第八章・二
意識が途切れていたのを自覚した。どうやら眠っていたようだ。
しかし、あまり長い時間ではないと思われた。
日は沈み、月が出ているが、まだ向こうの宮殿では人が働いている気配がする。
向こうの宮殿というのはいわゆる王宮のことである。
ザハトが暮らしているのは離宮である。一応同じ敷地内にはあるし回廊で繋がってもいるが、独立した別の建物なのだ。
ここをザハトは私邸として使用しており、王宮の方には政務を執るときのみ出向くようにしている。
ザハトは息を吐いて椅子の背凭れに体を委ねた。
疲れを感じる。
摂政としての仕事は大変だ。理由は単純である。つまりは仕事量が多いのだ。
本来摂政などが関わることのない、軽犯罪の裁判にまで一々顔を出しているのだから当然だった。
この多忙さから逃れるためには、行政の枢要な点だけを自分が受け持って、後は官吏に任せてしまえばいい。だがそれができない。
今はまだ細部にまで目を届かせておく必要がある。ザハトはそう考えているのだ。
「御主人様、お休みの所失礼いたします」
「なんだ」
控えめな召使いの呼びかけにザハトは答えた。
「お客様がお見えになっております」
「予定は無かったはずだな?」
ザハトはその日の予定を全て頭に入れている。今日はもう面会客はいない筈なのだ。
「はい。急なお越しで……」
「誰だ?」
「ファマヌ様でございます。剣匠様のお孫の……」
「わかった。今行く」
宮殿の中に暮らしてはいるが、ザハトは公務以外で会う相手を、一々広間に通したりはしない。
権威のひけらかしは悪趣味であるというのもあるが、それはザハトにとって筋が通らぬ事だからだ。
自分の生活区域をきっかりと離宮に限り、宮殿の公的領域から区別して暮らしているのもその為だ。
だからファマヌが通されていたのは応接用の客間だった。
尤も、ザハトに会いに来るような相手は、皆公的な理由がほとんどであるので、この部屋が使われることは滅多にない。
ファマヌは立ったまま待っていた。壁に掛けられた壁掛けを見ていたようだった。
「見事なものだろう?」
「ザハト様! これは失礼いたしました」
慌てて頭を下げてくる。
「気にするな」
ファマヌが見ていた壁掛けは、東方ハルジットの物である。
淡い青と、白と緑と、焦げ茶色の糸を使って、複雑な紋様が精緻に織り込まれていた。
独特の意匠である。知らない者が見れば植物とも図形とも判別がつかないだろう。
「ハルジットのものだ」
「それは随分遠くのものでございますね」
「そうだな」
もともと離宮にあった物ではない。ザハトが気に入って買い求めたものだった。
「とても優しい感じがいたします」
「ほう」
そんな風に評されたのは初めてである。
「色の組み合わせが素晴らしいですわ。まるで水の中から光を見上げているようです」
「ファマヌは詩人だな」
ザハトが笑うと、ファマヌははっとしたようにまた頭を下げてきた。
「お休みの所お時間をいただいて大変申し訳ありません」
「いや、いい」
ファマヌに坐るよう手で指示してからザハトも向かい合って坐った。
「それで何用なのだ? こんな時間に」
言ってからザハトは気付いた。こんな時間でなければ己は休みにならないのだ。
宮殿では摂政としての仕事がある。目が回るほど忙しい。そんな場にのこのこやって来て要件を言う程ファマヌは愚かではない。
「すまぬな。私が迂闊だった」
「いえ、そんなことは……」
「それで何用あって来たのだ?」
「はい、その……」
ファマヌは言いにくそうにしていたが、その様子を見てすぐにザハトは感ずるものがあった。
「まだここでの生活に慣れないか?」
「はい、それもございますが……」
それも、か。というと一番の理由は別にあるというわけだ。
では何だろうか。そう考えを回らせ始めた途端、またザハトは該当しそうな案件に気付いた。
「見合いの話か?」
その言葉にファマヌは俯いた。顔が赧い。どうやら今度は当たりだったようだ。
「何か問題があるのか?」
考えながらザハトは問いかけた。紹介した男たちには家柄の点では問題は無い。
人格の方もそれなりに人を使って調べてあるし、何度か会って話したこともある者ばかりだ。
ファマヌを幸せにしてくれそうな者だけを選び出して紹介したつもりだが、何か問題があっただろうか?
「問題というわけではないのですが……」
「ふうむ」
ザハトはまた考えた。
「どの男も気に入らぬか?」
「そういうわけではございません」
慌ててファマヌが否定してくる。
「……何やら、複雑な事情がありそうだな」
情けない気持ちになってきてザハトは眉を下げた。鈴を鳴らして召使いを呼ぶと、飲み物と菓子を運ばせた。話の間が保たなくなったときの対策である。
「申し訳ございません。お忙しいのに」
「気にするな。これも大事なことだ。お前には幸せになって貰わなければ困るのだ」
「私が……幸せに」
「そうだ」
ザハトはファマヌをじっと見つめた。
「運命がお前を苦しめる時期は終わったのだ。これからは幸せになる時期だ。だからお前には幸せになる責任がある」
「責任でございますか?」
「そうだ」
ザハトは頷いた。
「私は是非ともお前には幸せになって貰いたい」
ファマヌはそんなザハトの顔を自然な様子で見返していたが、ふっと微笑んで俯いた。
「……ありがとうございます」
「それで一体どういう事なのだ? 安心しろ。ここで聞いたことは誰にも言わぬ」
ファマヌの話を要約すると以下のようになる。
紹介されて見合いした男性の内、ビシュリとクテレビの二人がどうにも険悪な関係になってきているというのだ。
ザハトの持っている印象では二人とも悪い人間ではない。礼儀正しく、立派な若者だと思う。
それがファマヌの心を射止めようと争う内に、どうも雲行きが怪しくなってきたようなのだ。
「ふうむ」
ザハトは考え込んだ。これはちょっとした火種だが、上手く片付けないと厄介かも知れぬと思った。
本来なら、そんな色恋沙汰などザハトの関知するところではない。これが他の人間の話ならば興味も無いし、鼻先で笑って無視する類いの問題である。
だが今回はファマヌが関わっている。
彼女をこのアンケヌに連れて来たのは自分である。だからその意味で自分には責任がある。ザハトはそう考えている。
ザナカンダの貧民窟からいきなり屋敷住まいになり、都市の支配者であるザハトの縁者となったのだ。
彼女が自分で今の状況に慣れ親しみ、それを支配できるようになるまでは絶対に守ってやる必要がある。
尚、ザハトはシュガヌ師匠のことについてはほとんど心配していない。
仮にどこかの欲深い馬鹿者が、ザハトへの伝手を頼って接近したとしても、そんな愚か者共にどうこうされるようなお人では無い。そう思っているからだ。
「わかった。私の方で二人に会って話を聞いてみよう」
「そうしていただけますか」
「うむ。ファマヌの名前は出さぬようにするぞ」
ザハトは安心させるつもりで言ったのだが、何故だかファマヌは楽しそうに微笑んだ。
「できるだけ上手く纏めるようにはするが、その、だな……」
これはさすがに少し口にしにくいなとザハトは感じた。
「その……ファマヌはどちらの方が好みなのだ?」
「まあ」
「大事なことだぞ。その返答によっては彼らへの対応も変わってくるのだからな」
「どのようにでございますか?」
「むむ……」
ザハトは言葉に詰まった。どのようにと言われても困るのだ。
「そうだな……好みでないという方の男を、少々へこませるくらいのことは言うかも知れぬな」
それを聞いたファマヌは口元を押さえて笑った。
先程からどうもファマヌの様子には可笑しそうなところがあったが、そんなに面白い会話を己はしてきただろうか。
「笑うことはないだろう」
「申し訳ございません……ですが可笑しくて……」
「私はそんなに可笑しいことを言ったか?」
「申し訳ございません……でも本当に可笑しくて」
ファマヌは一生懸命笑いを静めようとしていたし、ザハトとしても怒りは感じなかったので話を進める事にした。
「まあいい。それで、結局どちらがお前の好みなのだ?」
ファマヌによればどちらにも良い点があり優劣は付けられぬという。
ただどちらかといえば、ビシュリの方が自分には合いそうだと感じているとは言った。
ビシュリは書記である。その父親も書記であったが引退している。そして一家はアンケヌの出身ではない。それもあってあの王位簒奪事件による災いを免れたのだ。
ザハトの得た印象では、ビシュリには書記らしく学識はあるが、荒事には弱そうなところがあると感じた。
そこが若干気になる点ではある。しかし彼なら家柄、教養、財産全て申し分ない。
ビシュリは穏やかな目をした青年で、年の割には見事な髭を蓄えている。
髭はおそらく書記だからであろう。書記は普通、髭を蓄えているものだからだ。
ただビシュリの場合まだ年若く、しかも線が細い感じなので髭など似合いそうもないのだが、どういうわけか不思議とその髭が似合っているのだ。落ち着きのある印象を与えているのである。
以前人を使って調べた所、人柄にも問題はなさそうであった。尤も、だからこそファマヌを紹介したわけであるが。
思えばファマヌの祖父は剣の達人であり、あのような性格のお人だが、その父親は穏やかな文人風味の商売人であったという。
ファマヌを争う、もう一方の求婚者クテレビは商人である。明るい目をした青年であり、赤みがかった癖のある髪をしている。
何でも代々続く商人一家であると聞く。その為か、彼には社交的で、華やかなところがある。それに対して、ビシュリには落ち着きと深みのある教養が感じられる。
書記と商人の違いと言ってしまえばそれまでだが、何となくザハトには、ファマヌがビシュリの方が自分には向いているように感じるという理由が判るような気がした。
できるだけ穏便に纏めるようにすると伝えると、ファマヌは安心したようだった。
問題解決をお願いした以上、全てザハトに任せるのは当然のことであるが、やはり希望としてはなるだけ穏便にしてほしいのだという。
ファマヌを帰すと、ザハトは又自室に戻った。
疲れていたので寝室へ向かっても良かったのだが、敢えてそうせず、先程まで坐っていた椅子に腰を下ろした。おそらくそうするべきだと思ったからだ。
そしてその予感は当たった。
「…………ザハト様……」
昏い部屋の中、椅子に坐るとほとんど同時に微かな声が聞こえた。
まるで小さな風が、砂を舞わせるが如き微かな声がザハトの耳に届いたのだ。
それはとても小さいがはっきりと聞き取れる声だった。
しかもこの声はザハト以外には聞こえないというのだ。それなりに付き合いが深くなった今でもまだ信じられないが、当人がそう言うのだからそうなのだろう。
全く恐るべき技術と言わねばならない。
「報告は?」
ザハトの方では意識して声を落とした。この部屋に居るのは己一人であるし、もしも召使いが近くに居るならば、このように声を掛けてくるはずがない。
今は誰もこの付近にはいない。
己と、この声の主以外は誰もいないのだと判ってはいても、ザハトはやはり誰にも聞かれぬように囁くように喋る。
これで向こうに聞こえているのがやはり不思議なのだが、意思疏通はいつもこれで問題なく成立していた。
窓の側に人影が蹲っているのに気付いた。
そのことに今急に気付いたのだが驚きはしなかった。
おそらくザハトがさっき部屋を出たときに入れ替わりで入り込み、こうして待っていたのだろう。こういう薄気味の悪い現れ方をするのもいつものことだった。
声の主は暗い色の装束に身を包んだ男である。
装束は手首以外の全身を覆い、足拵えは独特な意匠の編みサンダルである。その皮も紐も黒く染められていた。顔を覆う布は外していた。
男はアウラシール人らしく浅黒い肌をしており、目と、鼻がやけに大きい印象がある。
そんな顔立ちは剽軽とも言え、それだけを見れば愛嬌があって良さそうなものだが、この男からは愛嬌などというものは一切感じられなかった。
面差しが暗く、しかも陰の気を纏っているからだ。
この男はザハトが使っている密偵であった。無論密偵は組織単位の雇用である。仕事をしているのはこの男一人ではないが、大体、ザハトに報告に来るのはこの男であった。
名前は知らない。知ろうとも思わない。
ただザハトは男のことを「ウパガヌ」と呼んでいる。そう呼んでくれと言われたからだが、付き合ってみるとなるほど確かにその呼び名は適切であると思えた。
ウパガヌは砂漠に住む蜥蜴の一種であり、長く伸びる舌と、周囲に溶け込む擬態を駆使して獲物を狩るのだ。ただし小さな蜥蜴なので人間を襲うことなどはない。
いつも小さな虫などを捕まえて食べているのだが、何より特徴的なのはその巨大な目玉である。
おそらくは全周囲視界を有しており、その舌の射程距離に入った獲物は、まず確実に仕留めてしまうのだ。
「全て手筈が整いましてございます」
「そうか」
ザハトは頷いた。
「ご苦労だった」
普段ならば、会話はここで終わりである。しかしザハトはもう一言付け加えた。
「その働きに感謝するぞ」
本心からの一言であるが、わざと何気ない口調である。そのぐらいの感謝の示し方が適切だろうと思ったからだ。
そしてそれでも意外であったのだろう。ウパガヌは顔を上げてザハトを見た。
「どうした?」
「いえ、なんでもございませぬ」
すぐに面を下げる。
「畏れながらもう一つお耳に入れておきたき話がございます」
「ほう。聞こうか」
「このアンケヌに見慣れぬ密偵が入り込んでおります」
ザハトは暫く考えた。いくつかの推測が浮かんだが、どれも決め手を欠いていた。
「お前はどう見る?」
「アウラシールの者ではないと思われます」
「ほおお……」
かなりの興味をそそる言葉だった。
「レメンテムかダルメキアか。それともローゼンディアか」
これ以外の線は薄そうに思えたからザハトは省いた。
「レメンテムではありませぬ」
するとダルメキアかローゼンディアということになる。
しかしその二国が何故、アンケヌへ密偵を放つのか。
元よりアンケヌに密偵がいないわけではないが、どうしてその二国なのか。
確かに時期的には理解できぬ事もない。大きな政変があったのだ。
だがそれにしては密偵が入り込むのが早すぎる。
前もって何か考えがあって準備していたのか。それとも即断即決で動ける力ある者がいるのか。
何となく、ザハトは後者であるような気がした。
アンケヌはこれだけのオアシス交易都市だ。リムリクはもちろん、アウラシールのあちこちの都市国家から密偵が送り込まれていても不思議ではないし、事実入り込んでいるだろう。
おそらくウパガヌとその仲間達もそうした密偵の存在を知ってはいるだろうが、お互い様というか、日常的な存在なので、自分たちの仕事の障害にならぬ限りは無視しているのだろう。他者への不干渉はアウラシールでは常識とも言える処世術である。
それをザハトの耳に入れてきたというのは、その密偵集団の動きに不穏なものを嗅ぎ取ったということか。
「ダルメキアではないのか?」
ザハトの問いかけに、ウパガヌは納得できぬように僅かに首を傾げた。つまりはローゼンディアが怪しいと考えているわけだ。
だがローゼンディアなら、密偵はベルガトに放つ筈である。
あの都市はリムリクとローゼンディアの境目辺りに存在することもあって、古代からローゼンディアとリムリクで奪い合ってきた歴史を持つ。
しかし数百年前に英雄ザフィスメルによって征服され、以来リムリクの都市国家として、政治的にはアウラシールに属することになっている。
ベルガトは古い歴史を持つ大都市であり、ローゼンディアとしては機会があれば取り戻したいはずなのだ。
ここアンケヌはベルガトよりもかなり東方にあるし、ローゼンディアの支配を受けたことなど一度も無い。位置的に植民都市として統治するのもおそらくは無理である。
だからローゼンディアが密偵を放つ意味が無いのだ。
しかしザハトには一つ引っ懸かるものがあった。
長く伸ばされた手を感じる。直感だが、そういう印象を受けた。
「その者達は何を嗅ぎ廻っているのか」
「どうも先の政変について調べている様子でございます」
当たり前すぎる返答である。
つまり今のアンケヌの状況について調べているというわけだ。あまりに面白みのない返答にザハトは気が抜けてしまった。
「捨て置け」
「畏れながらザハト様は勘違いをなさっておられます」
「なに?」
ザハトは首を傾げた。
「どうも奴らは今の政変ではなく、その前の政変、つまり十一年前に起きた先の政変について調べているようでございます」
「ほう……」
ザハトの目が鋭くなった。剣呑な輝きが瞳に浮かんだ。
「つまりは私のことを調べているわけだな」
そしておそらくはダーシュのことを。
「それは捨て置けぬな」
「いかが致しましょう?」
「追え。そして調べよ。迂闊には殺すな」
「畏まりました」
頭を下げてウパガヌは部屋を出て行った。音もなく。
ふとザハトはヒスメネスの事を想像した。しかし奴には今ケザシュが付いている。今更新たに密偵など雇う必要はない筈だ。
ザハトの知る限りローゼンディア人であの政変、王位簒奪事件に興味を持つ者はいなかった。
すると誰なのか。
慧敏なるザハトを以てしても、相手の姿は全く見えなかった。




