第九章・五
予想はしていたがメイファムは終始自分の方式で食事をしている。
酒は飲まない。
メイファムが言うには、酒は運動能力や判断力を低下させるからだという。
確かにべろべろになるまで酔っ払っている人を見ればそれにも同意できるが、とりわけお酒に弱いとかそういうのではない限り、少しくらいなら問題はないのではないかとルキアは考える。
それに宴会の席などで一人だけ飲まないというのも怪しまれたり、場合によっては場の雰囲気に悪いかも知れないではないか。
しかしメイファムは駄目だという。
それこそ毛一筋の速度や動きで生死が決まるのに、そこに障碍を加えるようなものは口にできないというのだ。
もっともな意見である。メイファムはルキアの護衛である。
全てはルキアのために判断されていることなのだ。守られている側がそれに不満を言うなどあってはならない。
だからこうした宴会などの席で、メイファムがどういう食事の仕方をしようが基本的にはルキアは口を出さない。
気になることがあっても黙っている。
しかし今回、いや今日は、何やら嫌な予感がして仕方がない。
そしてルキアの嫌な予感というものは、ほぼ当たるのだ……。
メイファムはトラケス地方の庶民がするような方法で食事をしている。
椀に米を盛り、それを中心におかずとして他の料理を食べるというやり方だ。
いわば味の無いお米が主菜というわけだが、上級貴族であるルキアはそれに少し違和感が有る。
もちろんトラケス料理にはそうした場合もあるのだが、そうでない場合もある。
ルキアが主に食べてきたのは小皿が次々に出てくるような形式の料理で、トラケス地方の首都とも言うべきエルナセアのものだ。自宅がそこに有るのだから当たり前ではある。
一口にトラケス地方と言ってもかなり大きい土地なのだ。ゆえに至高と名高いその料理にも当然地方ごとに違いがある。
トラケス料理は大きく分けて三種類と言われている。
則ちブルネオス地方の料理、タスフィタ地方の料理、そしてトラケスの中心地たる都、エルナセアの料理だ。
それぞれに特色が有るがエルナセア料理は元々、祖神、狩猟神ダルフォースを祀る大寺院の祭祀料理から始っている所から祭祀料理とも言う。
偉大なる祖神を崇め祀るための料理であるから、最高の素材を最高の技術で調理したものであるのはもちろん、様々な味と食感を楽しめるようにと小皿が中心になっている。
つまりは精緻な技巧を凝らした小皿料理だと思えばいい。
物凄く大雑把に言えば、ブルネオスの料理は肉と野菜の料理が多く味は濃いめ。
タスフィタの料理は魚料理が多く、味は薄い物が多い。
そしてエルナセアの祭祀料理は淡水魚と肉、野菜の料理が多い。しかも非常に多彩な味付けをしていて、包丁遣いを中心に異常なまでの技巧を凝らしているものが多い。
基本となる皿の点数と組み合わせは、家柄と家格と家族内での立場によって決まるが、祭祀や儀式の際にはそれに合わせてその内容も変化する。
要は食事に参加する者の序列調整だが、かなり細かくねちねちと設定される。
食事に関する設定自体が一つの技術として確立されており、ゼメレス貴族にはその差配を学問として伝えている家系が有ると言えば、どれほど面倒臭いかが想像できるだろう。
メイファムの食べ方はそのどれにも属さない。トラケスの庶民の食べ方だ。
こう言うと庶民にも何か面倒臭い方式が有るのかと思われるだろうが、そんなことはない。
庶民も地方によって何を主菜にするかとか、肉を食うか、魚が多いかなどの違いはあるが、そこに面倒臭いしきたりのようなものは余りない。最低限の常識的な作法が有るだけだ。
そして食事における最も重要な作法とは、美味しくいただくこと。食材となった命に感謝しながら美味しく食べることだとされている。
ルキアも小さい頃そう教わったし、それは正しいことだと今でも思っている。
その観点から見る場合、メイファムの食事は満点を上げても良いものだと思える。実に美味しそうに食べるのだ。
それはいい。その事は素晴らしいと思える。けれど他人の宴会に呼ばれておきながら自前の食事を持ち込み、それを旨そうに食べ続けるというのは明らかに問題だ。
「ねえ……メレス」
「……なんでしょうか? お嬢さま」
きちんと飲み込んでから答えてくるのは当たり前だが、庶民の中にはそうでない者も多い。この点、さすがにメレスは最低の線は越えている。
「少しこちらのものも食べてごらんなさいな。かなり美味しいわよ?」
自分の皿にあるアウラシール風の海老の串焼きを指してそう提言してみる。
人目も有るのでまずは控えめに促すが、ここでメイファムが察してくれれば誰にも怪しまれたりせずに自分たち二人は宴会の中に溶け込むことが出来るだろう。
是非ともメイファムにはそこら辺を察して貰いたい。
無駄だと予測は付いている。でも是非とも察して貰いたい。
「お嬢さま。それはいけません」
メレスことメイファムは凄く真面目な顔をした。
「何がいけないの?」
「他のものを食べたら御飯が入らなくなってしまいます。この素晴らしい炒め物や、シュペリテを食べられないではありませんか」
そのとおりである。納得だ。ルキアもその点には異論はない。
でもそんな答えを期待していたわけではない。
「このお米も美味しいですね。さすが南部はいい米が取れます。少し粘り気が有るのがまた味わいがあると思いませんか?」
「ええ。そうね……」
「シェシェスに合うと思います。この米は。カロプロア米に近いですから」
シェシェスはトラケス料理の一つだ。米と魚介類を用いたものだが、それにはカロプロアの米が適していると言われる。
モルスロイの米でも作れるが少しぱさぱさしてしまう。モルスロイ米でシェシェスを作る場合は型に嵌めて押し込むのが普通だ。
どちらにも個性というか美味しさがあり、ルキアの場合、シェシェスは絶対にカロプロア米でなければならないとは思っていないが、メイファムはそう思っているらしい。
と言うか、そんな講釈が聞きたいわけではない。
メイファムの言っていることは至極真っ当なのだが、会話の内容自体が怪訝しな面を向いているために、全てが狂った方向に向かっているのだ。
ルキアは察してくれと期待するのを諦める事にした。
いつもそうだ。いつもそうなのだ。
メイファムに限らず、どうか空気を読んで欲しいとルキアが期待するときに限って、誰も彼もが全く期待に反した言動を繰り出してくるのだ。
「あなたの言うことも判るけれど、ここにあるのは一流の料理人が作ったアウラシールの料理なのよ。折角だから食べてごらんなさいな」
「アウラシールの料理ですか?」
メイファムは葡萄の絞り汁をごくごくと飲んだ。見た感じは葡萄酒に見えるので良い作戦だと思う。それに実に美味しそうだ。
ルキアにとって少し意外だったのは、この宴会で出ている葡萄酒がかなり良い物であったことだ。本来ならばこのような平民の宴会では出て来ないような酒である。
その事はメルサリス商会の豊かさと、招待客への誠意を感じさせた。
「気が進みませんね。なによりそれ――」
いかにも乗り気でないような声でメイファムが指さしたのは、ルキアが持って来たタバラである。
茹で卵と肉の切り身が入っているもので、凄くどろどろしている。
香りは刺戟的だが嫌な臭いではないし、何より味が素晴らしくいい。
味は濃厚だがくどくはない。しっかりと感じられる甘みがあるがこれは砂糖ではない。
ルキアにはそれがすぐに判った。砂糖ではこの甘さは出ない。蜂蜜でもない。
おそらくは何かの果物だろうと思われるがそれが何かまでは判らない。ルキアの知らない南方の果物ではないか。
辛さは苦痛を感じるぎりぎりの所で押さえられており、ちりちりと口の中を灼くもののそれが心地好い。
余談だが、ゼメレス族には「辛い」という用語がない。それは「痛い」の範囲の言葉で表現する。
一般の「辛い」は、ゼメレス族では「塩気が強い」という意味で用いられるのだ。
肉は最初、羊ではないかと思ったがどうも山羊肉のようだった。
一口ごとに強烈な香辛料が咽から鼻へ、そして胃袋へと落ちていく。
体の受ける反応はまるでトラケスの料理を食べているかのようだ。これだけの香辛料を使っているのだから当たり前だとも思えるが、味付けの方向性が全然違うのにそんな薬膳としての部分に共通点があるのが何だか面白い。
甘く、美味く、刺戟的なのである。
アウラシールの歴史の凄さを感じたルキアだったが、メイファムの方はそれを口にしていない。見ただけである。
そして見ただけで、やはり思うべきことを思っていたようであった。
「ウンコみたいじゃないですか」
それは禁断の台詞だった。
言ってはならない言葉をメイファムは口にしたのだ。
告白しよう。実はルキアにしてもそれを少しは考えた。
だがそんな馬鹿げた連想を口に出そうなどとは思いもしない。
ルキアは「自分は常識的な人間である」と自己評定している。
性格の悪いのは認める。だが常識観というか節度というか、そういうものに関しては及第点に達しているとの自負がある。
そんなルキアは素早く左右に目を走らせた。
幸い誰も今の発言を聞いてはいないらしい。
「私はそんな不気味なものを口に入れる気にはなれませんねえ」
まだ続けるか。この娘は。
「ちょっと黙りましょうか」
とにかくメイファムの発言を封じなくてはならない。ルキアは笑顔でメイファムの口を塞いだ。
両手を使う。逃げられないようにというだけでなく、こちらのうんざり感を察して貰うためだ。
――ああそう言えばつい今さっき、気持ちを察してもらおうと期待して裏切られたのだったわね。
そんな事を考えながらがっちり口を塞ぐ。
いきなり自分の主人に口を押さえられて慌てているメイファムを見て、どうしてそこで驚くのかしらと思う。
酔いが回っているわけではない。そもそもメイファムはお酒を一滴も飲んでいない。
だとしたら素で言っているのだ。「タバラはウンコみたいだ」と。
よろしい。発言の自由は認めよう。
ただ発言後の自由は認められないのが人間社会というものだ。
その事を学習していないならば、悲しいが実力行使を行なわせて貰うほか無い。
大体、人の宴会に呼ばれておきながら、出て来た料理に「ウンコに似ていますね」などという者がいるのか。礼儀以前の問題だ。頭が怪訝しい。
生まれた時から一緒に育ったお付きの相手の頭が怪訝しいというのは非常に悲しい事実では有るが、事実は認めなくてはならない。明日に向かって希望を信じて頑張ろう。
頑張るためには今すぐにこの馬鹿娘の口を封じなくてはならない。
「私がいいと言うまで、一言も口を開いては駄目よ」
ゆっくりと静かに、発音を明確に、かつ笑顔でメイファムに言い聞かせる。
誠意が通じたようだ。メイファムは目を見開いて何度も頷いている。こういうとき暴力って便利だわとつくづく思う。
「この宴会場にいる間に、二度と、その言葉を口にしては駄目よ?」
ね? という感じで微笑み、小首を傾げてメイファムに迫った。
メイファムがまた何度も頷くのを確認してからやっと手を離してやる。
礼儀以前の問題を起こすということはそもそも理解の水準が違うのだ。
何が良くて何がいけないかという判断基準自体が怪しいわけであって、つまり道理を説明してもメイファムには通じない。
それが彼女の頭の悪さだとは思いたくないし、思う気も無いが、メイファムには時々こうした、ひどくずれているというか怪訝しな所が有る。
「わかりました……もう二度と口にいたしません」
なんだか怯えられてる気がするが求める結果が得られたのだから良しとしよう。
暴力って便利! だが便利ではあるものの、常に目標とはすこしずれた結果をもたらす手法でもある。そこを忘れてはならない。
「お前ら何をやっとるんだ?」
すぐ近くでごそごそやっていた所為か、ベルゼルの注意を惹いてしまったようだ。
「なんでもありませんわ」
「そうか?」
メイファムの様子を見ながらちょっと疑問そうな顔をしていたが、すぐに料理と酒に戻っていった。良い酒と美味い料理に感謝だ。
結局メイファムはアウラシールの料理には口を付けなかったがその後は変な事も言うことはせず、黙々とシュペリテで御飯を食べ続けた。
その合間に葡萄の絞り汁を飲む。結構飲む。しかし顔色は全く変わらない。
酒ではないので当然だが、端から見ていると相当な酒豪に見えているかも知れなかった。
ルキアはルキアで、アウラシールの料理が新鮮に美味しいと感じていた。
どれも美味しいのだが、中でも傑作なのは魚の煮付けである。
やはり香辛料をたっぷり使って作られた煮付けなのだが、素材となっている魚が見たことも無いもので珍しい。
ぎざぎざの歯が生えた恐ろしげな姿をした魚で、どこのものだか判らない。
なにせトラケスにはいない魚だ。南の方でしか捕れないのかも知れない。
「……それを召し上がるのですか?」
警戒したような、嫌そうな呟きがメイファムから聞こえてきたが、ルキアが笑顔で振り返るとすぐに目線を逸して葡萄の絞り汁を飲み始めた。
また余計な事を言ったのだということさえ自覚してくれればいい。
「なんだか恐い顔をした魚だけれど、料理に関しては一般に容姿と味は無関係よ?」
箸が有ればなと思いつつ、スプーンとフォークで身を剥がす。
ぷるりとした白身が湯気と共に現れる。美味そうな香りがふわりと漂った。
さてどうかしらと思いつつ、それを口に運ぶ。
――???
驚くほど美味しい。なんだこれは。食べたことのない美味しさだ。
爽やかな塩味と強烈だがくどさのない香辛料の合わせ技。
ほくほくしている。温かな水気が……水気が……絶妙!
塩と香辛料の調整が絶妙。絶妙としか言えない。
汁が美味しい。とんでもなく美味しい。
なんだこれは。
料理人は一流だ。それはすぐに判る。何故って素晴らしく美味しいからだ。
しかしその料理人は自分達がストゥラニを作っているときに、こちらを意識していたあのユスタハだ。
素人相手に競争心を燃やすなんて妙なアウラシール人だと思っていたが、腕の方は本当に確りしていたわけだ。まあそれは海老の串焼きや山羊肉のタバラなどを食べた時点で判ってはいたのだが。
山羊肉のタバラは見事だった。あのまろやかな美味しさと甘さ、そして絶妙に抑制された痛さ……いやさ辛さ! 素晴らしいとしか言いようがない。
しかし一番気に入ったのはこの恐い顔をした魚の煮付けである。
なんという美味しさか。見掛けの割に。
そう。世の中には見掛けと味が正反対の方向を向いているものが結構あるのだ。
トラケス料理では様々な茸を使うが、その大部分は恐ろしげで不気味な姿をしているし、海産物にはもっと見掛けの酷いものがいくらでもある。
だがどれも美味しい。ちゃんと調理すれば素晴らしく美味しいのだ。
この魚の名前を知りたい。ルキアはふとそんな事を思った。
おそらくは淡水魚。それも泥の中を這い回ってるような類いの魚ではないか。
何となく味の感じからそう予想したが無論どうだかは分からない。
「……お嬢さま?」
こちらを伺うようにメイファムが話し掛けてくる。
「……美味しいわ。これは美味しいわよ」
教えてやると、やはりメイファムは嫌そうな顔をした。「それを食べるのですか? 私は御免蒙ります」そんな台詞が聞こえてきそうな顔だ。
別に無理に薦めようとは思わない。ただ自分は気に入った。それだけのことだ。
そんな風に料理を楽しんでいるとアイオナがやって来た。少し話してストゥラニを渡した。
するとデムニスの姿が目に入った。
いや違う。デムニスの方がルキアの視界に入ってきて見せたのだ。
アイオナに知り合いに挨拶してくると言って席を立つと、ルキアはデムニスの立っているところへ向かった。
デムニスの方でもそれとなく人の少ない方へと歩き出す。ルキアはその後を追った。
宴会の騒ぎの中心から少し外れた辺り、酔い覚ましに設けられたであろう一画でデムニスはルキアを待っていた。
明りはあるものの、建物の蔭になっている場所である。
しかし誰かがその姿を目にしたとしても、デムニスが人を待っているようには見えないだろう。単に休んでいるようにしか感じられない風を装っているからだ。
「こんばんはデニムス。あなたもこの宴会に来ていたのね」
「おお。エルミラさんではないですか! 珍しいところでお目にかかりますね」
意外なように言うと、デムニスは立って挨拶を返してきた。
丁寧な挨拶だ。デムニスは小柄な男である。
おとなしそうな誠実そうな外見とあいまって、いい印象を与えるが、あくまでそれなりだ。物凄く好印象というわけではない。
いくら良い印象を与えても、目立ってしまっては逆に困るのだ。
本業の内容から言っても、相手の印象に残らないことの方が遥かに重要なのだから。
なんか感じの良い人だったけど存在感の薄い人。
そういう風に思われるのが理想なのである。その意味で、デムニスの擬態は非常に見事だとルキアには思われた。
向き合った相手が「危険そうに見えなければ見えないほどますます危険」だと言ったのはグラトリアだが、本当に正しい見解だと思う。
さて芝居を始めなければ。どこで誰に聞かれないとも限らないのだ。
「私もこちらの商会とは取り引きがありますから。エルミラさんもですか?」
「いいえ。私はこちらの商会員さんと御縁があってね。それで今回呼んでいただけたのよ」
「そうだったのですか」
お互い周囲の目を考慮して分かり切った芝居を打つ。
「偶然とは面白いものですなあ。こんなことなら一緒にこちらに来れば良かった」
「いいえ。まさかお互いメルサリス商会の宴会に招待されているなんて思いもしないもの」
「ははは。まあ確かに……そうそう、先程お伝えし忘れたことを思い出しました」
本題が来たなとルキアは思った。
「例の笊ですが、ご用意できそうですよ。先方が引き受けて下さるそうです」
「まあそれは嬉しいわ」
ルキアは微笑んだ。そうか。ディブロスに着いたのか。
「大きい物が三つに小さいのが三つ。あとおまけを付けてくれるそうです」
「それは嬉しいわね。どんなおまけなの?」
「さあ……それは見てのお楽しみだとか」
「気を持たせるわね」
専業の戦士が3人、その部下か召使いかが3人、後一人よく判らないのがいるというわけか……。
「ただ親父さんの口振りだとかなり良い物のようですよ。これから取り引きが始るんだからとか何とか言ってましたから」
おまけは重要人物。そこでルキアはザハトが目を掛けているとかいう元奴隷の少年を思い浮かべた。
一度も会ってないのに何故かその姿までが浮かんだ。
品の良い、理知的な面差しや右肩に残った傷跡までが見えた。
やはり勘が冴えている。いや冴えすぎていると言ってもいい。
ここディブロスに来てからはずっとこんな調子だ。
何かあるのだ。
それがこの土地の所為なのか。今自分が関わっている問題の所為なのかは解らないが……。
「では私はそろそろ席に戻りますが、ご一緒しますか?」
「いえ。私もメレスを連れて来ているのよ」
「またお店の方でお目にかかりましょう」
「ええ。よろしくお願い」
別れの間際に密かに小さな紙片を受け取った。それをさりげなく懐にしまい込むとルキアは自分の席に向かった。
するとそちらの方が妙に騒がしいようである。
――!
半ば予想していたことではあったがメイファムが問題を起こしていた。
食べ物のことになるとあの娘は昔から向きになるところがあったが、ここまで急激に頭が悪くなるとは想像していなかった。
思えば今までは同族の暮らすトラケスの各地域や、王都のあるオギュルエ、付き合いの深いイオルテス地方にくらいしか一緒には行っていない。
異なる食文化に共に接した経験がなかったのだ。今回が初めてである。
メイファムは食文化に関して保守的な考え方を持っているなと思ってはいた。
けれどこれは酷い。これは何とかして改めて貰わなければならない。でないと一緒にこうした宴会などに出られないではないか。
メイファムと言い合いをしているのはアウラシール人の若い男である。遠目からでも品の良い雰囲気が伝わってくる。
おそらくあれがダーシュ王子であろう。ルキアはそう当たりを付けた。
「――ここの料理長はジルバラ地方の出だけあって本格的な味ですよ。素晴らしく美味しいので是非どうぞ。ローゼンディアでは食べる機会は余りないのでは?」
「何と言われようとこんな不気味なものを――」
話の途中でメイファムは急に言葉を切った。ルキアの姿を目にしたからだ。
すぐに口を開いたり閉じたりして眼を泳がせ始めた。
近くに立っていたアイオナがメイファムの異常に気付いて辺りを見回している。こちらに気付いたようだ。
とにかく先ずは謝罪しなくてはならない。メイファムが何を言ったかは判らないが、どうせ碌でもないことなのだ。
「私の連れが何か失礼をしましたようでお詫びいたします」
ルキアはダーシュの側まで歩いていくとそう言って詫びた。
貴族社会と違って気軽に謝ることの出来る平民の世界は、ある意味気楽であるとさえ言える。
ああ、今相手にしているのは平民ではなかった。王族だった。
そんなことをちらりと考えたルキアであった。
「いや、何も失礼なことなどありませんよ。私はただサディクネモサをこちらにお薦めしていただけですから」
ダーシュは別に何も問題は起きていないというような言い方をしてきた。
こちらに向ける穏やかな笑顔は、良く鍛練を積んだ社交用の仮面に違いない。実に良い出来だとルキアは感心した。
「サディクネモサと言うのですか。先程ファナウス殿にタバラというのは我々の言葉での呼び名だと教えられました」
「ええそうです。ジルバラの人はそう呼びますね」
「失礼ですがジルバラのお方ですか?」
「はいナデフの出身です。ですが幼い頃にアンケヌに移住しましてね」
息を吐くように嘘を吐くダーシュ王子らしい男を見て、ルキアは笑いたくなったが、それを押さえて質問を向けた。
「すみません。ナデフと言われてもどちらになるのか判りませんわ」
「お気になさらずに。ジルバラには都市国家が沢山ありますがその中の一つです。尤も歴史があるというだけで、取り立てて自慢できるものなどありませんが」
謙遜する姿もまた様になっているというか、良い感じだ。
「歴史があるというのは最も素晴らしいことだと思いますわ」
「そう仰っていただけると嬉しいですね」
まるで社交界の会話だ。そんな風に思いながら横目でアイオナを見ると、何だか面白くなさそうな顔をしている。
そんなに判りやすい顔をしていては駄目よと注意してやりたくなるほどだ。
今後のことを考えるとかなり不安である。こういう弱点のある娘だとは思わなかった。
その事を踏まえておかねばならないな……と頭の片隅に注意事項として記載しておく。
――大丈夫。私はあなたの夫に対してその方面の興味は全く持っていないから。
そういう思いを込めてルキアはアイオナに微笑みかけた。すると今度はどきりとしたような表情を見せた。
あら嫌だ。あの人こっちの心を読んだのかしら? そんな言葉が聞こえてきそうな顔である。
判り易すぎる。表情豊かなのは人として魅力的だし美点だとも思うが、それも時と場合によりけりである。
特に貴族や商人などはその立場上、交渉事が多く舞い込んでくる。交渉相手にこちらの内面を読まれてしまっては話にならない。
アイオナはメリサリス商会の跡取りだと言うが大丈夫なのだろうか。
父であるファナウスには老練な油断無さを感じたがその娘がこれでは……いくらディブロスでも有数の大店とは言え、行末が心配になろうというものだ。
そしてそんな不安とも同情ともつかぬ内心が、自分の顔に表れていることなど絶対にないだろうという自信がルキアにはある。
何せ幼い頃から己が内面が顔や振舞いに現れぬよう鍛錬してきた。そして今も鍛錬している。
アイオナにもこの鍛錬が必要だ。でなければ生き残れない。
彼女自身のためにもいずれこの事実を指摘して対策を授けることにしよう。
――彼女自身のためにもか……。
実に「貴族的な言い分」である。我ながら呆れるなと思いつつ、口と顔はダーシュらしき人物との会話に振り向けておく。
なんでもあの恐い顔の魚はカピラゴと言うらしい。
ジルバラ地方に棲息する魚で泥の中で暮らし、昔からジルバラの人の食用になっているという。
あれを見て食べようと思った人は余程お腹が空いていたのだろう。でなければ感性がどうかしている。
「でも泥臭くはないのですか?」
「泥臭いですね。それに潮臭い。カピラゴ料理の歴史はその臭みをどう抜くかという試行錯誤でもありますから……どうやって抜くと思いますか?」
笑顔でダーシュ王子と思える男が尋ねてくる。
「塩ですか」
何気なく口にした言葉だったが、その言葉に男は僅かに眉を動かした。
驚いたのだ。その驚きを引き出してしまったことにルキアはしまったと思った。
問題のある食材を扱う場合、通常は乳に漬け込んでおくのが定石である。
臭み抜きに限らず、何か困った時には牛なり山羊なりの乳を使うのだが、香辛料を使うという手もある。
しかしこれは香辛料が贅沢に使えるという特殊な環境があって初めて可能なので、やはり困ったときには乳に漬け込むのが常識なのだ。
ただし魚の泥気を抜くのならば生かしたまま真水に浸けて置くのが定石だ。ローゼンディアではヌムルを料理するときに必ずこの手法を使う。
問題は魚自体の臭みの方で、特に磯臭さを消す場合である。
これは中々に難しい。皮を剥いだり香辛料を使ったりするのが一般的だが、実はトラケス料理には一風変わった方法がある。
逆説的な発想と言うべきか、実は塩を使うのだ。
潮臭さを取るのに塩を使うというわけで、一見奇妙だがまことに効果的なのである。
普通の発想ではないので当然一般的ではない。ところが今ルキアは迷う事無く塩を使うだろうと予想してしまった。
「失礼ながら料理の経験がおありなのですか?」
「ええ。腕の良い料理人に習っていた時期がありますわ」
「なるほど……それで納得しました。確かに塩を使うのですよ」
「でも私自身は全然大した腕ではありませんのよ」
「ご謙遜を」
男は微笑んだ。それは今までと全く同じ笑みに見えるが、内側では何かを考え始めているように見えた。ルキアはそう感じた。
「あなたに料理を教えていたという人物は超一流ですね。驚きましたよ」
「はい。確かに最高の腕を持っている料理人でしたが、どうしてそれがお判りに?」
「判りますよ。あなたにもお判りのはずだ」
これは、この話題はここらで切り上げないとまずいなと感じた。
「ところで今更でもうしわけないのですが、御名をお聞かせ願えますか? 私はここディブロスで店を営んでいる者でエルミラと言います。あちらはメレス」
メイファムの方を手で示すと、慌てて顔を下げるのが見えた。
ルキアと目を合わせるのが恐いのだろう。余りの情けなさに溜め息が出そうだが、今は我慢する。
「ああこれはしたり。お詫び申し上げる。手前はダーシュ・ナブ・ナグム・ナブ・テザク・アヌン=イビヌと申す者です」
やはりダーシュ王子だったか。
まあこの状況では彼以外に該当者はいない。予想できて当たり前なのだ。
ダーシュは右手を胸前に持ってきて腰を軽く折った。
店を経営している間に何度も見たアウラシール商人の礼法だったが、なんとも優雅にやるものだなと思った。
「どのようにお呼びすればよろしいですか?」
アウラシール人の名前は長い。そこに家系やなにやら色々な情報が含まれるからだが、そこから本人の望む呼称というものが決まってくる。
名前の中には周囲から送られるという尊称などというものもあり、ややこしいことこの上ない。、
一般には本人の名前に加えて誰某の息子だとか父だとか付くのが普通なのだが、親しい者同士では本人の名前だけ呼んで済ます。ルキアもお茶会ではそうしている。
ルキアとしてはできるだけ本人が呼ばれたい名前で呼ぶのが良いだろうと思っての質問だったのだが、同時に「自分は外国人なのだぞ」という意味を込めての発言である。
「ダーシュで結構ですよ。外国の方には我々の名前は長すぎる」
「ありがとうございます。助かりますわ」
「代わりと言っては何ですが、私も貴女のことをエルミラと呼んでもよろしいですか?」
「もちろんですわ。是非一度店の方にもお越し下さい。歓迎しますわ」
「ありがとうございます。では私はこれで失礼いたします」
ダーシュはルキアに一礼すると、不機嫌そうなアイオナの方へと向かった。
これから言い訳でもするのだろうか? そう考えると何だか可愛らしい。
さて――。
アイオナと顔を合わせるという重要な事項は達成した。
後は特にすることもないのだが、適当に料理を楽しんで帰るとしよう。
肩の荷が下りた。そう考えたときに限って不意打ちがあるのが人生というものである。
ルキアはそのことを思い知らされる破目になった。危うく飲みかけていた葡萄酒をこぼしそうになった。
ファナウス・メルサリスが一人の男性を伴って歩いているのが目に入ったからだ。
唯一救いだったのはその狼狽をファナウスに見咎められなかったであろうことだった。
ルキアが葡萄酒を入れた杯を卓上に置いてから、ファナウスがこちらを見たのを確認している。
ファナウスが伴っているのはルキアの知っている男だった。
どちらかというと冴えない外見をした男である。丸顔にくりっとした目と小さな鼻、少し突き出た唇に、柔らかそうな明るい髪をしている。
一言で言えば子供のまま成長したような顔立ちなのだが、精神の方は全くその外見と正反対をしているから始末が悪い。
彼は自分の容貌をよく理解していると見えて大抵は若者が着るようなものを着ている。
それで違和感が無いから問題なので、若造りに腐心する貴族や金持ちの商人などは、彼を羨んだり嫉妬したりしているという。
まさにその反応を上流階級から引き出すことが彼の狙いなのである。要するに根性の悪い男なのだ。
その根性の悪い男がルキアのことを知っている。極めて危険な状況だった。
賭け事は好きではない。運という不測の要素が大きく関わってくるからで、そこに面白さを見出せないからだ。
ルキアは純粋に技術や知性を問われるようなものが好きだ。一手一手駒を進めていくような勝負事が好きなのだ。
しかし物事、意に反して賭けになってしまうということはある。今がその時だった。
「おおエルミラさん。素晴らしい人物を紹介しよう」
ファナウスはそう言って連れて来た男性を紹介した。
ルキアの姿を目にした瞬間、相手にも驚きのような表情が浮かんだのを目にした。
だが僅かの間にそれを納めると素知らぬような顔をしている。
これが特殊な状況であることを察せぬほど馬鹿な男ではないからだ。
さて、賭に出なければならない。
「まあどなたですの?」
ルキアは微笑み、期待するように目を見開いた。
これで理解できぬようならば、お前の世評名高い知性も地に落ちたものだなと念じながらの博打勝負である。
「ファナウス殿。私を紹介するのは一向に構わんが、同様に私に対してもこちらの美しいお嬢さんを紹介することを忘れて欲しくないものですな」
乗ってきた。助かる。後で使いを送って話を組み立てる必要があるが、これで最初の難関は乗り越えた。
「もちろんだとも。こちらはエルミラ……なんですかな?」
「ハジェスです。エルミラ・ハジェス。そしてこちらが私の連れのメレス・イアトスです」
「ああもうしわけない。ハジェスでしたな。どちらのご出身ですか?」
さっき名告っているだろうに。一流の商人であるファナウスがそれを忘れるわけがない。
おそらくさり気なく探りを入れてきたのだろう。
ここでルキアは先程聞いたダーシュ王子と同じ嘘を早速使わせてもらう事にした。
「生まれはロスメニアですがガレノスで育ちました」
言葉から出身地を探ろうとしてもガレノスならば大丈夫だ。
王都であり、余りに大きな都市なので国中から人が集まってくる。方言や訛りなど、何があっても言い訳が立つ。
生まれを西部ロスメニアとしたのは自分の髪と瞳の色を考慮してのことである。
「なるほど……ガレノスならば貴女のように美しい方でも私が出会えないわけだ」
ファナウスの連れて来た男は頷き、納得したようにそんなことを言った。
全く外見に似合わない伊達男のような物言いだがこういう男なのである。
ルキアとしては芸風なのだと思っている。
――そう来るか。
つまり彼は世間で言われる自分への評判を踏まえた上で、その方向で芝居しましょうとルキアを誘っているわけだった。
「褒めて下さるのは大変嬉しいですが、それではまるでガレノスには無数の美人がいるようにも聞こえてしまいますね」
「外見だけでなく精神にも優れたものをお持ちのようですな。貴女のその耳も、麗しき心も、共に共同して我が言葉を正しく捉えて下さっている」
ここでルキアはただ微笑むだけにしておいた。相手に更に喋らせるためだ。
「ただし付け加えるならば真珠は一つであっても、大皿に盛られていてもその美しさ、素晴らしさに代わりはないということです。尤も世の男共の細君にあっては、己が首周りを飾り立てるだけの数が欲しいと仰るかも知れませんがね」
男はそう言って締め、肩を竦めた。
この男らしい、実にこの男らしい話しぶりである。
見事ね。そう言って褒めてやりたいくらいだが、代わりにルキアは明るく笑って賞賛を示すこととした。
「相変わらずだな……エルミラさん。彼はクセヴィウス・ナウス・ペリステリエスというのだが、ひょっとしてご存知ですかな?」
ご存知ですとも。王都で幾度か話したこともあるし、印象深い男だった。
そしておそらく相手の方でもルキアの事を良く憶えているだろうと予想できるのだ。
だってつい最近、別の宴会で顔を合わせたばかりなのだから……。
それだけに出会すと非常にまずい相手なのだ。もう遭遇してしまったが。
「お名前を幾度か耳にしたことはありますわ。作品の方は残念ながら拝見しておりませんが」
「それは非常に残念でありますな。もし宜しければ後日私の方から何か献本いたしましょうか?」
如何にも自然な物言いだが、その実どうせ献本には余計な手紙などが付いてくるのだろう。
やはりクセヴィウスも何故ルキアがここに居るのか興味が有るというわけか。
それはそうよねとルキアの方でも納得はする。
しかしそれを言うなら、哲学者のお前が何故このような市井の宴会になど顔を出しているのだ。こちらこそそう問うてみたい。
いや、哲学者だからこそか?
まあ根性の悪い者同士仲良くするとしよう。特に利害の絡む相手でも無いし頭も悪くない。邪魔をするなと釘を刺しておけば何もするまい。
ルキアは自分はエルミラという名の商人であること、どこに店を構えているかなどを話し、機会が有ればお立ち寄り下さいと通り一遍の口上を述べた。
クセヴィウスの方でも自分は詩作などして過ごしている暇人であり、こうして宴会で新たな出会いがあることが大きな楽しみなのだとか、つまらない言葉をこれまた通り一遍に述べた。
ファナウスは彼は非常に才能のある男であり、面白い文章を書くと褒めた上で、ただし美人を見ると見境無しに揶揄って歩くという癖が有るから貴女も注意した方が良い。
この男は信用できませんと本人を前にルキアに説明した。
そんな紹介されているのにクセヴィウスは楽しそうであった。演技ではなく本当に愉快そうなので、おそらくファナウスとは気が合うのであろう。
クセヴィウスと気が合う時点でファナウスも碌な奴では無いとルキアは思ったが、もちろんその碌でもない面子の中に自分も入っていることは自覚している。
クセヴィウスは時々ルキアに意味ありげな目を向けていたが、会話が終わるとさらりと挨拶をして去って行った。
どうせ後で余計な手紙が付いた献本が店の方に送られて来るであろう。
多少面倒臭いがその程度で済むならば仕方のないことだ。
――やれやれ……
一波乱乗りきったと思って少し脱力した。
それで緊張が抜けた所為か、ルキアは今までにない良い香りが漂ってきているのに気付いた。しかもよく知っている香りだ。
ヌムル・ディフカーレか……。
あれが出てくるという事は宴会の料理も出つくしたということだろう。
席に戻るとメイファムが待ちかねたように話し掛けてきた。
「お嬢さま。ヌムル・ディフカーレの匂いが致します!」
やや興奮気味だが気持ちはわかる。メイファムだけでなく自分もヌムルは大好きだからだ。
「そうね。どういうものがあるか見てきてくれるかしら?」
「お任せ下さい」
先程の一件でメイファムが食に関して保守的なのは、嫌になるくらい理解させられている。
ヌムルの調理に関してはトラケス以外の地域ではディフカーレのみの一択だ。
大雑把に言えば捌いて串を打ち、味を付けて炙り焼きにするのだが、実際にはかなり手間の掛かる料理である。
それでもローゼンディア人はヌムル・ディフカーレを愛してやまない。
物凄く美味しいからである。
ちなみにヌムル・ディフカーレと言ってもトラケスと他の地域とでは調味料に違いがある。
トラケス地方では薬味にヴァサンを使うが、カプリア地方やテレマイア地方ではコヌムを使う。
トラケスでは味付けにメリラとトゥルーブを混ぜて使うが、他の地方では蜂蜜を使う。 ただし味付けの方向性は全く同じだ。
しかし妙ねとルキアは思った。
どうにも馴染みのある匂いだ。コヌムや蜂蜜ではこの匂いは出て来ないと思うのだが……。
思っていると、メイファムが串を二つ持って戻って来た。笑顔だ。素晴らしい笑顔だった。
「お嬢さま! ありましたよ! ちゃんとしたヌムル・ディフカーレです!」
それは見れば判る。それと「ちゃんとした」という言い方は何とかならないか。
「お嬢さま! 向こうにはヌムル・ハーセルもありましたよ!」
ハーセルというのは味を付けずに焼いた素焼きのことだ。味を付けて焼いたものがディフカーレになる。しかしそんなものまであるのか。
相変わらず興奮気味のメイファムを押し止めてルキアは少し思案した。
なるほど。食道楽だと聞いてはいたし、この宴会でもそれを感じさせられては来たものの、ファナウス・メルサリスは大した男だ。
ヌムルの正しい食べ方をきちんと辨えているのは素晴らしい。
今はまだこちらの立場は明かせないが、時が来れば親しく付き合える相手となるかも知れない。
となれば多少、こちらの手の内をばらしても問題あるまい。
「馬鹿ですよ! ここに居る連中は。得体の知れない付け汁をみんな持っていくんですから。ハーセルにはトゥルーブに決まっているのに!」
メイファムは又も浮かれて危険な発言をしだした。
ルキアはメイファムの言葉を制して、
「はいはい……ではそのハーセルを取ってきてくれるかしら? ああ、おそらくヌアトも有ると思うから忘れては駄目よ?」
ヌアトはトラケスでは一般的な香草の一種で、刺すような味わいがある。鋭く鼻に抜ける刺激が特徴で、他の地域では余り使われない。
例外は王国西方のヘカリオス族で、彼らは肉を食べるときにヌアトをよく使う。だがこれもゼメレス族から伝わったものだと聞く。
ヌアトは下ろして付け汁に加えるのが一般的な味わい方だが、ゼメレス族でも特に食に関してうるさい連中は、この時に下ろし金を使わない。繊細なヌアトの味に金属臭が混ざるのを嫌うからである。どうするかというと鮫皮で下ろすのだ。
ひょっとするとここにも鮫皮で下ろしたヌアトがあるかも知れない。
いや、そこまでは期待しすぎか……。
「もちろんですよ。お嬢さま」
どうしてそこで得意そうな顔をできるのかなあ……でもまあいいか。
ヌムル・ディフカーレと言えば宴会料理の花形だ。メイファムが浮き浮きするのも判る。
トラケスにはヘポイオイの後でディフカーレという言葉があるくらいなのだから。
ヘポイオイは亀の一種であり、一度食い付いたら離さないことで知られる。そしてとても美味しい。
……しかしまさかこんな所で、ゼメレス館以外で、故郷と同じヌムル・ディフカーレを食べることになろうとは。
わからないものね、とルキアは思った。




