第七章・四
ディブロスは他のリムリク地方の都市と同じく、大通りを除くと他の道はどこも一気に狭くなる。場所によっては徒歩の人間二人がやっとすれ違えるほどの道すらある。
これは敵兵の侵入を邪魔するためにわざと道幅を狭くしているのだ。特に騎兵の突入を考慮してのことである。
大通りの方でも要所要所には頑丈な門が備え付けてあり、外敵が侵入すればいつでも区画閉鎖が可能になっているのだ。
そして大通り沿いの家屋は全て屋根がアウラシール式に作られている。
つまり屋根上が小さな広場になっており、作業場のようになっているのだ。
平時はそこでお茶会をしたり、洗濯物を干したりなどするが、戦争の時には味方の兵士が移動する通路になる。
だから大通り沿いの家屋の屋根は高さや、仕切り壁の位置など、全てが防衛戦を前提に作られている。ディブロスでは、主要な道路に面した場所では勝手な建築、改築は許されない。必ず市の行政当局、つまり執政館からの許可証が要る。
それ以外の場所では比較的自由に建築が行なわれており、ローゼンディアの各地方で見られる円錐屋根や切妻屋根、方形屋根なども見ることが出来る。
古い歴史を持つディブロスは、アウラシールの戦乱の影響を何度も受けているし、海からもレメンテム帝国などからの侵略を受けた歴史がある。
苦しい戦いを続けた経験から、防衛上の構造に関しては、他のリムリク地方の諸都市に傚った形になっているというわけだった。
アイオナとシフォネは馬車に乗って、大通りを東へ進んでいた。市内中心部にあるルムノシュトラウム劇場に向かっているのだ。
馬車には用途や形状によっていくつもの種類があり、今二人が乗っているのはランペルテといい、幌付きの二頭立て四輪馬車である。一頭立てに比べて小回りはきかないものの、近間を移動するには便利な種類の馬車なのだ。
日射し避けに幌を張り、御者は前の座席で鞭を振るう。
御者の隣にダーシュが坐り、アイオナとシフォネは後部座席に並んで坐っていた。
荷物持ちの従僕などが取り付くための足場も馬車の後ろには付いているが、今回は買い物が目的では無いので誰も連れてきていない。
港沿いの商館から市の中心部へ向かって馬を走らせる。
潮の香りに街の、人々と生活の臭いが混じり始める。
風は心地よい。気温的にも大分過ごしやすくなってきた季節であるが、何よりも雨期に入っている。漸く雨が降る時期が来たのだ。
しかし今日は晴れである。出掛けるには丁度良い日和であった。
馬車が向かうルムノシュトラウム劇場は、市内の中心部近くにある巨大な建物である。外観は石造りに見えるが、内部ではかなり木材を使っている。
昔は開放型だったが、二百年ほど前に天井が組まれて現在の形になったという。
楽団が入るための空間は舞台手前に掘り下げ式に用意されている。重要な場面では演奏をして物語を盛り上げるのだ。
物語によっては、というか古い物語は大抵そうなのだが、話の筋を語る合唱と、役者の踊りがほとんど全てという構成の場合がある。
楽団は劇場には絶対に必要な存在なのだ。歌と踊りの無い娯楽など、娯楽では無いのである。
客席は半円型に舞台を取り囲み、三階席まであるが、二階と三階には一般客が立ち入れない貴賓席がある。
地下には簡単な浴場まで用意されているが、これは主に役者のためのものであって一般客には開放されていない。
このように劇場としての規模は大きく、ローゼンディアでも有名な劇場の一つである。
馬車を待たせて三人は劇場の中に入った。
まだ興行自体が始まっていないらしい。観客の姿は無く、準備の人々が動いているのみだ。
アイオナとシフォネは邪魔にならないように舞台には近寄らず、観客席を取り囲む外側の廊下を歩いて回った。
壁に掛けられた宣伝用の告知板を見て、これから何が上演されるのかを確認しようというのだった。
ダーシュはそんな二人から少し離れて劇場の柱の間を歩いていた。
ローゼンディアの建築技術の高さはつとに有名だが、この劇場にもそれが良く現れている。そんな風に感じた。
外観はナーラキア風、それも後期の新帝国風だが、中に入るといきなり木の柱と木の壁が目に入る。落ち着いた焦げ茶色の木材と、それを彩るような鮮やかな赤い垂れ幕が目に入る。
一瞬、入った建物を間違えたかと思うほどの変わりようである。
舞台は異世界。そう言いたいのだろうか。ここまで来ると洒落ているというより小憎らしい。してやられたという感じである。
しかも嫌な気分はしないのだ。ダーシュは自分が苦笑いを浮かべているのを自覚した。
この劇場を作った奴は、今の己の顔を見れば、してやったりと北叟笑むであろう。そんな風に思った。
「父様の言った通りだわ。世界座が近日公演を打つわね。演目は『アガプドロス』だわ」
「古典劇ね。意外では無いけれど、有名すぎないかしら」
「でも世界座だからつまらなくはないと思うわよ」
「あら? アガプドロスの他にも新作上演の予定ありとあるわ」
「二本もやるの? じゃあ舞台は使い回しになるのかしら?」
そんな二人の会話が耳に入ってくる。
どうも女子供というものは、妙に芝居を好むと感じる。少なくともダーシュはそう思う。
芝居など所詮作り事ではないか。それほど熱を上げるものでもないと思うのだが、そこはダーシュには解らない魅力があるのだろう。
――ああそういえば……。
兄上は芝居がお好きだったな。御自分でも台本を書くほどに芝居を好まれた。
ダーシュやザハトもその素人芝居に参加させられていたのだ。
色々な思い出がある。今となってはもう、余りにも遠くなってしまった記憶だが。
「美しいお嬢さん方。芝居に興味がおありですか?」
やけに通りの良い声に振り向くと、金髪のローゼンディア人がアイオナとシフォネに話しかけていた。
服装はやや伊達が利いた感じだが、頭の方がお粗末だった。丸刈りが伸びかけているという感じで、髪形を工夫するという余地がない。
どうしてあんな見映えの無い頭をしているのか。服装が悪くないだけにちぐはぐな感じがした。
「今は改装の最中。新たな夢物語が始まるのは暫く先ですよ」
柔らかいが、実に良く通る声である。少し離れたダーシュにもはっきり聞こえてくる。
しかも何だか芝居掛かった話し方である。何となく気に入らない。
ところがその言葉にアイオナとシフォネは嬉しそうに黄色い声を上げている。
気に入らない。何がそんなに面白いのか。
「告知では世界座のアガプドロスが演じられるとありましたが、いつからですの?」
「それは今度始まる芝居がどれだけ続くかによりますので何とも……しかとした日取りをお伝えすることはできません。世界座をご存知で?」
「ええ。機会のある時には必ず観に行っていますわ」
「それはそれは」
男は嬉しそうに微笑んだ。
「世界座の一同に代わりお礼申し上げます」
丁寧に腰を折る仕草もどうも芝居染みている。
「今準備してる芝居は世界座のものではありませんの?」
「はい。ダルメキアのコンコレモ一座のものでございます」
「そうですか。コンコレモ一座も素晴らしい芝居をしますね」
アイオナの言葉に男は興味深げな表情を見せた。
「失礼ながら、美しきお方、あなたは演劇を格別に好まれるのですか?」
そうだな。格別に好むという表現はいささか言いすぎかとも思えるが、その実正確なところかも知れぬな、とダーシュは思った。
「好きですわ。ですがそれほど詳しいというわけではありません。コンコレモ一座と言えば有名ですもの。ディブロスの芝居好きなら誰でも知っているでしょう」
「これは失礼いたしました」
「では演目はアガプドロスではありませんのね。何をお演りになるのかしら?」
「副王漫遊記でござます」
シフォネの問いに答えて男は辺りを見回した。
「そこら辺りに告知板が出ている筈ですが……ご覧になってませんか?」
「私たちまだ来たばかりなので……」
その告知板はダーシュの目の前にあった。
ガムリとセデフ、二人のお供を連れたダルメキアの元副王ベランドゥースの姿が、お馴染みの構図で描かれたものだ。
ベランドゥースは三百年ほど昔に現存したダルメキアの副王であるが、それよりもむしろ物語の人物として知られ、人気がある。
今から百五十年ほど昔にダルメキアの劇作家が講談に書き起こしたものが、そもそもの底本であるが、その後数々の異本が生まれ、更にそれがまた全集に纏められるなどの経緯があって、百年ほど前に現在の演劇形式の『副王漫遊記』が成立した。
元々大衆向けの勧善懲悪娯楽劇だったこともあり、話自体も非常に人気があったが、劇伴の音楽をローゼンディアの大作曲家ラエルテスが書いたことによって、人気作品としての立場は不動のものとなった。
劇中流れる歌や踊りは、公衆浴場や街の広場での定番歌曲となっているほどであり、ダーシュですらその歌を知っている。
要するに、この芝居をやっておけば外れは無いという安定演目であった。
「副王漫遊記はお好きですか?」
「好きですわ」
「私は、嫌いではありませんが……」
シフォネは言葉を濁した。
「なるほど。たしかにあなた方のような美しいご婦人には、副王漫遊記では合わないかも知れませんね。むしろ情味豊かな恋愛劇などの方が似つかわしいでしょう」
その言葉にまたアイオナとシフォネは笑っている。
いい加減腹が立ってきたのでダーシュは姿を現すことにした。
「ああ、ダーシュ」
アイオナがダーシュに気付いて嬉しそうな声を上げた。
「紹介しますわ。わたしの夫ですの」
「ダーシュ・ナブ・ナグム・ナブ・テザク・アヌン=イビヌと申します」
嫌みを込めて、丁寧に礼をする。男は面喰らったようだった。
話は聞かせて貰っていたぞ。
そういう意味を籠めてダーシュは坊主頭の伊達男に微笑みかけた。
「これは失礼いたしました。ご結婚なさっていたとは……不適切な言葉もあったかも知れませんが外国のこととして、どうか赦されたい」
慌てて男はアイオナに頭を下げた。
ここら辺りがローゼンディアだなとダーシュには思われる。アウラシールであれば謝罪すべきはダーシュに対してなのだ。
尤も、謝罪したところでさっきの様子では、刃傷沙汰になっても不思議は無いが。
人妻に対してあの物言いはない。無い。危険すぎる。
アウラシールでは、そもそも人妻とはどこかの誰かにとってのただ一人の相手であり、大事に抱えた宝物のような存在である。
言うなれば所有物に近い位置付けなのだ。
しかもそこには愛憎が伴う。何せ夫婦なのだ。だから人妻について語る事自体、本来は避けるべきなのだが、それが避けがたい場合もある。
そうした時には、もちろんけなしたり、揶ったりする事などあってはならないし、たとえ褒めるにせよ、迂闊な物言いをしたりすれば、相手の夫の怒りを買うことがある。
そしてこれにはその人妻の親族までもが絡んでくる。つまり夫だけではなく、妻の父親や兄弟達までが該当してくる。
女性の親族の男性は危険である。これはアウラシールの常識と言っていい。
例えばどこかの部族で内紛などがあった場合などでも、女性達は被害を免れることがある。とくに外部の部族から嫁いできた女性にこの傾向が強い。
何となればその女性を殺すことは、その女性の嫁ぎ元の部族を敵に回すことになるからである。
これもまた血の復讎を勘定に入れたアウラシールでの社会常識と言えるが、その結果、父親や兄弟姉妹が殺し合っても、その母だけは無事、などという事が起こりうる。
難しく、ややこしく、危険なのだ。
坊主頭の男の顔色の変わり様から、ダーシュは相手がその辺の、アウラシールの常識を辨えているらしいことが窺われたが、それでもやっぱりアイオナに謝ってしまう辺りがローゼンディア人というか何というか……。
つくづく己は外国に居るのだなとダーシュには感じられた。
「お気になさらずとも結構。貴殿はこちらの座に所属しておられる俳優かとお見受けする。多少のことは大目に見ましょう」
――多少のことはな。
ダーシュは胸の中で重ねて付け加える。
「旦那あ!」
野太い男の声が割り込んできた。
「デトレウスの旦那。客が一人、旦那に会いたいって言って来てますぜ」
大柄な、筋骨逞しい男である。作業中だったのか諸肌を出し、手袋をしていた。
ただ、顔立ちにどことなく剣呑なものを感じさせる風があった。
それがダーシュには気になった。そしてこの大男も坊主頭であった。
「デトレウス?」
アイオナが妙な声でその名を口にした。
「はい。私はデトレウス・ファルクス・ヘムデリエス。世界座の座長でございます」
坊主頭の伊達男は少々ばつが悪そうにそう自己紹介をした。
ダーシュは、アイオナがてっきり驚くかと思ったが、むしろ怪訝そうな顔でデトレウスの顔を見ている。
「……失礼かと存じますが本当にデトレウス・ヘムデリエスご本人様ですか?」
「はい。先日、運命の女神の御手によって恐ろしき監獄より救い出されましてございます」
デトレウスの返答にアイオナは暫し呆気に取られているようだったが、納得したのか、デトレウスに対して微笑みを作った。
「それは素晴らしいことですわ。無実が証明されましたのね」
「いや、そういうわけではないのですが……」
デトレウスは困ったような苦笑いを浮かべた。
「禍福は糾える縄のごとしと申します。私としてもこの短期間に体験したことには驚くばかりでございますが、これだけははっきりと申し上げておきます」
そこでデトレウスは決然とした顔でアイオナを見た。
「誓って申し上げて犯罪など犯しておりません。もしも監獄に入れられた理由があるとすれば、それは正直であろうとしたことへの罰ではないかと受け止めております」
この男、信用できぬ。そうダーシュは思った。
そして絶対に役者だろう。しかも現実と芝居の区別が怪しくなってる類の役者だ。始末が悪い。
一方アイオナは、デトレウスの芝居掛かった物言いに、微妙な感じで微笑んでいたが、話を変えることにしたようだ。大男の方を向いた。
「面会の方がいらしているようですが」
「おお、そうだった! 申し訳ないがこれで失礼させていただきます。公演の際にはぜひお越し下さい。そちらのご夫君とご一緒に」
デトレウスは慌ただしくアイオナにそう告げると、歩き去りながら大男に尋ねた。
「会いに来たのは誰だ?」
「ニクメクだ」
聞いたような聞かないような名前である。振り向いてアイオナを見ると、どうやら知っている名前のようである。ダーシュに近づいてきて耳打ちしてきた。
「商工会の顔役の一人よ」
なるほど。聞いたような気がしたわけだ。
となればダーシュの知っているあのハルラナムの同輩であろうと思われた。
「座長殿!」
舞台の裏手から太ったダルメキア人が現れた。良い服を着ている。供の者を二人連れている。この男がニクメクだろう。多分間違いない。
ニクメクは太った体を揺さぶるようにして移動してくる。やけにきれいな青とも緑色とも付かない帽子を被っていて、それが凄く目立った。しかもその帽子には左側から鈴が下がっている。飾りなのだろうが、それがやたらとチリチリ鳴ってダーシュは気になった。
「座長殿!」
デトレウスにそう呼びかけながら足早に近づいて行く。
「先日のお話ですが……」
「あれはお断りしたはずです」
にべもない返答を受けてニクメクは傷付いたような顔になったが、一体どういうことなのか。ダーシュは少し興味を惹かれた。
ニクメクと思しき男がこちらを見た。アイオナに気付いたようだ。声を掛けてくる。
「ファナウス殿のご息女殿ではありませんか」
「はい。ご無沙汰しております」
アイオナは礼儀正しく挨拶をして、まずダーシュを自分の夫だと紹介し、それからはとこだと言ってシフォネを紹介した。
その様子から、どうもダーシュにはアイオナがあまりこの男に親しみを感じていないように思われた。
興味深かったが、目の前に本人が居る手前、まさか理由を聞くわけにもいかない。
簡単に自己紹介をして後は場の推移を見守ることにした。
「お知り合いだったのですか?」
「はい。父の仕事上の知人ですわ」
デトレウスの問いにアイオナが答えたが、その説明は微妙なものだった。
むしろ際どいものであると言えるだろう。アイオナの口調は丁寧だが、文字通り知人以上ではないぞという含みが感じられるのだ。ニクメクもそれを察したのだろう。寂しそうな顔になったが、一転してすぐに笑顔を作った。
「ご結婚なさったと伺ってはおりましたが、ご挨拶もできませんで申し訳ない」
「いえいえ。お忙しいのは存じ上げておりますし、それほど親しいわけでもございませんもの。どうぞお気になさらずに」
手厳しいな。これは、この男はアイオナに嫌われているのかも知れないな。
そう思ってダーシュはアイオナの顔を窺ったが、別に不快そうな様子は現れていなかった。
ニクメクはダーシュの方を向いて微笑んだ。
「アウラシールの方でしたか。いやこれでますますメルサリス商会の手も拡がろうというもの。まことに喜ばしいですな」
「ありがとうございます」
「では私は忙しいので失礼いたします」
デトレウスが立ち去ろうとすると、ニクメクは素早くその肩に手を置いた。
「まだ話は終わっておりませんぞ」
「ですから無理だと何度も申し上げたはずです」
一体何の話をしているのか。ダーシュは不思議だったが、アイオナを見ると、うんざりしたような顔をしている。どうも事態を察しているようである。
「……どういうことなんだ?」
「多分、自分を芝居に出せって言っているんだと思うわ」
ダーシュが小声で尋ねると、小声で返事があった。
「あいつは役者なのか? そうは見えないが」
「絨毯と宝石を得意とする商人よ。唸るほど財産を持っているくせに、銅貨一枚でも欲しがるの」
「欲が深いのか」
「強欲でしかも吝嗇。そのくせ妙に人が好いのよ。何より始末が悪いのは大の芝居好き」
「ほーう……」
「……何よ?」
「いや何も」
ダーシュは軽く首を振った。アイオナは疑うような目でダーシュを見ていたが、気を取り直したのか話を続けてくれた。
「芝居に出資して後援者になるのよ。それで利益を上げつつ、しかも色々註文を付けるわけ。趣味と実益の両取りをしているわけなんだけど、役者として舞台に出てくることが多いのよ」
「ほう。自分で演じたくなるほどの芝居好きか」
ダーシュは賢明であったから、それはお前よりも重傷だなという言葉は胸の中で言うにとどめた。
「大抵はちょい役で舞台に出てくるんだけど、あの外見でしょ? 悪目立ちするのよ」
「肝心の芝居の方はどうなんだ?」
アイオナは苦い物を噛んだような表情になった。
「それが困った事に上手いのよ」
「なるほど。お前が奴に対して複雑な感情を持っていることは判った」
「何よ。その言い方。気に入らないんだけど」
「そうか? 褒めたつもりだぞ?」
「どこが褒めてるのよ?」
「お前はあいつの色々な特長をよく理解してるんだろう? だからこそ単純に好き嫌いで判断できずに困ってしまうわけだ」
「それはそうだけど……」
「別に好き嫌いで割りきる必要は無いんじゃないか?」
そういう男なら、そういう男だと思っていればいい。ダーシュはそう考える。
「しかし出資者に対してあの男はやけに強気だな。取り付く島も無いではないか」
デトレウスは頑としてニクメクの言葉に頷かない。
「多分、出資をされてないんだと思うわ」
「自前の資金でやっているわけか?」
「そうじゃないわ。きっと他に出資者がいるのよ。だからニクメクの要求を聞く必要がないんだわ」
そんな風に小声で会話をしていると、ニクメクがアイオナに近寄ってきた。
「おお、アイオナさん。あなたからもお願いします。どうか座長殿に私からの出資を受けるように言って下さい。私はこれまで多くの一座に出資をしてきました。ですからどのくらいの劇場で、どれくらい資金が必要かなどが判っておるんです。この劇場で、しかも世界座が公演するとなれば資金はいくらあっても邪魔にはならんでしょう。むしろ必要なはずだ」
「ですから、すでに充分な出資を受けているんです。これ以上の資金は必要ないんですよ」
デトレウスはうんざりした様子だった。
どうやら芝居に出せという以前の話らしい。
アイオナはため息を吐いた。
「お芝居に出たいんですよね?」
「えっ? いや、儂は、別に……」
ニクメクの目が泳いだ。余りに判りやすい動揺ぶりに、まさか演技ではあるまいなとアイオナは思った。
もし演技をされたら自分では見破れないかも知れない。アイオナはそう考えた。そしてそういう所がニクメクに対して複雑な感情を持ってしまう理由なのだ。
「だったら直接そう言って交渉した方が良いと思いますわ。それに出資者になって色々と意見をするというのは、あまり感心できることとは思えません」
「えっ? いや、儂は、その……」
別に声を抑えていたわけではないので、アイオナとニクメクの会話はデトレウスに丸聞こえだったようだ。
「ニクメク殿。まさかあなた、私たちの芝居に出るつもりだったんですか?」
意外そうなデトレウスの顔を見てニクメクは慌てたようだった。何か言い訳をひねり出そうとしているようだったが、ニクメクが喋り出す前にアイオナが口を開いた。
「この人はお芝居に出るのが趣味のようなのです。中々良い芝居をしますよ」
アイオナは後になってこの発言を後悔することになるのだが、この時点ではそんなことは判らない。
ニクメクにとってアイオナの言葉は思わぬものだったろうか、それとも計算の内だったろうか。
ともかくそれを援護と受け取ったらしい。何とデトレウスに自分を芝居に出してくれと言い始めた。
するとこれまたダーシュにとっては予想外なことに、今度は一転、デトレウスは真面目に話を聞き始めたのだった。
今までにどの芝居に出たのか、何を演じたのかなどを聞いている。
ニクメクは気をよくしてどんどんと語り出した。
話を聞く限りでは、旦那芸というものではないくらいにニクメクは芝居に頭を突っ込んでいるらしい。アイオナを遥かに超える芝居好きの重症患者だったわけだ。
デトレウスは一通り話を聞くと頷いた。
「わかりました。ではあなたがどの程度できるのか調べさせて下さい」
「もちろんですとも!」
「あなたの話を聞いていて私も興味が出てきました。一つ短い芝居を演じていただきましょう。幸い我が一座が公演を打つまでにはまだ日数がありますから、その間にあなたの演技の腕を見せてもらいましょう。ですが一つ問題があります」
「なんですかな?」
「役者の数が足りないんですよ。我が一座の者達には稽古がありますし、コンコレモ一座の者達に到っては公演が近いのです。余分な時間など無い。ですからニクメク殿の方でお知り合いの方になど声を掛けていただいて、頭数を揃えていただきたい」
その言葉を聞いた瞬間、ダーシュは物凄く嫌な予感がした。きっとアイオナもそうだったに違いない。
ニクメクの肉付きの良すぎる顔がダーシュとアイオナを見た。
その目は何か素敵な物を見付けた少年のようにきらきらと輝いている。
まずいなと思った。
「ディラ・アイオナ」
ニクメクは改まってそんな風に呼びかけた。ディラは既婚女性の敬称である。
「無理です」
「まだ何も言っていないではありませんか」
「何を仰りたいかは想像が付きます。だから無理だと申し上げたのです」
「いいのですか?」
ニクメクは思わせ振りな視線をアイオナに送って寄越した。
「あの世界座ですよ? その世界座の天才、デトレウス・ヘムデリエスが打つ芝居に出られるんです」
病人には病人の心が判るというが、同じ病気ならなおさらだろう。ダーシュはそんな風に思った。
「こんな機会はもうあるかどうか判らないんです。別に観客の目に触れるものでも無し、どうです? あなたも出てみては?」
ちらりとアイオナを盗み見ると、明らかに動揺しているような様子が感じられた。
ニクメクの言葉がかなりの効果を発揮しているらしいのが、ありありと見て取れた。
――やれやれ。
ダーシュは少し迷った。ここでアウラシール人なら、夫である自分を無視して何という話をするのかと文句を言うべきである。それが普通だ。
だがローゼンディアではそうとは限らないのだ。
大切なことは夫婦が相談して決めるのが慣わしである。
だからアイオナから相談があって初めてダーシュは意見を言うべきということになる。
如何にすべきか。
ダーシュは躊躇した。以前の己なら迷わずアウラシール的な対応を採っただろう。
だが今はそうする気にならない。それが常に正しいことだとはもはや思えなくなったからだ。
同様にローゼンディア人が常に正しいとも思っていないが、少なくとも、アイオナに提示された問題は、アイオナ自身が考えて納得のいく答えを出すべきだろうとは思う。
「どうするんだ?」
尋ねるとアイオナは実に情けない顔をした。
「どうしよう……」
「…………芝居に出たいのか?」
「だってあの世界座よ?」
「その台詞はニクメクが今口にしたな」
「……」
「お前の好きにすればいいさ。いいんじゃないか? 客の前で演じるわけじゃないんだし」
その言葉が決め手になったようだ。
アイオナは時間の許す限りで芝居に協力するということになった。
するとシフォネも面白そうだという理由で参加を決め、ニクメクとアイオナとシフォネの三人で意気投合するに到った。呆れつつ見ていると三人は一斉にダーシュを見た。
先ほどに倍する嫌な予感がダーシュを襲った。
「……俺は出ないぞ」
引き攣った顔でそう言ったが、三人はダーシュを笑顔で取り囲んだ。
「ご夫君もお出になられては? 芝居はいいものですよ。実にいいものだ」
「だって世界座の芝居なのよ」
「きっとご一緒に参加した方が楽しいと思いますわ」
この病気は感染する。ダーシュは確信した。己を引っ張り込まないでくれ。別に芝居の面白さなど知りたくはないんだ。
三人に囲まれ、主にニクメクにしつこく熱っぽく芝居への参加を勧められて、ダーシュは往生した。
やんわりと断り続けたがニクメクはもちろん、シフォネでさえ退き下がらない。
おそらく本当にダーシュにとっても良い経験になるだろうと信じているのだ。困った事に。
しかもシフォネはアイオナの親しい親族である、無下に断るのは難しい。
ひたすらのらりくらりと躱そうとしたが、どうも上手くいかない。
アイオナは味方してくれなかった。何度か目で助けを求めたが無視された。
結局、取り敢えず稽古には付き合う。舞台の側で見ていて必要なら手伝いに上がるというところまで約束させられてしまった。
帰りの馬車の中で文句を言おうにも、シフォネが一緒なので迂闊なことは言えず、ダーシュは不満を持て余すことになった。
シフォネは商館に帰る途中、滞在先の家の前で馬車を降りた。後で大伯母イネスと一緒に宴の時に商館に来るのだという。
商館に帰ると今夜の宴の準備が始まっていた。
無事ファナウス達がディブロスに到着したことを祝っての宴である。
かなりの規模の宴会である。商館だけでなく、倉庫の方まで使って準備をしていた。
しかし肝心のファナウスが居ない。どこで何をやっているのか。
商館の面々はそんな事にも慣れた様子であり、何か指示が必要な時にはアイオナに聞きに来ていた。
アイオナは迷いつつも指示を下し、なんとか宴の用意が調った頃、大伯母イネスとシフォネがやって来た。
「こんなことだろうと思っていました」
すこしも慌てず、驚かず、大伯母イネスはファナウスを罵倒し始めた。
「あの子にはこの宴の重大さがわかっていません。内輪の者だけではないのですよ」
「それはどういう意味でしょうか?」
不思議に思ってアイオナが尋ねると、大伯母はうっかりしていたという顔をした。
「言い忘れていましたが船上でお目にかかったでしょう? ゼルヴィス・アナクシス殿がこちらにお出でになります」
「えええっ!?」
「……驚くのも無理はありませんね」
イネスは軽く溜息を吐いた。
「もっと早くに説明できていれば良かったのですが、彼は重大な理由があってこの宴に招かれたのです。あの子によって」
あの子、とはファナウスの事である。イネスからしてみれば生まれた時から知っているファナウスはいくつになっても「あの子」なのだ。
「それはどういうことでしょうか?」
アイオナの問いに答える前に、イネスはちらりとダーシュの方を見た。
ダーシュは離れたところでホイヤムと話をしている。こちらには注意を向けていないようだった。
「いいでしょう。最初に言っておきますが、落ち着いて聞きなさい。お前は少し気持ちの起伏が大きいところがありますから、とにかく落ち着いて話を聞きなさい。いいですね?」
「はい」
アイオナは気持ちの準備をして頷いた。
「ゼルヴィス殿はこの宴の席でお前に結婚を申し込むつもりなのです」
「えっ?」
アイオナは小首を傾げた。何か妙な言葉が耳に入ってきたぞという認識があった。
「ですがお前はすでにダーシュ殿と結婚をしています。この申し込みは断らざるを得ません」
「えっ? えっ?」
「落ち着きなさい。アイオナ」
それは無理だと心のどこかが囁いていた。あまりに予想外のことだったのだ。
あのサザロスのゼルヴィスが自分に結婚を申し込む?
あのサザロスのゼルヴィスが?
ペルギュレイオン競技会で二種目の優勝をした人物が?
その名が神殿の石碑に刻まれた人物が?
――あり得ない。
それはあり得ない。何があり得ないかと言えば、そもそも彼と自分とでは接点が無い。
お互い見も知らぬ他人なのだ。それがどうして、よりにもよって結婚などという話になる。
アイオナには全く判らなかったし、想像も付かなかった。
「お前が驚くのも無理はありません。しかしどうやらゼルヴィス殿は昔からお前のことをご存知のようでしたよ」
「えええ~~~~??」
「その辺りの事情については私は伺ってはおりません。とにかくゼルヴィス殿には内心しっかりと思うところがあってのことのようです。詳しい経緯はあの子が戻って来たら聞いてみるのが良いでしょう。当事者のお前にはその権利があるからです。しかし、問題はそこにはありません」
大伯母が説明をしてくれているのは判ったが、まだアイオナの意識の中では驚きの方が大きくて、いまいち内容が頭に入ってこない。それでも大伯母の話に注意を向けようと努力した。
「ファナウスから話を聞かされた時には私も驚きましたが、話自体は先方から、つまりアナクシス海将家からあったようです……どうやらお前の方でも全く心当たりが無いようですね。顔を見ていると判ります」
また自分はダーシュが言うところの丸わかりの顔をしているようだが、そちらに気を回している余裕がない。
「問題は、この話をお前に伝えるべく、私たちが動き出した時点ではお前の結婚を知らなかったという事です。その事自体は不可抗力であり仕方がないことです」
大伯母イネスはここで少し躊躇うような素振りを見せた。
「不可抗力というのは失礼でしたね。謝らなくてはいけないわ。お前はきっと望んで結婚したのでしょうし」
大伯母に、この結婚の経緯を知られたら大変だなとアイオナは思った。
首に手を掛けて脅されて、なし崩し的に結ぶことになったなどと。
しかも偽装結婚なのだ。これは。
「要するにゼルヴィス殿は無駄足になってしまったということです。この意味が判りますね?」
「ええ……はい。判ります」
アイオナは頭を回らせた。自分が結婚している以上、ゼルヴィスの申し出を受けることは出来ない。それは判る。
問題はゼルヴィスの立場だ。彼はその気になればいくらでも結婚相手を選べる立場にある。
ペルギュレイオン競技会優勝者。
それがどの種目であっても、その栄冠は至上のものに違いない。
ローゼンディアが建国される以前からペルギュレーの大祭は行なわれてきたし、そのたびに競技会が開催されてきたが、その歴史は数千年に及ぶ。その中で数々の英雄が生まれてきた。
例えばオルニアの金獅子と讃えられた格闘王グリアモス。神の代理人と呼ばれ、五種競技で四度優勝したカサントスのノンディモン。地上最強、不敗の格闘家と讃えられたゼスタのレアンドロス……この他にもまだまだ偉大な競技者がいる。
そしてゼルヴィスはそうした伝説の人物達と並び立つ存在なのだ。
彼に結婚を申し込まれた女は喜びよりも戦きを覚えるに違いない。
それほどに競技会優勝者という肩書きは眩しいのである。
アイオナだって、彼を目の前にした時顫えた。それが結婚を申し込まれるとなればどうなることか。
そこまで考えて、アイオナは自分があまり緊張も畏怖も感じていないことに気付いた。
大伯母から話を聞いた瞬間には確かに驚いた。あまりに予想外の事だったからだ。しかし驚くことと畏怖することは違う。
自分がゼルヴィスに対して畏怖心を感じていないことがむしろ驚きだった。
一度船の上で会ったからだろうか? 判らないが、もしもう一度会っても落ち着いて話せる気がした。
もちろん実際に目の前に立って見れば圧倒されるかも知れない。それは判らない。
何と言ってもペルギュレイオン競技会優勝者なのだ。
「問題の一つは彼がペルギュレイオン競技会の優勝者であることです。これはお前にも判りますね?」
「はい」
「よろしい。もう一つの問題は、彼がアナクシス海将家の人間であるということです」
そう。名門貴族なのだ。アナクシス海将家となれば名門中の名門だ。王家とだって問題なく婚姻ができる程の家柄である。
それがなんで自分などに? アイオナの中に大きな疑問が浮かんできたが、どうもこれは自分がいくら考えても答えは出ないような気がした。ゼルヴィスに、本人に聞いてみるしかない。
とまれ要するに無下にはできない相手なのだ。
求婚のために遠くから来てくれてご苦労様、でも生憎ともう結婚しているんです。
これがこちらの事実だが、それでは対応として難しいのではないか。
相手の立場というか、面子を考えた対応が必要になる。
そう考えてアイオナはぞっとした。
アナクシス海将家は海上では絶大な力を持っている。
それは取りも直さず、メルサリス商会にとって大きな影響力がある事を意味する。
「わかりましたか。アイオナ」
「はい……大変ですね」
「はっきり言ってしまえば、これはもう向こうの良識を期待するしかありません。私が見るところ、ゼルヴィス殿には十分な良識があり、精神的にも立派な人物であると思えます」
「問題は彼の親族ですね」
「そうです。場合によっては大変な被害が我が一族に訪れるでしょう」
アイオナは胸の奥が重くなるのを感じた。アナクシス海将家の機嫌を損ねれば、商会の活動に甚大な悪影響が出る虞があるということだ。
「本日の宴には、ゼルヴィス殿と、その御父君であるイェラオス殿がお見えになります。イェラオス殿はアナクシス家の当主であり、三海将の一人です」
海将。それは海神の末裔グライアス氏族の中で、海王に次ぐ立場を意味する。
王国を囲む三つの海、そのそれぞれを三人の海将が支配しているのはローゼンディア人には広く知られたところである。
ましてやアイオナは南部沿岸カプリア地方で育った人間だ。
海将という言葉が重圧となって心にのし掛かってくる。
「お前が萎縮してしまうのは判ります。ですがもうどうしようもないではありませんか。こうなったらありのままを話して、お互いが納得できるところを探すしかありません」
「でも相手を怒らせてしまったら……」
「確かに、結婚したという一報くらいは欲しかったわねえ……でも今更仕方ありません。お前は胸を張って、あなたの求婚に応えることはできませんとゼルヴィス殿に言いなさい」
やはり大伯母様は度胸が据わってらっしゃるわと思いながら、アイオナはごくりと唾を飲んだ。無論、欲望ではなく緊張のためである。
これは大変なことになったぞと思った。ダーシュに相談せねばなるまい。
「婿殿とよく相談して、ゼルヴィス殿と御父君に失礼の無い対応をなさい。私もなるだけ助け船を出しますから」
「お、お願いいたします」
情けないが声が掠れるような感じがした。
「しかしこの大事なときにあの子はどこをほっつき歩いてるのですか。よもや宴までに帰って来ないつもりもなかろうと思いますが、一体何を考えているのかしら」
溜息を吐く大伯母を見て、アイオナは、ひょっとすると宴に間に合うようには帰って来ないかも知れませんわ、とはとても言い出せなかった。




