第六章・二
利き足にだけ膝当てを付けるのはゼメレス貴族独身女性の正装だが、嗜みでもある。
ただし義務ではないので必ずしも付ける必要はない。
それでもゼメレス族の独身貴族女性がそれなりの場に出る時には、それこそ余程の変わり者であるとか、何かの特別な事情でもない限りは、まず当然の作法として利き足に膝当てを付ける。
実はこの慣わしが発生した経緯についてはぞっとしない言い伝えが残っているのだが、それももはや遠い過去の話である。
片足だけの膝当ては、今ではもう独身であることをを表すだけの単なる装束上の印でしか無くなっているのだ。
決して重い物ではないにせよ、片足だけにそうした装身具を付けるというのは違和感があるものだが、ゼメレス貴族の女性達は小さな頃から皆そうしているので、その事に疑問を持ったり不愉快に感じたりすることはまずない。
むしろ誇りとする事の方が多いだろう。膝当てには貴族の證という意味があり、更に家系に伝わる独自の紋章や、詩歌から採られた言葉などが刺繍されているからだ。
しかしこうした膝当てが世代を超えて受け継がれることはない。
膝当ては必ず個人ごとに新しく作られ、その個人の成長や、色々の事情によって新しい物が作られるたびに古い膝当ては焼却される。母から娘に伝わるものは膝当てではなく、それに籠められた一族の歴史そのものであるという考え方がある。
ゼメレス族にとって世界を支配するのは永遠回帰の車輪である。
車輪は骨の形をした銀で組み上げられており、その傍らには祖神ダルフォースが坐っている。
そして神は右手で銀の車輪に触れている――そう信じられている。
世界は永遠に回転する車輪であり、それに秩序を与えるのが狩猟である。
狩猟は神聖な行為であり、世界の秩序を維持する為に欠くべからざる祭儀である。
そして命を奪うというその行為が認められているのは、ゼメレス族では男性だけだ。
この考え方は特に古代では徹底されており、女性はたとえ料理の際でも、死んだ食材にしか触れることは出来なかった。食材は男性によって死の向こう側に運ばれた後、その脱け殼として初めて料理の材料になったのだ。
現在ではそこまで徹底した考え方を持つのは、余程信心深い者だけだが、だからといってそうした考え方や価値観がゼメレス族から消え失せたわけではない。
事実、ローゼンディアでも最高の料理の一つとして数え上げられているトラケス料理には、男性の料理人が多いのだ。トラケス地方は古代よりゼメレス族の治める土地である。
男性は断絶を、女性は連続を掌どる。
それがゼメレス族の考え方であり、信仰である。
着替えは基本的に全て側付きの侍女の手を使って行なう。
これはルキアに限らず一定以上の貴族ならばごく普通の習慣である。今もルキアは二人の侍女に自分を着替えさせていたが、自分一人で着替えが出来ないというわけではない。
ヴァリア教の教えでも、生活のことは自分できちんと出来るようにと示されているし、まともな貴族ならば自分の子供達にきちんとそうした教育を施すからだ。
もちろん着替えは疎か、食事すら満足に一人では摂れない貴族だっている。
ただしそれはある意味『落ちこぼれ』であって、決して貴族の標準ではない。尤も千年後、いや数百年後にはどうなっているかまでは判らないが。
落ちこぼれとされていた在り方が、尊貴さを示すようにならないとは限らない。そうした馬鹿げた顛倒は、貴族の世界では非常に良くあることだからだ。
そしてそうした貴族間の事情とは関係なく、貴族として要求される能力の方には本質的に変わりがない事もまた確かだ。
貴族や王族、則ち人間世界で上位に立つ者達にとって絶対に必要な能力とは、順応性である。
知性や人格も大事だろう。もっと砕いて慈悲深さや、政治力などという能力も大事だろう。
だが最も重要なのは、投げ込まれた現実に対してどこまで適応できるか、その順応力である。犬のように繋がれれば素焼きの器から手掴みで物を食い、逆に絹の衣服を纏い、精緻な敷物を踏むならば獅子の如く振る舞う、そうした臨機応変さが重要だ。
いささか悪い言葉で言えば、それらは羞恥心の無さと言えるかも知れない。しかし同時に王侯貴族というものは特別な羞恥心をも持たなければならないのだ。
そんな矛盾めいた特性を自らの中で調和させなければならない。それも他者からの理解など求めずにだ。それが王侯貴族というものなのだ。
略式とはいえ、一応の装いをさせる事に侍女達は決めたようだった。草色の肩掛けまで持ち出してきた。ルキアは文句も言わずにそれを侍女達に付けさせる。
肩掛けには刺繍が施されていた。主に銀糸で描かれており、単純化され、様式化された人物と動物が中心になっている。
この意匠はゼメレス族伝統のものであり、『子供の図案』と呼ばれる様式のものだ。
文字通り、子供の描いた絵が元になっていて、ゼメレス族の刺繍文化の中では最高位に位置するものである。
描かれるものは陽気さや可笑しみを感じさせるものが多いが、滲みてくるような優しさや、言葉では表現しがたい深遠さを感じさせる意匠も多く、その事が他氏族の間でも高く評価されていた。
現在では他氏族の間でも『子供の図案』は刺繍として根付いているが、刺繍に置き換える過程での省略化や様式化がゼメレス族独特のものであるため、仕上がった物は全てゼメレス様式になってしまう。
このため、『子供の図案』と言えばやはりゼメレス族の物が中心で、流通に乗るものもトラケス地方で制作されたものが多いという。
今ルキアが付けている肩掛けの図案は月と人物、羊が中心になったものだ。
何故か羊には上下逆向きのものがあるが理由はわからない。作者は七百年以上前の人物なので調べようもない。
一人が肩掛けをしている間にもう一人が腰回りや足元を世話していく。基本的に膝当ては常に付いているので、寝起きの装着時以外に触れられることは余りない。
ルキアの仕事は文句も言わずにただ立っていることだ。楽なようだが意外と気疲れするし、新人の侍女などは装束選びにまごつくので、その間中、棒杭のように立っていなければならない。
尤もそうした新人は、古くからルキアに仕えている侍女によって厳しく窘められ、鍛え上げられていくわけだが。
こうして黙って立っていると、時々ルキアは自分が手入れされている馬か羊になったような気さえする。
しかし王侯貴族にはそうした能力というか、忍耐心も求められるのだろう。
これから会うハルラナムは外国人の、それも大商人である。
貴族ではないが、その財力、影響力は貴族や高位聖職者に匹敵する。なにしろ執政に対して直接意見できる商工会の構成員なのだ。
だからといってその地位がルキアに及ぶわけではない。
政治力という点で言えば、ハルラナムの力は本国ダルメキアと、そしてこの都市ディブロスについてのものであって、ゼメレス族が支配する、遠く北のトラケス地方には関係がない。
身分の方はと言えばこれはもう比べようもない。
ルキアの上にはゼメレス宗家しかない。それほどの高位貴族なのだ。
もちろん他の宗族の宗家にも敬意は払うが、礼儀の上でのことで、彼ら彼女らはあくまで他の神々の末裔である。ルキアには関係がない。
唯一例外なのが西方にある同じ狩猟神の末裔ヘカリオス氏族である。これは祖神を同じくする同族であって、その宗家であるヘカリオス家には、やはりゼメレス宗家に匹敵する敬意を払う必要がある。
ルキアはローゼンディア貴族としては最高の序列に属している。東方鉄弓家は他の氏族で言えば太陽神の末裔の副王家や、海神の末裔の海将家などの、宗家に次ぐ家柄に位置しているのだ。
しかもその筆頭家である。誰もが畏懼するほどの名門中の名門貴族なのだ。
――それがまさか市場で石鹸を売っているとは誰も思わないでしょうね。
ルキアは僅かに口の端を上げた。ちょっとした悪戯をしている気分だった。
「姫様なにか楽しいことでもおありになりましたか?」
髪の具合を見ていた侍女が優しく問いかけてきた。
「ええ。今悪戯をしているの」
「まあ」
侍女の口元が綻ぶ。ロレッタという名前で、メイファムの叔母である。
ルキアが小さな頃からずっと仕えてきていて気心の知れた相手なのだ。
だからといってルキアは自分の思惑の全てを明かしているわけではないし、明かせるはずもない。
「お手柔らかにお願いしますわ」
「ふふふ。考えておくわ」
「でもお気を付け下さい」
足元を見ていた新米の侍女マノラがルキアを心配そうに見上げてきた。
「最近、あまりよくない噂を耳にしました。ひょっとして姫様の身にも害が及ぶのではないかと恐ろしゅうございます」
「まあ、どんな話?」
見当は付いていたがルキアはとぼけて聞き返した。
「その……本国の方で妙な動きがあるとか耳に致しまして……」
暈かした言い方だったがそれでルキアには通じると踏んでの発言である。
もちろん最初から話の内容を予想しているルキアにとってみれば迂遠なだけだが、ここは相手に付き合ってやらなければならない。
「そう。他の家の方々ね?」
下を見ながら問いかけてやるとマノラは頷いた。
「他の家の方々」とは則ち他の東方鉄弓家の家々を表す。直接家名を口にするのは憚られるからだ。
何故なら宗家にほど近い血筋であるがゆえに、鉄弓家はいずれもゼメレス姓を名告るからだ。それは宗家の家名であり氏族全体の名でもあるから、特別な意味を持つ。
話の内容によっては口に出しにくい名前なのだ。
しかし、全部で六家ある東方鉄弓家がいずれもゼメレス姓であるのは、さすがに混乱を来すということで、それぞれを区別するために一応の屋号のようなものがある。
一般人で言う家名のようなものである。そして通常は、各鉄弓家はそちらの名で示される。
あくまで屋号のようなものであるから正規の書類には使えない。そこが家名とは違うところであるが、日常のことなら大体それで間に合うのである。
東方鉄弓家は三流六家と言われる。
その歴史は古く、ゼメレス公ネフリアが、自身の三人の息子たちの為に嫁取りをしたことに始まる。
彼女は西方ヘカリオス公に対し、息子達に然るべき花嫁を送ってくれるよう懇請したのだ。
これに応じたのがヘカリオス公ドナテスである。書簡を受け取るとすぐに近しい一族の者たちから志願者を募り、自分の娘と、西方鉄弓家の中からそれぞれ一人ずつの、三人の娘たちを選び出し、遥か東方のゼメレスの森に送った。
東西に分かれていても、元は同じ狩猟神に連なるという意識があったからこその話だが、今でもこうした交流は続いている。
かくしてネフリアの三人の息子達は、それぞれにヘカリオス公ドナテスから送られてきた娘達と結婚した。
息子達は年齢の順に分家を建て、西方にあるというヘカリオス宗家を支える鉄弓家に因んで同じように鉄弓家を名告った。これが東方鉄弓家の始まりである。
ただしゼメレス族では女性が家を継承するので、実際には三人の息子たちではなく、そのそれぞれの娘たちからが初代として数えられている。
その最初の娘たちが東方鉄弓家の祖となったのだ。
ゆえに鉄弓家といっても三流があるのだが、現在では更にそのそれぞれが分かれ、六つの家になっているのである。
それらの経緯はともかく、現在の家格の順に並べていくと以下のようになる。
まず第一鉄弓家ベルディアス。これはルキアの家である。東方鉄弓家ベルディアス流の宗家であり、ロマイオス家とも言われる。
次に第二鉄弓家アローエス。東方鉄弓家アローエス流の宗家である。
そして第三鉄弓家アイティオス。東方鉄弓家アローエス流のもう一つの宗家である。レウスキア家とも言われる。
アローエス流には二つの宗家があるわけだが、ここには長い争いの経緯がある。
現在では一応の決着を見たということになっているが、その確執が消えたわけではない。
それから第四鉄弓家グリエルス。東方鉄弓家アローエス流である。
そして第五鉄弓家ガルファディス。クリュスタの家であり、東方鉄弓家ベルディアス流である。
最後に第六鉄弓家ノウェルマイス。東方鉄弓家ノウェルマイス流である。
これは千年以上昔に断絶した元第二鉄弓家ノウェルマイス家の近年での復古家であり、事情があって再興されたもので、本来のノウェルマイス家の血筋を引いているわけではない。
実際にはアローエス流の血を引いているのだが、ノウェルマイス流とされているのだ。
その為もあって、序列は現在では最下位という事になっている。
無論ノウェルマイス家はその立場に納得などしていない。第二鉄弓家のアローエス家に序列の復旧と所領の返還を求めて争っている。
ただし所領といっても土地を返せという意味ではない。
ゼメレス族には土地を所有するという観念自体が無いため、正確には土地の管理権のようなものを返せと言っているのである。
ここら辺の慣習が、ゼメレス族では他の王国貴族とは色々と異なっているために、他氏族はもちろん、外国人からも中々理解されないのだ。
東方鉄弓家の本流は、第一と第二の二流であると言われる。
それは元々の第二鉄弓家ノウェルマイスが断絶した結果、残った血流がこの二つになったからである。
復旧したノウェルマイス家にしてもグリエルス家からの血が入っており、結局のところ、現在の東方鉄弓家の血流は全てこの二つの流れのどちらかに帰着することになる。
……それだけにルキアの外見は悪夢に等しい衝撃を一門に与えたわけであるが。
東方鉄弓家の歴史は政争の歴史である。
ローゼンディア王国に統合されるまで、古代よりゼメレス族は一つの国家であり、ゼメレス宗家は女王家として君臨していたのだ。
そこには宮中があり、当然その中での、家臣団での利権や席次を争う戦いが行なわれていた。
しかも参加者は全員女性である。まさしくその戦いは暗闘と言うに相応しい状況を呈した。
その伝統はローゼンディアが建国され、ゼメレス宗家がその一角を担う公爵家となっても続いた。
しかもその舞台は変わらない。
ゼメレス族がその始まりよりずっと暮らしてきた都、ゼメレス族にとっての首都エルナセアにある宗家の宮殿である。
長く不毛な政争の結果、東方鉄弓家は宗家に次ぐ地位と格式を獲得したが、その鉄弓家の間でも序列や利権の争いが絶えないのである。
ルキアはこの歴史を知ったとき、呆れるよりも、むしろその溢れる生命力というか権力欲に感心したものだった。
踏み潰されてもまだ藻掻いてる害虫のようなものだと感じた。無論、その事は誰にも言わなかったが。
おそらく、というか間違いなく他の宗族でもそうした序列争いや、利権争いはあるであろう。
しかしそれがゼメレス族ほど規則正しく、古式ゆかしく、陰に籠もって行なわれる事はないのではなかろうか。ルキアはそう思っている。
例えば隣接領地の戦神の末裔セウェルス族だが、彼らの司政などを見ていると、往々にして非常にすっきりとした、それも途轍も無く明解なものを感じることが多い。
驚くほど馬鹿げた方法を採用していることも多いが、それが彼らにとっての価値観であり、美意識なのだ。
ルキアとしては笑ってしまうが、他のゼメレス貴族のように眉を顰めたりする気は無いし、もちろん馬鹿にする気は全く無い。微塵もない。
彼らセウェルス族が二千年に亘って王国東方の地を守ってきたのは間違いのない事実であり、その歴史の前には言葉の批評など消し飛んでしまうからだ。
セウェルス族という、いわば最強の氏族が存在したが為に、ゼメレス族は東方の脅威から守られてきたと言える。それは自明なことだ。
だがそのお蔭でゼメレス族は陰湿な政争という伝統を、今まで保持することが出来てきてしまったとも言える。
「どちらの家の方かしら?」
知っているのに知らない風を装って呟くと、髪や肩掛けを見てくれていたロレッタが囁くように答えた。
「アローエス家と、ノウェルマイス家の方に動きがあるという話でございますわ。あくまで噂ではございますが……」
「あの両家が手を組んだの?」
「そこまでは……ですがないとも言い切れないかと」
さすがに経験豊富な古株のロレッタだけあって、慎重な発言である。
領地と序列の問題で常に対立しているノウェルマイスとアローエスの両家ではあるが、結託しないとも限らない。それだけの理由があればだが。
理由があれば結託するだろう。貴族というのは物質的な欲望には非常に忠実な人種である。そして利益を因とした関係というものは強固なものだ。
「何があったのかしらね」
「さあ……ですがあの両家が結託するかも知れないとなれば、よほど大きな事件でございましょう」
そう。大きな事件なのよ。
胸の中でルキアはそう呟く。
「……もしノウェルマイス家の要求が通って、しかもアローエス家が納得するとすれば、それはアローエス家が今以上の地位を得た場合になるわね」
今以上の地位……それはつまりアローエス家が東方鉄弓家筆頭になるという事である。
もちろんその事がベルディアス家の没落を意味することぐらいは新米のマノラにだって判るはずである。
案の定ルキアの言葉にマノラが身を固くした。一方ロレッタには動揺は感じられない。付き合いが長いだけに慣れているのだ。
「そう恐れることはないわ。私たちだって備えていないわけではないのよ」
そう。一族の歴史で何度も繰り返されてきた下らない争いなのだ。どの家もそうした対策には慣れている。
ただし新参のノウェルマイス家はどうか知らないが。下手をすると他家にうまく利用されるだけになってしまうかも知れない。
しかしそうなったとしてもルキアには関係ない。
今のノウェルマイス家には興味はないのだ。
「どのみち何かあれば本国から使いが来るでしょう。それまでは特に何もしなくても大丈夫よ」
落ち着いた口調で言ってやると、納得したのかマノラは頷いて作業に戻った。
実は既にその辺の動きについてはルキアはとっくに情報を集めてあるし、手も打ってある。
あらゆる物事が、自己の予測範囲内に収まるはずだと考えるほどルキアは愚鈍ではないし自信家でもないが、準備をしておけば事件が起きても処理しやすくなるし、処理の難しさも下がるだろうとは考えている。
だから大体のところ何かが起きても対応は出来るはずだった。
装いが完了すると、ルキアは侍女たちに先導されて謁見室へと向かった。
そこには既に兵達が待機している。無論、全員女性である。
女性家督であるという点ばかりが目立つゼメレス族ではあるが、実は男性の方も相当他氏族とは違っている。
確かに彼らゼメレス族男性は表のこと、つまり家の運営、一族の政務一般に携わらない。
これは疎外されているのではなく、彼らには他にするべき重要な仕事があるからだ。
それはゼメレス族の領地の管理だが、管理と言っても役人がやるような仕事ではない。
ここのところが他氏族にもいまいち誤解されがちだが、一言で言えばゼメレス族の男性は、自然を、世界そのものを相手に仕事をしているのだ。
彼らは森を見回り、内海の辺を歩き、ほぼその生涯を自然の中で過ごす。
中心となるのは無論ゼメレス族の領地内だが、他の地方まで出かけてゆく者もいるし、中には一度旅立ったまま二度と故郷へ帰らぬ者もいる。
彼らは人目につかない森の奥や川の傍に共同生活用の住居を持っていて、普段はそこで暮していると聞くが、女性は近寄れないのでルキアは見た事はない。
そこは『青髭の家』とか『男たちの館』と呼ばれている。女人禁制の聖域だ。
ゼメレス族の男性は纏まって戦いをしたり、集団で行動をしたりすることはあまりない。
たいていは独りであり犬を連れていることが多い。犬は彼らにとって非常に重要で、欠かせない相棒なのだ。
多くても数人程度の集団で山や、森の奥を移動している。
謎めいた存在であるが、ルキアにとっても同族の男性達は謎の存在だった。
男性であっても子供ならばまだ判る。しかし通過儀礼を済ませると、少年達の様子は一変する。
全く別の存在に変わるのだ。ルキアの兄も、その友人たちもまたそうだった。
何故なのかは判らない。それは女達が知るべき事ではないとされていて、その秘密は男たちによって守られているからだ。
もう一つ特筆すべき点として、ゼメレス族の男性には身分というものがない。つまり彼らは貴族でもなければ平民でもない。そうした枠の外に生きる人々なのだ。
だから身分に対する感覚というものも普通の人々とは違っていて、彼らは一般人のようには王侯貴族に対して敬意を払うことはない。
ただしそれは無法だという意味ではなく、むしろ彼らはあらゆる存在に対して注意を払って生きている。その生活や思想はヴァリア教神秘主義の行者達に近い。
はっきり言えば、人の世の法のぎりぎり周縁で生きている人々だと言えるだろう。
要するにとても変わっているのだ。他の氏族の男性達に比べて。
不思議なのはそうしたゼメレス族男性達が他の宗族の、それも獰猛さをもって知られる戦神の末裔セウェルス族や、嵐神の末裔エンデュオス族の男性達から非常に尊敬されていることだ。
どうしたわけか骨太な男たちほど、ゼメレス族の伝統に理解を示す傾向があるのが不思議である。
ルキアも一度、『嵐の兄弟団』で世話役をしているというエンデュオス族の老人と話したことがあるが、彼は何度もゼメレス族の男たちを讃え、その行為がいかに重要なのかを語った。
彼に言わせれば狩人とは最も神聖な、男として究極の仕事なのだそうだが、そういう本人は戦士であり、長いこと戦場に立ち続けたのだから矛盾している。
狩人が最高ならば自分も狩人になれば良いではないか。ルキアはそう思ったが、本人があんまり気分良さそうに語るので、結局微笑みながら話を聞くだけだったが。
家臣の兵士に扉を開けられて部屋に入った。
ルキアの姿を見るとハルラナムは即座に片膝をついた。そして帽子を右手で取って深く頭を下げた。ダルメキア風の礼法であり、ほぼ最高の礼式である。
「急なことにも関わらずお時間をお取りくださり感謝いたします」
ルキアは鷹揚に頷き部屋の中央にある椅子に坐った。背後には鎧姿のメイファムが立っている。
室内の柱はシトロリオンであり、控えめだが、しかしはっきりとそれと判る芳香が漂っている。それはゼメレス族の勢威を示すためであり、悪く言えば威圧感を与えるためである。
アウラシールの人々と違い、ゼメレス族は『香り』を強烈に押し出してくるということはしない。それは野暮であるとされるからだ。
確かに香りが存在する事を相手に知覚はさせるが、同時にその香りの元は判らないような示し方を好む。
いわば声なき自己主張であり、香水などの臭いを強烈に振り撒いているのは最低とされる。
謁見室にはその他にも武装した家臣の兵が六人立っているが、ハルラナムを警戒してのことではない。言うなれば立場上の飾りのようなものだ。
ただし仮にハルラナムが害意を抱いたとしても、その手をルキアに届かせるのはとても難しいだろう。
飾りとはいえ、衛士としての実力は確かだからだ。
メイファムは宗家の近衛兵団に居たほどの戦士だし、この場の六人もそれに順ずる実力のある兵達である。
いつもながらハルラナムは血色が良い。黒い髪は短く刈っており、鼻の下までを覆う見事な髭をしている。
背は余り高くないががっちりした体型で、全身から何というか、生命力のようなものを発散させている。精力にあふれている感じといってもいい。
それを示すかのように肌もつやつやしている。ハルラナムの肌は綺麗に日焼けしていて艶があるのだ。これが脂ぎってるという事になると嫌悪感を催させるのかも知れないが、ハルラナムにはそんなことはない。
壮年の男なのに妙に肌の艶が良いのが不思議というか味のあるところで、黒々とした髭もいつも綺麗に保たれていて、玉葱の破片や飲み物の汁などが付いていたことはない。
けっして美形ではないが不細工というには気の毒なくらいの容貌で、一言で言えば濃い顔をしているのだが、不快感を抱かせないのが大きな美点だと思えた。
そしてさすがに凄腕の商人だけあって、相手に強い印象を抱かせる空気感とでもいうものを纏っている。
つまりは遣り手の、小綺麗な親父なのだ。
こういうのは中々愛嬌のある人間の類だとルキアは思っている。
姫様にはご機嫌麗しゅう、と決まり切った文言を並べ立てようとするハルラナムを、ルキアは手を振って制した。
「挨拶はよい。今日は何の用事なのか」
「はい。実は近日中に大きな船団がこの町に着くようでございます」
「ああ、荷が届くのか。それで?」
荷というのはシトロリオンの事である。それ以外には考えられなかった。
ルキアはシトロリオンをハルラナムに卸してやっているのだ。もちろん自分の自由になる範囲での話であり、しかもその一部である。
しかしそれだけであってもシトロリオンは巨額の利益を生む。ハルラナムにとってルキアは最重要人物の一人であるというわけだった。
「はい。姫様の仰るとおり我が商会のお預かりしたシトロリオンが到着いたします」
「それはよかった」
「ははあ。これもみな大神ヴァリアのご加護でありましょう」
高が船荷にヴァリア神を持ち出すこともないと思ったが、相手にとってルキアは目も眩むような上位貴族だ。大袈裟な言葉も大目に見てやらねばなるまい。
「それで船荷と一緒にメルサリス商会の商会長ファナウス・メルサリスが到着いたします。私は彼に陸路の輸送を委ねたいと思っております」
「ほう? その者信用できるのか?」
ルキアは判っていてそう尋ねた。ハルラナムの返答を聞きたかったし、ハルラナムに自分の理解や心証を植え付けておきたかったからだ。
「はい。私とは二十年以上の付き合いがあり親友であります」
四角い顔を真っ直ぐにルキアに向けて目を見つめてくる。物怖じする気配はない。大したものだと思う。
ルキアの身分についてもよく理解しているはずだが見上げたものだ。
同時に、その態度でファナウスへの信頼を表そうとしているのだろう。
「受け持ちの配分その他のことについては既に話が出来ておるのか?」
保証はもちろん、利益や損失の配分についてもという意味を込めて尋ねたが、ルキアはハルラナムのことだからその辺りもしっかり出来ているだろうなとは思っていた。
「姫様のお許しがいただければすぐにでも」
「それで今日ここに来たというわけか」
「その通りでございます」
「ふむ」
わざとルキアは思案する振りをした。
実はハルラナムが海上を主体とする商人であり、陸路での商売をほとんどしない事は既に調べてあったのだ。
そもそもハルラナムはダルメキア人である。彼らは最高の海運商人だが、陸路には弱いのだ。
何よりリムリク地方には世界最強と言われるリムリク商人達がいる。活動の場を海に限定するのは賢い選択と言えるだろう。
ゆえにシトロリオン運輸の過程で、ハルラナムがほぼ確実に、陸路に強い同業者に当たるであろう事も察しが付いていた。
そしてその相手がファナウス・メルサリスになるだろう事も承知の上だった。
「もしお時間をいただけるならば、姫様のご都合の良いときに我が友ファナウスをご紹介いたします。それが姫様にとっても奴にとっても一番であると私は考えます」
「随分買っているのだな」
「それはもう。あの男は一種の天才でございますれば」
ハルラナムは嬉しそうな顔を見せる。本当に嬉しそうに見える。
この愛嬌というか、なんというか味のある雰囲気は、商業神ヘキナンサがこの男に賜わった贈り物に違いないとルキアは思った。
「そうか……確かに少し興味はあるな」
「ではご都合の良い日時をお知らせください。こちらでご用意をいたします」
思い切った発言である。ルキアを招待するとなればそれなりの準備が必要になる。かなり金がかかる事になるだろう。
それなのに自分の方から呼ぶということは何か理由があるのか。
つまりルキアを何かに利用しようとしているのか。
個人的な集まりだと思って行ってみたら、何故か全く知らない高位聖職者や貴族を紹介されたりする事はよくある事だったし、もっと酷い場合には、その地域の名士がずらりと揃っていたりする。
そういう企みに乗っかるのは業腹だし、馬鹿げてると思ったが、しかしハルラナムがそんな見え透いた下策に出るだろうかとも考えた。
下手な相手を紹介してルキアの勘気に触れたら巨大な利益が吹き飛ぶかも知れないのだ。
今までの印象からは、ハルラナムは誠実だし機微にも敏いと感じる。
当然、頭も良く回る。
だからそうそう妙なことにはならないだろうとは思えたが、それとは別に、こちらの動きを前もって確定しておきたくないという事情があった。
ここでハルラナムの提案を受け入れれば、少なくともファナウスとの出会いの形が限定される事になるからだ。
「興味深い申し出だが、私も色々と忙しいのでな……そうすぐに日取りを言えるわけではないし、私が出歩くのを好まぬ者たちもいるのでな」
「さすればどのようにいたしましょう?」
「こちらから追って知らせる。それで良いな?」
「もちろんでございます。姫様のお望みになるようにいたします」
ハルラナムが頭を下げた。
「ところでな。話は変わるがお前の持ってきた石鹸は中々良いぞ」
「左様でございますか。お喜びいただければ私としても選んだ甲斐があるというものでございます」
「ああ、お前の目は確かだ。さすがダルメキア人だな」
「ありがたき幸せでございます」
「そこでだ。他にも珍しい石鹸、面白い石鹸があれば持ってきてくれぬか?」
「畏まりました。私の方でも色々と探しておきます」
「頼んだぞ。ああそれと余り高級な物は良い」
「と仰いますと?」
「もっとこう……庶民的なものをだな。それでいて珍しく、使い心地も良い物があれば持って来るが良い」
ハルラナムは不思議そうな顔をした。その背後に立つ家臣の兵は必死に無表情を保とうとしているが、すでにその顔には悪魔のように笑いが忍び寄ってきている。
彼女らはルキアの身辺を警護する腹心の部下だ。ルキアが市場で石鹸を売っていることも承知の上なのである。
幸いにも前を向いているハルラナムにはその顔が見えていないが。
「……畏まりまして御座います。姫様にお喜びいただけるような物をよく探してお持ちいたします」
「うむ。頼んだぞ。だが無理はしなくて良いからな」
「お心遣い感謝いたします」
ハルラナムは立ち上がってから深く礼をし、退出した。
「……これって横流しみたいなものかしら」
ルキアが呟くと二人の兵士が耐えきれずに吹き出したが、メイファムがじろりと睥むとたちまち笑いを収めて澄ました顔になった。
「姫様失礼いたします」
ルキアが入室に使った扉の向こうから、ロレッタの声が聞こえてきた。
兵の一人が扉を少し開けてロレッタを導き入れた。
「姫様、デトレウス・ファルクス・ヘムデリエスとか申す者が面会を求めて参っておりますが、いかがなさいますか?」
「それは本当なの?」
ルキアにはにわかには信じられなかった。確かに出獄できるよう取り計らったが、あれからそれほど日数も経過していない。そもそもあの男はルキアがディブロスに居ることは知らないはずだ。
「さあ……私には判りかねますが、本人はそう名告っております」
「本人かどうか確認する必要があるわね」
ルキアが呟くと、背後でメイファムが目線か何かで指示したのだろう、三人の兵士がロレッタに話を聞いて外に出て行った。確認の為だ。
貴族というのは普通、そんな怪しい者がいきなり訪れても会いはしない。
ただしルキアは違う。誰に会うかどうかは自分の判断で決める。そのことを周囲の家臣には伝えてあるし、それを尊重してくれる人間を身の回りに置いているのだ。
「もしもお会いになるなら呉々もご用心ください。デトレウスという男、二人の共を連れておりますが、ギスモスとか申す男はどう見てもまともな人間ではございません」
心配そうなロレッタの言葉をルキアは真面目に聞いた。
「そう。では引き続きこの部屋で会いましょう。ロレッタ、警護の兵を少し増やしておきなさい。人数は任せます。私はここで待っているから準備ができたらデトレウスたちをこの部屋に来させるように」
「畏まりました」
ロレッタは一礼して部屋を出て行った。彼女に任せておけば間違いはない。
「姫様、どうしてもお会いになるのですか?」
余り賛成しかねるという風な気持ちが滲み出た口調でメイファムが囁いてきた。
「ええ。本人なら是非一度会っておきたいわね」
「どういう男なのです?」
「前に話したでしょう? 劇作家よ。俳優でもあるけれど」
それでメイファムは合点がいったようだった。
「なるほど。しかし本人かどうか判りません。あまり近くには寄らせないようにお願い致します」
少しして新たな兵が五人やって来た。
これでこの部屋にはメイファムとその他に八人の兵が立つことになった。
皆、性格までもよく知っているベルディアス家の家臣達だ。
そこへ最初の三人に導かれて三人の男たちが入って来た。
まず気が付いたのは三人の服装である。
三人とも微妙な格好をしていた。めかし込んでいるのだろうが、どうもちぐはぐというか妙なのだ。ひょっとして舞台衣装か何かではあるまいか。
見るからに怪しく、とてもこの館に入ることを許されるような服装ではない。
そしておそらくその服からであろうが妙な臭いがする。何かの香水のようだが使いすぎではないのか。
近くだと結構その臭いは強烈なようで、案内してきた兵士は嫌そうに距離を少し取っていた。もちろん、それは斬り合いになったときの間合いを計る意味もあっての行動ではあるが。
推測するに、これからルキアに会うということで相当気合いを入れてきたのだろう。
悲しいがそれが逆効果になっているのだ。
三人の内、先頭に立っているのは丸刈りにした金髪の若い男で、すらりとした外見に整った顔立ちをしているのだが、くりくりとよく動く目が印象的で、年の割には子供のような雰囲気がある。
加えてどこか一風変わっている感じがした。何故だか美形と言うには抵抗感を持たせる感じの、不思議な雰囲気があるのだ。
それは立っている姿や身のこなしなどから漂い流れる空気のような何かで、説明しがたいものだったが、おそらくこの男がデトレウス・ヘムデリエスであろう。ルキアはそう当たりを付けた。
一緒に入って来た二人は更に強い印象を与えてきた。
筋骨逞しい大柄な男と、見るからに幸薄そうな中年の男であり、一言で言えば二人ともこのゼメレス館に入れるような人相風体ではない。
大男の方がギスモスであろうと思えた。人相が良くないのだ。
多分悪人。ルキアはそう予想したが、考えてみれば監獄に入っている段階で悪人であるのは決まっているのである。無実だったならば別だが。
どんな人生を生きてきたかは知らないが、おそらくその体格や面構えにものを言わせて生きてきたのであろう。
しかしその屈強な男も、どこか自信なさげな、怯えたような様子をしている。
今自分が置かれている状況を理解すればこそだろうが、可愛いところもあるではないかとルキアは感じた。
もう一人の貧相な中年男は、腹はたるみ手足も細かったが、掌だけは何故か大きくしっかりした感じの手をしていた。髪の毛には白い物が雑じっていたが、顔立ちを見る限りそれほど年老いてはいないようだった。
何か吃驚したような顔をしているが、おそらく普段からそういう顔立ちが常態なのであろう。
頭の毛は薄く、目玉が突き出ているように見えるのと、厚ぼったい唇、そして筆の先のような顎髭が印象深く、なんと言うか異相だとルキアは思った。
この二人も頭は丸刈りにしていた。監獄では頭を刈られるのだろうか。だとしたら嫌な話だ。
「麗しきルキア・アマーティア・ゼメレス様。貴女様の御手により監獄より救い出されたことを、このデトレウス心より感謝いたします」
異国の強烈な香りを身に纏い、派手な服を着たちょっと残念な貴公子が、優雅に腰を折って礼をした。
きっと何回もやってきたのであろう。舞台上で。
こうした礼儀に親しんだルキアから見ても見事な作法である。臭いだけはいただけないが。
背後の二人も慌ててその礼法を真似しようとするが、似ても似つかない動きになっていた。
それでも一応片膝をついて控える姿勢になったから、周囲の兵士達も文句はないだろう。
ルキアはもとよりそうした礼法は内実が大事だと思っているので、形だけを取り上げて文句を言うつもりなどない。
デトレウスだけが立ち上がり、背後の二人は膝をついたままの姿勢で会話は始まった。
「元気そうだな」
「はい。今はこのように回復いたしました。ですがあと半年あそこに居たら私はこの男に殺されていたでしょう」
そう言って指さしたのはなんと背後の大男だった。
「この男はギスモスと申しまして、私の繋がれていた監舎で囚人頭を勤めていた者でございます」
その紹介にギスモスは幅広い肩を竦め、下げた頭を更に俯かせた。
「ほう。どういうことか?」
「監獄という場所は常に物が不足しておるのですが、特に食料の配分については深刻でございましてな。簡単に申しますと足りない分は身近な範囲から調達するのが普通になっております」
「なるほど」
判りやすい説明だった。要するにギスモスは己の体を維持する為に、囚人仲間の食料を奪っていたわけだ。
「囚人頭というものには色々な特権がございまして、そうした事をしていても看守は見過ごすのが常になっております。無論、そのことで看守にも見返りがあるわけでございますが」
「腐敗しておるな」
「確かに。しかしそれこそが監獄のあるべき姿と言えるのかも知れませんぞ」
自分が繋がれていたというのにまるで批評するような口ぶりである。ルキアは興味を惹かれた。
「どういう意味か?」
「監獄とは元々この世の汚泥が流れ流れて行き着く先にございますれば、そのような弱肉強食や騙し合い、賄賂の横行などはむしろ平常のことではないかと私は思うのです」
「それでお前は死にかけていたのにか?」
揶揄するように言ってやると、デトレウスは顔を輝かせた。
「全くその通りでございます! この男は酷い奴で、初日に私の上着を奪い、二日目に下履きを奪い、三日目には靴を奪いました。四日目からは私は裸で過ごし、この身を飾る物はと言えば首に付いた鎖だけという有り様でして」
「地獄だな」
「いやいや! 地獄が監獄のように良い待遇を受けられる場所だと思うなよと常に看守達には言い含められておりますれば」
看守どもは言うに事を欠いてそんな事を言ってるのか。
「しかも言いながら私どもを棒で殴り、足で蹴るのでございます。口だけでなく手足も常に仕事をしているといった有り様でして、実に仕事熱心な者たちでございました」
「それでお前は服をどうしたのだ?」
「死人が出た折に賭け事で奪い取りましてございます」
「ほほう?」
「私の居りました監舎には賭け事を取り仕切る元神官が居りましてな。こやつは複数の妻を持った廉で逮捕されたのですが、他にもインチキ賭博をしておりまして、そちらの方でも罪を重ねていたどうしようもない悪人でございます。こちらのノルベリスもその神官に騙されて破算させられたのです」
そう言って指さしたのは今度は幸薄そうな中年男だった。
「ノルベリスは靴屋を営んでおりましたが全ての財産を毟り取られ、代わりに懲役三十五年を言い渡されたのでございます」
なるほど立派な手をしていたのはそれが理由か。確かに靴屋なら納得できる。
しかしああした働き者の手をした男が、詐欺で財産を毟り取られたというだけで、なんで監獄に囚われることになったのか。そこがルキアには解せなかった。
「待て。騙された者が何故監獄に繋がれているのだ?」
「それは借金があるからでございます。基本的に監獄には借金がある者しか入ってはおりません」
なるほどなとルキアは思った。幸薄そうな姿をしているわけだとこれも納得した。
気の毒に。見かけ以上に不幸だったわけだ。
無実だろうが何だろうが借金を被せられてしまえば監獄行きというわけか。おぞましい話だ。
「その墮落した神官は詐欺の達人であろう。どうやって出し抜いたのだ?」
その言葉にデトレウスは嬉しそうな笑みを見せた。
「それは姫様。いずれ舞台の上にてご高覧くださいませ」
ルキアの前で一礼してみせる。不覚にもルキアはその動きに目を奪われた。
どうしよう。この男面白い。
ルキアはデトレウスのことが気に入り始めていた。
きっとどんな事でもこの男は舞台の、演劇の素材にしてしまうのだ。
楽しんでいるのだ。全力で。他の夾雑物など一切なしに。
天才とはそうしたものだろう。
「……わかった。楽しみにするとしよう」
「そうしていただければ幸いでございます」
「しかしお前は一体どうしてあれほどの借金を抱えることになったのだ?」
この質問は一転してデトレウスの顔を渋くさせた。
「残念ながら、世の中には芸術を解することはあっても、その実現に掛かる時間や労力については無頓着な方々が居られまして……」
「なるほどな」
「誰もが姫様のように長期的な視野を持ってくだされば、私ども芸術家としても大変助かるのですが」
デトレウスは肩を竦めた。
「しかしお前が作った借金はそれはそれは莫大なものであったと聞いているが」
「まあ城の一つや二つは建つでありましょうな」
「それほどの額が一体何故必要だったのだ?」
「それは大作でございますれば」
「大作か」
「はい」
デトレウスは頷いた。
ルキアは実はその作品のことを知っている。知っているからこそ、彼を監獄から出してやろうと思ったのだから。
不思議だったのだ。何故デトレウスはあのような脚本を書いたのか。
「……その芝居はお前が王都で上演していたものであるな?」
「左様でございます。しかしながらあれはまだ序盤。全部で三つか、長ければ七つほどの連作になると私は感じております」
「そうか」
ルキアは指を組んだ。問いを発するべきか少しだけ考えた。
「……一つ聞きたいが、お前は何故ケルサイオンを題材に劇を書いたのだ?」
「さて、どういう意味でございましょう?」
デトレウスは首をかしげた。
「芝居の題材は私が選ぶわけではありません。それは向こうからやって来るのです」
「どういう意味か?」
「風の囁きの中に、水の冷たさの中に、陽光の燦めきの中に、暖炉で踊る炎の中に、私はそれらを感じ取るのです」
大げさに中空に腕を差し伸べてデトレウスは答えた。まるで芝居のようだ。
「口では説明できぬというわけか」
「畏れながらその通りでございます」
デトレウスは深く頭を下げた。
「……いや、お前の言う事は理解できる」
独り言のようにルキアは呟いた。
小さな声だったが、しかしデトレウスは鋭く反応した。
いきなり面を上げるとルキアを真っ直ぐに見つめたのだ。それは無礼とも言える強い視線だった。
ルキアはその視線を受け流した。
「ところでお前の背後に居るその二人であるが、お前が恩赦を与えたのであろう?」
「左様でございます」
デトレウスを出獄させるに辺り、同輩など居たら一緒に出してやれるように手配してやったのはルキアだった。
「ノルベリスはともかく、何故ギスモスを選んだのだ?」
よりによって自分を殺しかけた男を。
「ギスモスはこう見えて中々に面白いところのある男でして。今後役に立ってくれそうだと思ったからでございます。ノルベリスは、彼もまたギスモスに殺されかけていた仲間だということもありますが……」
そこまで不幸だったのかとルキアは思った。
しかし当のノルベリスよりも加害者のギスモスの方が身を小さくしている。全く恐縮しているといった様子なのだ。
図体の割には意外と権威に弱い男なのかも知れない。
「彼には特技がございまして」
「ほう? ノルベリスとやら。お前にはどのような特技があるのか」
声をかけてやると、ノルベリスは立ち上がって答えようとした。
「わっ、私めは!」
「落ち着け」
デトレウスが肩を叩いてそう言ってやるが、どうもノルベリスの耳には入っていないようだった。
「わっ、私めは、うっ、歌が、とっとっ得意であります!」
つっかえながらも大声で答えた。昼間出てきた幽霊みたいな様子からは意外な態度である。
というか驚いた。何だこの男はという感じなのである。
「この男、こう見えても口上を謡わせれば実に見事なのでございます」
本当かとルキアは思った。本当に大丈夫なのかとルキアは思った。
大貴族の前でいきなり大声で自己紹介をするような男だぞ?
それまで全く、置物みたいに沈黙していたのにだ。
少なくとも自分が劇場支配人なら、ノルベリスに開幕の口上を謡わせたりはしないぞと思った。
というかこの三人組は灰汁が強すぎる。ゼメレス館に入れるかどうかちょっと悩むとかいう基準ではなく、その辺を歩いているかどうかという基準で考えねばならぬほどだ。
「……大丈夫なのか?」
半ば本気で心配しながらルキアはデトレウスに尋ねた。
「大丈夫でございます。本番になればこの男は立派に口上を勤め上げます」
余程自信があるのかデトレウスは胸を張って答えたが、冗談だろうとルキアは思った。
しかしそうは言わずに疑問を呈するだけにとどめる事にした。顔を赤くしたノルベリスを見ていると何だか否定するのが気まずかったのだ。
「謎だな」
「はい。謎でございます」
そんな気遣いにも、デトレウスは全く悪びれずにそう答えた。
もしも学院でも同じように答えたならば、教師に記録用の石版で殴られるだろう。
学院は貴族や富裕層の子弟が学ぶ場所だが、そこの教師達は容赦が無いことで有名だ。
「ギスモスとやら」
ルキアは大きな身を精一杯小さく見せようとしているギスモスに声をかけた。
「お前はデトレウスや、ノルベリスを殺そうとしたそうだが、今でもそのつもりでおるのか?」
我ながら意地の悪い質問だと思ったが、聞いておかねばならないと思った。
デトレウスが殺されたら困るのだ。
「とんでもねえです! 俺はデトレウスの旦那のお蔭であの監獄から出られたんです。恩人です。殺すどころか殴るつもりもねえです」
ギスモスは慌てたように答えた。全く恐れ入ったというような口調である。
しかしなるほど。そういう比較が口から出てくるという事は、つまり気軽に人を殴るような男なのだなとルキアは理解した。
とんでもない奴だ。さすがに監獄に入っていただけはある。
「デトレウスよ。ギスモスはこう言っておるがお前の方は構わないのか?」
「もちろんでございます。ギスモスは中々に有能な男でして、今後も私の仕事を手伝って貰いたいと考えております」
「そして口上はノルベリスがやるのだな?」
「はい姫様!」
どうしてそんなに嬉しそうなのよ……ルキアは軽いめまいのようなものを感じた。
しかしお蔭でデトレウスが何故監獄に入る破目になったかが、段々ルキアにも見えてきた。
要するにこの男は状況が上手く推移してる間はもの凄く強いのだ。
波に乗るというか、トラケス地方には騎虎の勢いという言葉があるが、そんな感じに物事がどんどんと上手い方へ行く。
正面だけを見据えて全力で走っていく。そうした純粋さというか、熱意のようなものがこの男にはあると感じる。
しかしその特性は、言ってしまえば大雑把だということにもなるだろう。
状況が良い方向へ動いていれば強いが、足を取られたときには大打撃を受けるような感じだ。
例えるならそれは、勝つ度に掛け金を上乗せしていく賭博のようなものでしかない。
どうもこの男には、人生伸るか反るかで考えているというか、本当に賭博師みたいな所があるのではないか。
もちろん本人は、何事にも見通しを立て、計画的に行動していると主張するかも知れない。
しかし現にこうして、監獄にぶち込まれた実績がある以上、デトレウスが仮にそう主張したところでルキアを納得させることはできない。
ルキアの見たところ、デトレウスには守備というか、周囲の危険に対して無頓着な所があると感じる。
危険を危険と認識しないというか、物事の良い面ばかりを見ているような気がする。
それは全くもって性質善良な、素晴らしい特性だと思えるが、一座を率いる座長がそれでは周りが困るだろうし、本人も困るのではないか。
一番困るのはおそらくそれをデトレウス本人が自覚していないところだろうが、こんな様子では、この先ルキアが資金を出し続けても、沼に金貨を投げ込み続ける事になりかねない。
「……お前に書記を一人付けてやろう」
「本当でございますか!」
デトレウスは驚いたようだった。
「実は私も経理に明るい者が必要だと思っておったところなのです」
「そうか。その判断は正しいぞ。多分間違いなくな」
「姫様のお心遣い感謝いたします」
なに自分の為だ。気にするなと胸の中で答えてからルキアは話を変えることにした。
「それでお前は何用があってこのゼメレス館へ参ったのか」
「はい。私はまさか姫様がディブロスにご滞在なさってるとは全く想像もしておりませんでしたが、偶々その話を耳にしまして、これは何としてもお礼を申し上げねばならぬと思ったからでございます」
わざわざ来なくてもよいのにと思った。
時期が来れば、ルキアはこちらから連絡をするつもりだったのだ。
「もう一つは我が一座が近日こちらの劇場にて公演を致します。それを是非姫様にご覧いただきたいと思いまして。最高の席をご用意させていただきます」
「ほう?」
これは意外な申し出だった。監獄から出てきてもう再起の準備がそこまで進んでいるという事も驚きだったが、それにルキアを招こうとは随分と大胆な発想である。
「興味深いな。何をやるつもりだ?」
「はい。現代劇をやろうと考えておりますが……よろしければ姫様のご希望などお伺いしたいと思っております」
現代劇というのは娯楽を目的とした芝居のことであり、つまりは大衆演劇のことである。
現代と言いつつも、別に今現在の世の中を題材にした芝居というわけではないのだ。
むしろ古代の歴史や神話などに題材を取ったものが多いので、それを現代劇というのはルキアとしても妙な気がするのだが、これは元々の芝居がそうした娯楽性とは全く無縁だったことに関係がある。
現代劇に対して、元々あった演劇の方は古典劇と呼ばれる。
こちらは政治的、儀式的な意味合いを持つものであって、何かの大祭の時などに催されるものだ。
そして現代劇は上演される時間帯を問わないが、古典劇は必ず昼間に屋外で上演されるという特徴がある。
ただし現代劇といえども夜間の上演は演目が限られる。これは照明の関係上仕方ないことであるが、実は夜間の上演の方が話題を集めたり、人気になる事が多い。
焚火や無数の油燈の中で上演される芝居には一種独特の味わいがあり、そうした効果も手伝っての事だろうが、一般に夕方以降の上演の方が人気があるのだ。
「どういう芝居がやれるのだ?」
「すでに知られた脚本ならばなんでも」
デトレウスは優雅に腕を拡げて請け合った。大きく出たなとルキアは思った。
ルキアとて一般的な芝居の演目については知識がある。貴族としての必要情報というやつだが、それだけではなく、人気のある大衆演劇についても結構知っているという自負がある。でなければデトレウスに注目すること自体なかっただろう。
しかしここで気取って難解な古典劇の名前などを口に出せば、ルキアの面目は立つだろうが、収益の点でデトレウスが苦労する事だろう。
「……そうだな。『副王漫遊記』などはどうだ?」
ルキアがそう言った瞬間、横に立つメイファムと周囲の兵達に微妙な空気が漂うのを感じた。
しかしルキアはその空気を無視することにした。
「『ダルメキアの歌姫』はどうだ?」
「……畏れながら姫様がそのような演目をご存知とは思いませんでした」
デトレウスも意表を突かれたようで戸惑っている様子だった。
「そうか? 有名ではないか。それに演目を挙げろと言ったのはお前だぞ?」
「確かにそう申し上げましたが……」
卑俗に過ぎるとか言うのだろうよ。だがそれで生活をしているのはお前ではないか。
しかもそこで演じられているものは市井の生活であり、庶民の物語ではないか。
それをどうして卑しむ必要がある?
……と、胸の中で意見を組み立てたが口には出さなかった。
「なに、あまり難しいものを挙げてもお前が困るだろうと思ってな。客の入りが悪くなっては大変ではないか」
「お心遣いは感謝いたしますが、その心配はございません。演出はこの私が致しますれば」
「ほーう?」
これにはルキアが驚いた。さっきも大きく出たが、やはりこの男は大した自信家であると思った。そして強く興味惹かれた。
そうだ。この男がそもそも監獄に繋がれる切っ掛けになったのも、それが原因だとも言えるのだ。
「ディブロスにはケルサイオン大神殿があるな。また同じような事になったら困るのではないか?」
ルキアが言っているのは、そもそもデトレウスが監獄に送り込まれる原因になった出来事である。
王都での興行によってヴァリア教会から厳重注意をデトレウスは受けたのだ。
それに恐れを成した出資者達が資金の急激な引き上げを行ない、それが理由で資金繰りが破綻、哀れデトレウスは監獄行きとなったのである。
「しかしお前はどうしてあんな脚本を書いたのだ?」
「姫様もご覧になって下さいましたか」
「ああ。たまたま王都に居たのでな」
その劇はケルサイオンを題材としたものだった。そしてその劇の中でケルサイオンは野盗として登場したのだ。
判りやすく追い剥ぎと言ってもいい。つまり旅人などを襲って糊口をしのぐ犯罪者だ。
それは主役にはそぐわない役所だし、何より倫理上の問題がある脚本だと言えた。
ケルサイオンはローゼンディア建国に関わった伝説的聖人である。それを追い剥ぎとして描くなど常識外の発想であるし、社会通念上許されることではない。
案の定王国のヴァリア教会から厳重な注意を受ける破目になった。これがレメンテム帝国だったら宗教裁判の結果焼き殺されていただろう。
「あの時代、新ナーラキア帝国末期、世は乱れ、各地に剣によって立つ者たちが多く現れたと歴史書にはあります。私はケルサイオンもまた、そうした一人であっただろうと考えたまでのこと」
「……なるほどな。そうかも知れぬ」
たしかにそうであったかも知れぬ。確認のしようもない事だが。
「劇作家に冒険をするなとは言えぬが、監獄に送り込まれるような真似だけはするな。それだけは言っておく」
「はい。肝に銘じましてございます」
デトレウスはまた深く腰を折って礼をした。
その時突然ルキアの脳裏に閃くものがあった。
「……『アガプドロス』などはどうだ?」
「古典劇の名作でございますな」
「気にいらんか?」
「いいえ、パラクセスは私の最も尊敬する劇作家であります」
パラクセスは今から二千五百年近く前に生きた古代の劇作家である。歴史的傑作アガプドロスを書き百歳まで生きたという。
「ならばそれに新しい切り口を見いだしてみよ」
「姫様のご命令とあれば」
「公演の準備が整ったら知らせを寄越すが良い」
「はは!」
デトレウスはまたも深く礼をした。いちいち動きが派手だが何せ劇作家兼俳優だ。仕方ない事かも知れない。
「ああそうだ。アガプドロスをやるにせよ、何か大衆受けするものも公演したら良いではないか。今後の為にも資金は必要であろう?」
「姫様の仰るとおりでございます。実はもう一本、獄中にて練り上げた作品がございます」
「ほほう?」
またもルキアは感心した声を上げてしまった。やはり天才かも知れないわね……などと思ってしまう。
「それはなんだ?」
「はっ。ウィラーデーシュという作品でございます」
ウィラーデーシュ?
はて誰だったか。どこかで見たか聞いたかした名前だ。
ルキアは記憶の引き出しを調べ始めた。
「……確か、アウラシールの英雄ではないか? 南の方の……」
そんな名前を実家の資料中に見たことがある気がする。
朧な記憶を頼りにそう口にすると、デトレウスは尊敬したような目を向けてきた。
「さすがはロマイオス家の姫君であらせられますな。姫様の仰るとおり、ウィラーデーシュはイルメヤ・ジルバラ地方の英雄でございます」
「すると史劇になるのか?」
「いえ、壮大なる英雄物語であります」
「とすると英雄叙事詩か」
ウィラーデーシュは実在が危ぶまれるほど昔の人物だったはずだ。
歴史と言うには無理があるとルキアは感じる。
尤もアウラシールでは立派に歴史として通用しているのだが……。
ロマイオス家というのはルキアの実家の通称の一つである。
ルキアの実家は宗家の近衛兵団兵営所の近くにある事からベルディアス家と呼ばれることが多いのだが、その敷地には大きな蔵が建っている。
蔵というよりも宝物庫といった方が正しいかも知れない。
だがより精確に表現するならば、それは資料庫と言うべきものだ。
その資料庫の通称をロマイオス文庫というのである。
いつの頃からかそう呼ばれるようになって、それがそのまま定着したものであり、ルキアの一族が名付けたものではない。
元々は家伝の古文書や日記、書状などの記録類を中心に、生活道具や美術品などを収蔵していた単なる倉庫だったのだが、収蔵品の数には物凄いものがある。
それはベルディアス家の歴史を考えれば容易に判ることなのだが、倉庫が建ってからの時間を考えるだけでも千数百年が経過している。
しかも名門貴族なので様々な事件や逸話に関係した物が揃っているわけであり、自然、収蔵品の方もそれはそれは馬鹿にならないものになっている。
今ではローゼンディア王国中から学者や神官が資料の閲覧にやって来るほどになった。
思えば迷惑以外の何ものでもない。
そうした迷惑な連中が「ロマイオス文庫」などと言い出したらしい。
名誉なことではあるがルキアとしては若干鬱陶しさを感じもする。
ロマイオス文庫はゼメレス族にとって、そしてローゼンディア王国にとって非常に貴重な資料を多く蔵しているのだが、何しろその点数が多い。
長い歴史の中で集積してきた資料群は圧巻というばかりであり、本の類いに限ってもベルディアス家の日記や書状だけでなく、学術書籍や聖典などの経典類までと幅広い。
これに加えて様々な美術品まであるのだから、誰もその全貌が判らないのである。
その総数は五万とも十万とも言われている。
いつか整理をしなければと言いつつも、あまりの資料点数の多さに歴代当主の誰もが尻込みをし、現在に到っているわけであるが整理整頓を試みた当主がいなかったわけではない。資料整理を完成させた者がいなかっただけのことだ。
ルキアもまたロマイオス文庫の資料整理という絶壁をよじ登ろうとする一人である。
今までの失敗の歴史を踏まえて、種類ごとの分類を大雑把にし、それよりも時系列による分類を徹底させている。
この方法の利点は全ての収蔵物に共通の物差しを使えるというところだが、ベルディアス家の歴史に通じていないと何がどこにあるか全く判らなくなるという問題がある。
要するに学者や神官の便宜よりも、自家の見通しを優先させる方法である。
そもそも資料群は全てベルディアス家の私物なのだ。
閲覧にしてもベルディアス家の許可が必要なのだから、整理方針がベルディアス家の便宜一辺倒になって何が悪いというのがルキアの言い分なのである。
ただし学者達の嘆きの声が聞こえてきそうなのでそれを口に出したことはない。
歴史的な資料というのはあるだけで重宝されるものなのだ。倉庫内の捜索や検索の苦労は、これも仕事の一部と割り切ってもらう他ない。
しかし何ゆえ、デトレウスはアウラシールのそれも南の方の英雄なんぞを脚本にしようと思ったのであろうか?
ルキアは謎だったが、それは舞台の方を見れば判るだろうと思うことにした。
「ふむ。とにかく頑張るが良い。こちらも楽しみに待つことにしよう」
「畏まりましてございます。さっそく役者達と相談いたします」
デトレウスは深く頭を下げた。
「うむ。それがよい」
ルキアは立ち上がった。話は終わりだ。
この後はまた別の用事がある。今閃いた名案を早速活かさなくてはならない。
だがその前にこの謁見用の衣服を着替える必要がある。その事がルキアには少し面倒に感じられた。




