第八章・四
稽古中に呼び出しを受けたのは初めてである。
いつもは鍛錬が終わる頃、道場の入り口から少し離れた所に使いの者を寄越すのがザハトのやり方だったからだ。
「畏まりました。すぐに参上いたします」
答えてイシュタトは更衣室に向かった。稽古着を脱ぎ、濡らした布で手早く汗を拭き取って体を清めた。
まだザハトは公務を行なっている時間である。稽古中に呼び出されるのも初めてだが、こんな時間に使いを寄越してくるのも不思議であった。
本当はそれなりの恰好に着替えてから会いたかった。イシュタトにはそういう自分を、立派な姿をザハトに見てもらいたいという仄かな願いがある。
しかし召使いに急かされて、イシュタトは普段着のままで宮殿を移動した。
予想通り離宮に入った。やはり私的な理由で呼び出されたのだとイシュタトは察した。
ザハトという人は公私の区別をしっかり付ける。短い間ながらイシュタトはそれを見てきたし、そのことを尊敬している。
通されたのは普段使われている応接室ではなく、初めて入る部屋だった。
どうやらザハトの私室のようだった。これも意外だったが、それよりもイシュタトは違和感のようなものを抱いた。
部屋の中はよく整理されていたが、書き物をするための机と椅子があるくらいで、調度品と呼べるような家具が何もない。壁にも何も掛かっていない。
一応客に会うための敷物が床に敷いてあり、座物もあったが、それ以外の物が何もない。
別に不自然ではないが妙に寂しいというか、空虚な感じがした。
だからといって冷たい感じがするわけではない。落ち着かないわけでもない。
だが寛ぐための部屋という感じではないのだ。イシュタトは敏感にそうした空気のようなものを感じ取った。
つまりここは腰を落ち着けるための部屋ではないのだと。
「好きに坐ってくれ」
召使いが去ると、ザハトはそう言ってイシュタトに坐るよう言った。躊躇いつつも手近な座物を選んで腰を下ろした。
香草茶と茶菓子が既に用意されていて銀盆に載っていた。
「汗を掻いて疲れているだろう。甘い茶を飲むといい」
ザハトはイシュタトに向き合って坐ると、手を付けやすいように自分でも茶を取って一口飲んだ。
茶菓子はリムリク地方では一般的なもので、シャムールというチーズを使った甘い砂糖菓子だった。上に細かく砕いたヤムラムの果実の破片が載せてあって、白い球形の可愛らしい菓子だ。それと乾した果実が三種類並べられていた。
シャムールは驚くほど美味かった。町でも一般的に売られている菓子だが、味が全然違う。
思ったほど甘くないのだが、しっかりと甘さは感じられる。
そして口の中で甘さが溶けていくようだ。軽く、爽やかな甘みにイシュタトは驚いた。
「いい味だろう。好きなだけ食べなさい」
ザハトは優しく勧めてくれる。小腹も空いていたし、イシュタトは立て続けに三つばかりシャムールを食べ、熱い茶を飲んだ。
その様子をザハトは向かいに坐って黙って見ていた。その目には優しさがあったが、何か考えているようでもあった。
いつもながら気品と威厳がある方だとイシュタトは思った。
ザハトに会うと、まるで眩しいものを前にしているような気持ちになる。
「……大事な話がある。他の者には聞かせられん」
不意にザハトがそう呟いた。
意味を理解してイシュタトは緊張した。辺りに人の目が無いか気になって見回した。
「大丈夫だ。聞かれて困るような者はこの周囲には居ない」
ザハトは茶器を銀盆の上に置いた。
「お前の弟が見付かった」
どすんと胸の中に重い物を投げ込まれたような気がした。黙ってザハトを見上げた。
強い眼差しが返ってきた。ザハトは頷いた。
「生きていた。やっと見付け出すことができた」
「ザハト様……」
「喜んでくれるか?」
イシュタトは言葉が出て来なかった。激しい感情が渦を巻いて胸の奥から湧き上がってきた。
「……ありがとうございます」
何とかその言葉だけを口にすることが出来た。
「ただ問題があってな、簡単には会うというわけにいかぬのだ」
「はい」
「納得してくれるか?」
「はい」
イシュタトには全く異論は無かった。ザハトを信じている。
ザハトの判断に間違いがある筈はないと思っている。それは信頼と言うよりも信仰に近い感情だった。
「お前の弟はカミルと言ったな」
「はい」
忘れるものか。父が名付けたのだ。偉大な近衛であった父が。
自分も、弟も、その名は剣の達人であったという偉大な父ギジムが付けてくれたのだ。
「お前の弟はナトアムと呼ばれている。おそらく……いや話を総合する限り、そのナトアムがお前の弟カミルなのだ」
「何故、名が変わったのですか?」
言ってしまってからイシュタトは答えに思い当たった。奴隷として売られたとき弟はまだ赤子だった。自分で名告れるわけもない。
おそらく買い手の主人が勝手に名付けたものだろう。
「弟は……カミルは自分の名を知らないのですね?」
「そうだ」
ザハトは目を伏せた。イシュタトは拳を握った。
沈黙が落ち、静けさが二人の間に拡がった。
それはお互い目の前の相手ではなく、目には見えないものへの怒りと悲しみであった。
イシュタトとザハトとの間を、そうした思いが通っているようだった。
「……お前の弟を買い取ったのはモルピトという大道芸人だ。自分の後継者として、大事にカミルを、お前の弟を育てているらしい」
「運が好かったのですね」
イシュタトの言葉にザハトは答えなかった。暫く黙った。
「それに答えられるほど、私は深い智恵を有してはおらんのだ。恕せよ。イシュタト」
「滅相もございません」
イシュタトは深く腰を折って礼をした。教室で習った正式な礼法である。
「面を上げよ」
ザハトの言葉があって身を起こした。ザハトは少し困ったように微笑んでいた。
「大袈裟だ。それほどの謝罪をされるほど私は罪深いのかと悲しくなるではないか」
「いえ! 決してそんなつもりでは!」
「あまり硬くならないでくれ。重大な話だから寛げという方が無理な事くらいは私にも判る。しかしもっと気を静めて話を聞いて貰いたい。できるか?」
「はい。努力してみます」
ザハトは頷いた。
あの政変の後、イシュタトの一族に限らず、売れそうな者達は皆奴隷として売られていった。
弟カミルもその一人であったが、彼は偶然にも大道芸人の男に買われることになった。
男の名はモルピトといい、中々芸の優れた男であるらしい。それまでにも何人かの子供を買ったり、拾ったりしては芸人に育てていたようだが、今度は赤ん坊から本格的に育ててみようという気になったらしく、市門脇の奴隷市場でカミルを買ったようなのだ。
その後広くリムリクやダルメキア、ジルバラ地方などを廻りながら大道芸をして暮らしていたのだが、イゼの町で捕縛されたのだという。
「どのような罪を犯したのですか?」
「いや、何も罪は犯してはおらぬ」
ザハトの話によると、禁じられた場所で大道芸を行ない、客を集めたという理由で都市の兵に捕縛されたそうだが、それは怪訝しいのだという。
「大道芸人は基本的に広場であればどこでも芸を見せて金を取ることができる。これは遥かな昔からアウラシールでは常識だ。無論、立入禁止な場所もあるが、わざわざそんな所へ行かずともいくらでも都市の中には広場があるのだ」
ザハトの調べた所、巡回兵士に賄賂を渡さなかったのが原因であるらしい。よくある話ではある。
牢獄に入れられたモルピトとナトアムを、ザハトは裏から手を回して確保した。
そして今アンケヌに連れて来ているのだという。
「アンケヌに居るのですか!?」
「居る。ただしまだ牢屋の中だ」
「どうしてですか?」
罪を犯していないのに何故牢に入らなければならないのか。
「二人の安全のためだ」
ザハトは厳しい顔をした。
「あの二人がお前の縁者だと知れるのはまだまずい……他にも理由はあるがな。暫くは牢に入れておくつもりだ」
牢獄ならば警護はしやすい。近付いてくる相手も容易に選別できる。
「モルピトの方はその内適当な理由を付けて放免するつもりだが、問題はカミルだ。私なりに考えもあるのだが、あくまでそれを決めるのはお前でなくてはならぬ」
「僕が……」
イシュタトは驚きと戸惑いを感じた。しかしザハトの言っていることは理解できた。
今、一族の家長は自分なのだ。たとえ未熟でも自分しかいないのだ。
だったら自分が決めなくてはならない。
「一度会ってみたいと思います」
「判った。手配しよう」
話はそれで終わりだった。
イシュタトは礼を言って離宮を後にした。
見送りの召使いが先に立って歩き、それについて行くと、離宮の前には馬車が用意されていた。それで王宮の敷地内から市内へと出た。
イシュタトの自宅はかつて暮らしたあの自宅ではない。ザハトにより新しい邸宅が与えられていた。
なかなかの大きさの邸宅だと聞いていたが、イシュタトの感覚ではもはや屋敷である。
当然自分一人で維持できる筈もない。そこはザハトがやはり見事な差配をしてくれていて、家の中のことを切り盛りする召使い達が初めから用意されていたのだ。
イシュタトは実質、なにも家のことに関わらずとも生活が出来るようになっていた。
かつての自宅に未練が無いわけではない。
そこには思い出が数多くあるが、同時に残酷な悲劇の場でもある。別の邸宅を用意したのは、イシュタトの心を考慮してのザハトの計らいであった。
邸宅の前には車回しとかいう盛り土の山があり、馬車が上手く邸宅の前へ入れるようになっている。ローゼンディアの様式であると聞いた。
入り口で待っていた召使いが馬車の扉を開ける。
最初は慣れなかったが、こういう儀式めいた作法も必要なことなのだと今では納得している。それに幼い頃、父ギジムがこうして帰宅するのを見た記憶もあった。
「お帰りなさいませ。ご主人様」
帰宅するとメニエフが両膝を着いてうやうやしく出迎えてくれた。
「それはよしてくれって言っただろ」
イシュタトが文句を言うとメニエフは笑顔を見せて立ち上がった。
「だって、あなたのお蔭であたしも自由になれたんだもの。これくらいはさせてもらわないと逆に落ち着かないわ」
メニエフも又、奴隷の身分から解放されて自由民となっていた。
今ではイシュタトの家の召使いとして雇われる形になっている。
ただしそこら辺の細かい話は判らない。
今はまだ家の運営は他人に任せてあり、イシュタトがもっと大きくなったら引き継ぐことになっている。
その為にもイシュタトは学問に励む必要がある。この家を、自分で維持していけるようになるために。
現在イシュタトの家を管理してくれているのはラド・ラザハという男である。
名告りはそれだけであった。これはラザハの父という意味である。アウラシールの名前ではこれはウルグという。
だからアクル、つまり本人の名前は解らない。名告るつもりはないようであった。
ある時、ザハトの紹介でイシュタトは彼に引き合わされたのだ。
ラド・ラザハは顔に大きな傷があり、唇は割けて、歯が一部分丸見えになっていた。
無残な顔をしている男であった。
しかし目鼻立ちは悪くない。きっと元は秀麗な顔をしていたのだろうが、その傷の所為で見る影もなくなっているのだ。
それでも瞳には理知の輝きがあり、その人格が傷によって損われていないことが感じられた。
「君がイシュタトか」
そう言って感慨深げに見詰めてきた。何と答えて良いのか判らず、イシュタトも男を見返した。
だが嫌な感じはしなかった。恐怖も感じなかった。
「この家のことは任せてくれ。君が成長するまで俺が必ず、維持してみせる」
言葉の合間には吐く息の音が混じった。割けた唇から漏れる空気の音だった。
「そういうわけだ。お前はこの家に住み、そして学問に、剣に励め。余計な事は何も考えなくていい」
ザハトはそう言って男を促すと、二人で馬車に戻ってしまった。来るときも突然だったが去るときも突然だった。
イシュタトは精霊に化かされたような気持ちになった。
後日男のことをザハトに尋ねたが、教えてはくれなかった。
「時が来たら彼が自分から話すだろう」
そう言うのみで決して、何という名前なのか、どこに住んでいるのか、一切ザハトは明かす気が無いようだった。
けれどイシュタトには判っている。
きっと自分に、父ギジムや一族に関係している人なのだ。ザハトがそうであるように。
あの日、鷹によってザハトが現れたように。
ラド・ラザハもイシュタトを助けるために現れたのだ。
彼がどんな過去を持っているかは知らない。だが過酷な経験をしたのだということだけは間違えようもなく理解できる。
僅かな時間だったが会ってみて、その知性と、強靱な精神を感じる事ができた。
彼も又あの政変で人生を狂わされたのだろう。そして今、生きている。
ああして生きている。
その事を思うと涙が流れた。何故あんな不幸が起きたのか。どんな不敬を神に働いたというのだろうか。
いや、不敬などあろう筈も無い。あの偉大なザハトが、そして恐ろしい傷を隠すこともなく、堂々としていたラド・ラザハが、神を辱めるような愚者である筈がない。
しかしそれでもあの不幸は、災いは起こった。
ならば世界は? 神とは何だ?
何がこの宇宙を、世界を律しているのだ?
イシュタトには解らない。想像することすら出来ない。
「君がイシュタトか」
その声が耳に残って離れない。
「感謝するぞ。よくぞ生きていてくれた」
ザハトから掛けられた言葉が、あの焼け付く傷の痛みの中で聞いたあの言葉が、胸の中に蘇えってきた。
そうだ。あれと同じだ。
ラド・ラザハの言葉はあれと同じなのだ。
優しい、大きな手が背中を支えてくれている。
誰の手なのか。判らない。振り向くことは出来ない。でも確かに知っている手だ。
涙が流れた。考えてはいけないと思った。今はまだ考えてはいけないのだ。
歯を食いしばれ。剣を手に取れ。
剣を学び、学問をするのだ。
それが今やるべき事だ。そう自分に言い聞かせる。
イシュタトは自室には戻らずに浴室に向かった。先に汗を流す事にしたのだ。
この邸宅には以前ローゼンディア人が暮らしていたことがあり、その時に浴室が作られたのだという。
全くローゼンディア人という連中は風呂なしでは居られないのだ。
どうしても浴槽に入りたければ、市内には彼ら向けの公衆浴場もある。
それでも自宅にこうして浴室を作る。意味が判らない。
最初はそう思っていたが、イシュタトが剣術の稽古が終わって家に帰ると、いつも決まって風呂の準備が出来ているのである。
召使い達の心配りであったが、無駄にするのも勿体無いのでそのまま入っている内に習慣化してしまった。
すると実に気持ちがいい。すっきりする。
今ではローゼンディア人ではないが毎日風呂に入るのだ。
風呂場には例の按摩士が入ってきてイシュタトの体をよくほぐしてくれる。こうすると実に気持ちよくぐっすりと寝られるのだ。
そして翌日は又朝から教室で学問を学び、午後は剣術である。
食べるために働く必要はない。鞭や棒で打たれることも、罵倒されることも無い。
毎日が、濃い。充実している。まさか自分にこのような、輝く日々が訪れることがあるなどと、イシュタトは想像すらしたことは無かった。
まるで夢の中にいるようである。
湯気の中から天井を見上げ、息を吐きながらイシュタトは思った。
――全て、ザハト様の下さったものだ。
何もかも。いや、人生そのものをイシュタトはザハトに与えられた。救われた。
その恩義は月のように輝き、優しく、そして巨大である。
一体自分はそれに対して何が出来るだろうか?
イシュタトは最近よくそう考えるようになった。
早くザハトの役に立ちたいと思う。しかしその為にこそ、今の学問と剣術の稽古があるのだ。
励まなくてはならない。誰よりも熱心に。
「イシュタト……少しいい?」
風呂から上がって食事をしているとメニエフが話しかけてきた。
食事はメニエフと一緒に摂ることになっている。
当初メニエフは自由民になったのはイシュタトだけで、彼が自分の新しい主人になったと考えたようだったが、何度も事情を説明し、今ではなんとか納得して貰っている。
それでも召使いが屋敷の主と食事を共にすることは抵抗があるらしく、何だか落ち着かない様子ではあるが。
一度その辺の事情を打ち明けてザハトに助言を求めたことがある。
「慣れさせろ」
ザハトからの助言はそれだけである。しかも笑ってそう言われた。ザハト様もあんな風に楽しそうに笑われることもあるのだなとイシュタトは思った。
「ご主人様のことなんだけど……」
メニエフの口調にはためらいがあった。それだけでイシュタトはそれが以前の彼らの主人、グヌグのことであると判った。
「ああ、グヌグのことか」
わざと呼び捨てにした。口に出すにはちょっとした勇気のようなものが必要だったが、言ってみると小気味よかった。
「どうかしたのか?」
「今日、町でお見かけしたわ」
「へえ」
あの日ザハトが現れた後、牢に送られたという話は聞いていたが、その後の話は暫く耳にしなかった。
ある時、裁判があるという理由でイシュタトはザハトに呼び出され、そこでグヌグと対面することになった。
裁判の理由は僭主ジヌハヌの元で蓄えた財産の没収と、自由民であるイシュタトに対して継続的かつ長期間に亘って虐待、侮辱、暴力を加えたことである。
正確にはイシュタトの身分は貴族である。都市で暮らす自由民には市民と貴族の別があるが、法の上では貴族と市民は一括して自由民として扱われるのがアウラシールの慣例であった。
ただし王族は自由民の中でも特別扱いであり、一部の特殊な職に従事する者達もそれぞれ特別な場合がある。
グヌグにしてみれば青天の霹靂であったろう。
奴隷の筈のイシュタトが自由民、それも貴族であったなどというのだから。
しかしザハトの言い分には正当性があった。
ジヌハヌは正統な王を弑逆して王を自称していたわけであり、その時の動乱や、またはその関係を利用した形で築きあげた財産は全て没収というのは、アウラシールの歴史でも多くの前例有るところである。
そして前提としてジヌハヌの支配と、それに伴う行政がまるごと否定されるわけであるから、グヌグのイシュタトへの暴力は、自由民同士の傷害事件に相当することになった。
傷害に関する場合、アウラシールでの一般的な判決は、グザルハビヌ大法典が基準とされる。
これは古代のグザルハビヌ大王が、それより更に遥か古代のエマシュ大法典を元に作り上げたもので、今日のアウラシール地域全ての法の原典となるものである。
則ち『目には目を以て贖い、歯には歯を以て贖い、それ以上の贖いを求める不可』である。
また同法にはこうもある。
『虐げし者の罪は、虐げられし者の怨嗟によって決めるべし』
これらを典拠に、グヌグはおよそイシュタトが受けたと同じ暴行を執行人によって受けることになったわけだが、現実問題それはグヌグにとっての死刑宣告であった。
グヌグの怠惰な肉体はそれこそ一度の棒打ちにも耐えられまい。
しかも執行人は筋骨隆々とした男である。それがよく締まった木の棒で思い切り打つのである。
それも一度ではない。執行人が左右に立って、規定の回数を交互に打つのだ。
イシュタトが暴行を受け続けた日数を日割りで換算したとしても余り意味はない。
どうしたところでおそらくは一日に二十打などということになる。そして初日でグヌグは死ぬだろう。
実際、二十打の棒打ちでは成人男性でも生存率は半々と言ったところになるらしい。グヌグの如き肥満した懦弱な肉体が耐えられる筈もない。
しかし自由民同士の傷害事件では金銭による賠償が認められている。グヌグはこれを選んだ。イシュタトはそれを受け入れた。
金が欲しかったわけではない。グヌグなど殺す価値も無いと思っただけだ。
自分でも謎だった。あれほど呪い、憎悪したグヌグを何故生かしてやる気になったのか。
おそらくザハトの裁きが美しかったからだ。それはグザルハビヌ大王の法を元に、アウラシールでの前例を公平に踏まえたものであり、反論の余地のない程見事に組み立てられていたのだ。
イシュタトは法というものの威力をまざまざと見せられた。そしてその事に深い思いを持った。それは納得したとか、満足したとか簡単に言えるものではない。
もっと遥かに大きなものを感じたのだ。だからその判断に従おうと思ったのだ。
金銭賠償を受け入れると告げると、ザハトはそれで良いのかと念を押してきたがイシュタトは考えを変える気は無かった。
その結果、グヌグは財産と呼べる物を全て失った。あの屋敷も、その他の物も、全て。
それから後のことは知らない。
興味が無いと言えば嘘になるが、日常が余りにも充実していて、グヌグのことに意識が及んでいる暇がなかったのだ。
「……どんな様子だった?」
「あたし、町の外れで見たの。地べたに坐ってらしたわ……酷い恰好で」
「そうか」
イシュタトとしては何と答えて良いものか判らない。
どうやらメニエフは衝撃を受けているようだが、イシュタトは多少意外に思っただけで別段衝撃ではない。
「あの屋敷や財産を没収されたんだ。仕方ないだろうな」
「だと思う。ザハト様はとても恐ろしいお方だという噂だもの」
「なんだって?」
イシュタトは耳を疑った。ザハト様が恐ろしい? なんだその噂は。
「ザハト様は正義に反することなど絶対に行なわないお方だ。その噂は間違っている」
メニエフに怒っているわけではないが、どうしてもイシュタトの語気は強くなった。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「判っている。けどグヌグが気になるんだろ?」
「……ええ」
イシュタトは溜息を吐いた。
「僕が今度調べておく。何か判ったら君に話すよ」
なんであんな下劣な男が気になるのか。
イシュタトには全く理解できないが、メニエフの不安を払拭するためなら、それくらいの骨折りはしてもいいだろう。
グヌグよりも遥かに悲惨だったのは第二夫人のジャヌだった。メニエフを殴り付けて歯を二本へし折ったあのジャヌだ。
彼女は悲慘な最期を遂げた。
「あの女はカティヤを殺した。ゆえに同じように死なねばならない」
ザハトはそう言っただけだったが、噂はイシュタトの耳に入ってきた。
ゴミ捨て場に棄てられたジャヌの屍体は人の形をしておらず、まるで焼けぼっくいのようであったという。
つまりジャヌはそうやってカティヤを殺したということになる。
カティヤとはほとんど顔を合わせたことはない。グヌグが嫌らしい執着を見せていた奴隷の娘だ。あの娘も又ザハトの縁者だったのだろうか。
もしお互いの立場を知っていたら仲良くなれていただろうか。
美しく、賢そうな娘だった。だがイシュタトは彼女がどういう人間であったか知らない。
知る機会さえ得られなかったのだ。
グヌグが商用で家を空けた時を捉えてジャヌは動いた。たちの悪い男たちを雇いカティヤを掠わせたのだ。
屍体が見付かったのは半月ほど経ってからだった。ただほとんど人としての原形をとどめておらず、本人だと確認するのに手間取ったらしい。
グヌグは暫く悲しんだが、また別の女に興味が移ったらしくすぐに何も言わなくなった。ただ今度は奴隷ではなくて召使いの女だったが。
ザハトが摂政になった後、カティヤを殺した男たちは皆捕縛された。
そしてジャヌ同様、同じようにして殺されたらしい。
ここでも目には目を以て贖い、歯には歯を以て贖うというグザルハビヌ大王の法が適用されたのだ。
判決を聞くとき、癇癪持ちのジャヌは怒り狂っただろうか?
それとも泣き叫んだろうか? 腰が抜けて何も言えなくなったろうか?
いずれにしても無駄だったに違いない。
ザハトはおそらく淡々と判決を口にしただろう。
法の場に立つときザハトの雰囲気は変わる。人間的な表情が抜け落ちるのだ。まるでそうしなければならないように。
ジャヌに対してもそうだったろう。きっとあの透明な貌で判決を告げただろう。
その事を思うと、イシュタトは不思議な気持ちになる。それは上手く言葉では言い表せないのだ。
いくつもの感情が合わさっていて自分でもよく判らない。ただそれは祈るような気持ちに近い。何故だかは解らない。だがそう感じる。
勉学を続けていけばいつか判る日が来るのだろうか。
ザハトはそうして復讎をする反面、政変によって悲劇に見舞われた者達を探しだし、かつての立場に復帰させたり、そうでなくとも色々と援助したりしているようだ。
他ならぬ自分自身がその一人である。ザハトの行動には首尾一貫したものがあるのだ。
しかし市内に出ると恐ろしい支配者という噂ばかりが聞こえてくるらしい。メニエフを介しての話だが、イシュタトは歯痒く思う。
ザハトは残酷なだけの、恐ろしいだけの人ではない。
英明であり、決して残虐非道ではない。ただ公正に法を執行しているだけだ。
そう言いたい。だが言うべき相手がいない。それが歯痒い。
――とにかく鍛錬だ。
剣と勉学。今はそれしかない。




