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Another code 【伯爵家の後継者】  作者: sakura
第一章 手繰る真相
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12 それぞれの思惑

 その黒い高級車の運転席に座るのはジョージ・ステリーだとエリカは思った。彼女は人の顔を覚えることには誰よりも長けている。だからエリカにはすぐにわかった。彼はオウエン・ストウに紹介された医師である。

 国内屈指の心臓外科医が暇をもてあましているなどと聞いたこともない。

 そんなエリカの思考をよそに、ふたりの男は親密に言葉を交わしている。長身で盛りを過ぎた中年男性とは思えない体格のジョージ・ステリーは金髪碧眼が印象的で、一方のアガサ・メイスフィールドのほうは痩せすぎてもいないが、肥満気味か肥満予備軍という体格でもなく、どちらかといえば少し病的な青白い顔が印象的だ。

 とりあえず健康的とはとても言えない肌の白さと目の下の隈がより強く目を惹きつける。

 そんなステリーはどこまでも紳士的な笑顔で、助手席に向かってかがみ込むようにして話し込んでいるメイスフィールドの手首を軽く掴むとやや強引に車内へと引きずり込んだ。

 いたずらっぽいジョージ・ステリーの笑顔はエリカには見えない。

 見ようによっては恋人を車に引き入れるようにも見えて、エリカは眉間のしわを深くして舌打ちをする。これが百戦錬磨の女刑事たちならば、単にからかわれているだろうことに気がつけたのかも知れないが、残念なことにエリカにはそう瞬時に判断するだけの余裕がなかった。

「後をつけられているようですが、構わないのですか?」

 皮肉げにステリーが言葉を綴った。

「一生懸命な女の子はいつでも魅力的だと思わない?」

「なるほど、ではせいぜい勘ぐっていただこうか」

 人の悪い笑みをたたえたステリーは、助手席に引き込んだメイスフィールドの頬に触れるだけのキスをした。

 しかもわざと見せびらかすように。

 ステリーにしてみれば新米警官など煙に巻くことは朝飯前だ。

 そんなものよりも、彼が警戒したものは別にあった。

 アガサ・メイスフィールドという男を中心にして、ヨーロッパ各地から多くの名士たちが権力の拡大のために手ぐすねを引いている。彼は権力を誇示するためのアクセサリーのひとつでもある。

 たとえば芸術家や科学者、美女たちが名士たちにとってアクセサリーとなるように。

 アガサ・メイスフィールドもまた、彼らにとって自分の権力を誇示するための道具なのだ。どれだけメイスフィールドの心を開かすことができるかということこそ、ジョージ・ステリーにとって有意義なことだった。

 彼を巡って熾烈な権力争いが繰り広げられている。

 だから、小娘など取るに足りない。

 ジョージ・ステリーにとって、エリカなど若いだけの乳臭い小娘なのだ。

 バックミラー越しにエリカの車を眺めてから、ステリーは表情を改めた。

「ところで」

 ようやくバックミラーからフロントガラスのむこうがわに視線を移したステリーは、鋭い刃物のような双眸を横に滑らせてから口を開く。

「アガサ、君のほうからわたしに連絡を寄越すとは珍しいこともあるもんだな。なにか困ったことでも?」

 メイスフィールドには取り巻きが多い。

 ことさら彼のほうから連絡をしてくることなど、まずないと言ったほうが良いだろう。アガサ・メイスフィールドは、常に追いかけられる側の人間で、彼のほうから誰かに固執することはない。

 後ろも振り返らずに、ただ、メイスフィールドは風のように吹き抜けていくだけだ。

 そんな彼が自らステリーに連絡を取った。それ故に、心臓外科医の男はすぐに事態の重大さを察して時間を空けたのだ。

「仕事が入っていたんじゃない? 迷惑を掛けていなければ良いのだけど」

 控えめな口調で臨床心理学者は呟いた。

 本当に。

 彼の仕草も、心遣いも少女のようだ。

 その繊細な心をいったいなにが、凄惨な事件の数々を前にして支えているのだろう。

 なぜ彼はこれほど病的な覚悟で、残酷な事件と向き合うのだろう。

 なにが彼をかきたてているのか、それをジョージ・ステリーにはわからない。

 心の奥深くに存在する、薄いガラス細工のような世界はステリーにとっては門外漢だ。

「なに、大したオペではなかった。若いのに任せてきたから心配はいらない」

「そう。……なら、良いのだけど」

 歯切れの悪いメイスフィールドに、ステリーは口元を引き締める。

「わたしの質問にも答えてほしいものだが……」

 いつもどこか的外れな言葉を口にするメイスフィールドだが、それを鬱陶しいとはステリーは思わない。これが、その辺の街娼であれば問答無用で殴り倒していたかも知れないが、メイスフィールドは街娼ではなくステリーが心酔する学者だ。

 だから詰問するような真似はしない。

 彼に嫌悪の眼差しを向けられることは心が痛んだ。

「三十年くらい前に、テムズ川の河畔で見つかった遺体のことを覚えてる?」

「死体というだけではな。どれがどれやら」

 しかも「三十年くらい前」という情報だけでは、想像の仕様がない。

 ジョージ・ステリーが困惑したように左右にかぶりを振ると、窓に肘をついたメイスフィールドが物思いに沈むように睫毛を伏せてから数秒の間を置いた。

 彼の言葉を急かしてはならない。

 同じ医師という職種にありながら、片やはメスを振るう医師であり、もう片やは人の精神に自分の頭脳と言葉だけを頼りにして切り込んで行く医師だ。

 専門として扱う分野がまるで違った。

「ほら、あれよ。とてもきれいな解剖をした少しホルマリンの残っていた……」

 そこまで言われてステリーは「あぁ」と相づちを打った。

 発見された死体は二体。どちらも幼い少女のもので、どうやらホームレスの子供か移民の子供のようだった。凄惨な事件は当時は話題をさらったが、被害者が有色人種であったことと、捜索を依頼してくる関係者がいなかったことから、捜査はやがて行き詰まり、そのまま迷宮入りになった。

 一説には犯罪組織や、暗黒街に属する医師の犯行ではないかとも囁かれたが、結局、容疑者は挙がらずに事実上、迷宮入りした。

 三十年ほど前の話だ。

「”似たような”死体でも出たのか?」

「お医者様なのに冷たい言い方をするのね」

「それはすまない。だが、生かす命と、見捨てなければならない命、そして助からない命に対する敬意は払っているつもりだ。アガサ」

「……ごめんなさい、嫌な言い方をしたわ」

 金色の睫毛を日差しにキラキラと輝かせて、緑色の片目をすがめたメイスフィールドに、ブルーの瞳をしばたたかせるのはステリーのほうだ。

 世間の話題をさらった少女に対する殺人事件は、ステリーもメイスフィールドも第一線で活躍するより前の話だ。どちらかと言えば、ふたりにとっても噂話や都市伝説の類に近い。

「隠居した年寄り共に聞けば、その辺りの話は出てくるかも知れないな」

「それで、あなたを見込んで力になってもらいたいのだけど」

「もちろん。なんなりと」

 メイスフィールドの言葉の続きを待たずにふたつ返事で快諾したステリーは、ハンドルを握り直して自分の務める病院の地下駐車場に車を留めた。

 そのままメイスフィールドを伴って自分の研究室へと向かう。

「……――その手の筋の、専門家の伝手(つて)はないかしら?」

「標本業者を紹介してほしいと?」

 ステリーのオフィスのソファに腰を下ろしたメイスフィールドが尋ねると、率直な言葉を返した外科医は数秒考え込んでから肩をすくめた。

「まともな仕事をしている連中ではなく、という意味なら少しばかり時間がかかる」

 しかし、ステリーに迷いはなかった。

 たったそれだけで、メイスフィールドに頼ってもらえるならば安いものだ。

 なによりも、「まともな仕事」をしていないからといって、それがそのまま違法なやり方というわけでもない。

 限りなく違法に近いやり方を、違法とは呼べないきわどいところで商売をしている人間もまた存在しているというだけのことだ。

 わずかに言葉を濁したステリーに、ホッとしたような笑顔になったメイスフィールドに、彼よりも少しばかり年上の心臓外科医は自分の椅子に腰を下ろしたまま視線を頭上に上げると考える。

「お返しと言うわけではないが、君にわたし専用の携帯電話を持ってもらいたいのだが」

 メイスフィールドの心は金で買うことができない。

 多くの名士たちがそうするように、多額の資金を彼の生活や研究に援助したとしても、彼の心は決して揺らぐことがない。

 そうしたメイスフィールド独特の気負いのなさが、多くの資産家の心を引き寄せる。

 人でありながら、人として本来はたどり着くべきではなかった究極の場所へ、行き着いてしまった彼の魂に惹きつけられた。

 愛人を囲うこととはまた違う優越感。

 ステリーは内心でひっそりと笑った。

 彼――メイスフィールドは、決して好意を持つ人間の善意を拒むことはない。

 それをジョージ・ステリーは知っていた。

「わたしなんかをあなたのテリトリーにいれても、何も特にならないわよ」

「君はそんなことを理解しないでいい」

 ぴしゃりとステリーは告げた。

 彼はステリーにとって至高のステータスシンボルなのだ。

 美人でスタイルが良いだけが取り柄の馬鹿な女たちなど話にならない。

 何人囲ったところで、馬鹿な女は馬鹿な女でしかない。

「君には君の価値がある」

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