第五章 空回り
宮殿に出した使いが帰ってきたのは夕刻、太陽神がその住まう島へと帰還する頃合いであった。昼前に出したというのに随分と遅い帰りである。宮殿でかなり待たされたらしい。
「何か問題でもあったの?」
怪訝な面持ちで、アイオナは少し身を乗り出した。
アイオナの居室である。卓を囲むのは、アイオナ、ダーシュ、ヒスメネスである。
「届け出だけでは結婚は認められないそうです。両当事者がアルシャンキ神殿まで罷り越さぬ限り、結婚は認めぬと」
「なぜ?」
「ダーシュ殿がアウラシール人だからだそうです。ローゼンディア人同士ならばともかく、片方でもアウラシール人ならば、神殿まで罷り越して三神に報告し、その祝福を受けるのが仕来りであると」
道理であるとアイオナは思った。アウラシールの仕来りには詳しくないが、ローゼンディアであっても、神殿に罷り越して神々に結婚を報告するのが礼に適っている。
「――しかし、妙な話です」
アイオナは不思議そうにヒスメネスを見た。妙なところはどこにも無いように思えるのだが。しかし、ヒスメネスがそう言うのなら妙であるに違いない。
「アウラシール人だからというのは理由として奇妙しいです。アンケヌ人だからというのなら解りますが」
「どういうこと?」
「我らがローゼンディアとは異なり、アウラシールでは地域によって奉じている神が違います。アウラシール人だからといって、誰しもアルシャンキを奉じているわけではありません。奉じているわけでもない神の神殿に罷り越すのは奇妙しいですから、アルシャンキ信者たるアンケヌ人でもない限り、アルシャンキ神殿に罷り越す必要は無いでしょう」
「でも――」
と、アイオナはダーシュを見た。
「あなた、アルシャンキを奉じているわよね? アルシャンキに誓いを立てていたもの。それなら罷り越す必要があるのではないの?」
「ダーシュ殿がアルシャンキ信者であることは、宮殿には伝えていませんよ。ただ、アウラシール人であるとしか。アンケヌに居るアウラシール人ならば、全員がアルシャンキ信者だろうというのは、あまりにも乱暴です。アンケヌはこれだけの交易都市です。余所者のアウラシール人だってたくさん居ます」
「……それじゃあ、どういうこと? 宮殿はダーシュがアルシャンキ信者であることを知っているということなのかしら?」
「いえ、ローゼンディアと関係のあるアウラシール人ということで当たりを付けたのではないかと思います。世間では、昨夜の強盗殺人犯はローゼンディア居留区に逃げ込み、そのまま行方を眩ましているということになっていますからね。疑わしきはすべてを疑えということで、とにかく誘き出して直接確認しようというのでしょう」
「そう……」
アイオナは不満げな顔で重々しい溜息を吐いた。
「公開会議場の方はどうなの?」
「公開会議場? 何をするつもりだ?」
今まで黙り込んでいたダーシュが口を挟んできた。
アイオナはダーシュを見た。
「あなたの潔白を明らかにするのよ」
ダーシュは溜息でも吐くように鼻を鳴らし、薄い笑みを浮かべた。馬鹿にするような態度である。
アイオナはむっとした。潔白を證明してやろうというのに、その態度は一体なんなのか。
「で、どうなの?」
アイオナはヒスメネスを見た。
「結婚後に使用を許可するとのことです」
アイオナは柳眉を顰めた。
「結婚後って……宮殿がわたしたちの結婚を認めた後ってこと?」
「その通りです。まあ、結婚報告が名目ですから、当然と言えば当然です」
アイオナの顔に怒気が表れた。
「どうしたって神殿に罷り越さなければならないってわけね……」
アイオナは立ち上がった。
「いいわ。罷り越しましょう」
「御免蒙る」
ダーシュが即答した。
「危険は承知の上よ。でも、宮殿に結婚を認めてもらわないと、あなたの潔白を證明できないわ」
「潔白を證明する必要は無い」
アイオナは訝しげにダーシュを見た。ダーシュは卓上の茶器をつまらなそうに見ている。
「どうして? あなた、無実なんでしょう? 潔白であることを證明すれば、逃げ隠れする必要は無くなるわ」
「俺は匿ってくれとは言ったが、潔白を證明してくれと言った憶えは無い」
ずくん――
と、心臓を鷲掴まれた気がした。
アイオナは目を見開き、かっと頬を赧めた。口を開くと、わなわなと唇が顫えた。何かを言おうと思ったが、言葉が出て来なかった。唇を噛み締めて俯いた。ここで何かを言えば、善意の押し付けに過ぎない。
善かれと思ってしたことだった。いや、しようとしたことだった。
けれど、自分ひとりだけが先走っていた。
恥ずかしくて、ひどく哀しい。
「そのような物言いはないのではありませんか、ダーシュ殿」
ヒスメネスが言った。
「仮にもあなたの妻ではありませんか」
ダーシュは戸惑い半分、気不味さ半分、自分の言葉がそこまでアイオナを傷付けるとは思ってもいなかったという顔である。
「……悪かった」
ぼそりと呟く。
「しかし、なんであれ外に出ることは出来ない。暗殺される虞がある」
――暗殺。
不穏な言葉にアイオナは驚き、ダーシュを見た。
「今は動かない方がいい」
それだけ言うと、ダーシュはおもむろに立ち上がり、アイオナの居室を後にした。
ダーシュを見送ると、アイオナは再び項垂れた。
「思った以上に複雑な事情がありそうですね」
ヒスメネスが静かに口を開いた。
「ご依頼されていた調査の件ですが、実際には、昨夜は強盗殺人事件はありませんでした」
実際には、に力を入れてヒスメネスは言った。どういう方法を使ったのかは判らないが、おそらく確かな情報なのだろう。
――やはり。
やはりダーシュは無実だった。
喜ばしいことである。しかし、アイオナの気持ちは沈んだままだった。
「どうします?」
どうもこうも無かった。
仮初めの妻として、仮初めの夫ダーシュをこの家に置いておく。自分が出来ること、望まれていることは、それくらいしかない。
「暫く様子を見た方がよいのかも知れませんね」
「そうね……」
アイオナは力無く返事した。
「明日、祝いの宴を開きましょう」
「え……?」
驚いたように、アイオナはヒスメネスを見た。相変わらず落ち着いた顔付きをしている。
「結婚祝いですよ。まだ使用人たちには正式な結婚報告をしておりませんでしょう?」
「……そうだったわね」
仮初めの結婚である。本来は祝ってもらうようなことなど何も無いのだから、なんだか不思議な感じがした。
「無駄な出費になってしまうわね」
アイオナは小さく溜息を吐いた。
「いえ、丁度良かったです。皆にそろそろ息抜きをさせようと思っていたところでしたから」
「そう……」
ヒスメネスからは特にこれといったものは窺えないが、おそらくは気を遣ってくれているのだろうとアイオナは思った。
「いつも世話をかけるわね」
「滅相もありません」
ヒスメネスは軽く会釈をした。