第九章・二
メルサリス商会は港の近くに大きな商館といくつもの倉庫を構える大店だった。そのように聞いてはいたが想像よりも規模が大きく、ルキアは感心した。
「大きい店ねえ」
「そうですね」
メイファムの返事は素っ気ないがいつものことなのでルキアは気にしない。
商館は四階建てで一階が商店になっている。この規模の商人にしては珍しく、なんとそこで小売りもやっているようだ。
この辺りは大規模商人が並んでいる区画なので、ほとんどが卸売り商人である。
それなりの量のまとめ買いが基本となるために、通常顧客は行商人や、市中の小売店に限られているものなのだが、どうもメルサリス商会では一般客にも商品を売っているらしい。店先を見ているとそんな感じである。
「へい! 何にしましょ??」
笑顔で出て来た店員に宴会に呼ばれていることを告げると妙な顔をされた。
「ああ、宴会の。あれは夕方からだよ」
「そうなんですか?」
言われてみれば納得だ。酒も出るだろうし、その手のものは通常、夕方くらいから始るだろう。
「少し早く来すぎてしまったようですね」
「どこかで時間を潰す?」
荷物を提げたメイファムにそう話し掛けていると、商会の中から別の男が出て来た。
「あんたら見ない顔だけど宴会に呼ばれてるの? 誰に?」
「スィサという可愛らしい子にお呼ばれしてるのよ」
笑顔でルキアが答えると、男も笑顔で応じた。
「ああ、スィサのお客さんね! 聞いてるよ」
「初めまして。私はエルミラ。こちらはメレス」
「よろしく。俺はオブロスだ」
挨拶を終えるとオブロスはメイファムが提げている荷物に目をやった。
「そっちの姉さんは何か荷物が多いようだけど。手土産でも持って来てくれたのかい?」
確かに。荷物が少し多いようだとはルキアも感じていた。
「はい。口に合うとよろしいのですが」
にこりともせずに答えるメイファム。
「大丈夫さ。宴会に来るのは美味い物なら何でも来いって連中ばかりだよ」
「それを聞いて安心しました」
メイファムの言葉に、逆にルキアはいやーな予感がしてきた。
「だったら先に入って待っていてくれても構わないよ。台所はあっちだから」
オブロスが商館の奥を指さす。
「お嬢さま。いかがいたしますか?」
「そうねえ。お言葉に甘えて中で待たせていただこうかしら」
そこでメイファムが持って来た荷物を検閲する必要がある。
商会で働いている小僧が一人案内に付いて立って歩く。売り場となっている店の横手から奥に入り、商館の裏へ抜ける。
すると意外にもアウラシール式の中庭が拡がっていた。
いや、意外ではないのかも知れない。
ローゼンディアの植民都市とはいえ、何と言ってもここはアウラシールのリムリク地方なのだ。
中庭は広場と言ってもいい広さであり、宴会用の長い卓が三面並べられている。
広場の端の方には荷物が積んであるが無秩序ではなく、整理されている感じで置かれている。足下の地面もよく掃き清められているが、普段からよく掃除されている感じで土が荒れていない。妙な臭いもしない。
こういうところにメルサリス商会の組織としての強さが出ているなとルキアは感じた。
中庭の向こうにはまた別の建物が建っているが商会の倉庫のようだ。
そして港に向かって同じような倉庫が幾つも建っている。
倉庫群は通りと港の間に整然と並んでいて、どれがどこの倉庫なのかは判らない。メルサリス商会を含め、近くの大手商会のものが入り混じっているのだろう。
通りには驢馬に荷物を積んだ行商人や、市内に小売店を持つ商人が引いてきた荷駄用の馬車などが見える。この辺りは卸売りの商人街区なので、ついさっきメルサリス商会の店先で見たような一般の主婦などの姿は見えない。
辺りの空気には潮の香りが混じっている。日は中天を過ぎていて夕方の気配が近付いてきている。
季節は雨期に入っているから暑さも和らぎ、少し過ごしやすくなってきているのも嬉しい。
いい雰囲気だとルキアは思った。
こういう感じはいい。宴会の前として実にいいと思う。
「お客さん。こっちが台所です。何か判らないことが有ったら近くの人に聞いて下さい」
それだけ言って小僧は仕事に戻っていった。
台所に入ると幾人もの男女が忙しく立ち働いているのが目に入った。
宴会用の料理を作っているのだ。湯気が立ち、食材の香りがする。ルキアにとっては馴染みのある光景だ。
「いいところへ来たねえ」
ルキア達に気付いた男が近付いてくる。太った、頭の禿げた男だ。料理人の一人と思われた。
「荷物を置くのはそこ。準備が出来たらあっちへ行って料理を手伝って」
男は一方的に話し掛けてくる。ルキアの返事も聞かずにそう言って指示をしていく。
「助かるよ。あんたらも宴会の客なんだろ? 初めて見る顔だが」
「ええ。スィサにお呼ばれしたんです」
「なるほどね。あんたのくれた石鹸いいよ。お嬢さまも褒めてらしたくらいだ」
「それはありがとうございます」
ルキアは頭を下げた。男が自分の持ち場に戻ってしまうと、ルキアは指定された場所に荷物を置いて腕まくりをした。言われた通り料理を手伝おうというのだ。
ゼメレス族では身分に関わらず料理ができる者が多い。
貴族というものは傅かれる存在なので、料理が出来るというと意外に思われるかも知れない。
しかし刺繍ならば、どの宗族の貴族女性であっても皆修得しているのが自然だ。
ゼメレス族の場合にはそれに料理が加わるのに過ぎない。
と言っても裁縫や糸巻きのように必須技術として教え込まれるのではなく、奨励される趣味としてのものであるが。
聞くところによれば外国では一般に料理人の身分は低く、下等な職業とされているらしい。理解に苦しむ。
他の宗族ではどうか知らないが狩猟神の末裔、則ちゼメレス族やヘカリオス族の間では料理という行為に対してそれを下等なものだとか、下賤な者が従事する作業だとかいう観点を全く持たないからだ。
ゼメレス族の間では料理人とは生きるための糧を提供し、命と喜びを繋ぐ貴い職業とされている。だから尊敬されているし、料理を学ぶことが奨励されてもいる。
こうした価値観が氏族伝統のトラケス料理を発達させ、ローゼンディア王国でも最高の料理の一つと呼ばれるまでに押し上げたのは間違いない。
王都の富豪や貴族の館の台所、あるいは高級料理店の厨房での会話はトラケス訛りだというのは冗談半分にせよ有名な話である。一流の料理人にはトラケス地方出身者が多いのだ。
そういうわけであるから糸車を回すことと裁縫と料理は、ゼメレス族の娘達が身に付けるべき基本技術と位置付けられている。それは貴族であっても変わらない。
余談だがその昔、料理人はみな男性だったという。これはゼメレス族にある宗教上の禁忌によるものだが、今ではその料理人にも女性が数多くいる。二千年ほど前にヴァリア教が入って来たことによってその宗教観に変化が起こったからだ。
料理から学ぶことは多い。
ルキアは積極的に実家館の厨房に顔を出して料理長から料理を習っているし、今居るディブロスのゼメレス館にも実家から三人の料理人を連れて来ている。
しかも内一人は実家料理長の高足である。内心、今現在ディブロスで最高の料理人は彼女であろうとルキアは考えている。そう思わせる程の腕前である。
彼女からもルキアは料理を習っている。もちろん自分の腕前がその道の職人達に遠く及ばないのは自覚しているが、そんじょそこらの娘には負けないくらいの実力はあるだろうと自負もしている。
なので、やる気は有るのだ。
「状況について行けないのですが……」
一方メイファムは不満と混乱が入り混じったような顔をしている。
「多分、宴会の客が自主的に手伝うのが慣例になっているのよ」
言ってみれば身内で祝う宴会なのだし、だったら客が準備に参加しても何の不思議もない。
「ですがお嬢さまがお手伝いなさることはないのではありませんか?」
「何を言ってるのよ。私たちも御馳走になるのだし、人手が足りてないのなら手伝うのが当然でしょう」
「それはそうですが……」
どうもメイファムは不満らしい。
「それに、あなただって手伝うのよ?」
「ああ、それは問題ありません。そう考えて用意してきましたから」
一転して明るい顔になり、メイファムは荷物を開き始めた。
いきなり羽釜が現れた。ルキアは驚いた。
「羽釜を持って来たの!?」
「羽釜がないと美味しい御飯を炊けませんから」
当然のようにメイファムは言うがそういう問題ではない。
こんな重いものを持って来たのか。しかも他人の宴会に。その神経を疑うのだ。
羽釜というのはゼメレス族伝統の米炊き道具である。
足場を組んでその上に載せるか、または羽釜本体に付いてる環を通して火の上に吊るすかする。いずれにしても火にかけて米を炊くための金属の鍋である。
これでお米を炊くと素晴らしく美味しい御飯が出来あがるが、羽釜自体が嵩ばる上にかなり重い。
羽釜とはトラケス地方の家庭には必ずあってそれで御飯を作る、しかし持ち運びは余り考えていない、そういう道具なのだ。
実はこの羽釜という調理器具は戦争の時にかなり大きな問題となってきた。
それに最初に気付いたのは何代か前のルキアの先祖で、知らぬ者とてない軍事の天才クレオラ・ゼメレスである。
要は兵糧の問題なのだが、食事の度に羽釜で御飯を炊いていては甚大な手間が掛かるのだ。
食べるための米だけでなく、焚き付けのための枯れ葉や小枝、そして燃料となる薪も必要だし、何より羽釜自体が重い上に嵩ばるのだ。
ゼメレス族の兵士達はそうした物資を抱えて行軍しなければならないわけで、これは戦争遂行上、重大な問題だったわけである。
食事に火を使う必要があるゼメレス族に対して、近隣のセウェルス族は特に火を必要とはしない。彼らは肉や魚の干物とパンがあれば足りるのである。いつでもどこでも手軽に食べられるし、火も使わない。
こと食事に関する手間では勝負にならないほどセウェルス族が優れていたのであった。
しかし王国連合軍の中でも屈指の利便性を誇ったセウェルス族の食事は、味の方をほとんど無視することで成り立っていたのではあるが……。
現在ではクレオラが考案した軍事糧食や、携帯用炊飯器、更にその後開発された携行用の保存食などが存在し、かつてのように重い羽釜を米と一緒に必ず背負って歩くゼメレス族兵士の姿は減ったと言われている。だが居なくなったわけではない。
その生き残りを目の前にしてルキアは驚き、ついで呆れた。
メイファムは力持ちである。戦神の末裔でもある彼女は、細身に見えて男性すら凌ぐほどの力がある。
その腕力は羽釜を持ち運べても不思議はないが、その感性の方は不思議であった。
なんで他人様の宴会に来るのに羽釜を持って行こうと思ったのか。
「お米はあると考えましたので持って来ていません。南部はお米の産地ですし、そこよりも更にディブロスは南ですからね」
嬉しそうに説明をするメイファムの横でルキアは呆れていた。
羽釜は持って来るが米は相手に出させるのか!? 食材は相手持ちなのか!?
本当にいい根性をしていると思う。ルキアの呆れが感心にすり替わった頃、メイファムは嬉しそうに荷物の中から小さな壺を取り出した。
「シュペリテも持って来ました。これがあれば御飯何杯でもいけます」
「シュペリテ!!」
思わず声を上げてしまう。
シュペリテは魚の内臓を漬け込んだ料理であり、ゼメレス族伝統の発酵食品である。
味は塩辛く、独特な苦み、甘み、えぐみがあるが、熟成された旨味がそれらをまろやかに包み込んでいる。
様々な味の要素が複雑微妙に混じり合っていて、発酵食品ならではの濃厚な味わいが楽しめるのだ。
一言で言えば魚介系に特有の風味なのだが、発酵食品につきものの話で、これは他氏族には厳しいものがある。嵌まれば大好物になるが、でなければ見るのもおぞましいという類いの料理だ。
地元の味、土着の味、故郷の味という言葉がある。要するに余所者はお呼びでないということだが、そういう料理なのである。
上級者過ぎるだろうと思った。感心が再び呆れに戻っていくのをルキアは感じた。
「……これは宴会に出せないわ」
「どうしてですか?」
不思議そうにメイファムが聞いてくる。本当に判ってないのだ。彼女には。
「シュペリテは他氏族の方には評判が悪いと思うからよ。臭いもするし、魚の内臓と聞けば口に入れるのを拒むに決まっているわ」
「……仰っていることの意味が判りません」
残念そうなメイファムを見て、こっちだってあなたの思考が判らないわよ、とルキアは考えた。口に出すとメイファムが傷付くのは判るのでそう言いはしない。
「発酵食品には独特の癖が有るでしょう? それを嫌がる人も居るのよ。ましてや他氏族の発酵食品となれば尚更だわ」
「そうですか……美味しいんですが……」
それは同意する。たしかにシュペリテは美味しい。
特に酒のつまみとしては最高最悪の料理として有名だ。これがあれば際限なく飲むことが出来るらしい。トラケスの酒好きは口を揃えてそう言う。
ルキアは特に酒好きではないのでそれは少し判らないが、シュペリテが一口有れば御飯が一膳食べてしまえるというのはよく判る。
他にも碌でもないものを持って来てはいないだろうか? ルキアは少々不安になった。
「他に何か持って来ているかしら?」
「トラケス菜の漬け物を持って来ております」
また発酵食なの? そう思ったがこれも口に出しては言わない。
「…………それは炒め物にしましょう」
「良い案だと思います」
メイファムは嬉しそうだ。気を遣われたことには気付いていないようだった。ルキアは小さく溜息を吐いた。
そんな遣り取りがあったものの、とにかくさっきの男が言うように宴会料理の準備を手伝わなければならない。
料理の手伝いとしてルキアが最初に頼まれたのは野菜を切ることだった。
しかし、俎板がない。
どうしたものかと考えていると、年配の女が話し掛けてきた
「時間がないんだから手を止めてないでさっさと切っておくれ」
「はい。すみません」
ルキアは笑顔で応じ、続けて女に質問した。
「食材を載せて切るための、その、板のようなものはないんですか?」
「なんだいそれ?」
女は不思議そうに眉を寄せた。
「どうしてそんなものが必要なのさ? ここにあるのは硬いもんじゃないよ?」
どれも柔らかい食材だ。女はそう言いたいのだろう。
「ええと……」
ルキアは口ごもった。ちょっと想定外だった。料理には必ず俎板が有るものと決めてかかっていたのだ。
「野菜なんか鍋の上で切ればいいんだよ」
それだと綺麗に切れないし、食べるには大振りになってしまうと思うのだけれど。
ルキアはそう思ったが口には出さなかった。
「わかりました。鍋の上で切りますね」
やり慣れていないがやってやれないことはない。ルキアは皮を剥いた野菜を鍋の上に持っていくと切り始めた。
「随分細かく切るんだねえ……」
「これくらいが食べやすいと思うんですが……」
「そうかい? 子供に食わせるもんならそれでもいいだろうけど……あんまり細かくすると煮てる間に溶けちまうからね。ほどほどにしておくれ」
「はい。わかりました」
「あんた手付きは悪くないよ。その調子で頑張っとくれ」
「ありがとうございます」
女も決して意地悪で言ってきたわけではない。ルキアにはそれがよく判っているので不満は感じないが、しかし、俎板を知らないというのは予想外だった。
どうしてだろうか? 考えながら手を動かしていく。
答えは程なく訪れた。箸だ。
箸は古代ナーラキア帝国時代に主流だった食器である。
早い話が二本の棒であり、これで食事をするわけだが、慣れれば大体これだけで何でも足りてしまうので大変便利な食器なのだ。
ローゼンディア王国でも一般的な食器ではあるが、そこはやはり地方性というものがある。
王都のあるオギュルエ地方や、東部のトラケス地方、イオルテス地方などでは特に箸が普及しているが、それ以外の地方ではナイフやスプーンが中心の所や、箸も併用する所などまちまちだ。
例えばトラケス地方では箸が中心だが、スプーンもかなり使うし、西部のダーダイア地方ではナイフとスプーンしか使わないと聞いたことがある。
メルサリス商会はカプリア地方の出身だった。あそこでは食事に箸をほとんど使わないのだ。
箸の代わりに色々な食器がある。もちろん庶民は何でもかんでもスプーン一本で賄うらしいが、富豪や貴族は多数の食器を使い分けて食事をする。だから食材が大振りでも別に困らないのだ。
逆にトラケス地方では箸とスプーン以外の出番はほとんどない。
しかも出来れば全てを箸で賄おうとする。箸使いという技術があるくらいだ。そして庶民から宗家に到るまでこの事は共通している。
ルキアも王都に出た時に、やれ魚用のスプーンだの、スープ用のスプーンだの、肉切り用のナイフだのを並べられて呆れた憶えがある。食事なんて箸だけで十分ではないかと思うのだ。
箸だけで食べやすい状態にするには、なるたけ食材を小さくする必要がある。
そのためには食材を精密に分解、要するに細かく切る必要がある。
このことがトラケス料理に特有の纖細で巧緻な包丁遣いの技術を発達させもしたのだが、それはまた別の話になる。
とにかく食材を細かく切ったり細工したりするには俎板が欠かせない。
つまり箸を使う食べ方と、調理に俎板を使うこととが関連しているのだ。ルキアはそう考えた。
つまるところ皿に載った料理を分解するか、皿に載って出て来たときには分解済みかの違いと言ってもいい。
この推測は当たっていると思われたが、確かめようのあることでもない。自分で勝手に納得してルキアは手を動かすことにした。
「お嬢さま。トゥルーブがあります」
少し離れた場所で野菜の髭を抜いたり皮を剥いたりなどの処置をしていたメイファムが、嬉しそうに報告してきた。
トゥルーブはトラケス料理で使う液体調味料だ。トラケスでは何種類もが存在するが他の地方ではトゥルーブなんか、まずほとんど使わない。なんでそんな物があるのか。
「それだけではありません。トゥジェもありました」
トゥルーブだけでも驚きなのにトゥジェまであるのか。トゥジェもトラケス地方の調味料で何種類もの物がある。
そしてトゥルーブもトゥジェも発酵調味料なので臭いと味に癖が有る。
ルキアにとっては何とも香ぐわしい香りが、他の氏族にとっては悪臭となる事も考えられる。
商会長のファナウス・メルサリスは美食家だと聞いていたが、どうやらこれは筋金入りらしい。
感心すると同時に悪戯心がむずむずとルキアの胸の中を掻いた。
「素晴らしいわね」
いつもの台詞を口にすると、またメイファムの表情がいきなりこちらを窺うようなものに変化した。そのことにルキアはちょっと傷付いた。
「……あなたの持って来たトラケス菜をどう使うかが決まったわ」
「炒め物にすると仰ってましたが」
「そう。トゥジェを使って炒めましょう」
あとは香辛料と薬草だ。それがどれくらいあるか……。
ルキアは実家館の厨房に併設されていた薬草庫を思い出す。ゼメレス族は香辛料と薬草を余り区別しない。本質的には同じ物だと考えているからだ。
薬草を使った料理を薬膳という。これは王都を中心としたオギュルエ料理の言葉だが、何のことは無い。トラケス料理では全てが薬膳なのだから。
実家の薬草庫は中央に作業用の大卓を持つ縦長の部屋で、壁一面に沿って十段の棚が設置されていた。そこに薬草や香辛料を入れた瓶やら壺やらが、隙間もないほどに並んでいるのだ。
全部の数を数えたことはないが、おそらく七、八百はあるのではないか。
しかも料理長はその全てを把握していた。どこに何があるか完全に知り尽くしていたのだ。
尤も暗記している料理の数だけでも三千種類を超えると言われている人物なのだから、その驚異的な記憶力にも不思議はないのだが、ルキアにしてみれば超人としか思えなかった。
おそらく実家の薬草庫はエルナセアでも、いやトラケス地方でも最高水準のものだったろうが、さて美食家の厨房にはどれほどの香辛料があることやら。
「薬草庫は……ないわよね。香辛料が置いてある棚はどこかしら?」
「お嬢さまこちらです」
メイファムに案内されて厨房の端を横切っていく。別に命令されて働いているわけではないので誰もそれを見とがめたりはしない。
みな自分の領分に責任を持って参加するのが当たり前というような暗黙の了解があるのだろう。だから誰がどう動いていようが気にしないのではないか。
香辛料はミスタリア海世界でもアウラシールが本場である。
というかほとんどアウラシールでしか産しない。香辛料の材料自体が南方でしか取れないものばかりだからだ。
そしてディブロスはローゼンディア王国本国よりも、そのアウラシールに遥かに近い。
何と言ってもアウラシールの西の端にあるのだから。
香辛料の棚は調味料の棚と一緒になっていた。自分達ゼメレス族も薬草と香辛料を一緒に扱うし、調味料との区別だって瞹眛なものがあるからその事には不思議はない。
それよりも想像していたよりずっと貧相なその品揃えに落胆したのだった。
いや、想像よりも期待していたのかも知れない。トゥジェまであるのだからそこそこの量が揃っていると踏んでいたのだ。
ところがその予想は外れた。確かにトゥルーブもトゥジェもある。
しかし基本的な種類が一品ずつだけだ。これだけでも十分色々な物が作れるが、もっと色々、他の地方では珍しい調味料が揃っているのではないかと思っていたのだ。
香辛料はさすがに新鮮なものがたっぷりとある。もう香りからして違う。その新鮮さだけは物凄いものが感じられるが、種類の方はどうだか判らない。
一応三十種類ほどがあるが、これが他の商会の厨房に比して多いかどうかはルキアには判断が付かない。多分多いのだろう。それもかなり。
ルキアはそれらの香辛料と調味料を見て、知っている調理法の中からどれを採用するべきかを考える。
まず胡麻油が必要だ。味付けにはトゥジェを使う。塩は何種類あるのだろう? 海塩より岩塩があるといいのだが……トラケス菜は水分を絞ってから切る。他の食材はさっと茹でてから高温で揚げて油抜き、合わせる香辛料は……。
考えていると一緒に料理をしていた若い男に声を掛けられた。
「何か作るの?」
「え? はい。そのつもりですが、いけませんか?」
「いや全然構わないよ。そういう人も居るから。判らないことがあったらユスタハに聞けばいい。あの人がここの料理長だから」
言われて目を向けると、鼻の下に黒い髭を生やした三十才くらいのアウラシール人だった。
火の側にいる所為か上半身は袖無しの薄い上着一枚で、綺麗な褐色の肩が汗で光っている。せっせと料理を作っているのだ。今は長い串に肉を刺している最中である。
「わかりました。ありがとうございます」
「どういたしまして。料理の方、期待してるよ!」
ルキアが礼を言うと男は自分の仕事に戻っていった。妙に興奮した様子である。
「……ペネルピアの眼差しが彼の上に注がれたようですね」
メイファムの静かな指摘にルキアは首をひねった。
彼女はこういうことはすぐに察するくせに、人の家の宴会には平気で羽釜を持って来てしまう。一体どういう神経をしているのだろうか。
ペネルピアは愛の女神である。つまりはそういうことだが、ルキアとしてはメイファムのように断言する気にはなれない。うっすらと感じるものはあるが。
大体失礼ではないか。そんなに簡単に、誰が誰に懸想しただのなんだのと決め付けるのは。
無論、恋愛において直接的な言葉や行為がしばしば野暮になることは理解している。
だからといって何でもかんでも穿って見るのも好きになれない。それは下品だと感じるからだ。
それでは野暮と下品のどちらを取るのか? と問われれば、ルキアとしては野暮を取るに決まっている。
洗練された様式は大事だが、裡に含んだ誠実さはそれよりももっと大事だ。
誠意の有る野暮さはあっても、誠意の有る下品さなどというものは存在しない。下品さとは度しがたいものだ。それは醜悪でしかない。
ペネルピアは大いなるフェルシナ海を統べる女神であり、かの大内海の泡から生まれたと伝えられている。
王都の神官達によると非常に古い女神であるという話で、何でもヴァリア教が成立した時に十二大神に加えられたらしい。
その為、教典正典には収められない神話や讃歌が他の神に比べて多く、それらは外典に収録されている。
他の神よりも一際古い伝承を持っていると言われるのもその為だ。
ルキアが聖賢リュベイオーンはその名通りに偉大だなと感じたのは、この教典外典の編集に関してである。
彼は一切の異伝はもちろん、矛盾しているものまで全ての神話伝承、讃歌を集めて後代に遺したのだ。
この措置には無論、いくつもの思慮が重なってはいるのだろうが、政治的にはとても微妙な見事さを示しているとルキアは思う。
かなりの反発と混乱が教団内部から起きたのではないかと推察されるからだ。それを押しきったリュベイオーンの政治力にも、物凄いものがある。
当時のローゼンディアはまだ統一国家ではなく、各氏族がそれぞれ独立の国家となっていた。
当然崇める神も違うし、宗教もばらばらだったろうに、リュベイオーンはそれら全てを見事に纏めてしまったわけだ。
どの氏族からも大きな不満は出なかったと伝えられている。
それはそうだろう。伝統の教えのどれも否定されることなく、それら全てを包摂して新しい、より優れた枠組みを提示したのだ。文句が出る可能性は低いはずだ。
ヴァリア教とほぼ同時に成立した西方のアラトナ教ではそうではないらしい。
アラトナ教を国教とするレメンテム帝国では、正統教義とされる統一普遍教派が絶大な権力を握り、自らの政敵には異端の汚名を被せてこれを抹殺するという事を繰り返してきた。正統と異端は常に対立し、敗北者は虐殺される運命にあるのだ。
内訌は国家の常だが、自分で自分の内臓を食い荒らしてどうなるとルキアは思う。
聖書と呼ばれるアラトナ教の聖典にも目を通したことがある。
ヴァリア教の教典ほどには整理はされていない。宗祖の弟子達による証言録、つまり寄せ書きという体裁を採っている為、内容に相互矛盾があるからだ。ある意味ヴァリア教の外典のような感じになっているわけである。
正典というか、根本にして究極の聖典である聖書がそのような形になっているのはヴァリア教との、言わば考え方の違いだから、内容的に疑問な箇所があるとしてもそれは理解できる。
中には本当に素晴らしい教えも多く含まれており、さすがに莫大な信者を擁するだけあって結構良く出来ていると思うのだが、それでどうして国内があんなことになるのか。
やはり国家というものは、民族だの歴史だの土地の環境だの様々な要因が複雑に絡み合っていて一筋縄ではいかないという事だろう。
一説によればペネルピアとはローゼンディアでの呼び方であり、アウラシールではラヌハサと呼ばれる女神であるとも言われる。
トラケス地方はその北方全てがフェルシナ大内海に接している。ミスタリア海とは全く違ったその海に、遥かな昔からゼメレス族は深い想いを抱いてきた。
恐ろしい災厄も豊かな恵みも、共に海を渡ってトラケスを訪れたからだ。
トラケス地方はその内部を更に大きく分ければ、森林地帯のブルネオス地方とフェルシナ海沿岸部のタスフィタ地方に分けられる。
それぞれ料理も文化も違うが、トラケス料理として総合的に言うならば、原材料の味を重視した新鮮で淡い風味と突き抜けるような深い旨み、そしてしつこさのない清涼な食後感ということになる。
ルキアはまずトラケス菜の漬け物で野菜炒めを作り、もう一品はストゥラニにするかと考えた。ストゥラニを薄餅で包んで出そう。そうすれば手軽に手で持って食べられるし、宴会向きだろうから。
そう決めると早速食材が揃っているかどうかの確認を始めた。




