第八章 来客
ダーシュとの戯れは扠措き、アンケヌへの襲撃、ひいては屋敷への襲撃という事態に、アイオナは眠れぬ夜を過ごした。
翌日になると、状況はダーシュが言っていた通りになっていた。
アンケヌは盗賊団に占拠されていた。
王城は落ち、王は処刑され、広場に吊されているという。盗賊団の頭が次の王になるとかいう噂である。信じられない話だった。
都市の門は閉ざされ、誰も出入り出来ず、市内は大混乱に陥っているらしい。
「ひどい有様のようです」
ヒスメネスは淡々と報告を続けた。
「そこら中、強姦、殺人、掠奪の嵐だったようで……いえ、今は収束しただけで、一部ではまだ続いているようですが」
アイオナは青冷め、罪悪感を覚えた。ダーシュと馬鹿なことをしている間にも、同じ市内でそんなことが起こっていたのだろうか。
「この辺りで難を逃れているのは、この屋敷くらいのようですね。――あなたの御蔭なんでしょうか?」
ヒスメネスの視線を受けて、ダーシュは無言で笑みを返した。
「――しかし、盗賊にしてはどうも様子が奇妙しいです」
「どういうこと?」
「話を聞いていると、整然としたものを感じます。手際が良いです。第一、これだけの都市を一夜にして落とすなど、その辺の盗賊に出来ることとは思えません。少なくとも烏合の衆ではないでしょう。言葉や服装、雰囲気からして、幾つもの部族が寄り集まっているようではあります。ハルジット語が聞かれるという話も耳にしましたから、背後にはかなり大きな動きがあるものと思われます」
「ハルジット語が?」
アイオナは不思議に思った。
ハルジット語が話されているのはアウラシールの東方、大河ニスルの東側だ。そんなところからこのナバラ砂漠まで攻めてきたというのだろうか?
「私自身も彼らが固まって歩いているところを目にしましたが、どうやら傭兵団のようです。おそらく普段は都市の防衛などを受け持っている連中なのでしょう」
「そんな人たちがどうして?」
「それは判りません。そして彼らとは別に、ナバラ砂漠に住む周辺部族の姿も多くあります。こちらは寄せ集めのようで、やはりそれぞれ同族同士で行動しているようです。全体の指導者が誰なのかは判りませんが、おそらく一人ではないでしょう」
「では合議制で動いているというのかしら?」
アイオナは首を捻った。想像しにくいことだった。
盗賊というのはそのような取り決めや、約束事とは無縁の連中に思えるのだ。
「ええ。おそらくは同盟のようなものに従って動いていたのでしょう。ですがこれからはどうなるか判りません」
「どういうことかしら?」
「果実を手に入れてしまえば、仲間はむしろ邪魔になるということですよ」
嫌な意見だと思った。正しいと思えるだけにますます気が重くなる。
「本当の混乱はおそらくこの後に来ます」
「……さすがだな」
黙って聞いていたダーシュが笑みを浮かべた。
「そろそろお聞かせ願えませんか?」
「何をだ?」
「あなたの身の上と、そして今回の事件との関連です」
「ふむ」
「私たちには聞く権利があると思いますが」
「無いな」
言下にダーシュは否定した。ヒスメネスが僅かに硬直した。意外な返答だったのだろう。
「何故、俺が事情を説明する必要がある? 俺は差し当たっての身の安全の代わりに、お前たちの屋敷と財産、生命を護ってやった。それで充分だろう?」
ヒスメネスは言い返さなかった。静かに、ダーシュを見ていた。
「わたしはどうなの?」
「何がだ?」
「わたしには、事情を聞く権利は無いの?」
緊張した。ダーシュはアウラシールの、おそらくはアンケヌの人間だ。ローゼンディアの考え方が通用するとは限らない。
しかしローゼンディアでは夫婦は助け合い、共に協力するのが正しいとされる。
結婚の契約はまだ破棄されてはいない。
ならば自分には知る権利があるはずだ。
「そうか……やはりローゼンディアの女だな」
ダーシュは苦笑するような顔をして、瑠璃細工が並んでいる棚の方に目を向けた。
「いいだろう。話してやる」
「ヒスメネスにも聞かせていいかしら?」
「禁じたところでお前が後で話すのは判っている」
図星だった。
「俺はあいつらの集団に属している」
いきなり、重い一言が来た。判ってはいたことだったが耳にしたくない一言だった。
「だが市内に兵を導き入れたのは俺じゃない。そのことには俺は反対だった。――なんだ? 喜ぶようなことか?」
内心が面に表れてしまっていたらしい。アイオナは慌てて澄ました顔を作った。
「それであなた自身は何者なの?」
「まあ待て。その前に今アンケヌを蹂躪している連中について話す方が先だ。その方が助かるだろうしな。――だろう?」
ヒスメネスの方を見て言った。
「そうですね」
「周辺部族を束ねているのはハダクだ」
「あの野盗ですか?」
ハダクはナバラ砂漠に出没する盗賊である。かなりの数の手下を持ち、噂によると隠れ家のオアシスで王のように暮らしているという。
「ハルジット語を話すのはゴーサの傭兵団だ。と言っても知らないだろうが」
「いえ。知っています。都市ゴーサを根拠地にしている軍ですね」
「ほう。博識だな」
都市ゴーサと言えばアンケヌからは遥か東である。
「今の将軍はフブルヤギだが、今回指揮を執っているのはその甥だ。ギドゥという」
「どうして彼らが協力することになったの?」
それが何より不思議だった。ナバラ砂漠の盗賊団と、東方の傭兵団。その二つが何故繋がるのかが解らない。
「それを結びつけた奴がいるのさ」
「お知り合いですか?」
ヒスメネスの一言にダーシュは驚いたように見えた。
「ザハトという。俺の従兄弟だ」
「あなたは反対だったのですね」
ダーシュは苦い顔をした。暫く言葉を探しているように見えたが、結局何も言わずに黙り込んだ。
「それで……どうしてあなたは都市の兵士に追い回されていたの?」
「別にいいじゃないか」
「よくないわよ」
「穿鑿好きな女だな」
打切棒な一言に、アイオナは怒りを感じた。
「この状況を考えなさいよ。知りたがるのは当たり前でしょ!」
「お嬢さん、落ち着いて下さい」
宥められ、アイオナは浮かしかけた腰を下ろした。ヒスメネスは意味ありげな表情をダーシュに向けた。
「焦らずともおそらく今日中にはすべてはっきりしますよ。――そうでしょう?」
「お前は嫌な奴だな」
ダーシュは溜息を吐いた。
「それはあなたに原因がある。私だって、誰にでもこのような態度を取るわけではありません」
ヒスメネスの言葉の意味はその日の内に明らかになった。
日が沈んで間も無く、ゴーサの傭兵団が屋敷を訪れたのだ。アンケヌに限らず、アウラシールの多くの地方では昼間活動するということはあまりない。大概が屋内や日陰で過ごし、本格的に活動をするのは夕方からだ。
傭兵たちは礼装と思しき白い服を着ていた。皆、鼻から下を白い布で覆い、腰には長剣を、手には槍を持っていた。
槍は取り回しを考えてかそれほど長くなく、手槍といった長さだった。これは開けた野外戦ではなく都市内部での戦闘を考慮したものだろう。
さすがに落ち着いた感じであり、野盗とは風格が違う。
傭兵たちを引き連れていたのは若いアウラシール人だった。この男だけが礼装ではなく普段着だったが、皮肉なことに一番品格を感じさせた。
生地のままの亜麻布で作られた長衣を着ている。
ごく普通のアウラシールの服装だったが、腰には長剣を提げていた。それも刺繍のある黒地の帯に、直に剣を提げていた。
アイオナの父親も同じようにしているので、何となく意外に思った。
父のファナウスは短めの刀を愛用していて、佩緒などを使わずに腰の帯に落とし差しにしているのだ。
若いアウラシール人は腰間の長剣を鞘ごと抜き取ると、手近にいた使用人に突き出した。
一瞬の間があってから、使用人は慌てて長剣を受け取った。
入り口で武器を差し出した辺り、敵意はないという事を示したのだろうか。
傭兵たちの大半を前庭に残し、右往左往する使用人の間を抜けて、アウラシール人は広間へと入ってきた。左右には傭兵を一人ずつ付けていた。この二人は手槍は渡したが、腰の長剣はそのままだった。
全ての武器を渡して欲しいとまでは思わないが、アイオナとしては複雑だった。
「ダーシュ。無事で何より」
「ああ」
ダーシュと、彼の従兄弟であるというザハトは、対面するとアウラシール式の挨拶を交わした。互いの頬を左右交互に触れ合わせる挨拶である。
並んでみると、二人して似たような背格好をしている。長身で、靭やかそうな緊縮まった体付きである。ダーシュのように長髪ではないが、ザハトの髪も瞳も黒い。肌はよく日に焼けている。ダーシュにはそこはかとない気怠さを感じるが、この男には鋭利な輝きを感じる。
「結婚したと聞いて驚いたが花嫁はどこだ」
「お前の目の前にいる」
ザハトは驚いたようにアイオナに目を向けた。ダーシュの横で二人を見守っていたアイオナは、いきなり注目されて戸惑った。
「ローゼンディア人に見えるが?」
「ローゼンディア人だ」
ザハトは目を見開き、やがて苦笑するような顔をした。
ダーシュの従兄弟だけあってやはり目鼻立ちの整った顔をしている。
その秀麗な顔で明らかに軽侮と感じられる表情を浮かべられると、通常よりも二割増しくらいで嫌な気分になる。
「ローゼンディア人と結婚するとは随分と物好きだな」
アイオナはむっとしてザハトを睥んだ。じろじろ見た挙句になんという言種か! ダーシュの従兄弟だけはある。失礼なところも似ている。
「信じられんな。女のくせに生意気な顔をする」
アイオナの視線を受けて、ザハトは不快げな顔をした。
「妻を侮辱するのはやめてくれ」
ダーシュが打切棒に言った。
アイオナはどきりとした。仮初めとはいえ夫なのだから当然の言葉である。そこにそれ以上のものは無いことは承知している。それなのに、思わず嬉しさで顔が綻びそうになってしまった。
不思議だ。我ながらどうかしているとしか思えない情動だった。何だか自意識過剰のようで恥ずかしい。
ザハトはアイオナから目を外らすと、一転して明るい笑みを見せた。
「いや悪かった」
と、ダーシュに向かって言う。そしてそのまま話を続けようとする。アイオナにはなんの謝罪も無い。もはや眼中に無いといった様子である。アイオナは腹が立った。
これがアウラシールの遣り方だということは判っている。アウラシールにおいては、妻は夫の所有物でしかない。所有者に対して謝罪することは当然であっても、その所有物に対して謝罪するなどということは考えられないことなのだろう。
しかし自分はローゼンディア人だ。ローゼンディアでは夫婦はまったく対等な存在である。夫の所有物でしかない感覚など解りようもない。夫に謝罪して終わりにされては堪らない。侮辱されたのは他ならぬ自分なのだから、自分にこそ謝罪してもらいたい。
とはいえ、ここでそれを主張したところでどうなろう。相手はアウラシール人だし、ここはアンケヌだ。衝突しか有り得ないのは目に見えている。そしてそうなったらダーシュの手を患わせてしまうかも知れない。いくら契約があるからといって、そこまで甘えるわけにはいくまい。アイオナはぐっと怒りを腹に収めた。
ダーシュは改めてザハトにアイオナとヒスメネスを紹介し、アイオナとヒスメネスにはザハトを紹介した。
そして挨拶の段になると、アイオナはまたしてもザハトから無視された。ダーシュの所有物でしかないアイオナには、わざわざ挨拶をする必要は無いということらしい。ダーシュからの紹介だけで充分なのだ。
腹立たしかったが、アイオナはなんとか堪えた。これが仮初めの結婚で良かったと熟々思う。結婚するならばやはりローゼンディア人しか考えられない。
ザハトはヒスメネスと挨拶を交わし合うと、ダーシュに向き直った。
「お前の義父上にも挨拶しておきたいのだが……」
「すまないが、義父殿はアンケヌにはおられぬのだ」
「そうか。ともあれ結納を用意せねばならんな。まだなんだろう?」
「ああ。坐って話そう」
ダーシュが促してザハトが卓に着くと、ダーシュ、アイオナ、ヒスメネスも着いた。
ザハトは訝しげにアイオナを見た。何故お前まで同じ卓に着く? とでも言いたげである。アウラシール人たるザハトからしてみれば、ダーシュの客人たる己と同じ卓に、ダーシュの所有物という、己とは対等では有り得ない者が着いているのが気にくわないに違いない。
しかし、ローゼンティア人たるアイオナにしてみれば、自分はダーシュと対等であるのだからその客人とも対等であるし、なんといってもこの家の所有者は自分の父であり、自分はその娘であるのだから、今現在のこの家の主人は自分を措いて他に無いという自負がある。家の主人が客人を遇さぬわけにはゆかぬだろう。
ということでアイオナは、棘のある眼差しで以て、不遜な客を遇した。
ザハトはそんなアイオナを無視して話を始めた。
「結納だが、このアンケヌにあるもの、なんでも好きなものを選ぶといい。お前自身の屋敷も思うがままだ。アンケヌはもはや我々のものなのだからな」
「何を言っている。アンケヌは、アンケヌを作り上げてきた商人たちのものだ」
しかつめらしくそう言うダーシュに、ザハトは馬鹿馬鹿しいとでも言うように笑った。
「アンケヌは本来の持ち主の元に戻ろうとしている。簒奪者は禿鷹と野犬の餌となっている。アルシャンキの正義が示されたのだ」
ヤグとウルガは、この一帯に棲息する屍肉喰らいの獣たちである。
「お前が連れてきた盗賊共はどうするんだ?」
と、今までイデラ語で話していたダーシュは、唐突に別の言語で話し始めた。驚いたことに古典ナーラキア語である。
古典ナーラキア語は、今は亡きナーラキア帝国で使われていた言語である。現在のローゼンディア語やダルメキア語、そして一部のアウラシール系諸言語の元となった言語であり、周辺諸国に大きな影響を与えた古代語なのだ。
ナーラキアは遥かな昔、ナバラ砂漠がまだ緑の平原だった頃、隆盛を極めた大国である。
しかしナーラキアは滅んだ。その跡地は不毛の砂漠となり、今や見る影もない。
帝国滅亡の直接的な理由は悪の種族の攻撃によるものだが、歴史書には自らの愚かさと身内同士の敵意が滅亡を招いたのだと記されている。悪の種族はそれに付け込んだのだ。
ローゼンディアの歴史書ではナーラキア帝国衰亡史を特に精しく取り扱っており、アイオナもまた、ナーラキア帝国についてはよく知っている。
ナーラキア帝国はアウラシールの北部で生まれ、周辺諸国を侵略しながら巨大化していった。
その歴史は前期と後期に分けられ、前期を古ナーラキア、或いは東ナーラキアと呼び、後期を新ナーラキア、或いは西ナーラキアと呼ぶ。ここナバラ砂漠は一貫してナーラキアの統治下にあった地域だ。
しかしその言語となると別である。なんと言っても遥か古代の言語なのだ。ローゼンディアでも貴族階級か、または神官でもない限りはナーラキア語を話せる者はそうはいない。
そしてアイオナはその数少ない一人であった。ヒスメネスもである。
正確には現在ローゼンディアに残っているナーラキア語は、古典語そのままの姿をとどめてはいない。
ナーラキア語を学ぶ必要があるのは主に神官達だけである。神官達は祭祀や学修などの職務のために学ぶのであって、知的興味に駆られて学ぶわけではない。
ゆえにその体系は実用のために整理され、改変されている部分がある。
だからといってその言葉が単純にローゼンディア語に近くなったわけではない。
あくまでナーラキア語として神官用に調整を施されたのであって、簡略化を目指したわけではないのである。
具体的には元々のナーラキア語に含まれていた例外規則や、格変化などの語法の整理が行なわれただけでなく、筆記法もローゼンディア語の音表四十二文字を用いて可能になるように整理されている。
それに対して本来のナーラキア語では、筆記には楔形文字と呼ばれる独特な文字が使われる。これは葦の茎を切ったものを筆記具として用いることで生まれた文字であり、その形状が、さながら楔に似て見えるところから楔形文字と呼ばれるものである。
この楔形文字にはローゼンディア語のように発音を表す音表文字と、意味を表す絵文字とが存在する。
このため主要な文字数は数百に及ぶことになる。
それだけでも複雑なのだが、楔形文字には文字の使い分けがある。
一つの文字が音を表したり、意味を表したりと状況によって使い分けられるので、文脈による読み分けが必要になる。
さらに文字の意味を限定する記号や、文字の読み方を記す説明書きなども、一連の文章の中にそのまま書き込まれるのである。
そしてその文書には粘土板が用いられる。ナーラキア帝国においては、記録媒体は粘土板が主流であった。逆に楔形文字を用いる以上、粘土板以外の選択肢はなかったとも言える。
しかしこの事が結果的に帝国の記録保存に役立った。粘土板の耐久性の賜である。
また帝国と最後まで敵対したアウラシールの都市国家群でも同じように、楔形文字を用いる。こちらもお蔭で、その気の遠くなるような長い歴史が、しっかり保存されて後世に伝わっているのだ。
とまれ以上のような違いから、本来のナーラキア語を古典ナーラキア語と言い、ローゼンディアの神官達が使うナーラキア語を正典ナーラキア語と呼んで区別することがある。
とは言っても話言葉に限って言えば、その違いは僅かなものであり、記述体でもない限りは、片方が理解できればもう片方も理解できる程度のものである。
ダーシュの話すナーラキア語にはアイオナの知らない格変化が含まれていた。
そこから同じナーラキア語でも古典ナーラキア語であるとの判断が出来たのである。
ダーシュの言葉で、ザハトの顔から笑みが消えた。
「奴らにもう用は無い。砂漠の宝石は奴らには渡さぬ」
驚いたことに、ザハトもまた古典ナーラキア語で答えた。
その立居振舞、雰囲気からも窺えることだが、ダーシュもザハトも、その出自は賤しからぬものに違いない。
ともあれ話の内容は不穏である。わざわざ古典ナーラキア語で話しているということは、他人には聞かせたくない話であるということでもある。
アイオナは、ザハトの背後に控える二人の傭兵をちらりと見た。布で覆われた顔は目だけを覗かせているが、その目が戸惑い気味に少し揺れている。突如耳慣れぬ言葉で話し始めた二人に戸惑っているのだろう。おそらくは理解できていない。
ヒスメネスを見てみると、こちらは相変わらず何を考えているのやら判らぬ顔をしている。当然二人の会話は理解できているだろうに。
アイオナ自身はというと、素知らぬ顔をしていればよいのだが、そんな芸当ができているとは我ながら思えなかった。どうしたところで顔に出てしまう質なのだ。
しかしザハトからしてみれば、自分はダーシュのおまけに過ぎない。屈辱的な事実ではあるが、今はそれが助かる。アイオナが二人の会話を理解できたところで意に介されることは無いだろう。
と、思っていたのだが――
「ダーシュの妻よ」
どきりとした。
突如ザハトが話しかけてきた。イデラ語である。
アイオナは戸惑いつつも睥みを効かせた。ザハトは見定めるような目でこちらを見ている。
「どうしてダーシュと結婚する気になった?」
またまたどきりとした。
偽装結婚を疑われているのだろうか?
しかし妥当な疑問ではある。ローゼンディアの女が外国人と結婚するのは、非常に稀なことなのだ。その理由の大部分は、ローゼンディアでは男女は平等に扱われるが、諸外国ではそうではないというところにある。
ともあれ妙なことは言えないと思うと緊張した。
「どうしてって……す……」
言いかけた自分の言葉に気付いて、アイオナは顔を赧めた。
「す?」
ザハトが聞き返す。
「す……」
なんでもないはずのその一言が、恥ずかしい。ダーシュにもヒスメネスにも注目されていると思うと、ひどく恥ずかしい。さらりと言ってしまえばよかったのに、どうしてまた口籠ってしまったのか。
胸を高鳴らせながら硬直していると、横合いからいきなり抱き寄せられた。ダーシュである。アイオナは更に顔を赧めた。
「もう充分だろう? 我が妻は恥ずかしがりなのでな」
ザハトは笑みを浮かべた。
「随分と愛されているようだな」
――愛!?
アイオナは目を剥いた。聞き捨てならぬ言葉であった。強く否定したいところではあったが、ぐっと堪えた。
「……結納は豪華なものでなければならない。城の宝物庫を開けさせよう」
静かにそう言うと、ザハトは立ち上がった。
「また来る」
ザハトを見送った後、アイオナはダーシュに詰め寄った。
「それで、これからどうなるの? どうするの? あなた、いったい何者なの?」
アイオナは混乱していた。続けざまにいろんなことがありすぎた。盗賊の襲撃、アンケヌ陥落、そこに来てダーシュが盗賊の仲間だの、ダーシュの従兄弟がやってくるだの、古典ナーラキア語で会話をするだの、何がなんだか解らない。
自分が今立っているところは、一体どんなところなのか。安全なところなのか、危険なところなのか。それが判らないと不安で堪らない。
契約では、ダーシュがアイオナの身を護ってくれることになっている。ダーシュを信用していないわけではないが、だからといって、何も考えずにただ従順に護られているというのは落ち着かない。アウラシールの男ならば大人しくしていろと言うだけだろうし、アウラシールの女ならば何も言わずに従うのだろうが、自分はローゼンディア人なのだ。
ダーシュは面倒臭そうにアイオナを見た。
「取り敢えずは、ここで大人しくしている外無いな」
それだけ言うと、自室の方へ足を向けた。これ以上話す気は無いといった様子である。
アイオナは追いかけた。
「重要なことに答えていないわ」
「そうか? 重要なことは特に無いと思うが」
歩きながら答える。
あくまで呆けるつもりらしい。
「あなたが何者かってことよ」
別段、興味本位で穿鑿しているわけではない。アンケヌ襲撃団の間で、アンケヌをめぐる争いが生じるかも知れぬという状況なのだ。契約者たるダーシュの立ち位置を知っておくことは重要だ。
ダーシュは鼻を鳴らした。
「何者でも無いさ」
どこか自嘲気味である。
「何者でも無い人が、古典ナーラキア語を話せるはずがないわ」
「ほう。やはり解っていたか。お前だけでなく、ヒスメネスも理解出来るんだろう? 貴族や神官でもないお前たちでも修得しているんだ。俺とザハトが修得していても奇妙しくはないと思わないか?」
「屁理窟だわ。そんな態度って、ないんじゃないかしら? わたし、あなたの契約者なのよ?」
「ならば俺を信用して欲しい。俺はお前に損はさせないと言ったはずだ」
「信用はしてるわ。でも……」
「――で、どこまで跟いてくるつもりなんだ?」
と、言われて気がつけば、アイオナはダーシュの部屋の中にまで入っていた。沈みかけの日の光がうっすらと射し込む、暗い部屋である。
ダーシュは寝台に腰掛け、人の悪い笑みを浮かべた。
「添臥でもしてくれるのか? 妻よ」
アイオナは顔を赧めた。羞恥と怒りでだ。
「誤魔化さないで!」
ダーシュは真面目な顔でアイオナを見つめた。
「悪いが今はまだ話せない。俺と、そしてお前の生命に関わることだ」
アイオナは目を見開いた。
「口止めすればお前は言わないだろう。それは判っている。そこまでは信用している。――が、無意識であれ、お前は顔に出る質だ」
アイオナは言葉に詰まった。ダーシュの言う通りである。そればかりは、自覚していてもどうにもならないところなのだ。
口を尖らせつつ、小さく溜息を吐いた。
「……解ったわ」
「とにかく大人しくしていろ」
又その言葉かとアイオナはむっとしたが、何も言わずにダーシュの部屋を出た。
少し歩いてからふと思い出したが、ザハトはアクルしか名告らなかった。
考えてみれば不思議なことである。
彼は父の名も、祖父の名も名告らなかった。
部族名はダーシュと同じダナン族であろうが、あれだけアウラシール人らしい男が……と言ってもアイオナが想定しているアウラシール人という意味だが、そんな人物が父や祖父の名を名告らないのは、如何にも妙なことに思われた。