10 忍び寄る気配
翌日、エリカは少し早めにオフィスに入った。
朝の七時半。
すでにオフィスは人の気配があって、扉からは人の声が漏れている。
オウエン・ストウとアガサ・メイスフィールドだ。すぐにわかった。当然のようにオフィスに足を踏み入れようとしてドアノブに手を伸ばした女性巡査は穏やかに響く低い声に、思わず動きを止める。
別に後ろめたいことがあるわけでもないが。
「どうせあなたのことだから、挑発に乗ってしまったんでしょう」
穏やかだが確信めいた物言いをされたオウエン・ストウの苦笑した気配が扉の外のエリカにも伝わった。
「どうせ、という言い方はあんまりじゃないか」
「わかっていますとも」
まるでメイスフィールドはストウの女房役のようだ。
「人質の女の子が危険だと知った、あのときのあなたも”そう”。オウエンは誰よりも正義感が強くて、悪人を許せない。だからあなたはいつでも守るべき人たちのために体をはるのよね」
「別に、俺はそんなつもりじゃ……」
口ごもったストウに、臨床心理学者は軽やかに笑った。
「いいんじゃない? そういう人がいないとお話にならないわ。わたしみたいに斜に構えて、世の中の善意が素直に信じられない人間よりずっといいわ」
「何を言っているんだか。だいたいおまえが”良い奴”じゃなかったら、連中はおまえのためにあれだけの大金を払わないだろう」
男ふたりの会話が聞こえてくる。
大金という言葉に小首をかしげた。
そう……!
大金を持っているはずなのだ。アガサ・メイスフィールドという男は。飛行機に乗る際も顔色ひとつ変えずに、何の疑問も持たずにファーストクラスのチケットを取った。あげくのはてに彼の財布に入った何枚ものクレジットカードと、札束を見てしまえば金を持っていないと考えないほうがおかしい。
もっとも彼の持ち物は例外なく使い込んだものばかりで決して大金にかこつけた浪費癖があるわけでもなさそうだ。
ファーストクラスなんてとんでもない、とエリカが右往左往していると、これまたなんでもない顔をして高額のチケットを手渡してきた。とてもエリカが顔色を変えずに受け取ることなどできない高額の旅費にメイスフィールドはにっこりと笑った。
「わたしがわたしの都合で使うんだから、別に誰も文句なんてないでしょう?」
その金はいったいどこから出ているんだ?
エリカはそう思った。
「わたしがわたしの都合でお金を払ってあなたにチケットを取ってあげたんだから、別にあなたが飛行機代を負担する必要なんてないのよ」
どうやらその辺のけちな金持ちとは訳が違うらしい、ということも、ここ最近ではなんとなくわかってきた。
「人の頭の中を覗き込む悪趣味なことを専門分野にしているわたしなんかを、あなたの懐にいれないほうがいいって言っているのよ。あなたはとても良い人だから、すぐに人を信用しすぎてしまう。わたしはそれが心配だわ」
そんなこと俺に言われてもな……。
朝の静けさを引き裂かない程度に穏やかなやりとりをしばらくドア越しに聞いていたエリカは、ややしてから意を決したように扉のドアノブを回した。息を吸ってヘイゼルの瞳を開く。
彼らに圧倒されてはいけない。
上司のストウだけではなく、メイスフィールドの瞳にも、思わず飲み込まれそうになる。とはいえメイスフィールドのほうは若い娘を威圧しているつもりなどないのだろう。ただ、その静けさに満ちた存在感に圧倒された。
「おはようございます!」
「おはよう、早いのね」
「おはよう」
ストウとメイスフィールドは昨夜と同じスーツのままだ。ということは、ふたりの中年男は自宅に帰っていないのだろうか?
エリカの挨拶に、メイスフィールドに続いて言葉を投げかけたオウエン・ストウは渋い顔をしたままでコーヒーカップを手にしている。しかしなんでまたストウがそんな顔をしているのだろう、とエリカが部屋を見渡せば大きな会議用のテーブルの上には、デジタルの記録媒体から、アナログの記録まで。ありとあらゆる記録という記録が揃っている。どうやらオウエン・ストウが権力を濫用してメイスフィールドの言う捜査資料を集めさせたものらしかった。
「しかし、歳のせいか徹夜は全くこたえるな。あんまり年寄りをこき使わんでくれよ、アガサ」
「埋め合わせはそのうちに」
やれやれと溜め息をついてコーヒーカップの中に注がれていた緑色の茶をすすったストウはますます渋面になって、なにかが上司の機嫌を損ねたのではないかとエリカはいらぬことに気を揉んだ。
余りイギリスでは馴染みのない茶だが、博学なメイスフィールドのことだからさすがにストウに振る舞ったものが毒物というわけでもなさそうだ。しげしげとエリカがオウエン・ストウの手の中のカップの液体に視線を向けていると、見慣れないティー・ポットを指先で触れてから心理学者は目尻をおろした。
「日本のお茶よ。徹夜明けで眠そうだったから、オウエンにいれてあげたのだけど、あなたも飲む?」
「い、いえ……。……いただきます」
いらない、と言いかけてエリカの脳内を狙撃された悪夢が蘇りかけて、素直にメイスフィールドの申し出を受け入れた。
そんなことでアガサ・メイスフィールドという男の「取り巻き」の機嫌を損ねてあの世行きの特急列車にでも乗せられたらたまらない。
「埋め合わせは、家内も一緒だと”あれ”も喜ぶな。君は良い別宅を沢山持っているからな」
「メアリーは田舎よりも都会でお姫様みたいな体験をするのが好きだったわね、わかったわ。ローマの別荘なんてどうかしら? オードリー・ヘップバーンの映画みたいで喜ぶんじゃない?」
ヨーロッパ中を飛び回っているらしいアガサ・メイスフィールドは、いったいいくつの別荘を持っているのだろう。
聞いているだけで頭痛がしそうなふたりの会話に、一般庶民を地で行くエリカは引きつった笑顔を浮かべていた。
大金が有り余っていることと、それを使うことに疑問を持っていないメイスフィールドと、そんなメイスフィールドの扱いに慣れているらしいストウはどうにも世間離れした会話を平然と交わしている。
要するにメイスフィールドのパトロンの金で、オウエン・ストウも遊んでいるということになるのだろうが、それはなんだか恐ろしくて聞くに聞けなかった。エリカは素朴な一般庶民だ。
王侯貴族のような贅沢とは縁がない。
捜査資料に埋まるようにして溜め息をついたエリカは、視界の端でオウエン・ストウがひらひらと肩の上で分厚い手のひらで振ってからメイスフィールドとエリカの前を出て行った。
「……徹夜明けなんですか?」
上司が出て行ったのを確認してから小さくエリカが問いかけた。
「そうよ、オウエンはね。わたしはたまに寝ていたけど」
「……そ、そうですか」
メイスフィールドが好意でいれてくれただろう日本茶をすすりながら片目を上げる。この臨床心理学者とやらがいったいなにを考えているのかわからない。命令だから、公人としてその任務を忠実に取り組んでいるが、つい数日前まで平凡を絵に描いたような人生を送ってきたエリカにとってメイスフィールドは正体不明すぎた。
ゆったりと午後の紅茶を楽しんでいるかのような優美さで頬杖を突いて過去の未解決事件の捜査資料をめくっている四十代の男は口元にかすかな笑みをたたえてさえいる。
黙っていれば二枚目だ。。
それは言うまでもない。
せっかくハンサムなのにもったいない。
書類越しにちらりとエリカはメイスフィールドの整った顔立ちを盗み見た。
「なに?」
「なんでもありません」
「あんまり男を物欲しそうに見るもんじゃないわよ。悪い男が寄ってくるわ」
「……もっ、物欲しそうってどういうことですか!」
メイスフィールドのさりげない言葉に思わず肩を怒らせてテーブルを両手をたたきつけるようにして立ち上がったエリカに、上品に笑った男は若い娘の激情を笑って受け流した。
「他の男はごまかせても、わたしの目はごまかせないわよ。だから充分気をつけなさいな。赤ずきんちゃんは、悪い狼さんの獲物にされてしまうから」
ことさらに声を潜めて告げたメイスフィールドの物言いに、エリカは自分の中にある迷いを取り繕うように視線をさまよわせた。
アガサ・メイスフィールドの目をごまかすことなどできはしないのかもしれない。なんだか急に気恥ずかしくなって目のやり場に困ったエリカは睫毛を伏せた。