方が貴族に遠縁を持つとは言え、昨年に騎士に叙されたばかりのジョージ・ステリーと、伯爵家の後継者であるアガサ・メイスフィールドでは、どこからどう見ても釣り合いのとれない関係ではないか。
そんなステリーの発言の矛盾に気がついたエリカがもの言いたげな眼差しを放つと、胸の前で両手を開いてからジョージ・ステリーは不遜に笑った。
「君はなにか勘違いをしているようだ。アガサの生まれはわたしと何ら変わらない貴族の末裔だよ。たまたま、ある事件を解決して身寄りのない女伯爵が彼を気に入ってね。ぜひアガサを伯爵家の後継者にと彼の後見を買って出たのだ。そんなわけで、彼を”手に入れることができた”のは、後にも先にも”彼女”だけだ」
ステリーの説明口調に、エリカの肩から思わず力が抜ける。
そのやたらと複雑そうな人間関係はなんなのだ……――。
内心でぼやいたエリカに、「だから」と続けながらステリーは足を組み直した。
「君はメイスフィールド博士とこれからも関わりを持ち続けるつもりなら、彼の周囲の、わたしなどよりもずっと厄介で非常識な連中に振り回される羽目になる」
「だったらなんです?」
エリカはステリーの挑発に乗った。
だからなんなのだ、と。
その言葉の意味すら理解せずに。
「君のこれまでの価値観を、”彼ら”は粉々にするだろう。金銭感覚も、倫理観も、もちろん正義もなにもかもを。君は、まだ自分に迫っている危険に気がついていないのだよ」
彼女の全てを粉々にする危険にエリカはまだ気づいていないのだ。
「昔もアガサに関わった女性たちがいたものだが、そのほとんどが自分自身を見失ってしまったのだからな。深入りするつもりはないというなら、そういうことにしておけば良かろう。だが、彼という存在は君ら”平民”たちにとっては強すぎる毒なのだからね」
――彼が自分自身という人間の自覚がないのが悲劇的だが、薬も過ぎれば毒となる、と言うではないか。