第九章 密約
面会人が来ているという。
大方、便宜を図って欲しい商人が泣きを入れてきたのかと思ったが、違うようだ。
「花婿のことで話があると申しております」
兵は無表情にそう告げた。軽く一礼をすると去ってゆく。ザハトはそれを好ましい態度だと思った。盗賊どもではこうはいかぬ。
ゴーサの傭兵たちは優秀だ。なにしろ数百年の歴史がある。軍規の維持と、確固たる目的を定め、それを貫徹するべく力を尽くすことが軍団の強力さを支えることを知っている。
軍団は先のアンケヌ攻略戦でも目覚ましい働きを見せてくれた。掠奪は二刻以内、強姦は禁止という取り決めも厳しく守られたようだ。
それに比べて盗賊どもと来たら……未だに民家に押し入っている者があると聞く。
ハダクは庇い立てをしているがまあいい。
いずれ近い内に皆殺しにしてやろう。
馬鹿どもが悪業を重ねれば、それだけこちらには都合がよい面もある。住民は解放者を望むものだからだ。
ゴーサ歴代の将はすべて、実力でその立場を勝ち取ってきた者たちである。徹底した能力主義が採用されており、九人居る副将すべての賛同がなければ、将として立つことは出来ない。
現在の将はフブルヤギ。その強力な統率力で知られる名将である。
アンケヌ攻略を受け持ったのは副将の一人、ギドゥである。
彼はフブルヤギの甥にあたる。背が高く、顴骨高く、頭蓋骨に張り付くような肉の薄い頭部と、濃い口髭が印象的な男である。
すらりとした体型ながら戦士としての力量は確かで、その点彼の伯父には似ていないと言える。
フブルヤギは自らの武力ではなく、自軍を勝利に導くことでもって指導者になった男である。彼の旗の下には常に勝利と栄光があるのだ。
これは極めて重要な点だが――ゴーサには報酬を支払った方がいい。そうすれば何の問題もなく彼らを排除することが出来る。
現状の問題は、ゴーサに支払うだけの富が無いということだ。
尤もこれは最初から無かったのであるが……もしゴーサに報酬を支払えば、この己の取り分が大きく減ってしまう。
利益は欲しいが損失は御免だという、都合の良い理窟にザハトも与しているわけであった。
「お初にお目にかかります。私はローゼンディア人の商人でヒスメネスと申す者です。王にはご機嫌およろしゅう」
先日ダーシュの様子を見に行った折に同席していたローゼンディア人である。
――お初に、王に、か……。
ヒスメネスの背後にはゴーサの兵が立っている。それを意識しての発言だろうが、ゴーサの兵は口が堅い。余計なことは言わぬ。
とはいえこの男の用心深さは気に入った。今回が初めての会見である、そうしておこうというわけだ。
王に、というのは悪くない。悪くない気分だった。
だがザハト自身が考える王と、このローゼンディア人が考える王とはきっと違う。
そのことには確信が持てた。
「まずは坐れ。ローゼンディア人は椅子の方が良かったかな?」
アウラシールでは敷物を敷いてその上に直に坐るのが一般的である。
敷物はアウラシールのものは一般に絨毯と呼ばれる。これは特にハルジット地方の物が名高い。
そこで作られる絨毯は特にハルジット絨毯と呼ばれ、極めて優れた美術工芸品として有名である。
無論高級品であり、遥か東方ハルジットからローゼンディアはもちろん、西方レメンテム帝国にまで交易商人によって運ばれている。
ここで敷かれているのもそのハルジット絨毯であった。
小豆色に橙、黄色、と黒、白の糸を使った物で、その意匠は一見複雑な幾何学模様に見えるが、実は季節の花や草などの植物を図案化したものである。その様式がハルジット独特のものであり、それがまた魅力なのであった。
この絨毯の上に直に坐るか、個人用の薄手の座物を更に上に敷いて坐るわけである。
少し豪華になるとムムトという中身の詰まった座物を用いる。これが椅子の代わりになる。
絨毯には精緻な織り方をされた高級品から、ほとんどただの布切れ一枚という物まで幅広く存在するし、ムムトにも中身の一杯詰まった体が埋まってしまうような物から、尻を載せるだけの簡素な物までやはり幅広くある。
アウラシールでは一般的に室内で靴は履かない。椅子もあるにはあるが、どちらかというと神殿や王宮で使う道具であり一般的ではない。
床の上に直に坐るのは体に厳しいということで絨毯や座物が発達したのだろう。
ただしローゼンディアでも素足で過ごす風土を持った地方もある。しかもそこでは椅子も普通に使われているので、一概には言えないかも知れない。
ザハトがヒスメネスに勧めたのは、王宮で一般的に使われているムムトであり、尻が埋まるような豪華なものであった。
「いえ、私はカサントスの出身ですので問題はありません」
「カサントス? 確かナバラ砂漠の北方だったか。不毛のナーラキアに接していたな」
知っていて、敢えてとぼけるような言い方をザハトはした。
不毛のナーラキアというのはアウラシール風の言い回しである。
かつての古代帝国の土地は、今や不毛の荒野や山岳地帯と化しており、見る影もないのだ。
「はい。カプリアの東でございます」
「おお、あの豊かなるカプリアの隣か。聞くところによれば岩だらけで、山羊しかおらぬ地域だそうだな」
軽い侮りを含んだ物言いに、ヒスメネスは微かな苦笑を浮かべた。
「はい。貧しい土地でございます」
この返答は嘘である。大いなる大河、ニスルとアプスルはローゼンディアのカサントス地方に発する。その流域は豊かな水に恵まれており、大農業地帯なのだ。
カサントス地方と言っても広い。かなりの広さがある地域であるから、その中には当然貧しい地方はある。特に山岳部は貧しいであろう。
大まかに言ってカサントスは東部が貧しく、西部が豊かだ。ただしニスルとアプスル、両大河の恵みを受ける地域は別である。
そうした知識を表に出すことなくザハトは言葉を返した。
「貧しさならこのナバラ砂漠も変わらぬ。尤もこのアンケヌを除いてのことだがな」
「仰る通りでございます。まさしくこのアンケヌは砂漠の宝石。私ども商人もそれゆえにこそ、遥々商をしにやって参りますもので」
二人は向き合って坐った。戸口、と言っても扉は無いが、その左右には矛槍を持ったゴーサの兵が二人立っている。ザハトの席は片方の兵の半身が見える位置だった。
「それで今日は何の用だ」
「申し上げましたように花婿のことでお話がございます」
「花婿?」
ザハトは敢えて聞き返した。大げさに驚いた顔までしてみせた。
「ええ。花婿のことでございます」
何でもないようにヒスメネスは頷いた。ダーシュの名前を出さない。やはり用心深い。
「その花婿がどうしたのかな?」
「はい。実は少々困っておりまして……」
ヒスメネスの話はある面予想通りであり、またある面では予想を超える内容であった。
ダーシュが如何にしてあの屋敷に入り込み、あの女と夫婦になったかを、ヒスメネスは事細かに話してくれた。また王宮に請願に出た話もしてくれた。
先の王は僭主である。少なくともザハトにとってはそうである。
あの男が許可を出さなかったこと、のらりくらりと逃げようとしたことは察しがつく。
大方時間を稼いで、また後ろから刺そうなどと考えていたのだろう。奴が何を考えていたかなど、ザハトには簡単に予想できることだった。
しかしあの簒奪者も今や冥界に住まう身だ。今となっては奴のことなどどうでも良いことではあった。
……いや、良くはない。正すべきは正し後世に真実を伝えなければならぬ。
あの簒奪者を王と呼ぶことなど決して堪えられることではない。王統譜からは抹殺してくれる。
「このまま彼を夫として迎えて良いものかどうか、私どもは困り果てておるのでございます」
「で、私にどうして欲しいのだ?」
単刀直入に尋ねた。つまらん遣り取りに明け暮れる気はなかった。この男は頭がいい。迂遠な手順は無駄というものであろう。
「私どもは異国の商人でございます。出来るだけ政には関わりたくはございません。ただ安全に商売が出来ればそれで良いのでございます」
「外国人らしい言種だな」
勝手なものだと思った。だがそう言うように仕向けたのは自分である。
「申し訳ございません」
「構わん」
「しかし……アンケヌはどうなってしまうのでしょうか」
「市中に盗賊が溢れ、民心が動揺している、か?」
「失礼致します」
女官の声がかかった。召使いが酒と食事を捧げ持って入ってきた。
「昼はまだであろう。済ませていくがいい」
「有り難き幸せに存じます」
召使いたちが去ると、ザハトは酒と食事に手を付け始めた。見ているとザハトが最初の一口を味わってからヒスメネスは手を付けた。アウラシールの作法に通じているというわけだった。
「夫としてどうかと言ったな。女の方はどうなのだ?」
ザハトは話を戻した。
「私の見るところ、それほど嫌がってはいないようです」
「ほう……」
それは意外な話だった。ローゼンディアの女は気が強く、我が強く、女の分際で男にもずけずけとものを言うと聞く。
我々砂漠の男たちと反りが合うとは思えない。砂漠の男たちは従順な女を好む。
従順で美しく、男に喜びを与える女を好むのだ。なればこそ財を支払って家に置く価値があるというものだ。
不思議なのは女に好きにさせているように見えるローゼンディアの男たちが、腰抜けでもなければ頭が悪いわけでもないということだ。これはまったく理解に苦しむことであるが、おそらく宗教の違いということなのだろう。
「ローゼンディアの女と合うとは思えぬがな」
「私もそう考えていたのですが……」
「仲睦まじくやっているのか?」
だとすれば少々厄介な問題を孕むことになるかも知れない。
「はい。仲が良いと言ってよろしいと思います」
「ほう……それでお前は二人が結婚するのに反対というわけか?」
僅かではあるがヒスメネスの表情に動きがあった。驚いたのだろうか。
ザハトは弱冠の興味を惹かれたが、今はそんなことを話している時ではない。
この男もそんな話のために来たわけではない。
「まあいい。お前たちの事情はどうでもいい」
問題なのはこの自分の、そしてダーシュの事情なのだ。
「私の見るところ現状は長くは続かぬ」
「と申されますと?」
「今は二人の王がこの都市に居る、ということだ」
ハダクと、ギドゥのことを言ったつもりだった。
だがわざと勘違いをするような言い方を選んだ。この己、ザハトとそしてもう一人、という受け取り方をヒスメネスがするように仕向けた。
ところがヒスメネスは予想外の返答をしてきた。
「彼らは王にはなりません」
その言葉に、ザハトはただ凄味のある笑みで意を表した。
「そうか」
ならぬ、と来たか……。
あの二人の意思を知ってるわけでもあるまいに。特にハダクは、もう自分が王になったつもりでいる。愚かな話だ。
「外征の兵は国に帰る者ですし、盗賊が政を行えるわけはございません」
「それで俺のところに来たというわけだな」
「はい」
「それは俺の側に付く、ということと受け取って良いのだな?」
ザハトは言葉使いを崩した。それで意を示したつもりである。
「私ども商人を護り、その商を慈しんで下さるのは陛下を措いて他にはございません」
「俺はまだ王ではない」
今度は、ヒスメネスが凄味のある笑みで意を表した。
「ですからこそあなた様なのです」
なるほど。そういうわけか。
このザハトが王になるためならば、自分たちが力を貸すということか。
ダーシュを切るということか。いい覚悟だと思った。
いや覚悟ではない。単に無知なだけだ。
何故この戦いが起こったのか。
何故今日という日が来たのか。
ヒスメネスは何も知らないのだ。
「僭越な申し出ではございますが、私どもは王のお役に立てるのではないかと考えております」
「お前の店はローゼンディア商人の中でも大きなものであったな」
ダーシュの様子を見に行った後、すぐに調べたのだ。メルサリス家はカプリアに本拠を置く大商人であり、アンケヌに支店を持つローゼンディア人の中でも大手の一つだった。
「今のところそう言われておるようでございます」
「更に大きくするか」
「さあ……それは」
ヒスメネスは曖昧に微笑んだ。
「このアンケヌは交易によって栄えてきた都市だ。商人を大切にしない王など、王ではない」
「その通りでございます」
「兵は何も生まず、盗賊は奪うだけだ。商人にとっては王こそが有り難いというわけだな」
「仰る通りでございます」
「解った。悪いようにはしない」
ザハトは頷いた。この男は味方にしておいて損はない。
この男が自分で言うように、本当に商にのみ没頭するのであれば敵対することもおそらくあるまい。
「後で契約の證を送らせよう。書記官にも記録させる。誓約の見届け人はそちらで自由に選ぶがいい」
「ありがとう存じまする」
ヒスメネスは深く頭を下げた。