第八章・六
出発は夕方だった。アンケヌの周辺ではそれほど降らないが今は雨期だ。
目的地ディブロスでは結構雨に遭うことになるだろうからその装備も用意した。
必要な物は全部ゴーサの傭兵達がやってくれた。自分など邪魔者ではないのかとイシュタトは思ったが、そうではないと聞いた。
「どうやらダーシュ王子にとってお前の父親は特別な相手であるらしい。だからお前が言って話をすることが効果があるのだということだ」
指揮を執るザブラムが教えてくれた。
ゴーサの傭兵三人とイシュタト、これが実働部隊になる。その他に馬と、四人の身の回りの世話をするための召使いが三人加わった。
奴隷を入れなかったのは目的地がディブロスだからだ。
ローゼンディア人は奴隷を持たない習慣がある。国の法も国教のヴァリア教もそれを禁じているので、奴隷がディブロスに入ることは出来ないのである。
それにアンケヌの政変の結果、野盗の動きが読みにくくなっている。盗賊の数は減っていても治安が低下していることは否めないのだ。
盗賊にとって基本的な商売の一つが奴隷売買である。その商品の仕入れ先には近隣の村々はもちろん、旅行者も当然狙われることになる。
だからこういう状勢の時は特に気を付ける必要があるのだが、ことディブロスの周辺に限っては事情が変わってくる。
たとえ治安が悪化しても、奴隷商人が大手を振ってディブロスの近くを徘徊することはない。ローゼンディア人による奴隷商人狩りが出るからだ。
この者達は多くがヴァリア教の神官戦士であり、高い戦闘力を持っている。
そして奴隷制度を根絶し、奴隷商人を一人残らず地獄へ送ることに対して強烈な情熱を持っているのだ。
奴隷商人狩りに遭遇した奴隷商人は悲惨である。文字通り見せしめとなるべく残酷無比に殺されることになる。
昔は奴隷商人の側でも傭兵などを雇って対抗する者があったようだが、今ではとんと聞かない。
奴隷商人狩りが行なう余りに残虐な処刑に対して、傭兵達が恐れをなした結果、そうした仕事については断るようになったからだ。
それでも奴隷商人は海岸線に出る必要がある。レメンテムや南大陸といった重要な取引先があるからだ。文字通り命懸けである。
その意味でイシュタト達は気を付ける必要があった。遭遇する野盗がこちらの命を斟酌しない可能性が高くなるからだ。
つまり襲ってくる盗賊は、こちらを奴隷として確保しようという気を持たない場合が多くなるだろうということである。
尤も、そうした襲撃対策として隊商があるわけだし、何より同行の三人はゴーサの傭兵である。野盗如きに後れを取るとは思えない。
集合場所はモダバの市場の外れ、暗黒神ヤドムの祠の近くである。
ヤドム神は元々はジルバラ地方の北西部で信仰されていた土俗の神である。
その姿から異形の暗黒神とも呼ばれる神で、牛の体に四眼の牛、蠍、人の乙女の頭が付いている。尾は蠍である。
闇を掌どり、母と幼子、老人達、弱き者、病に苦しむ者たちの守り手であるとされる。
その恐ろしげな姿からは想像しがたいが、ヤドム神は慈悲の神なのだ。心優しき暗黒神とも呼ばれる。
一地方神であったヤドム神が、現在のように広くリムリク地方で崇められるようになったのにはわけがある。
英雄ザフィスメルが深く信仰したからだ。彼はヤドム神を崇め、多くの祠をリムリクに作った。
その結果、ジルバラの北部域からリムリク地方に多く、ヤドム神の信者が拡がることになったのである。
レメンテム帝国による大遠征、これは帝国の側からは『聖戦』、あるいは『聖征』とも呼ばれたが、襲われる側からすれば堪ったものではない。
とまれ神の名を叫ぶ、その凶悪無比な強盗殺人者の集団は、自分たちのことを聖十字軍と呼称していた。これは光神アラトナを掲げたものである。
対して、それを邀え撃ったザフィスメルは暗黒神ヤドムの旗を掲げた。
それゆえアウラシールの史家はこの事件を『光と闇の戦い』とも言うのである。
戦争と裁きを掌どる光神アラトナと、弱き者、苦しむ者の守り手とされる暗黒神ヤドムの戦いである。
そして熾烈を極めたその戦いは、光が闇に敗北するという形で終わったのだ。
ジルバラの北部にあるメニジュの町はヤドム信仰の本拠地で、そこに暗黒神ヤドムを祀る大神殿がある。そのほとんどがリムリクの信者達の喜捨によって出来たものだが、元は粗末な祠に過ぎなかったという。
ここに霊験を示すというヤドム神の神像がある。
かつてレメンテムの皇帝デオメリク五世の侵略によってリムリク海浜の町や村々が業火に包まれたとき、神像の牛頭は四つの瞳から涙を流したという。
それからも戦災や疫病、飢饉などがアウラシールを襲うたびに、この神像は涙を流したのだと言われている。
信者の数は多い。それも王侯など社会の支配者ではない。一般の人々である。特に下層民にその信者の数が多いと言われている。
王侯はもっと派手な神を好む。泥臭い、異形の神になど興味は無いのだ。
唯一の例外はヴィヤンダリ王家であるが、それはザフィスメルの子孫だからである。
今もイシュタトの目の前で祠の中に子供を抱いた母親が入って行った。それに痩せた老人が続き、その後は病人が杖を突いて続いた。
集まっている人には老人や病人、女子供が目立つ。祠の蔭では浮浪者が横になっており、水場には子供の姿があった。
施しを受けている人もいる。しかし施しをする側も裕福そうには見えない。
だが誰もが落ち着いているようで、安らいだ空気が漂っていた。
静かで落ち着いた雰囲気なのだ。不思議と治安が悪い感じはしない。病人や、浮浪者の姿が多いというのに。
この祠の前に来るたびに、イシュタトは思うことがある。ザフィスメルが守ろうとしたのはまさにこうした人たちなのだろうと。
いざ社会が激震に暴されたとき、真っ先に犠牲になる人々だ。
ザフィスメルはよく泣いたという。親を失った子供達のために泣き、子を失った親のために泣いたと。
歯を食いしばって泣いたと記されている。それを見ていた配下の兵達も同じように涙を流したという。
そして全軍一丸となって、命を懸けてレメンテム帝国の侵略軍に立ち向かっていったのだ。
イシュタトにはその気持ちが判るような気がした。自分も同じように奪われ、涙を流したからだ。
隊商に参加する者達が集まっている広場は祠からは少し離れている。
イシュタトは風を受けて揺れる旗を見ていた。神殿や祠の前には幟や旗が立つのは常識だが、ヤドム神の祠や神殿の前でしか見られないものがある。
――あった。
翼のある獅子の描かれた旗がある。決して豪華なものではない。色糸も一色しか使われていない。だが紛れもなくそれは膝を着いた翼獅子の図案である。
ザフィスメルの旗である。『跪拝する獅子』。まさにその尊称はこの旗から生まれたものなのだ。
かつてザフィスメルはこの旗を掲げ、リムリクのために戦った。その旗の下には多くの英傑が集まったという。
初めの内こそ勝ち続けたザフィスメルだったが、長い戦いの中でレメンテムの皇帝が代わり、ブランジェード九世が立ってからはそうもいかなくなった。アラトナ教の信仰心篤い名君である。
ブランジェード九世は後に聖帝と呼ばれることになる。世俗の君主でありながら、ただ一人列聖入りを果たしたからだ。
列聖入りとはアラトナ教の総本山たる教皇庁から正式に聖者として認定され、聖人の列に加えられることを意味する。
つまりブランジェード九世は、アラトナ教において信仰の規範となるべき偉大な人物だと見做されているわけである。
実際、聖帝ブランジェード九世は優秀な君主であり、政治だけでなく、軍事においても才能を示している。
戦いは一気に厳しさを増し、ザフィスメルも敗北を経験するようになった。
彼は生涯に三度大きな敗北を経験している。特に二度目の敗北は被害が甚大だった。軍は壊滅し、ザフィスメルはわずか数騎の供回りと一緒にザナカンダに落ち延びている。
それでも彼は諦めなかった。何度敗れても不死身のように立ち上がり、再び剣を取ったのだ。その精神力にイシュタトは感動する。
アウラシールでは『勝って奢らざる者を賢者、敗れて尚破れざる者を勇者と呼ぶ』と言うが、ザフィスメルはまさに勇者であった。
その英雄の旗はヤドム神の前で見ることが出来る。それ以外ではザフィスメルの慰霊祭の時しか立てられることがない。あまりに傑出した英雄であるが故に、その後は誰も、憚って翼獅子の旗を使えなくなったからだ。それはザフィスメルの旗なのである。
『顔を上げるがよい。胸を張るがよい。何も恥ずかしいことなど無いのだ――』
英雄の言葉が胸に刺さる。自分はそれほどに立派に、美事に生きてきたとは思えないからだ。
だがもしザフィスメルが目の前に現れれば、きっとそう言うことだろう。
イシュタトの肩を叩き、真っ直ぐに目を見てそう言ってくれるだろう。もちろんそれは勝手な期待ではあるのかも知れない。だが予感でもある。
「何を見てるんだ?」
ヴァーファルが尋ねてきた。
「旗を見ていたんです」
「旗? ヤドム神の?」
「いえ……」
翼獅子の旗を指さすと、ヴァーファルは納得したように頷いた。
「ザフィスメルの旗か」
「ご存知なんですか?」
「おいおい。いくら俺たちがハルジットの人間だからってさすがに知ってるさ。軍学の講義でも習ったしな」
「そうなんですか」
「ああ。ザフィスメルは優秀な指揮官だよ。ああいう人物の下で戦う兵は幸せだな」
戦い、戦争という局面において何故、幸せという言葉が出てくるのかイシュタトには判らなかった。ヴァーファルもそれを察したのか少し微笑んだ。
「ザフィスメルは絶対に味方を見捨てなかった。味方の危機には必ず対応したし、常に味方を守るように軍を動かしたんだ。大局的にはそれが間違っていたこともあった。戦争だからな……時には非情な決断が正しいこともある。多分本人もそのことは判っていただろう。それでも、彼は味方を救けることを選ぶんだ。そういう指揮官の下で戦う兵は幸せなんじゃないかと俺は思う」
「英雄ですね」
「そうだな」
史家の言葉にこういうものがある。
『ローゼンディアのクレオラは生涯ただの一度も敗れなかったが孤独だった。誰も彼女の才能を理解できなかったからだ。ザフィスメルは何度も敗れたが孤独ではなかった。彼はいつも人々と共にあったからだ。鋭すぎる才能は、時に人が触れることを躊躇わせる。ともすれば人は自分が傷付くかも知れぬと恐れるからだ。しかし大きな徳は宮廷の貴族も、無学な庶人をも共に包み込むことが出来る。勝ち続ける天才には栄光と共に孤独の罰が与えられたが、徳高き英雄には惜しみない賛辞と敬愛が捧げられた。ザナカンダにあるザフィスメル廟を見ればそれは明らかである』
「ザナカンダにザフィスメル廟があるんですよね」
「らしいな。俺は行ったことはないが」
イシュタトは意外に思った。
「お師様をお迎えするためにザナカンダに行かれたのではないのですか?」
「行ったさ。だが仕事だ。観光に行ったわけじゃないからな」
「お前ら何を話してるんだ?」
イェヒムが歩いて来た。
「そろそろ隊商の方へ行かないと。それと剣匠様がお見送りに来てくれてるぞ」
「お師様が?」
言われた通り、人々が多く集まっている方へ進むと、杖を突いたシュガヌ師がザブラムと話していた。
「おお、来たか」
「お見送りに来て下さってありがとうございます」
イシュタトは丁寧に礼をした。
「お前に伝えておきたいことがあってな」
その言葉にイシュタトは少々、本当に少々ではあるが、げんなりした。
出立が決まるとシュガヌ師は多くの注意をイシュタトに与え、保険を掛けるように幾つかの技も伝授してくれたのだ。
ありがたい話ではあったが、いかんせん時間が無さ過ぎた。
折角の技も不安が残るものであったし、注意事項も多岐に亘り、とても短期間で憶え切れるものではなかったのだ。
「儂も焦ったから色々教えたが、後で考えてみるとお前が憶え切れているとは思えん。それでな、やはり不安でな。せめて要点だけはしっかりと伝えておこうと思った」
「ありがとうございます」
礼を言いつつ、シュガヌ師でも不安になることがあるのかと、イシュタトはやや意外に感じた。
「これさえ心得ておけば何とでもなるというものでもないが……これを知らなければ危ないのは確かだ」
「はい」
「お前に剣の神殿で教えられている『忍び寄りの秘術』を教える」
「……忍び寄りの秘術?」
「そうだ。今回の任務はダーシュの奴を連れ戻せっていうもんだろう? 『忍び寄りの秘術』はとても奥深いものだが、その心得だけならば話して聞かせられるからな。知っておいて無駄にはならんはずだ」
何故かゴーサの三人も興味深げに寄って来ていた。シュガヌ師の話を聞きたいらしい。
「戦いが避けられるならそれに超したことはない。しかしザ……摂政閣下がゴーサの連中を付けたということはおそらく戦いが発生することを見越しておるんだろう。だからその上でどう振る舞うかを考えなくてはならん」
「はい。教えをお授け下さい」
イシュタトは、シュガヌ師がザハトと摂政閣下のことを呼び捨てにしそうになったのに気付いたが無視した。
「うむ。まずは戦いになるときその場所を選べ」
「場所を選ぶのですか?」
「そうだ。少しでも戦いやすい状況を選べ。状況は生死を分けるぞ。どこで戦うかは極めて重要だ」
「はい」
「そして不必要なものは棄てろ。実際の物でも、心の中のものでもだ」
「余計な事を考えるなということですね」
「それもある。だが大事なのはその瞬間に必要なもの以外は全て棄てろ。いいな?」
「はい」
「次に。この任務の間中、全ての行動に命を懸けていると思え」
「もちろんです」
即座にそう答えたが、どういうわけかシュガヌ師は何か言いたげにイシュタトの方を見た。少し考えているようだったが結局その事については何も言わず、シュガヌ師は話を続けた。
「……そして何ものも恐れるな。恐れと執着を切り捨てろ。恐怖しても恐怖を無かったように振る舞うのだ。たとえ足が顫えても平気な顔をしていろ」
これは難しいと思った。心を馭するのは難しい。とても。
「それから予想外の事態が起きたらとにかく撤退しろ。いいな?」
「わかりました」
「時間というものを集中させろ。一点に全ての時間を集めてその中に自分を置け」
これは判らなかった。だがとにかく頷いた。
「最後にな、絶対に一番前には出るな。いいな?」
意外な助言だと思った。恐怖を無視し、命を懸けよと言っておきながら最前列には出るなと言う。わけがわからない。だがシュガヌ師は真剣な顔をしていた。
「優れた戦士は先頭には立たないものだ。それを忘れるな」
勇気を持ってこれから任務に臨もうという自分に対して、それはちょっとないんじゃないかという助言に思えたが、とにかくこれにもイシュタトは頷いた。
「お前に渡した小剣だが……」
「はい。身に付けております」
イシュタトは日避け雨風避けの引き回しを開いて見せた。
皮の剣帯でしっかりと左腰に小剣を佩いている。この剣帯もシュガヌ師が用意してくれたものだった。
左腰にだけ重さが掛かるというのは慣れないもので、歩いていると何だか不安定で落ち着かない。
剣を佩いているという事実は誇らしく、気分が良かったが、どうにも立った感じ、動いた感じに違和感があった。
「男の腰には武器の重さが必要だ」
ザハトはそう言って言祝いでくれたが、そんな感じで、まだまだ慣れないイシュタトであった。
シュガヌ師は軽く剣帯を調べ、小剣がしっかり固定されているかどうかを確めた。
「うん。お前の相手はほとんどが、お前よりも体格雄偉だろう。間を置かずに戦え。小剣は絶対に退がってはならぬ」
「かしこまりました」
「では行くが良い」
重々しい音を立てて市門が開いた。隊商が動き出す。それに合わせて空気が動く。すると砂の香りが鼻に届いた。
隊商の長はナーゼムという男だ。一行はおよそ百人。隊商としては普通の規模だと言えるが、荷駄を含めるとかなりの長さになる。
イシュタト達は隊商の後ろの方なので、歩き出すまでにはまだ少し時間があった。
「それでは行って参ります」
「うむ。無理をするなよ。焦って手柄を立てようなどと思ってはならんぞ」
それはシュガヌ師の心からの助言であったが、ザハトの役に立ちたいと願い、気を逸らせるイシュタトにとって、あまり有り難くは感じられないものだった。
「では剣匠様。我らはこれで」
ザブラムが一礼して騎乗する。他の二人もそれに傚った。
ディブロスまでは一週間から十日程度で着く。決して長い旅ではない。
しかしイシュタトにとっては生涯初めての旅であった。
門を出てすぐに、一度振り返った。
シュガヌ師は杖を突いたままじっと動かず、一行を見送ってくれていた。




