9 善悪の知識の木
人間関係を円滑にすすめるために必要なことは相手を尊重し、そのテリトリーを必要以上に侵害しないことだ。
もちろん、時と場合による。
卑屈になるわけではなく、自虐的になるわけでもなく、時には勇気を持って相手と対峙しなければならない。
それが責任ある立場にいる人間に必要とされる資質だ。
ロンドンでメイスフィールドとストウが組んだのはすでに二十年ほど前の話になる。
当時はメイスフィールドは駆け出しの心理学者で、オウエン・ストウとは四六時中衝突した。そもそも学者と刑事とでは物事に対する考え方から受け止め方に至るまで、何から何まで清々しいほど食い違ったというのもふたりがぶつかった理由なのかも知れない。もしくは、若く活力に溢れていたからだろうか。理由など、後になって考えれば掃いて捨てるほど存在していた。
今のメイスフィールドを知る者にしてみれば、人当たりが良く穏やかで、暑苦しいほど正義感に溢れたオウエン・ストウとこれほどウマが合う人間は居ないだろうとも思うだろうが、ふたりは出会ってこのかたトラブルを抱えたことがないわけではない。
オウエン・ストウとアガサ・メイスフィールドはそんな関係だった。
「仮に、この児童誘拐事件が異常者による凶悪事件であれ、ただの失踪事件であれ、解決するのはわたしじゃないわ。あなたたちなのよ」
神妙な顔つきでそう言ったメイスフィールドにエリカは無意識に頷いた。
高名とは言え、客人である心理学者に正式な逮捕権などあるわけもない。
今まで完全犯罪をやり遂げてきた「容疑者――アダム」の今回の犯行について、メイスフィールドはひどく挑戦的な自己顕示欲を感じ取った。
今までの犯行は安全に行われ、結果的に完全犯罪として成立していた。しかし、今回の一件は異なるケースだ。警察関係者の人間の子供を狙うということは、簡単に言えば、捜査する側――この場合は警察そのもの――を敵に回すと言うことだ。
少なくとも、狩られる側である容疑者にとって、その関係者を標的にすると言うのは、それだけでもリスクが跳ね上がるはずだ。
アダムは、計画の完全な実行ではなく、リスクを取った。
その危険性をメイスフィールドは冷静に計算する。
なにを考えているのか。ロンドン市警はアダムの行動を単純な挑発だと考えるかも知れない。もちろん、それもあるだろう。だがそれだけではない、危険性を秘めているような気がして、臨床心理学者は黙り込んだ。
おそらく、とメイスフィールドは思った。「足りなくなった」と考えれば納得がいく。だから犯行は挑発的にエスカレートした。アダムがどれだけの期間をあけて犯行を行っているのかがわからない以上、確証的な断定は避けなければならないが、人の精神とはどんな過酷な状況にも慣れていくものだ。それらを差し引いて考えれば、アダムの行動は「少なからず」激化しているはずだった。
「ねぇ、オウエン」
「……――うん?」
捜査資料に視線を走らせていたアガサ・メイスフィールドが余り血色のよろしくない薄い唇を開いてオウエン・ストウに呼び掛けた。
「十から二十年前くらいの児童誘拐、及び殺人事件。さらに迷宮入りしてしまった事件をピックアップしてその捜査資料を揃えてもらいたいんだけど、面倒かしら?」
「……少し時間はかかるが、その程度前のものであればデータベースに入っているはずだ。やってできない話ではないな」
「お願いできる?」
「もちろん」
唐突にそんな会話を耳にして面食らったのは助手としてメイスフィールドの補佐をするエリカで、ちょっと考えただけで膨大な量になるだろう資料を想像してから、やや呆然としながらふたりの中年男性を凝視した。
ストウはメイスフィールドの要請をわかりやすく快諾する。
聞くまでもなく、ストウの返答は想像がついた。
数秒の時間――。
数十分の沈黙とも思える時間をおいてから、ブルドック似のベテラン刑事は青い瞳を上げて、太い指をぱちりと鳴らした。
「早急に準備しよう」
「ありがとう」
厳しい眼差しのストウと比べても、対してメイスフィールドの笑顔はまるで南国の太陽のようだ。
上品な貴婦人のような仕草と言葉使いさえなければ、アガサ・メイスフィールドはなかなか良い男だとエリカは思う。少なくとも肥満のストウよりは。
オウエン・ストウも性格は申し分ないのだが、いかんせん、やはり容姿は劣る。
「どういうことですか?」
過去二十年もの間に起きたかも知れない未解決事件と現在の事件とにどんな関係があるというのだろう。咄嗟には理解できなくて、エリカが眉間に深くしわを刻んで考え込んでいると、メイスフィールドは長い腕を伸ばして、右の人差し指で彼女の眉間をほぐすように軽く押す。
「変な癖をつけるとしわになるわよ」
「博士……」
男に押さえられた眉間に自分の手のひらをあてて、抗議の声をエリカが上げるとメイスフィールドは片腕をつきながら椅子へと腰を下ろした。
立ち居振る舞いの細部に至るまでが、感心するほど品が良い。
「挑戦と失敗」
短く言ってメイスフィールドは言葉を切った。
顔のまで人差し指を立てた男はじっと緑の瞳に星屑のような光をキラキラと閃かせている。まるでエメラルドのようだ、とエリカは思った。慎重にエリカがメイスフィールドの言葉の続きを待っていると、静かに淡々と精神科医は続けた。
「誰だって最初から完全犯罪ができるわけじゃないわ」
足をくみ上げて、肘掛けに両腕を置いたメイスフィールドはぱちりと金色の睫毛をしばたたかせる。
誰だって、最初から完全犯罪ができるわけじゃない。
小説や漫画じゃあるまいし。
彼の言葉にエリカは弾かれたように腰を浮かしかけて息を飲む。
「そう考えたら、”アダム”は何度も実験をしているんじゃありませんか……?」
エリカが叫んだ。
「そう」
だから……――。
メイスフィールドは冷静に言葉を綴る。
エリカの言葉は可能性のひとつだ。
「だから過去の事件を洗えばなにかが出てくるかもしれない。もっともアダムはすでに迷宮入りしていると考えているかもしれないけれど。そこならば付け入る隙は存在するわ」
挑戦と失敗、そして反復。
その言葉を聞くだけならば、悪い事ではないようにも思えるが、それは犯罪者も学習すると言うことを示唆している。正常な人間たちと全く同じ。そう考えたほうが筋が通る。決して異常者であるからと言って、心理状態までが異常なわけではない。そしてその境目はひどく曖昧だ。
かつて連続殺人犯と呼ばれた者たちも往々にしてそうであったように。
淡々としたメイスフィールドの言葉に心の底からぞっとしたエリカは、思わず自分の両腕で上半身を抱きしめる。彼の言葉をそのまま受け取るならば、「アダム」は複数回殺人事件を繰り返していたと言うことになる。
しかも、その手段は犯行の度に巧妙になっていったことだろう。
指先を口元にあてて考え込んだアガサ・メイスフィールドは自分の発言を内心でありとあらゆる方向性からシュミレーションした。自分の推測が、ただの杞憂であれば良いとさえ思う。仮に自分の推測が現実のものとなっていれば、考えられないほどの犠牲者が出ているかもしれない。
決して犯罪行為が現実になることを望んでいるわけではなかった。
メイスフィールドの前にはいつでもぽっかりと魔界への入り口が口を開いて待っている。
その暗がりを覗き込むおまえ自身を食らってしまうぞ、とでも言うかのように。
「おい、アガサ」
低い男の声に、メイスフィールドは我に返った。
「……顔色が良くないぞ?」
「大丈夫よ、彼らの精神状態を分析するのは仕事とはいっても余り気乗りがしないだけ。心配しなくてもいいわ」
ストウの手が彼の肩に触れた瞬間、驚くほどびくりと震えたメイスフィールドに旧知の友人は訝しげな眼差しを向けた。
そもそも心理学者の彼にしてみれば「正常」という状況こそが曖昧なのだ。
一般的な意味で「正常」だと考えられていることが「正常な状況」であるわけではない。たとえば犯罪者たちを比較しただけでも、その精神状態は様々で、いっそシリアルキラーと呼ばれる犯人たちのほうこそ平常心を保っていることもある。
こと、殺人や犯罪という現場においては。
平常心を失うのは、いわゆる「正常な人間」たちのほうなのだ。
そんな平常心を保って冷静に犯行を行う者たちの意識を覗き込み続けることは、メイスフィールド自身の心をも危険にさらすことだった。
それを他でもない彼自身がわかっている。
――危険なことだ。
「この手の人間の分析は、少なくともオウエンよりもわたしのほうがずっと慣れているわ。あなたも余分なことに首を突っ込むと、自分の首をしめることになるわ」
平凡な人間たちには、リスクが大きすぎる。
安易に犯罪者たちの世界を覗き込んで、心神喪失状態になる者も多い。それをメイスフィールドは危惧していた。そしてだからこそ、彼は自分の専門分野に素人を引き込むような真似はしない。
彼らを地獄へ突き落としてしまうことを、メイスフィールドは恐れていた。
ストウも、エリカも地獄へ招き寄せてはならない。
地獄の住人は、自分ひとりで充分だった。