13 支配と服従
特別な感慨を感じさせない表情のまま、アガサ・メイスフィールドはコーヒーのカップに口をつける。そんなメイスフィールドの横顔にステリーは黙り込んだ。彼はその辺の馬鹿な女たちとは違う。
もちろん、同性として彼を理解できるかと言われれば、それはそれでひどく難儀すぎる。それでもステリーの財産にしか関心がなく、着飾ることにしか興味のない女たちなどより、メイスフィールドの知的な魅力は比べるべくもない。
ちらと窓の外を眺めてジョージ・ステリーはさりげなく路肩に立っている娘を眺めるとほくそ笑んだ。
”彼女”は彼が尾行に気がついていることも知っているだろう。
おそらく、アガサ・メイスフィールドはエリカ・フェリルという娘の鋭さに気がついている。彼女のほうは厄介なおかま学者を押しつけられたとでも思っているようだが。
ステリーがエリカに気がついていないことが重要なことなのではない。
待ちを行き交う人々に不審を持たれることを警戒しているだろう。彼女は新米であるとはいえ、メイスフィールドが見込んだ刑事なのだ。
だからエリカは少なくともステリーをまくつもりはないのだ。
彼のその無欲さが、ヨーロッパの資産家たちを惹きつけた。
けれども、いざとなればそれらを行使することに疑問を持ちもしない。
着飾るためではなく。
権力を誇示するためでもなく。
また、虎の威を狩るわけでもない。
かつてのように、著名人であり資産家でもある彼らをかけらも利用しようともしなかった。どこまでも対等な関係を彼らと構築している。メイスフィールドが彼らの力を借りようとするときは、難事件に向き合う時で、普通に捜査すればほぼ確実に迷宮入りするだろう。
メイスフィールドに助けられた人間たちが、メイスフィールドの人柄に惚れ込んで彼を支援しているというだけで、「自分たちと同じ境遇の者たち」に救いの手を差し伸べようとするアガサ・メイスフィールドを放っておけなかった。
私利私欲に走ることもなく、彼はただ真摯に事件と向き合った。
三十年前――。
ステリーもメイスフィールドもまだ子供だった。
しかしそのセンセーショナルな事件は忘れもしない。かつては倒錯した猟奇的な殺人とは、アメリカ合衆国独特のものであると考えられていた。ソビエト連邦の警察官僚や学者達も「そう」思っていたように。しかし、似たような事件がロンドンで発生したことにより、イギリスの国民たちに大きなショックと強い恐怖心を植え付けるに至った。
しかし、人間とは慣れる生き物だ。
やがて進展しない事件の捜査に、人々は関心を失い事件や結果的に迷宮入りした。
人権保護などとヨーロッパ人は声高に唱えるが、現実はそうではない。
有色人種、もしくはラテン・ヨーロッパ人に対する差別的な優越感は、実のところ数十年前の全世界を巻き込んだ大戦争の頃から変わりはしないのだ。
「ストウから聞いたよ、アガサ」
長い沈黙を挟んで、ジョージ・ステリーはぽつりと呟いた。
「児童誘拐事件」
言われた言葉にメイスフィールドは視線だけを上げる。
「どうせあなたがオウエンから聞き出したんでしょう?」
一般庶民が考えるよりもずっとステリーたちの権力の及ぶ範囲は大きい。
「ホルマリン漬けの子供の死体、か。”悪趣味”だな」
デスクに頬杖をついたステリーはそっと片目をすがめてから窓の外に立つエリカを見やった。
「わたしはまだ学生だったが、よく覚えているよ」
ショッキングな事件だった。
「”でもどうして捨てたのかしら”?」
「わざわざホルマリンで漬けたのに?」
「えぇ」
あなたならどう思う?
深くソファに腰を下ろしたアガサ・メイスフィールドは長い足を組み直してからじっと目の前の中空を見据えると唇に人差し指を当ててじっと考え込んだ。
「……――さて、人殺しの考えることは理解できないが、ホルマリンに漬けたということはそうした流通経路を押さえているということだろう。そしてわざわざホルマリンで漬けたと考えれば保存を想定していたというところなんだろうが、死体を保存したいっていう男の気持ちなんぞわかるわけがない」
「……犯人は女かもしれなくってよ?」
「男だろう?」
ばっさりとステリーは切って捨てた。
「三十年前の被害者の少女たちの写真をたった今ファックスで送ってもらったが、どうやら一定の”好み”もあるようだ」
「でも、三十年前の事件の被害者は有色人種。今回の事件は白人。あなたが勘ぐるような一定の好みなんてどこにあるのかしら?」
まるで試すようにメイスフィールドが言葉を綴ると、ステリーは自分のデスクについたままでファックスで送られた写真を凝視する。
「被害者の年齢は過去の事件と現在の事件と比較して、過去の事件のほうが若干年齢が高めだが、それは昔の事件の被害者が有色人種だからだろう。少なくとも白人の同じ年齢の子供と比べて幼く見える。”彼”はこのくらいの年頃の女の子が好みなんだ」
年齢は十歳程度。
過去にあった殺人事件の被害者はいくつか年上だが、それは人種の違いから生じる誤差だ。
「今回、ストウが目をつけた児童失踪事件の被害者も同じ年齢だろう。全く理解できない異常性癖だな」
軽くファックスの写真をたたいたステリーは、ぐるりと椅子を回してソファに腰を下ろしたメイスフィールドを見据えると唇の端をつり上げる。
「”コレクション”」
ステリーが言い切った。
断言した彼にメイスフィールドはさっと立ち上がる。
「そう。……――支配と服従。その極地があなたの言う”コレクション”なのよ」
まだ事件の全貌はわからないが、そこにつきまとうキーワードははっきりした。
「ジョージ、あなたみたいな”まとも”な男なら、男の原始的な欲望は理解できるでしょう。”アダム”は実験に実験を重ねて、完全犯罪を完成させたの」
「そうだな、それがたとえどんなに倒錯的であったとしても、多少は理解できるかもしれない。わたしも、君を支配したいと思っているのだから」
そう。
アガサ・メイスフィールドという男を手中にすることはヨーロッパに君臨することだ。
彼の心を捉えたという事実が、ジョージ・ステリーを帝王の座へと押し上げる。
「あらあら、口ばかり上手なんだから。わたしなんかより、いっそ”女王陛下”のロイヤルマークでももらったほうが良いんじゃなくて?」
「……――わたしはものではない」
皮肉げなメイスフィールドの言葉に、ステリーもこれまた皮肉げな答えを返した。
自分のことは「もの」ではないと言いながら、メイスフィールドの存在をステータスシンボルとしていることの矛盾にどちらも言及しない。
群れの頂点に立とうとするオスの習性をステリーは否定しなかった。
「ゲイだと思われるからそういう態度は慎んだほうがいいわ、ジョージ」
「別に君が相手なら一向に構わないが」
さらりと言葉を返してから、ステリーは窓外に視線を放つと言葉を続けた。
「帰りはあそこにいるエリカさんに送ってもらうから、あなたに手を煩わせないからお仕事に戻って」
「いや、君のことが面倒だなんてわたしが思うわけないだろう?」
まるで恋人同士の睦言のようにも聞こえるステリーの言葉に、メイスフィールドは軽く片手を振った。
「君がわたしを頼ってくれることなんてそうそうないのだからな。それに、ここ最近はヨーロッパ大陸の連中にしてやられてばかりだ。せっかく君がイングランドに帰ってきたときくらい独り占めしたって罰は当たるまい」
「……狙撃、したのはあなたでしょう」
「彼女は君のことを知らなさすぎる。少しばかり痛い目をあったほうが良い」
素っ気なく肯定するステリーに、アガサ・メイスフィールドは唇を尖らせた。
「本気で怒るわよ」
じろりとメイスフィールドは緑の瞳ですくいあげるようにステリーを軽く睨み付けると、五十代の外科医はそんな彼に弱った様子で肩の辺りで両手を上に向けて降参ポーズを取ると目尻を下げて大きな溜め息をついた。
「少し冗談が過ぎたようだ、申し訳ない。それで、彼女は見所がありそうなのかな?」
デスクから離れると、立ち上がったメイスフィールドに大股に歩み寄りながら問いかける。
「わからないわ。でも、オウエンは見所があると思っているのだと思う。ただ、今まで彼が手がけてきた猟奇殺人を考えると、もしかしたら使い物にならなくなるかもしれない」
警官として。
刑事として。
彼女は全てを失うかも知れない。
オウエン・ストウの手がけてきた事件はそう言う類だ。