第十章・一
相当な財産を持ちしかも独身の男性と来れば、これはもう結婚相手を捜しているに違いないというのが世間一般のいわば常識というものである。
そんな男性が近所にやって来たとなると、どうなるか?
独身の娘を抱えるどこの家でも、この常識はしっかりと浸透しているので、当の男性がどう思っているか、結婚について何を考えているかなどお構いなしに、あの男は当然我が家の婿殿だと決めてかかる……そう、どこの家でもである。
そして今現在ディブロスで、この不幸な話題の中心にあるのがゼルヴィス・アナクシスという独身青年であった。
彼は有名人である。ペルギュレイオン競技会の優勝者であるという事実はローゼンディア人ならば、たとえ子供であってもその名を知っていて不思議はないほどのものである。
加えてその家柄は文句なしのアナクシス海将家。その富は王家をも凌駕すると言われるグライアス氏族の、宗家に次ぐ名門である。
当然その財力には篦棒なものがあるだろう事はローゼンディア人でなくとも、ミスタリア海沿岸部で暮らす者であれば容易に察しが付く。
もちろん、そうした察しが付く者達は社会の上層で暮らす連中である。
多少の含みを加えて言えば「それなりの階層の人々」、と言い替えることも出来るだろう。
そういうわけであるから、早くもディブロスの執政館にはゼルヴィス宛の招待状やら何やらが山のように届きはじめていた。
彼がどう動くのか? どのような催し事に興味を持つのか? そのことに独身の娘を抱える貴族やら豪商やら高位神官やらの家々は大きな関心を寄せているのだ。
それら期待と推理を働かせた招待状には諸々なものがあり、舞踏会から音楽会、競馬の観戦や演劇、狩猟への招待などなど、まさに知恵を絞って他家を出し抜こうという意気込みが感じられるものであった。
さて、そのゼルヴィスが真っ先に選んだのはそれら熱気迸る招待状のどれでもない。
ごく小さな祝賀会、つまり海洋商人ファナウス・メルサリスの、ディブロス到着祝いの宴会であった。
この宴会、元々身内同士つまりメルサリス商会員や日頃親しい他の商会の人物などを招いた内々の祝賀会であるから、無論仰々しい招待状など出されない。
そしてそのことが問題を一層複雑にした。
あのゼルヴィスがディブロスに来て初めて参加する宴会である。どの家でも参加したくて堪らない。
さあ招待状を手に入れようと思って調べてみれば、どうもその招待状が見付からない。
宴会で招待状がないというのは妙である。どういうことかと思って更に調べてみるとそもそも招待状が出されない、身内の宴会のようなものだと判明した。さあどうしよう。どうやって潜り込もう。各家々は途方に暮れた。今ここである。
無論当の話題の中心にあるゼルヴィスはそんな事は知る由もない。
そしてこの事件に巻き込まれた形のメルサリス商会としても、やはり知る由もないのである。
宴会の準備をしていると、どういうわけか、身扮りのいい使者たちが次々と商館にやって来る。怪訝しいなとアイオナは思った。
用件を聞いてみると、是非ともファナウス・メルサリス商会長殿の無事到着を共に祝いたい。つきましてはこれは祝いの品で御座います。どうかお納め下さいますよう――と来る。アイオナにはわけがわからない。
ただどの使者もお仕着せは中々のものである。
要するに、貴族やそれに準じた所から派遣されているわけだ。使者が差し出す物を無下に断れば角が立つ。
かと言って、全く知らない相手を身内の宴会に招くというのも変である。アイオナは対応に困った。
しかも宴会の準備の方の指図もしなければならない。商館入り口に現れる使者も五人目となるとアイオナは段々混乱してきた。
「来客の相手は私がしましょう。お前は宴会の準備を差配なさい」
大伯母イネスがそう言ってくれたので、アイオナはこの不気味な来客群の処理を任せて厨房や宴会場の準備の方に意識を回すことにした。
来客という邪魔が入らなければ、いつも通りの準備が進んでいるか調べれば良いだけである。
ただし今回は雲行きが怪しい。ひょっとすると飛び入りの来客が結構ありそうである。
となればその分を考えて席と料理を調節しなければならない。
いつものことだが料理には気を遣っている。そして自信がある。
自分が作るわけでもないのに自信というのも妙な話ではあるが、こうした祝事のときに限らずメルサリス商会の料理はいつも美味しい。アイオナにはその自信がある。
父ファナウスが食い道楽だからだ。上品に言えば「美食家」ということになろうが、しかし何でも食べたがるあの心性は、アイオナからその言葉を遠ざける。
いくら美味いと言われても食べたくないものは厳然と存在する。それが普通だと思う。
何でも口に入れてしまうファナウスの方が怪訝しいのだ。
父様は食い道楽。それがアイオナの下した判定であった。
食い道楽だけあって厨房には良い料理人を置いているし、浪費という程ではないが、食材の購入にも金を惜しまない。
そして珍味ばかり求めるのではなく、生活に即した範囲で旨いものを求めるという父の姿勢にも共感できる。
ただその生活の範囲とやらを無闇に、やたらに拡大などせずに、子供の頃から慣れ親しんでいる馴染み深い文化圈に限って欲しいだけだ。
「日常の中に旨いものを」それがメルサリス商会の思想であり、その考えの元に宴会料理は用意される。
当然こだわったものになる。他の商会や組合ではここまではこだわらないだろう。
参加してくる外部の客もそれを期待しているので、差配を任されたアイオナの責任感と遣る気はいやが上にも高まるのである。
この仕事を父ファナウスには任さない。蝉やカブトムシは食べ物ではない。蛸は大歓迎だがウツボはいただけない。海星は味がしない。だが父に任すとそれらが出てくる事がある。勘弁して欲しい。
アイオナの育った土地はローゼンディア王国南部沿岸部である。カプリア地方と呼ばれている。そこでは豊かな海産物を土台にした多彩な料理が発達した。
海産物が中心と言っても肉料理だってもちろんある。かなりある。寒い北部と違い、ほとんど一年中家畜の餌に事欠かないため、新鮮な肉を入手できる機会が多いのだ。
当然美味しい肉料理も発達する。果物もある。野菜もある。無い物を探す方が難しいくらいだ。
温暖な地方である。太陽の恵みは一年中あると言っていいし、その恵みを受けた野菜や果物は味が濃く、それらをふんだんに使えるのだ。これではまずい料理が出てくるはずが無い。
カプリア地方の料理は王国の七大料理には必ず入るのだ。
三大料理となるとオギュルエやヘクティスという強敵がいるので、人によってはカプリア料理を加えないこともある。
そしてトラケス料理には敵わないとされている。アイオナを含め同郷人達の多くはこの世間的な裁定に不満を持っているが、とにかく世間的にはそう言われている。
アイオナ自身が食べ比べた限りでは、故郷カプリアの料理がトラケス料理に劣っているとは思えないのだが。
しかしトラケス地方では最高の料理人はその土地を離れないとも聞く。
だからトラケスの中心たる都市エルナセアに赴いて、名店と言われる店の料理を食べ比べなければ公平な判定を下すことは出来ないだろう。いつかしてみたいと思っている。
とにかくここディブロスは故郷マンテッサと同じくミスタリア海に面した港町であり、海産物がふんだんに獲れる。料理をするのに不自由はないというわけだ。
予想される来客数から不足分を計算して厨房に指示を出し、食材買い足しに商会員を走らせ、一息吐くとダーシュの姿が目に入った。その瞬間、大伯母から聞かされた話を思い出した。
今夜、ゼルヴィス・アナクシスが自分に求婚をしにやって来るのだ。
もちろん受け入れる気はない。その後に起こる問題を恐れないわけではないが、今の自分を振り返ってみるに、どうも求婚を受け入れることなどあり得ないという思いがある。
今更というか何というか、とにかくその気持ちは胸の中にしっかりと根を下ろしていて、どうにも動かせる気がしないのだ。動かしたいとも思わない。
ただダーシュには話さなくてはならない。そしてそれが気まずいのだ。
だが話さなければもっと気まずいことになる。そう考えてアイオナはダーシュに声を掛けた。
「……ダーシュちょっといい?」
「ああ構わんが。お前こそ忙しいんじゃないか?」
「大丈夫よ。それより大事な話があるの」
「何だ?」
アイオナはダーシュを伴って裏手の倉庫に廻った。動物たちのいる倉庫である。そこならば人が来ることはないと思ったのだ。
予想通りに倉庫には誰も居なかった。猿のホロンも、猛獣のレアンドロスも檻の中に入っている。無論マルガレアは特注の鳥籠に収まっていた。
アイオナは倉庫の奥にダーシュを導いた。
「何だ。内緒の話か?」
「ええ。そう。あなた以外には知られたくないの」
「わかった」
茶化す風もなくダーシュは頷いた。こういう所はこの男、話が早くて助かる。
「朝に港で会った男性を憶えている? ゼルヴィス・アナクシスっていう人だけれど」
「ああ憶えているぞ。確かペルギュレイオン競技会の優勝者だな」
ダーシュは中々憶えが良かった。アイオナは頷いた。
「そう。彼が宴会に来るわ」
「そんな感じだったな」
興味なさげな一言だったが、何故かアイオナはちくりとするものを感じた。
「何よ?」
「何が?」
「……何か不満でも有るのかと思って」
「まさか。何もないさ」
ダーシュは軽く首を振った。
「そう? ならいいんだけど……」
まだ引っ懸かるものがあったがアイオナは説明に入った。
アナクシス海将家のこと、商会への影響、そういう事まで含めてゼルヴィスが今日の宴会に求婚のために来るのだという話をした。
ダーシュは黙って聞いていた。話していてアイオナは、このことがダーシュの気分を害するのではないかと不安だった。
「……というわけなのよ。もちろん私は断るけれど、そのことで商会に悪影響が出るかも知れないわね」
「岳父殿はそのことについて何か意見はないのか?」
「意見も何も……父様は飛び出して行ってしまったじゃない。話なんか聞きようもないわよ」
「そうだな。今は岳父殿は居られない。しかし宴会には参加なさるだろう。何と言っても岳父殿の無事到着を祝う宴会なのだからな」
「この際はっきり言っておくけれど、父様が宴会が始まるまでに帰ってくるかどうかは怪しいわよ?」
「まさか」
ダーシュは軽く笑った。アイオナはにこりともしなかった。
「まさか……本当なのか?」
「人の予想を裏切るという事にかけては天才的な才能がある人だから」
「いや、それは……さすがにまずいだろう?」
「前に教えたわよね? 父様は常識を蹴倒して生きてるような人なのよ。だからその辺の良識は期待しない方がいいわ」
「しかしそうなると厄介だな。宴会の時に岳父殿が居られないとなれば……いや宴会はどうなってしまうんだ?」
ダーシュは情けない顏をした。昔は自分もああいう顔をしていたんだろうなとアイオナは思った。
「大丈夫よ。皆慣れているから。けどさすがに宴会の最中には帰ってくるでしょう。何と言っても自分の無事を祝うために開かれている宴会だもの。そうした好意をわけもなく無視するような真似をする人ではないわ」
「しかしそれでも問題だ。お前は断ると言ったが、もしその時に岳父殿が居られなかったら? そんな重大事をお前の一存で決めてしまっていいのか?」
「いいもなにも、本人が居なければわたしの一存で決めるしかないでしょ?」
「それはそうだが……」
ダーシュが迷っているのがアイオナには不思議だった。
それは家父長制の強いアウラシール人らしい反応であったが、そうした環境で育っていないアイオナには理解できないのだ。
ローゼンディアでも家長と言えば父親である場合がほとんどではあるが、何か重大なことについて判断を下す必要があるならば、まず間違いなく家長である父親は自分の妻に相談するだろう。
大事なことは夫婦で決めるのが常識だからだ。
「それで前もって言っておきたいんだけど、ひょっとしたらこの宴会であなたに不愉快な思いをさせてしまうかも知れないわ」
「ああそういうことか。気にするな。難しい状況なのは判った。上手くやるさ」
アイオナとしては勇気を出して言ったのだが、ダーシュの反応はやけに軽いものだった。
その所為でアイオナは何だか肩すかしを食った気分になった。
「それで? 何か打ち合わせでも決めておくか?」
「そこまではしないわ。それに前に話した内容で十分だと思うし」
「岳父殿にはあっさりばれたがな」
ダーシュは皮肉気に口元を曲げた。
「父様は普通じゃないのよ。父様を基準に物事を考えては駄目よ」
「そうか? 俺はよく判らんが、ペルギュレイオン競技会優勝者というのも、ローゼンディアでは普通じゃないんじゃないか?」
「それはそうだけど……」
何だろう。上手く気持ちが伝わらない。アイオナはもどかしさを感じた。
これは文化の違いなのか。何だろう。
「とにかく、そういうわけだから。また後で話しましょう」
言って、アイオナはその場を離れた。妙な胸騒ぎがした。




