第六章 結婚
あくまでも仮初めである。
それでも何故かどきどきしてしまう。
宴のための正装をし、ダーシュの正装を見たら、いよいよ落ち着かなくなった。
頭は布で覆われ、長い黒髪はそのまま垂らされていた。
風通しの良い白い木綿着は変わらないが、金の首飾りをしている。
貴石が編み込まれた、胸を覆うような平たい首飾りだ。これはカラヤといってアウラシールの正装には欠かせない装身具だという。
腰には綺羅びやかな腰帯を巻き、いかにもアウラシール風の刺繍が施された、裾の長い腰布を垂らしていた。
一見してまさにアウラシール人の正装であった。
いや、アウラシールのというよりも、アンケヌの正装であるというのが正しいのかも知れない。この広大なアウラシールには、様々な都市があり、様々な部族民がいる。それぞれの習俗もまた様々なのだ。
無論、ダーシュ自身が持ち込んだ衣装ではない。ヒスメネスが用意したのである。宴が済んだら返すことになっている。
妻がきちんとした恰好をするのに、夫がそれに見合わぬ恰好をするわけにもいかないからだ。
ともあれ、アウラシールの正装はダーシュに似合っていた。いや、アウラシール人なのだからそれも当然なのだろうけれど、それだけではなく、きちんとした恰好をしている方がむしろ自然に見えた。きっと、元はそれなりの身分であるに違いない。
一方アイオナは、当然ながらローゼンディアの正装であった。ローゼンディア織りの裾の長い貫頭衣に、幅広の綺羅びやかな腰帯をし、ローゼンディア風の刺繍が施された肩掛けをしていた。
ダーシュはそんなアイオナを品定めするように見、我が妻としてはまあ及第点とでも言うような笑みを浮かべたものだった。アイオナは腹立たしくも恥ずかしくなった。
そのまま落ち着かぬ気持ちで祝いの席に着き、結婚報告をして皆からの祝福を受けると、もしかして本当に結婚してしまったのではないかと妙な気分になった。
宴から引き上げて自室に戻ると、今までアイオナが使っていた寝台が撤去され、代わりに二人用の大きな寝台が用意されているのが、暗がりの中にうっすらと見えた。
アイオナは思わず息を呑んだ。
もちろんこれは見せかけのものである。この部屋で寝るのはアイオナ一人である。万が一宮殿から警吏が派遣されてきた場合に備えて用意した、言わば舞台装置である。
ダーシュがこの寝台を使うことはない。
にも拘らず緊張した。
と、急に背後で扉が閉まり、アイオナは飛び上がりそうになった。
振り返って燈りを翳すと、ダーシュが立っていた。
別段驚くことではない。本来ならば。
本来ならば、夫婦は二人一緒に引き上げてきて、同じ部屋に入るのだ。
アイオナの緊張した顔付きを見て、ダーシュは意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前、期待しているのか?」
アイオナの顔がぱっと赤くなった。
「そんなこと、かっ考えてないわよっ!!」
ダーシュは愉しげに笑い、肩に羽織っていた上着を脱いだ。アイオナはどきりとしたが、他意は無いようだった。首飾りを外すためのようだ。
首飾りは結構な重さがあった。ダーシュは宴の間中これを着けていたのだから、肩が凝ったかも知れない。金の鎖がじゃらりと鳴った。
黙って差し出すそれをアイオナは受け取った。後でヒスメネスに渡すのだ。
「すまんが俺の剣を返してくれるか?」
宴の前に、剣はアイオナの部屋に移されていた。アウラシールの慣わしだと言うが、夫婦は寝所を共にするものだから、結局は剣は夫の居る場所にあることになる。
本来ならば、だ。
アイオナはつかつかと歩き、寝台の脇に立て掛けておいた剣を取ってダーシュに手渡した。
「さあ、これで用は済んだでしょ。さっさと出て行って」
「ああ」
ダーシュは剣を腰に差した。
「早速だが夫としてお前に言っておくことがある」
再び心臓がどくんと動いた。
「何よ」
つっけんどんな口調になってしまったのが腹立たしかった。ダーシュはきっと気付いただろう。そう思うと今度は恥ずかしくなってきた。
「何よ。用があるなら明日にして」
「お前、今日はもう部屋から出るな」
「どうしてよ?」
出るつもりなど元から無いが、反論するような言い方になってしまった。
「理由は後で判る」
それだけ言い置くと、ダーシュは歩き去ってしまった。
庭の篝火を受けながら遠離るその背を、アイオナはぽかんと見つめた。
ダーシュの部屋の扉が閉まる音が聞こえて、アイオナは漸く我に返った。
忽ち怒りが込み上げてきた。なんなのだろう。あの態度は。これが結婚初夜の妻に対する態度なのだろうか――と思ったところで、これが偽装結婚であることを思い出した。
何故だか急に気分が落ち込んだ。選択を間違ってしまったような気がした。
いや、間違っていたのは選択ではない。手順だ。
結婚自体は已む無きことだった。問題は今夜の宴に到るまでの流れだ。その中に手続き違いがあったのではないだろうか。
そういえば、ダーシュは酒をほとんど口にしなかった。
何か気に入らないことでもあったのだろうか?
そつ無く宴の主賓を務めていたように見えたが、内心は辟易していたのだろうか?
そう思うと悲しくなった。急に泣き出しそうになり、アイオナは寝台に倒れ込んだ。そのままじっとしていた。
努力が空回りになることには慣れているけれども、今回のはかなり堪えそうだった。
*
アイオナにはちょっと可哀相なことをしたかも知れないと思った。
状況を説明してやるべきだったかも知れぬ。だが話せば、あの女の性格からして黙っているとは思えない。何かと問題になる可能性が高い。
何より用心すべきはあの家宰の男だ。奴も酒をほとんど口にしなかった。多分こちらの様子を見ての判断だろう。大した観察眼だと思う。
今夜は剣は手放せない。何事にも手違いはある。用心をしておくべきだ。
ダーシュは月を見上げた。庭には篝火が燈っている。今夜一晩燃やし続けられるはずだ。燈りがあるのは有り難いが、それだけ目立つと言うことでもある。
忙しい夜になりそうだった。