11 疑惑
「相違点なんて、ピックアップしていってもキリがないからやめておきなさい。犯人だってそんなに馬鹿じゃないんだから」
捜査資料に目を通していたエリカの内心を見透かすように、不意にアガサ・メイスフィールドがそう言った。
「……はい」
もっとも、そんなことを言われてみても、意味がさっぱりわからないエリカは目を白黒させるばかりだ。この博学な心理学者はいったいなにをどこまで見通しているのだろう。腑に落ちない表情のままでメイスフィールドの言葉に素直に従っている若い娘に、男のほうは目尻をおろす。
いつもそうだ。
自分はこんな顔をしてばかりだ。
そんな思いがすでに自嘲であるのか、もしくはそれ以外の感情であるのか。そんなことさえもはやメイスフィールドにはわからなくなる。
人というものは自分の力を過信して、相手の力を見誤ることが往々にしてあるものだ。それをアガサ・メイスフィールドは愚の骨頂だとさえ思う。それこそ高い知能を持つ凶悪犯罪者たちの手のひらの上で転がされる事態だろう。
穏やかな彼の仮面の下で、彼はなにを考えているのだろう。
それとも、穏やかな彼の瞳に世界はどう映っているのだろう。そんな他愛もないことを考える。
きっと彼はエリカが知らない世界を見ているのだ。
同じ風景を、違う色彩で。
書類の上からわずかに盗み見るようにして、何のさざ波さえたたえていないメイスフィールドの顔を凝視すると、そんなエリカをお見通しだとでも言わんばかりに、口元だけでほほえんだ。
重なった視線にエリカはなぜかバツが悪くて目をそらす。
「あなたは、アメリカならヨーロッパよりもずっと多くの凶悪犯罪が発生していると思っているんでしょうね」
「違うんですか?」
「実情は、余り変わらないものよ。何千年も昔から年寄りが”今の若い者は……”ってぼやいていたのと同じ。わたしがそう言われていたように、あなたも言われている。時代とか社会なんてそんなものよ」
そこに生きる人々は、そうそう変化などありはしない。
思想とは社会に形成され、それを土台として人の性格などが構成される。
宗教や政治思想、個々の性格などはあくまでも社会に対応して形成されるものに過ぎないのだ。
「ヨーロッパやアフリカ、アジア各国の雑多な思想が混ざり合って、今のアメリカという社会が造られているの。だからこそ、今のヨーロッパの事情は決して他人事というわけじゃないわ」
ヨーロッパから逃れた負け犬。
愚鈍な連中が支配するアメリカという、まるでならず者のような国家。
それが古くからアメリカに対する強烈な優越感を支えていた。しかし、そんな優越感をくだらないとメイスフィールドは思った。
少なくとも、アメリカ合衆国には、人種の坩堝と言われるほど多くの人種を抱え込んでいるが故に、その解決のための能力は少なくともヨーロッパ大陸よりも百年は進んでいると考えた。
アメリカという若い国は、もがき苦しんで今の形を作り上げたのだ。
ヨーロッパ大陸を股に掛けて彼はいくつもの残虐な事件に遭遇してきた。
イギリス連邦屈指の心理学者とも呼ばれながら、彼の繊細な精神は妻を失って以来、危機的な状況に何度も直面した。しかし、メイスフィールドのしなやかな強さはそんないくつもの場面に遭遇しても尚、心神喪失状態に陥ることはなく、暖かみがあり、他者が一目置くほどの人柄であり続けてきた。
満身創痍で事件に立ち向かいながら、心理学者として患者に常に最高の医師であり続けてきたことこそ、メイスフィールドの周りには、その取り巻きが耐えることがなかった。
アガサ・メイスフィールドは常に暖かく、誰よりも誠実だ。
どんなに自分が危機に相対したとしても。
いっそ、そんな彼こそがどこかに「正常な人間としての感性」を失ってきてしまったのではないかと思えるほど、彼は「聖人じみて」いた。
穏やかで優しく、それ故にどこか危なっかしさも秘めている。
黙々と資料に目を通していたメイスフィールドは、やがてからになったコーヒーカップを片手にして、もう片方の手にファイルを持って立ち上がった。
時はすでに昼時だ。
「ちょっと出かけてくるわ」
金色の頭を少し傾けて彼は言う。
どうやら「ちょっと昼食へ」という雰囲気ではなさそうだ。
「ご一緒します」
ただでさえオウエン・ストウからは彼の警護に手抜かりがないようにと言われている。世捨て人にも似た坊主のように俗世からかけ離れたアガサ・メイスフィールドをたったひとりで外出させるわけにもいかない。
なにかがあれば責任を問われるのはエリカなのだ。
そんなわけで、彼女が申し出ながら立ち上がると、メイスフィールドは「ダメよ」と、相変わらずの調子で緩やかに左右にかぶりを振ってからそう告げた。
のれんに腕押し、糠に釘。
どうあがいても太刀打ちできない見事な受け流しにエリカは閉口した。
「なにか突き止めたんですか?」
しかし往生際が悪く、簡単には引き下がらないのはエリカの警官としての美点だった。食らいついたら離さない執拗さで、エリカは顎を突き出した。
負けるもんか――。
そんなエリカの意志の強さを感じさせる仕草だ。
自分よりも二回りも違う娘の強いヘイゼルの瞳を受けて、アガサ・メイスフィールドはふわりと笑った。
これが美少女の笑顔だったらどんな相手でも射止めることができそうだと、割とどうでも良いことがエリカの頭をよぎる。
だが残念なことに上品な仕草で、天使のような笑顔を浮かべるのは十代の少女ではなくて、四十代のおじさんではとりあえず一見した気持ち悪さのほうが先に立つかも知れない。
「不確かなことを警官のあなたに伝えることは余り好ましいことだと思えないのよ」
控えめな表現で言ったメイスフィールドに、娘のほうは「でも」と真剣な瞳で奥歯を噛みしめると負けじと異論を唱えた。
「わたしは博士の護衛も任されているんです。任務を放り出すことはできません」
きっぱりとした口調に、メイスフィールドは睫毛をしばたたかせる。
「子供が大人の”火遊び”にくちばしを突っ込むものではなくってよ」
「子供扱いしないでください!」
メイスフィールドの言葉にカッとなった。
とっくに成人しているし、自分では大人のつもりだ。
「ほら、そうやってムキになるところなんて子供の証拠よ」
そっとエリカの上がった肩を戻しながら臨床心理学者の男は、こつりとこれまた上品に靴音を鳴らした。
女のエリカが憮然とするほどアガサ・メイスフィールドは品が良い。
「大人の世界を覗き込むには、あなたにはまだ経験が圧倒的に不足しているわ。だから、ダメ」
有無を言わせない強さでそう告げるとメイスフィールドは、歩きだしながらスーツのポケットに放り込んでいた古くさい携帯電話を取りだした。
何十年前の中古品だと突っ込みを入れたくなるほど古くさい。
そんな古びた携帯電話を耳に押しあてながらそれほど大きくもなければ小さくもない声で、電話の相手と言葉を交わしている。
「そう、今から」
――えぇ、車の手配をしてくれると助かるわ。ジョージ。
別にエリカが聞き耳を立てていることにさえどうでも良いという様子で、話ながら廊下を歩き去っていく。
つくづく奇特な臨床心理学者の頭の中を覗いてみたいと思うエリカだった。
メイスフィールドは電話相手を「ジョージ」と言った。彼女の判断に狂いがなければ電話の相手はオウエン・ストウに紹介された医師のジョージ・ステリーだろう。彼がそれなりに親しい相手だろうと言うことは、メイスフィールドの言葉の端々からエリカに伝わっていた。
本当に同性愛関係じゃないのか? と不愉快なものさえ一瞬感じたが、そうした私情を任務から切り離して、エリカは頭を切り換えた。
仮にジョージ・ステリーとアガサ・メイスフィールドが同性愛関係にあったとしても、エリカは彼らにとって赤の他人だし、どうでも良いことだ。だから仕事に集中すればよい。
警察署の前で迎えの車を待っていたアガサ・メイスフィールドの「追跡」のために上着を片手に駆け出した彼女は自分の車のキーを乱暴にひったくった。
連れて行ってもらえないのであれば食らいつけば良い。
それがエリカの領分だ。
任務から彼女は逃げ出したりはしない。
どこまでもスッポンのように食いついたら離れない。