第八章・五
それから間も無く、イシュタトは又ザハトに呼び出された。
また離宮である。今度は応接室に通された。
見たことのない男が立っていた。肌浅黒く、目と鼻が大きい。南の方の人間だなとイシュタトは思った。
「この男はウパガヌという。お前を案内してくれる」
「案内……」
一瞬意味が判らなかったが、ザハトが無言で頷くのを見てイシュタトは理解した。
弟に、カミルに会うのだ。
「……辺りには余計な者はおらぬ。ナトアムと好きに話すがいい。その上でお前がどうするのか決めると良い」
ザハトに送り出されてイシュタトは離宮を出た。
そのまま王宮の敷地を歩き、地下の牢屋へと向かう。
牢屋へと続く階段の入り口には衛兵が立っていたが、ウパガヌとイシュタトが現れると何も言わずに通してくれた。
「こちらです」
落ち着いた声でウパガヌが案内してくれる。
手に持っているのは油燈である。左右には牢が並んでいるが、明かりに照らされた限りで見た感じでは、誰も入っていない。イシュタトは何とも言えない、土とも砂とも付かない臭いを鼻に感じた。
一番奥にまで来てウパガヌは足を止めた。油燈で右側の牢屋を指し示す。
「私は入り口を見張っております。後はご自由に」
ぼそりとそう口にすると、油燈をイシュタトに渡して入り口の方へ去って行った。
「……お役人様?」
そう呼びかけられた。牢の中から。
子供の声である。それが誰であるかなど考えるまでもない。
カミル、と呼びかけそうになってイシュタトは口を噤んだ。カミルではない。
ナトアムなのだ。ザハトもそう言っていたではないか。
「いや、役人ではない」
言ってからイシュタトは思った。自分の言葉遣いも短い期間で随分変わったものだと。
奴隷にされていた頃にはこんな風に話すことなど思いもしなかった。貴族の言葉を耳にしたときは、気取っていると軽蔑したりもした。
しかし自分は貴族なのだ。それに相応しい言葉遣い、作法というものがある。それを守る事が秩序を維持し、平和に繋がるのだ。そしてそのことはきっと偉大なザハトの望むことでもある。
「僕はイシュタトという」
イシュタトはカミルからは見えない位置に、牢の入り口脇に腰を下ろした。
今、弟の姿を目にしてしまうのはまずいと思ったからだ。
間違いなく心が揺れる。そうしたら正確な判断が、正しい決断が下せなくなる。
だから姿を見てはいけないと思ったのだ。
「……お貴族様ですか?」
その質問はイシュタトに衝撃を与えた。お前もそうなのだ。そう言ってやりたかった。
「……ああそうだ」
「親方はどうしてますか? あの、親方っていうのは俺の親方で、俺と一緒にいた人です。大道芸人です」
「別の牢に入れられているけれど酷い目には遭っていないよ」
「本当ですか? よかったあ……」
「親方のことを心配してるんだね」
「はい。親方は……そのう立派な人です。俺の親父みたいな人なんです!」
お前の父親はギジム・ナブ・ウルビヌ・ナブ・バルシュ・アヌン=リアバルだ。偉大な近衛兵だった僕たちの父親だ。
しかしイシュタトはそれを言い出せなかった。
「俺たちなんにもやってないんです。本当です! でもいきなり兵隊が来て……」
カミルの声には親方を心配する響きがあった。それを感じてイシュタトは思った。
牢の中にいるのはカミルではなくナトアムなのだと。自分が抱き上げたあの赤子のカミルではないのだと。
半ば予想していたことではあったが、それでもやはり胸が痛んだ。
「そうか……ここの摂政閣下は英明で公正なお人だ。君たちが無実ならば罰せられることは絶対にないさ」
「本当ですか!? でも、いつになったら出られるんですかね?」
「そんなに先の話じゃないと思うよ。心配しないで待っていればいい」
「イシュタト様はなんでそのことを知ってるんですか?」
当たり前の質問であったがどう答えるべきかイシュタトは少し考えた。
「……君たちのことに興味があったんだ。王宮の牢屋に何で大道芸人が入れられているのかと思ってね」
「ここは王宮なんですか?」
カミルの声には驚きが感じられた。
「そうだ。ここは王宮の地下にある牢獄さ」
「なんでって言われても……俺にもさっぱり……」
それはそうだろう。ザハトの配慮でここに入れられているだけであり、本来ならばイゼの町の牢屋に入っている筈なのである。無実の罪でだが。
「一つ聞きたいんだがいいかい?」
「何ですか? 俺に答えられることならいいんですけど……」
「君は幸せかい?」
深い意味を籠めてイシュタトは尋ねた。
お前は今幸せなのかと。
「あの……どういう意味かよくわかんないですけど……」
質問が少し抽象的過ぎたようだった。どうもカミルには通じていない感じである。
イシュタトは元々頭の悪い方ではない。だからこそグヌグに生意気だと目の敵にされてきたのだ。
現在の剣と学問の日々は、生まれ持ったイシュタトの素養を、つまり知性や感性を大きく伸ばしていた。
その結果イシュタトはごく自然に、こうした抽象的な質問を紡ぎ出してしまったのだ。
それは同時に、幸福かどうかという疑問が既に手触りのある感覚として、イシュタトには捉えられている事を意味する。
イシュタトは質問の仕方を変える事にした。
「親方の所で大道芸の修行をしてるんだよね?」
「はい」
「毎日は楽しいかい?」
「はい。稽古は大変ですけど、でも楽しいです。親方はいい人だし」
「親方は厳しくないのかい?」
「それがそうじゃないんです」
カミルの声に笑いが混じった。
「親方は優しいんです。見てる俺の方が心配になるくらいで。だからその分だけ俺はしっかり稽古しなくちゃいけないんです」
「そうか」
しっかりしてるなとイシュタトは思った。親方が甘かったら、普通なら稽古を怠けようとするだろう。
「俺、お手玉だって四つ回せるんですよ!」
「それは凄いな」
話し相手が欲しかったのだろう。カミルは色々なことをイシュタトに話した。
大道芸をしながら旅してきた都市のこと。出会った人々のこと。
美味かった食べ物のこと。暑さや寒さ、楽しかったこと辛かったこと。
イシュタトは時々相槌を打ちながらひたすら話を聞き続けた。それはカミルが今までどういう人生を送ってきたかという話だったからだ。
――幸せなんだな。
そう思った。弟は自分とは違ったのだ。グヌグのような下劣な男に買われた自分とは違ったのだ。
良かったと思った。幸せに生きてこられたのならいい。十分だ。いやそれ以上だ。
カミルは親方のことを色々と話した。安全だと言われてもやはり心配なのだろう。
「そろそろ行くよ」
イシュタトはそう声を掛けて立ち上がった。
「また来てくれますか?」
「どうかな。その時にはもう君はここから出ているかも知れない」
「えっ? そうなのかな……だったら、俺たちの芸を見に来てくださいよ」
「ああ、必ず見に行くよ」
イシュタトは牢の前を離れた。その心は決まっていた。カミルはこのままにしておこうと思った。
出来る事なら今の邸宅で一緒に暮らしたい。だがそれでカミルが幸せになれるかどうかは判らない。
それは今までの人生を棄て去って、全くの別人として生きる事を強いられることだからだ。
もしもカミルがそれを望むのならばそうすればいいと思う。だがそれは今ではない。今のカミルはその決定を下すにはまだ幼い。
だから今はそのままにしておきたいとイシュタトは思った。
ウパガヌに伴われて離宮に戻り、弟はこのままにしておいて欲しいと、ザハトにそう伝えた。
「それで良いのだな」
確認を求めるようにザハトは聞いてきた。
イシュタトが頷くとザハトもまた頷いた。
「わかった。お前の望むようにしよう」
説明も何も求められなかった。ザハトはただそう言っただけだった。
その事がイシュタトには嬉しかった。思い遣ってくれたのだと感じられた。
大道芸人のモルピトとその弟子ナトアムはそれから間もなく放免された。
ただし一年の内、最低でも十日はアンケヌに来て貴族の屋敷を廻り、その芸を披露することが義務付けられたという。
無論、その中にはイシュタトの邸宅も入っている。それを知った時、イシュタトは目頭が熱くなった。
これは父の遺した恩沢なのだと思った。ザハトがそれだけ父ギジムのことを思ってくれているのが嬉しかった。
「後何年かすれば、お前も胸に陽翼盤を入れることになるであろうな」
それが楽しみだというようにザハトは話した。
陽翼盤とは翼の生えた太陽の意匠のことである。アンケヌの近衛兵は胸にその刺青を入れるのだ。父にも有ったからよく憶えている。
「励めよ。だが焦るな。受けるべきものを正しく受けるのだ。人はそうあるべきだ……」
ザハトも又どこか遠くを見るような目をすることがあった。
そういう時、イシュタトはザハトを遠く感じた。
あなたは何を見てらっしゃるのですか?
それは僕にも見ることが出来るものなのですか?
そう尋ねたい衝動に駆られた。しかし尋ねたことはない。
これからも多分尋ねることは出来ないだろうと思う。それはきっと言葉に出してはいけないものだからだ。
カミルとその親方モルピトがイシュタトの邸宅にやって来たのは、それから数日経ってのことだった。
イシュタトはメニエフやその他の召使い達と一緒に二人の芸を堪能した。そして褒賞を与えて帰した。又来てくれるだろうか? 来てくれるのではないかと思う。
ザハトの話によると、イシュタトの家族では自分とカミルだけが生き残ったらしい。
それが運が好かったかどうかはこれから決まる。いや、これから決めることだ。
学問と剣術鍛錬に勤しむ日々に戻った。満足だった。
寂しさは残った。だが満足だった。カミルは生きているのだ。自分が見上げるのと同じ空の下で。どこかの町で。旅の途上で。
自分は剣を振ろう。偉大なザハトの為、アンケヌの為に。そして自分自身のために。
シュガヌ師は絶え間なく課題を出し、イシュタトを指導し続けた。
剣術というものは頭も、体も、心も使う。自分自身の全てをそこに投げ込まないと、とてもではないが稽古を続けてはいけない。それほどに濃密なのだ。
イシュタトは喜びを持ってそれに向き合っていた。
そうした充実した日々が暫く過ぎたある日、またザハトに呼び出された。
しかも今度はゴーサの傭兵達も一緒である。イェヒムとヴァーファルであった。
普段は軽口を叩いている二人が無言でイシュタトに付いて来ている。何だか落ち着かなかった。
面会したのは王宮の広間である。意外だった。そこは謁見などに使われる場所のようで、小さな広間なのだがイシュタトは大きく感じた。
三人を前にしてザハトは暫く黙っていた。考えているようだった。いや迷っているのか。
その様子もまたイシュタトは意外に思った。ザハトは迷ったりするような人ではないと思っていたからだ。
ザハトという人は優れた知性を持ち、しかもじっくりと考えた上で物事を決断する。
そして決定を下してからの行動は素早く、迷いがない。
そんな風に感じていたのだ。だから迷いを見せるなどザハトらしからぬと思ったのだ。
「……お前に頼みたいことがある」
ややあってザハトは口を開いた。
三人を前にしていたが、その目はイシュタトを見ていた。
「色々考えたが、お前が行くのが最も良い結果になりそうだ」
自分が? どこへ?
「お前に迎えに行って貰いたい人物がいる。引き受けてくれるか?」
何と役目が与えられたのだ。この自分に。
ザハトの役に立てるのだ。
「ザハト様のお役に立てるならば喜んで!」
勢い込んでイシュタトは答えた。否やなど考えもしなかった。
「そう言ってくれるか」
「もちろんでございます」
イシュタトは手を着き、深く頭を下げた。
「……わかった。おまえに頼みたい」
「畏まりました」
ザハトの話によると、このアンケヌを出てディブロスに行って欲しいのだという。
そこである人物を迎えてきて貰いたいのだと。
「迎えるというのは正確ではないな」
ザハトは苦笑した。
「強引にでも連れて来て貰いたいのだ」
それは穏やかではないなと感じた。
「危険は無いかと思うが、一応護衛としてゴーサの傭兵にも同行して貰う。それ以外にも世話役の従者を付けるが、あくまで少人数での行動になる」
「はい」
頷きながらイシュタトは肌がざわめくのを感じた。
何か大事な仕事を任せられるのだ。その事がイシュタトの気を亢ぶらせていた。
「全体の指揮はザブラムが執る。お前は鍵となる役目を果たして貰うが、あくまで指揮官はザブラムだ。そこは辨えて貰いたい」
「はい」
イシュタトに異論は無かった。そもそも自分ごときがゴーサの傭兵を率いて任務をこなすなど出来るわけもないのだ。
その点ザブラムならば信頼できる。知的で冷静な彼ならば、危なげなく任務を遂行することが出来るだろう。
「あとはイェヒムとヴァーファル。お前達にも同行して貰う」
「畏まりました」
ヴァーファルが答え、イェヒムは無言で頭を下げた。
「して誰を迎えに行けばよろしいのでしょうか?」
イシュタトの問いにザハトは何故かヴァーファルを見ながら答えた。
「ダーシュ王子だ」
その名前は聞いたことがあった。ザハトから聞かされたのだ。
父ギジムがその身を庇って死んだ王子の名前。
それがダーシュだった。




